今年のCESでは、「ワイヤレスで大容量AVデータを転送」するソリューションが注目を集めた。その代表格は、HDMIのワイヤレス化である「Wireless HD」、そしてUSBのワイヤレス化である「Wireless USB」だろう。松下も、AVCネットワークス社の坂本俊弘社長のキーノートや自社ブースにて、ビデオカメラとテレビをWireless HDで結び、映像を伝送するデモを行なっていた。 だがCESでは、もうひとつ、興味深い技術が発表されていた。それが、ソニーの公開した「Transfer Jet」である。 一見、似ているが、実は全く違う特質を持つ、非常にユニークな発想から生まれた技術である。Transfer Jetの「超近接・超高速通信」の秘密を開発陣に聞いた。 ■ 最大560Mbpsで通信可能。ねらいは「シンプルな操作性
技術的な話をする前に、まずはTransfer Jetでなにができるのか、デモをベースに見ていこう。 今回用意されたのは、Transfer Jetを内蔵したUSB接続の通信アダプタと、それを接続したBRAVIA。それに、Transfer Jetを内蔵したVAIOと、フォトストレージである。 Transfer Jetを内蔵したデジカメを、BRAVIAに接続した通信アダプタの上に置くと、中の映像と画像が、まるでケーブルで接続されているかの如く、高速にスムーズに転送される。フォトストレージでも同じだ。ビデオカメラを機器の上にさえおけば、即座に高速でデータ転送が行なわれる。
現時点での通信速度は、無線区間の最大転送速度で560Mbps。様々なオーバーヘッドを割り引き、実際のデータ転送速度は375Mbpsになっているという。「最大300Mbps」を謳う、802.11nを使う無線LANも登場しており、「確かに速いが、特別速くはない」と思われそうである。しかし実際の速度差は、これらスペックで比較したもの以上の差がある。ソニー 情報技術研究所 通信研究部 統括部長の小高健太郎氏は次のように語る。 「無線LANにしろWireless USBにしろ、実効速度は大幅に劣り、せいぜい最大速度の半分以下ですが、Transfer JETの場合、最大通信速度に近い速度が、掛け値なしに出ます」 ということは、有線接続であるUSB 2.0あたりと、さほど違わない速度で常に通信できる、ということである。それだけでも驚くべきことだが、Transfer Jetの本質は、通信の速さだけでは語れない。「重要なのは使いやすさです。とにかく誰でも使える無線を使おう、ということから始まりました」 開発を担当した、R&D推進室 通信システム担当部長・室長の岩崎潤氏はそう話す。 無線は便利だが、目に見えないものだけに、設定は難解なものになりやすい。Bluetoothや無線LANでは、機器同士を認証するために、PINやSSID、パスワードといった情報を相互に入力する必要があるわけだが、それだけでも経験のない人には大変だ。しかも、つながらなかった場合、原因が設定ミスなのか、電波干渉などの外的要因なのかがわかりづらく、ハードルをあげる原因となっていた。 だが、すでに述べたように、Transfer Jetは機器の上に「置く」だけ。実は、機器認証も暗号化もないため、設定も当然必要ない。 無線通信といえばセキュリティが気になるもの。Bluetoothや無線LANの設定が面倒なのは、すべてセキュリティを守るためである。小高氏は、笑いながらこう語る。 「”飛ぶ”無線には、そういう面倒くささがあるんです。じゃあ”飛ばない”ものを作ればどうか? と考えて作ったのが、Transfer Jetなんです」 ■ 通信距離は数cm。シンプルな通信方式で「簡単さ」を実現 Transfer Jetと他の無線の最大の違いは、通信可能な距離にある。無線通信といえば、どうしても「何m離れても速度が維持されるか、つながるか」という話になりがちだが、Transfer Jetは、何mどころか数cm以内でしか通信できない。 通信に使うのも、一般的な無線通信に使われる放射電界ではなく誘導電界。しかも、出力は「平均で-70mdB/MHz以下で、UWBの1,000分の1以下の電力しか使っていない」(岩崎氏)という弱さ。日本の電波法上は、「微弱電波」を使う機器となり、特別な許認可を必要とせず、他の通信方式との干渉もほとんどない。しかも、誘導電界は距離の四乗に比例して減衰するので、まさにピンポイントで「接触」していないと通信できないくらいなのである。 「(UWBや無線LANのように)離れた場所で通信できる技術というのは、非常に価値がある技術です。しかし、モバイル機器のように気軽に持ち運べるもので、目の前に相手がいるのに機器認証だ暗号化だ、ということで使い勝手が複雑になるのはナンセンスだな、と思ったのです。それでは、永遠にデジタルデバイド世代には使いこなせない」小高氏は、Transfer Jetにつながる発想をそう説明する。 ソニーは、UWBに関する開発を、1990年代前半から積極的に続けてきた。「本来UWBは、シンプルで小さい規格のはずだったんです。しかし、ニーズが広がってざまざまな要素が付け加わるうちに、“重いなあ”と感じることが増えてきた。各国毎に規制も異なっていますし、機器認証も大変ですし……。もっと別の発想で使える通信が必要なのではないか、ということで、検討を始めたわけです」(小高氏) 技術的な検討を命じられた岩崎氏も、無線通信の「つかいにくさ」が気になっていた。「世の中で多くの人に使われている無線機器をリストアップしてみたんです。条件に合うのは、テレビのリモコン・携帯電話・車のキーレスエントリーといったところ。要は、電源を入れた瞬間につながる相手が決まっているものなんです。そもそも会議の場でも、パワーポイントのデータを渡しあうために、USBメモリーやメモリーカードでやりとりしている。パソコンや携帯には、無線LANやBluetoothがついているのに、です。これってなんなの? と思ったんですよ」 そして、ケーブルをつなぐ感覚で使える超近距離通信として、Transfer Jetの元となる「JET開発計画」がスタートする。 ■ FeliCaとの併用も可能。合い言葉は「ネットワーク・ノーサンキュー」 Transfer Jetは短距離でしか通信できないため、パソコンとHDDをつないだり、テレビとビデオレコーダをつないだり、といったことには使えない。Wireless HDやWireless USBとバッティングするものではなく、まったく別のニーズを満たすものと位置づけられている。 逆に、2、3cmしか飛ばないからこそできることもたくさんある。以下の写真はソニーが公開しているTransfer Jetのイメージデモから抜粋したものだ。
例えば音楽配信。壁にCDを並べ、それぞれから好きな曲をダウンロードする、としよう。通常の無線では相互が干渉してしまうため、無線LANのような「ネットワーク」を利用することになる。前出のように、それでは機器認証や暗号化が必要になる上、メニューをたどって選択する、といった操作が必要になるため、使い勝手の面で問題が大きい。 Transfer Jetの場合には、CDの数だけアンテナを並べ、「それぞれのCDに近づけると、その曲が転送される」といった形を実現できる。ネットワークを使わず、送信側1つに対して受信側1つを接触させる、というシンプルな操作でデータ転送が可能になるわけだ。 同様に、携帯電話やミュージック・プレーヤーなどで聞いた音楽を他人に渡す時には、機器同士を接触させればいい。こちらもやはり「ネットワーク」は使わない。 このような操作感を、Transfer Jet開発チームでは、「タッチ&ゴーならぬ、“タッチ&ゲット”」(岩崎氏)と呼んでいる。これはもちろん、同社が開発し、日本で広く使われている非接触ICカード技術「FeliCa」をモチーフとしたもの。すでに述べたように、Transfer Jetは通信速度がきわめて速いため、アルバム1枚分の圧縮音楽データなら、数秒で転送が終了する。FeliCaとTransfer Jetの通信は共存が可能であるため、FeliCa内蔵携帯にTransfer Jetを入れ、データをTransfer Jetで取得する間にFeliCaで決済、といったこともできる。ユーザー側は「触れる」だけで、決済とデータ転送が終了するわけだ。
「とにかくシンプル。セキュリティは必要ですが、無線側に組み込むのではなく、アプリケーション側で実装すればいい。TCP/IPのようなものは、この規格には必要ない、という考え方です。ですから内部では“ネットワーク・ノーサンキュー”が合い言葉です」(岩崎氏) 複雑な通信プロトコルがなく、他の無線通信との干渉もないため、データ転送がきわめて安定しているのも特徴だ。小高氏が「実効速度が安定している」と話す根拠はここにある。 無線通信で難しいのは、コンスタントに帯域保証をしながら通信をすることだ。Wireless HDでは、ビデオレコーダからテレビへ、コマ落ちなく映像を伝送するために、非常に高度な技術が使われている。 しかしTransfer Jetでは、ぐっとシンプルな機器で、映像を流し続けることが可能となる。今回も、ビデオカメラをPCの上に置くだけで、ハイビジョン映像をストリーム再生する、というデモが行なわれた。もちろん、データをコピーするわけでははないので、即座に再生される。将来的には、Transfer Jetの受信機にデジカメやビデオカメラを置くだけで、テレビに映像を映し出す、といったことが可能になるだろう。 ■ 「FEEL」と「FeliCa」の経験がTransfer Jetに生きる ソニー社内には、デザインセンターを中心として、ユーザーインターフェイスを考えるチームが存在する。彼らが2001年に提案した技術に、「FEEL」と呼ばれたものがある。 これは、腕時計やPDA、パソコンなどを近づけてボタンを押すと、機器同士が通信をはじめて簡単にデータがやりとりできる、というもの。2001年11月にアメリカで開かれた「COMDEX/Fall 2001」の基調講演で、安藤国威社長兼COO(当時)が発表し、注目を集めた。 だが、この技術は製品として世に出ることはなかった。当時はBluetoothを使っていたのだが、「Bluetoothの通信速度では、思っているような世界を描ききれなかった」(岩崎氏)からだ。
JET計画担当チームが技術的検討を終え、社内の製品開発部門などに内覧を行なった時、もっとも前向きにとらえ、アイデアを出してきたのは、まさに「FEEL」を開発していたデザインセンターの部隊だったという。 デモに使われるフォトストレージやPCには、通信が始まると明滅するLEDが組み込まれている。実はこれ、「J」の字を模して、デザインセンターが作ったもの。これも、無線のわかりにくさを緩和するためのアイデアだ。 もう一つ、ユーザーインターフェイスを高める上で役に立ったものがある。それが「FeliCa」での経験だ。Transfer Jetは、「FeliCaの超高速版」と呼ばれることもある。しかし実際には、通信の仕組みがFeliCaとは大きく異なるため、通信技術開発の面では関連はない。しかし、「ユーザーインターフェイスを考える上では、FeliCaでの経験が大きくものを言った」と小高氏は話す。 「FeliCaの開発段階では、“電波はもっと飛ぶもの、無理に接触させず使うもの”として開発していたんです。しかしやってみると、かざす距離は人によってまちまちで、安定した動作が期待できなかった。そこで割り切り、“タッチ&ゴー”ということにすることで、みなさん理解して使っていただけるようになったんです。Transfer Jetにも、その時の経験が生かされています」 岩崎氏は、このアイデアを「コンセプトの根幹」と言い切る。「タッチがアクションの一部、ユーザーの意志を表す動作であることが重要です。日本人は、SuicaやPASMOでタッチに慣れてきました。切符がタッチに変わったわけですから、今度は、タッチで高速になにかを送り込むと、それが“楽しみになって帰ってくる”という感覚になってくれれば成功です」
■ USBエミュレーションモードも用意 Transfer Jetは、無線部の開発はおおむね終了し、現在はどのように通信を行なうか、といった、アプリケーション側の実装を検討している段階だ。ユーザーインターフェイスに密着したものだけに、デザインセンターや商品開発部隊とも連携し、様々な検討を行なっているという。 「これまでは無線技術というと、通信を流す土管だけを作ってあとはおまかせ、という感じでしたが、これはそういうものではない。ユースケースまで含めて、いろいろな検討を進めています」と小高氏は言う。 ただ、どちらにしろ、「シンプル」という方針に違いはない。例えば、現在実装が検討されているのが、「USBをエミュレーションするモード」だ。 冒頭のデモで使ったUSBアダプターとテレビのデモは、実はこの機能を使ったものである。つないだテレビの側にはなんの加工もされていない。USBケーブルでデジカメをつなぐように、USBでTransfer Jetの通信アダプタをつなぎ、その上にカメラを載せると、そのままつながるようになっているわけだ。ケーブルを無線化する、実にシンプルな方法といえる。
「ただし、このモードではネゴシエーションなどに時間がかかるので、もっと素早く動作する、ネイティブなモードも用意したいと考えています。内蔵機器では、そちらが使われるようになるでしょう。それをどのような仕様にするかは、現在検討中です」(岩崎氏) 現時点では、これ以上の通信方式の詳細や、正確な消費電力などは公開されていない。だが、「ほかの通信規格に比べ、消費電力は小さくなる。携帯電話に搭載しても、大きな負担にはならないでしょう」と小高氏は話す。 「実は、通信時には、出力の割にそこそこ電力を消費します。しかも、送信側より受信側の方が多く電力を食うのです。ですが、通信速度が速いので、通信時間がごく短いものになりますから、負担は低くなります。また、スタンバイ時の消費電力がかなり低いのも特徴です」 これらの特徴から、CES以降、ソニーには各社から様々な問い合わせが寄せられているという。「標準規格として提案するのか、ご協力いただけるパートナーとともに推進する形とするのか、具体的な方策はまだ検討中」(小高氏)だが、ソニーとしてはこの技術をクローズドなものにするつもりはなく、広く普及させたい、という。 Transfer Jetの面白いところは、既存の無線技術とは「違う方向」を向くことで、容易に共存が可能、ということだ。それでいて、ユーザーの得られる利益も少なくない。Bluetoothが追いかけ、カバー仕切れなかった部分をTransfer Jetが埋めてくれると理想的な形といえるのではないだろうか。 □ソニーのホームページ (2008年3月14日)
[Reported by 西田宗千佳]
AV Watch編集部 |
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