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第298回:「かないまるルーム」で生まれる究極のSACDとは?
~ その1: Le Couple藤田さん「CDで削ぎ落ちていたもの」 ~


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 Le Couple(ル・クプル)の「ひだまりの詩」が大ヒットしたのは'97年なのでちょうど10年前。Le Couple自体は活動を休止してしまったが、そのボーカルである藤田恵美さんがアジアで空前の大ヒットを続けているのをご存知だろうか? その藤田さんのソロアルバムのベスト盤が非常にユニークな形で制作が進められている。レコーディングエンジニアとオーディオ機器の設計のプロが手を組んで、SACDのサラウンドとして11月21日に発表されるというのだ。

 これまでに聞いたことのないチーム編成だが、実際に音を聴いてみると、ちょっと驚く。SACDだけあって、とにかく高音質であり、ギターの指使いまで感じられ、ボーカルも本当の肉声をハッキリと捕らえられる。しかし、それよりも驚くのが、5.1chで再編成されたサラウンドの音場感。映画作品のように後ろから、横から音が飛んでくるのとはまったく違い、前から聴こえてくるが、正確には前半球といった感じ。たとえばパーカッションが右斜め上から左斜め上へ流れていくといった立体感が演出されているのだ。そもそもPOPSでのサラウンド作品がほとんどない中、新しい世界が確立されたという印象を受ける。

 どんな背景でこのようなチームが生まれたのか、そしてどのようにして、このようなサウンドを作っているのか、制作現場でいろいろと話を伺った。これから4回に渡って、そのサウンド作りについて紹介する。



■ “究極のポップス”制作にソニー金井隆氏が協力

 藤田恵美さんがLe Coupleと並行してソロ活動を開始したのは2001年11月。「心地よい眠り」をテーマに初のソロアルバム「camomile」をPONY CANYONのLeafageレーベルからリリースしたのだが、年末に香港でも日本からの輸入盤としてひっそりと発売された。ところがこのアルバムが、香港のオーディオマニアなどの間で「高品質なサウンド」として高い評価を得て注目が集まった。

アジアでは、「camomile」の大ヒットを受けて、数多くのディスクがリリースされている

 その後オーディオ雑誌、口コミなどを通じてファンが広がり、2002年の春ごろにはラジオチャートで2週連続の1位、HMVアルバムチャートでも1位を獲得。さらに、香港のグラミー賞に当たる「INTERNATIONALPOP POLE AWARDS」でTop Female、Top Remake、New Actの3部門で同時ノミネート。香港盤が正式にリリースされるとゴールドディスクを獲得するに至ったのだ。

 「camomile」は香港に続き、マレーシア、シンガポール、タイ、インドネシア、台湾、フィリピン、韓国、中国本土でリリースされ、シンガポール、マレーシアではプラチナディスク、台湾ではゴールドディスクを獲得するなど、アジアで大ヒットとなっている。

 その後、2003年10月に2ndアルバム「camomile blend」、2006年11月に「camomile classics」をリリース。いずれもアジアでのトップチャートを飾り、香港やシンガポールでのコンサート活動なども行なっている。


金井隆氏

 ただ日本国内では、そうしたヒットにはなっていない。そんな中、「藤田さんのこれまでの作品をベースに、日本のオーディオマニアにも十分満足のいく、究極のポップス作品を作ろう」というプロジェクトが立ち上がった。そのキーとなる人物が、最近ではPLYASTATION 3のオーディオチューニングなどでも有名な、「かないまる」こと金井隆氏。ソニー株式会社のオーディオ事業本部・第1ビジネス部門1部に所属し、ソニー全社で数十名しかいないトップエンジニアの証である「主幹技師」の肩書きを持つ、オーディオ設計エンジニアだ。

 一方、実際のミキシング作業を支えるのが、camomile三部作のすべてのレコーディング、ミキシングを担当してきた阿部哲也氏。現在、赤川新一氏が率いるSTRIP incに所属するエンジニアで、Digital Performerを用いてのミキシングを行なっている。そこで作られたサウンドをDSD化しているのが、ソニー株式会社オーディオ事業本部オーディオ開発・技術部門・技術1部5課 スーパーオーディオCDプロジェクト、DSDエンジニアの井上滋氏だ。

 この3人のエンジニアにそれぞれの立場から、いろいろと話を伺ったので3回に分けて紹介したい。ミュージシャンである藤田恵美さんにも、これまでの経緯や今回のプロジェクトについてインタビューしているので、まずは藤田さんの話をプロデューサー、マネージャーの話も交えて紹介していこう。


阿部哲也氏 井上滋氏



■ アジアで大ヒットするも、国内では苦心

藤本:camomileシリーズがアジアで大ヒットしているとのことですが、このcamomileはそもそもどんなコンセプトで作られてきたのですか?

藤田恵美さん

藤田恵美さん(以下敬称略):Le Couple以前は洋楽、カントリーを中心に歌っていたのですが、Le Coupleを始めてからは、日本語の歌でどう説得力を持たせるかというところに重きを置いてきました。そのため、私自身が洋楽を忘れていたというか、ある意味、封印していたところがありました。しかし、ソロとしての活動はもっとボーカルそのものに焦点を当てたアルバムを作ってみようということになったのです。

 ボーカルがよく分かるのは、誰もが知っている曲のカバー。いいなと思った曲を洋邦問わず、何十曲も録っていたところ、周囲から「英語の歌がはまっているね」と言われて、洋楽のポップスを中心とした曲をカバーしていくのを1つのコンセプトとしました。もうひとつ「いつしか眠ってしまう大人の子守唄」、そんな雰囲気をcamomileのコンセプトとして、これまで作ってきました。

溜知篤氏(株式会社ポニーキャニオン、音楽事業本部Leafage室プロデューサー、以下敬称略):2001年11月に最初のcamomileをリリースした当時、香港にも当社の支社があり、そこにその名もKEYMAN……本名です(笑)、というスタッフがいたのです。Le Coupleの当時も彼が担当していたのですが、最初にcamomileを聴いて「これは売れる!」と思ったらしく、オーディオファンやラジオ局などに配ったら思惑通り火がついたんです。そうした情報がこちらにやってきたのは翌年の3月か4月ごろ。何のことやら分からないうちに、ヒットチャートに載り、日本でいう歌謡大賞にあたるものにノミネートされたりと、われわれも本当に驚きでした。その後、台湾、シンガポール、マレーシアなど各国でもリリースし、そのヒットが広がっていったのです。


ポニーキャニオンの溜知篤氏

藤田:ちょうど香港や台湾ではSARS(重症急性呼吸器症候群)が流行っていたころで、みんな外出もできない不安な状況の中で私の歌は「聴く薬」と呼ばれていたそうで、このときとても多くの方に聴いてもらっていたようです。そんな中で2枚目を出そうと「camomile blend」を制作しました。

藤本:アジアマーケットの要望を元に2枚目を作ったのですか?

溜:いいえ、その時点では、あくまでも日本主導で行ないました。2003年10月に日本、台湾、香港、マレーシア、シンガポール、フィリピン、インドネシア、タイで同時リリースをしたのですが、これがまた大ヒットとなったため、3枚目のときは、向こうの意見をかなり取り入れました。その際、香港のKEYMANが、「この曲を歌ってほしい」とCD-RにMP3を100曲くらい入れて送ってきたんですよ。中には「えっ? 」というものもあったけど、結構、恵美さん本人が歌いたい曲とかなりダブっていたんですよね。何よりも熱意をすごく感じましたね。

結果は大成功。日本では11月15日リリースだったのですが、アジアでは1カ月先行して発売し、リリース直後から香港で5週連続1位。半年以上トップ20にいたんですから。

藤本:ということは、日本で作ってアジアで売れるという動きだったわけですね。

溜:メインとなる3枚のアルバムはそうですが、アジアにしかないベスト盤や、camomile extraというアジア盤がリリースされたり、SACDや、XRCD(Extended Resolution Compact Disc)も出ているんですよ。

藤本:SACDは、香港でレコーディングしたということなのですか?


ソルシエロの関本毅久氏

溜:いいえ、既発売のCD用の音源をSACDにしただけのようです。そのへんの発売形態はある程度現地に任せているので、そういう商品もあり得るということです。

藤本:そのSACDと今回のベスト盤のSACDは、まったく別の動きなんですね。

関本毅久氏(株式会社ソルシエロ・マネージャー、以下敬称略):そうです、香港盤とはまったく別の話で、完全なSACD用のリミックスを行なったバージョンです。本当にいろいろな偶然が重なってこうした機会を得ることができました。アジアではヒットしているものの、国内でどうやってプロモーション活動をすべきか、試行錯誤していたんです。

 アジアでオーディオマニアに受けているのだからとオーディオ雑誌の門を叩いたり、オーディオ評論家に一人ずつ順番に会いに行ったり……。そんな中、以前取材してもらったことのあるオーディオ評論家の林正儀さんと話をした際、「次にどこに行ったらいいですかね」と伺ったところ、「ソニーの金井さんだ」と紹介され、金井さんにお会いしに行ったのです。


■ CDでは削ぎ落とされたものが「かないまるルーム」で蘇る

藤本:そこで、いい音だ、と?

関本:いいえ、ダメ出しされたんです。オーディオ的な見解からの意見でしたが、どんな理由であれ、正直なところサウンドでダメ出しされたのは初めてだったので、笑顔でお話を聞いていながらも、内心はものすごく悔しかったんです。アジアでの実績も含め、今の音源に絶対の自信を持ってましたから。その後、いろいろなアルバムを持って行き、ライブ版のDVDまで持っていったのですが、アジアと日本のオーディオファンの好みは違うので、この音では「日本のオーディオファンは満足しない」って……。相当、落ち込みましたね。でも金井さんが「いい音のCDを聴いてみてください」って数枚のCDを聴かせもらったんです。

藤本:かないまるルームでですね。

関本:はい。一生忘れられない本当に素晴らしい音でした。それで、金井さんから、歌手の歌声も伴奏もハイレベルだし、録音状況もすごく良さそう。だから、試しにここで1曲作り直してみませんか? って言われました。でも、何をどうしたらここで音を作り直せるのか…… 越えるべき障害を想像したらあまりに多すぎたので、その時点では、空返事だけして、帰りました。

 その後、2カ月くらい一人悶々として、金井さんにもメールをすることもできずにいて、正直無理だと途方にくれていましたが、悩んだ末に最後に頭に浮かんだのは、悔しさよりも、金井さんに聴かせていただいた音の素晴らしさでした。ダメもとで、思い切ってレコード会社のプロデューサーである溜さんに相談してみました。

 返答は、「SACDの市場や、それにかかる予算をふまえると現実的に、それは厳しいかもしれない」 との返事でした。そうですよね……。って、あきらめたのです。

 ところがPONY CANYON内に、かないまるファンがいて、溜さんがその方と相談して状況は一転。溜さんから電話がかかってきて「すごいらしいね、いっしょに行こう」ということになり、再度、金井さんのところへお邪魔することになりました。あの場所へ溜さんが行って音を聞いてくれれば、物事が動くかもしれないと思いましたが、溜さんは予想より遥かにその音に大きく反応してくれました。


溜:SACDは以前から数枚作っていて、その音の素晴らしさは分かっていたのですが、この金井さんの部屋で聞かせてもらったのは、本当に別物でした。まさに目の前に演奏者が現れるというか、音楽の本質が見えるというか、感動的な出来事でした。音が良いことは人を感動させることが出来るというのを、改めて感じることが出来たわけです。その上マルチトラックとして、誰もやっていないようなことを作れるかも知れないときたら、やらないわけにはいかないだろうと思いました。

関本:その後、プロダクションのプロデューサーとエンジニアの阿部さんも含め、順に音を聴かせてもらったところ、一人ずつ、全員が金井ROOMで聞く音に惚れ込んでいきました。そして、金井さんのご意思とちょうどベスト盤の企画を考えている溜さんのやりとりが正式に始まりました。

溜:お金が莫大にかかるんじゃないか、スタジオ代だけだってすごそうだし、無理だよなぁ、と思っていました。が、金井さんが、「マジで私の勉強の教材になりますから」と、このすごい部屋をタダで貸してくれ、サポートしてくれるというのですからこれは大チャンス。そんなわけでこのプロジェクトが始まったのです。実際、この部屋に最後に来たのが恵美さんだったんじゃないかな。

藤田:マネージャーから話は毎日のように聞いていました。「すごいんですよ!」って。で、実際にベスト盤の制作がスタートした後に、金井さんのお部屋に伺いました。ちょうど、「Over the Rainbow」のラフミックスを聴いたのですが、「そう、私はこういうふうに歌ったのよ!」って実感しました。だいぶ以前のレコーディングなので、自分でも忘れてしまったところもあるのですが、制作当時、素人用語で「私はそうは歌っていない」と阿部さんといろいろとやり取りをしたことのある部分です。できあがった作品が、歌っていたときの感触と違う、と。その後も何度か通わせてもらって、制作の過程をつぶさに聴かせてもらっていますが、「Desperado」などは、「私、やっぱりこう歌っていたんだ」ってつくづく感じました。


 6年も前、自分はこう歌ったと思っていたけれど、CDでは何かが削ぎ落とされた感じというか、エネルギーが抑えられた感じになっていて……。自分に何かが足りなかった、歌い切れていなかったのかな、と自問自答していましたが、確かにこう歌っていたんだと分かって、すごく安心しました。またピッチとかも、なんとなく、ん~気持ち悪いなと感じていた部分、気になっていた部分もちゃんと自分の思うとおりに歌えていたことが判りました。

 これを聴いていると当時の歌っていた気持ちまで蘇るんです。だから、この金井さんの部屋に来ると、あのころの自分に会えるので、とっても楽しみなんですよ。


 このようにしてスタートした藤田恵美さんのベスト盤SACD制作。次回から、その制作手法や流れなどについて、レコーディングエンジニアの阿部哲也氏、ソニーの金井隆氏、井上滋氏それぞれ順番に掲載する予定だ。


“かないまるルーム”にあるPS3やSonomaなど


□藤田恵美さんの公式ホームページ「cafe Camomile」
http://www.solcielo.co.jp/emi/
□「かないまるのホームページ」
http://homepage3.nifty.com/kanaimaru/

(2007年10月9日)


= 藤本健 = リクルートに15年勤務した後、2004年に有限会社フラクタル・デザインを設立。リクルート在籍時代からMIDI、オーディオ、レコーディング関連の記事を中心に執筆している。以前にはシーケンスソフトの開発やMIDIインターフェイス、パソコン用音源の開発に携わったこともあるため、現在でも、システム周りの知識は深い。
最近の著書に「ザ・ベスト・リファレンスブック Cubase SX/SL 2.X」(リットーミュージック)、「音楽・映像デジタル化Professionalテクニック 」(インプレス)、「サウンド圧縮テクニカルガイド 」(BNN新社)などがある。また、All About JapanのDTM・デジタルレコーディング担当ガイドも勤めている。

[Text by 藤本健]


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