■ いろいろ大変だったらしい
そんな中、ジブリの新作劇場映画の製作が発表された。題材は「指輪物語」、「ナルニア国物語」と並び、世界3大ファンタジー小説とも言われる「ゲド戦記」。他の2作品の実写映画化が大成功したため、「ファンタジー・ブームの締めくくり」としてジブリが映像化を発表したことは、大きな話題になった。 だが、その話題の大半は、監督する人物が宮崎駿ではなく、その息子の吾朗だったことへの驚きだろう。発表当日に公式サイトを見ながら「息子かよ!!」と思わずツッコミを入れたことを覚えている。 アニメ制作は大所帯で行なうため、絵コンテなど「その作品をどのようなものにするか」という大きな舵取りと同じくらい、スタッフ集めや、意思の疎通も重要。それゆえ、監督にはアニメ業界での経験や人間関係、人望などが求められる。吾朗の場合は、ジブリのスタッフ達からの信頼が得られるのか? も重要だっただろう。 吾朗はアニメではなく建設関係の仕事を選び、ジブリ美術館の総合デザインを担当。初代館長にもなった人物。絵とは遠くない道を歩んできただけあり、制作発表と同時に公開された竜と少年のイラストには、それなりの画力は感じられた。しかし、アニメに関してはもちろん素人。「アニメ監督が世襲で務まるのか?」と部外者ながら不安になった。公開されたイラストのタッチが、父親のそれにそっくりなことも引っかかっていた。 「ゲド戦記」のアニメ化企画は、宮崎駿が原作の大ファンだったこともあり、ジブリが20数年温め続けていたという。しかし、「アニメ = ディズニーのようなもの」と考えていた原作者側から、アニメ化の許可は下りなかった。 だが、2003年頃に事態は動く。宮崎アニメを偶然観賞した原作者アーシュラ・K・ル=グウィンが、「宮崎駿ならばOK」と許可を出したのだ。しかし、当時の宮崎駿は「ハウルの動く城」制作の真っ最中。本人も「20年前なら飛びついたが、今は体力的に無理」と判断。そこで、鈴木プロデューサーが、ゲド戦記の映画化を研究するチームの中でリーダーシップを発揮していた吾朗を監督にすることを決めたという。 なんとも奇妙な監督決定過程だが、今度は原作者に「父親が忙しいので息子になった」ことを納得させなければならない。そこで、吾朗のイラストを見せ、宮崎駿がシナリオのチェックをすることなどを伝え、理解を求めたという。 そんな紆余曲折の末に公開された「ゲド戦記」。公開後は、お世辞にも良いとは言えない評判がネットを中心に広がり、かなり辛辣な原作者の感想が公開されたことも話題となったが、「ジブリアニメ」のブランド力は流石の一言。2006年の邦画興行収入第1位を記録した。 結局「素人な息子に監督が務まるのか?」という声は、作品で跳ね飛ばすしかない。「出来る限りニュートラルな気持ちで……」と思いながらも、内心穏やかでないまま再生ボタンを押した。
■ 言っていることは間違ってないけど…… 魔法が存在する多島世界アースシーに暗雲が立ち込めていた。各地で作物が枯れ、家畜は倒れ、人間の心もすさんでいた。極め付けに、人間の世界に来るはずのない竜も目撃されるなど、不吉な兆しはそこかしこに現れている。エンラッド国の国王は対策を進めていたが、そんな矢先、息子である王子アレンに刺し殺されてしまう。 一方、災いの源を探るために旅をしている魔法使いの大賢者ゲドは、国を捨てた王子アレンと出会う。心に闇を持つ少年は、得体の知れない影に追われていた。共に旅をするようになった2人は、やがて大きな街ホート・タウンに辿り着く。そこには物が溢れ、華やかな一方、麻薬や人身売買が横行し、人々の心は荒れていた。 そこでアレンは偶然、1人の少女テルーを人狩りの手から救う。だが、自らの命を軽視するアレンの態度に、テルーは彼を拒絶する。一方、ゲドとアレンの2人には、ゲドのライバルである大魔法使いクモの影が迫っていた……。 「ゲド戦記」というタイトルながら、基本はアレンとテルー、少年と少女の物語であり、2人の成長を描くという意味では実にオーソドックスなアニメだ。説明不足な点も多々見受けられるが、「最後の敵」もキッチリ用意されており、原作を知らない人でもすんなり鑑賞できるだろう。 目の描き方に違いがあるものの、登場するキャラクターの顔つきや服装などは、「ナウシカ」や「ラピュタ」の頃の宮崎アニメにそっくりで、父親の作品と一瞬錯覚する。また、ゲドの立ち位置が「ナウシカ」のユパに似ているほか、「人狩りから少女を救う王子」など、随所に宮崎駿の絵物語「シュナの旅」のシーンやキャラクター関係が垣間見える。途中まで「ゲド戦記じゃなくて、シュナの旅のアニメ化なんじゃないの?」と考えてしまった。 意図的にやっているのだと思うが、「宮崎作品のパーツを寄せ集めて作ったアニメ」という印象が付きまとう。にもかかわらず、巨神兵や、「千と千尋」の水上列車、ハウルの動く城の奇妙な動きなど、宮崎アニメが持つ強烈な映像的インパクトが無い。なんというか「宮崎アニメ好きな人が、見よう見まねで宮崎アニメぽいものを作ってみました」という感じだ。 また、「物質偏重の現代社会が抱える人間性の欠如」や、「子供達による凶悪犯罪と心の闇」と言った、タイムリーな題材を取り扱っているのだが、それが上手く物語りに練り込まれていない。その筆頭が「キレやすい現代っ子」のアレン王子なのだが、彼の性格や生い立ち、日々の暮らしなどの描写がまったく無いため、「普段は大人しいのにキレて凶暴になる」の普段の部分が無く、対比になっていない。 父親を刺した理由もよくわからず、「キレやすい少年」を通り越して、「わけのわからない少年」に見える。もちろん竜も登場するのだが、その登場理由や意味もよくわからないので「結局なんだったんだ?」という気持ちがぬぐえない。 また、そうした命題に対する回答もイマイチ胸に響かない。「人間が欲望にとらわれたので世界のバランスが崩れている」とか、「死を恐れるのは、生きることを恐れることだ」とか、「死と再生の繰り返しが命の根幹だ」など、ナウシカ(原作漫画版)に出てくるような素晴らしい言葉が連発されるのだが、そうしたメッセージを登場人物達が湯水のようにセリフとして喋ってしまうので、薄っぺらに感じられてしまう。 普通、映画に込められたメッセージは、鑑賞後に「こういうことが言いたかったんだろうな」と観客自身が考えるものだと思うのだが、その答えをキャラが喋りまくるので驚いた。ある意味新鮮で、わかりやすくて良いのだが、明言されること言葉に制約され、広がりが生まれない。「監督、少し落ち着いて!」と鑑賞中に思わず身をよじってしまった。 また、そこに至る理由がほとんど描かれておらず、突然悟ったような結論を喋り出すため、「間違ってないと思うけど、なんだかなぁ」という気になってしまう。引きこもりに対する説教というか、ニート同士の体験の伴わない理想論を聞かされているような感覚だ。「ゲドは大賢者だから、最初から悟っているんだ」と言われればその通りだが、スタート直後にレベルが99のRPGほどつまらないものはないだろう。 ただ、この映画の評価が難しいのは、「少年が頑張って少女を助ける」という図式は存在しているため、「途中で投げ出してしまうほど面白くなくは無い」ことだ。荒削りなくせに、妙にこじんまりとまとまっている。監督の個性が爆発していれば「俺には面白かった!」、「面白くなかった!」と言えるのだが、鑑賞後に腕組みをしたまま「うーん」と果てしなく唸ってしまうような、不完全燃焼感に包まれた。 もちろん、良い点もある。今回もV6の岡田准一や、主題歌を歌う手嶌葵など、声優ではなく俳優中心のキャスティングなのだが、ゲド役の菅原文太と、ゲドのライバル・大魔法使いクモ役の田中裕子の演技が素晴らしい。特にクモの、絶対的な自信と余裕を感じさせる喋り方は、ゾクゾクするほど妖艶で一聴の価値あり。 ただ、基本的にボソボソした喋り方なので、ついついAVアンプのボリュームを上げてしまい、シーンが切り替わると爆音になってしまい、2度ほどギョッとしてしまった。「クモ用設定」として、センタースピーカーのボリュームをちょっと上げ目にすることをお勧めする。もっともこのキャラクター、実は男なのだが……。
■ クオリティは普通のジブリDVD DVDは「通常版」(VWDZ-8104/4,935円)と「特別収録版」(VWDZ-8106/7,875円)の2種類を用意している。通常版は本編と特典ディスクの2枚組み、特別版は本編ディスクと、多言語版本編ディスク、2枚の特典ディスクをセットにした4枚組みだ。注意すべきは、本編ディスクの音声仕様が通常版と特別版で異なること。 通常版の音声は日本語をドルビーデジタル2.0chと、ドルビーデジタルEXで収録。さらに、ドルビーデジタル2.0chの英語音声も収録する。特別版には日本語のみ収録で、ドルビーデジタル2.0chとDTS-ESの2種類となる。少しでも良い音で楽しみたいというユーザーは特別版を選びたいところ。だが、多言語版は全てのユーザーが必要とも思えないので、これを抜いた3枚組みで6,000円程度のバージョンも用意して欲しかった。 今回は特別収録版で観賞。音声はドルビーデジタル2.0chが192kbps、DTS-ESは768kbps。重厚で広がりのあるBGMが、ゲド戦記の世界観によくマッチしている。サブウーファが重要になるサウンドデザインだ。しかし、冒頭の嵐のシーンでは派手だが、後は大規模な戦闘シーンも無いので、全体的に音響は地味だ。 面白いのはテルーが草原で、CMでもお馴染み「テルーの唄」を歌うシーン。CDやCMと異なり、伴奏は一切無しのアカペラ。環境音は風で草が揺れる音と、微かな鳥と虫の音だけ。洞窟で歌うならエコーで広さが表現できるが、草原では反響ゼロ。非常に再生が難しいシーンだ。 劇場では劇場そのものの広さがあるため空間が表現できるが、スピーカーからの距離が近いシアタールームではテルーの声と風の音が同じ場所に固まってしまい、単なる「音が少なくてさみしいシーン」になってしまう。つまり、風の音だけで奥行きを感じなくてはならない。AVアンプ側でセンター以外の出力を上げると良さそうだ。 平均ビットレートは8.12Mbps。映像はクオリティは良くも悪くもジブリアニメDVDお馴染みのレベル。輪郭は甘めで、“デジタル臭さ”は無いものの、次世代DVDに慣れた目には、DVDの解像度の低さが目立ってしまう。PS3でのアップコンバート再生も有効だが、主線がクッキリした作風のアニメと比べると、恩恵は少ない。ブロックノイズは無いが、擬似輪郭は散見。ゲドのマントなど、単色部分には圧縮から来る色ノイズが見えるところもあった。
また、彼女がオーディションでカバーし、関係者が絶賛したベット・ミドラー「The Rose」の手嶌葵バージョンも聴くことができる。CD化などされていないので貴重な音源だ。しかし、途中で監督や鈴木プロデューサーの声やナレーションがかぶってしまい、ちょっと残念。どうでもいいことだが、彼女の声は個人的に“若き大貫妙子”に似ていると思うのだが、どうだろうか。 特別版のみ収録する2枚目の特典ディスクには、「ゲド戦記音図鑑 vol.2」として、映画音楽を担当した寺嶋民哉氏に密着。さらに、公開記念特番として放送されたテレビ番組「岡田准一『ゲド戦記』との出会い」、キャストへのインタビューやアフレコの模様なども収めている。 注目すべきは、やはり監督のインタビュー。「“宮崎駿の息子”と言われることには慣れたけど、思春期はものすごく嫌だった」とか、制作開始当初は「ジブリのスタッフに受け入れてもらえるかが不安だった」と素直に語る吾朗の、何か吹っ切れたような表情が印象的だ。 ちなみに、制作中に父親からのアドバイスは一切無く、それどころか会話も無い状態だったという。というもの、宮崎駿は息子が監督をやることに最後まで反対しており、家族会議で「本当にやる気があるのか?」と聞かれ「やる気あるに決まってる!」と怒鳴り合いに発展、それ以来口も聞いていないのだという。「話をしてプチっといったら困るじゃないですか」と吾朗監督は笑うが、はたから見ていると笑えない状況だ。 特別番組の中では、試写会に父親が突然現れたシーンも収録されており、2人が互いに目を合わさない様子など、かなりハラハラドキドキの展開が味わえる。試写を観る宮崎親子の後ろの席に座っていたという岡田准一がインタビューで「映画よりそっちの方が気になった」と話していて思わず笑ってしまった。 なお、監督インタビューの中で吾朗は、父親と絵が似ていることについて「あえてそうやろうと思っていた。そうしかできない。なぜなら、自分の原点は宮崎駿と高畑勲が作り出したものだから。全く別のものでやるという動機は、僕の中にない」と語る。そこには「宮崎駿の息子」である自分を受け入れ、前進しようとする意思が垣間見えた。
■ これもある意味宮崎アニメ 映画が公開されるまでの間、吾朗監督とはどんな人物なのだろうか? と、ジブリのブログを覗いていた。そこには、「私のような素人が、突然アニメーション映画の監督を務めるということは本当に無謀なことだった」と自ら語りながらも、より良い作品のために苦悩し、また、アニメを作る喜びに目覚めていく過程も綴られていた。 また、アニメに打ち込む父親との交流がほとんど無く「それでも父親のことが知りたくて、宮崎アニメを見続けていた」という幼少時代。そんな夫と同じ職業に就いてほしくないと、息子がアニメ界に行くことを反対した母のことなども、赤裸々に書かれている。こうしたことを踏まえて「ゲド」を観ると、宮崎アニメの裏側から生まれた、「もう1つの宮崎アニメ」に感じられて面白い。もっとも、「面白いアニメを見せてくれるブランド」として、ジブリ作品にお金を払って観賞する観客にとっては、そんな親子の確執など、どうでもいいことではあるのだが……。 そんな中、宮崎駿監督は、新作「崖の上のポニョ」を制作中だという。「もうアニメ作らないから、息子が監督をやったんじゃなかったの!?」と、ゲド戦記の原作者でなくてもツッコミたくなる。また、原作者と約束した「ゲド戦記のシナリオチェック」も結局はやらなかったとのこと。宮崎駿のアニメが、また観られる事は素直に嬉しいが、「なんだかなぁ」と思ってしまう。 ちなみに、映画を観た父親の感想は「素直な作り方で、よかった」というものだったそうだが、「崖の上のポニョ」を制作中の宮崎監督に密着したNHK番組「プロフェッショナル 仕事の流儀」(3月放送)では、鑑賞直後の感想が撮影されている。それは「僕は自分の子供を見ていたよ、大人になってない。それだけ」というもの。短い言葉だが、吾朗版ゲド戦記をこれほど良く表した言葉は無いだろう。 ゲド戦記から感じられるのは、宮崎アニメの断片、残り香、そういったものがいびつに重なった集合体だ。残念なのは、その中心に熱く煮えたぎる情熱が見あたらないこと。映像が凄いアニメや、可愛い女の子キャラなんて、現在のアニメ界には腐るほどある。その中でなぜ“宮崎アニメだけが特別”なのか。吾朗の伝えたいメッセージが、“人と自然の戦争や”、“豚の浪漫”でなくてもいい。ただ「このアニメで世界を変えよう」というくらいの、熱い想いが無ければ観客が圧倒されるアニメにはならない。結局、吾朗版ゲド戦記は、父親を超えるものでも、父親と違うものでもないく、宮崎アニメから生まれた子供のようなアニメだった。
□ブエナ・ビスタのホームページ
(2007年7月10日) [AV Watch編集部/yamaza-k@impress.co.jp]
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