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第300回:「かないまるルーム」で生まれる究極のSACDとは?
~ その2: SACDマルチのミキシング作業の実際 ~


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 11月21日リリース予定で進行している、元Le Coupleの藤田恵美さんのベスト盤制作。SACDのサラウンドとSACDの2ch、そしてCDDAのハイブリッドというポップス系ではちょっと珍しい構成となっているが、珍しいのはそれだけではない。制作の総監督としてソニーでオーディオ機器の開発を行なっている聴く側の技術のプロが入っている。

 このプロジェクトが起こったキッカケなどは前回詳しく紹介しているが、今回はミキシングの実作業を担当したレコーディングエンジニアの阿部哲也氏のインタビューを元に、実際の制作現場について紹介する。

阿部哲也氏

 ミキサーズ・ラボで、サウンドバレー、パラダイススタジオといったスタジオを経て現在、赤川新一氏が率いる「ストリップ」に所属しているレコーディングエンジニアの阿部哲也氏。レコーディングエンジニアになった当初はフォーライフレコードを中心に、伊勢正三氏、南こうせつ氏、長渕剛氏、氷室京介氏などのミュージシャンと多くの仕事をし、その大半はフォークギターなど生録りだった。そして現在でもアコースティックな音を録ることに、こだわりをもってやってきているという。

 藤田恵美さんのcamomileシリーズでは、1stから3rdアルバムまですべて阿部氏がレコーディング、ミキシングを担当している。その阿部氏が、これまでとはまったく違う手法で今回のアルバム制作に参加しているのだが、どんなことを行なっているのか、いろいろと伺った。


■ 金井氏のチューニングで音が飛躍的に向上

藤本:アコースティックな音を録ることへのこだわりというのは、実際どんなことをされているんですか?

阿部:生録りで一番大切なことはそこで鳴っている音を録ることです。演奏者が出した音が電気信号に変わってもあたかもコントロールルーム側で目の前で演奏しているかのように聴こえるのが理想です。そこが一致するまでは何度もマイキングの調整やアウトボードの調整をしてお互い納得のできる物を作ります。良い音ができるとすばらしい演奏が出ます。録る人によって常に演奏は異なるのです。当たり前ではありますがここが生の良い所で一番気を使う所です。

 後は予算的な問題がなければ常にアナログテープでのレコーディングを行なうようにしています。アナログはその時流れていた空気までも録音できます。つまり私の言葉ですが音に心が入るのです。24トラックまでという制約があるので確かに難しい面も多いのですが、まずアナログで録って、その後の作業はDigital PerformerやProToolsを使ってダビングやミックスダウンの作業を行なっていきます。

 1stと2ndのほとんどはアナログで録りアナログのミキサーでアナログテープに落とすといった全くデジタル機器が使われていないやり方です。3rdはアナログで録ってデジタルに変換しPCで自宅スタジオでミックスダウンしました。

藤本:今回も、そのアナログテープが生きているんですか?

MOTU 1296(中央)など

阿部:はい。その前に、このプロジェクトはPCでミックスする事が前提で、デジタル技術が進歩したおかげでできることなのです。今まででしたらスタジオ以外でミックスダウンをすることは不可能でした。しかし現在はPCの中でミックスができます。これによってモニター環境が整っている場所であればできるわけです。これは本当に凄いことですね。そこで1stと2ndのアナログマルチテープが必要になってきます。アナログマルチをデジタルマルチに変換することが必要不可欠なのです。

 今回のデジタル化においては、金井さんの力をおおいにお借りしました。機材としてはMOTUのオーディオインターフェイス「MOTU 1296」を使ってDigital Performerに吸い上げています。ただ、これは普通の1296ではなく、金井さんチューニングのものなんです。1296の蓋を開け、中の配線を軽く触ってビスを締めなおしただけ。でもたったこれだけで驚くほど音がよくなったんです。さらに受けたアドバイスは「マウントしちゃダメ!」ということ。レコーディングの世界ではマウントして使うのが常識ですが、さらに「この足を使いなさい」ってオーディオ用の足を4つもらうとともに、魔法のシールをペタペタと貼られて……。

 一番驚いたのはPCとオーディオインターフェイスのケーブルです。FireWireと同じ規格のもので、試しに作ってみたので聴いてみませんかと言われ、繋いでみると驚くべき音が出るのです! デジタルに変換されてるのにもかかわらずアナログの空気感や奥行き心までが聴こえてくるのです。本当にビックリしました。1st、2ndはアナログのみでやったものなので超えることができるかが本当に心配でしたが、出てくる音はとてもピュアそのもので、もっと良い物ができると確信しました。


金井氏特製のFireWireケーブル

 実はこれだけではなく私の自宅スタジオまでノウハウをいただきました。家まで来ていただきアンプのチューニングからスピーカー台、吸音から反射までやっていただいたのです。これによって飛躍的に音が良くなりミックスダウンの作業がやりやすくなりました。だからこそ私自身が培ってきた知識、常識などは置いておき、金井さんに教えていただこうと思ったわけです。


■ 制作現場と民生機開発者のギャップ

藤本:プロとして長い経験を持っているエンジニアが、自分の知識、常識を覆されるだけで嫌悪感を持ってしまう人がほとんどだと思いますが、そう割り切ってしまうこと自体もすごいですよね。阿部さんはもともと金井さんをご存知だったんですか?

金井氏(左)と阿部氏(右)

阿部:いいえ、まったく。恵美さんの事務所の関本さんから、ソニーの視聴室に来てほしいといわれ、伺ったところで初めて金井さんにお会いしました。そこで音を聴いて愕然としました。本当に良い音がするんです。オーディオの民生機を作っている人たちは、とにかく音をよくしようとがんばっているのに、制作側は今まで何をやってきたんだろうって。音が良すぎて分からないとか、音よりレベルとか、普通に音を犠牲にして作られていきます。とてもギャップを感じました。

藤本:阿部さんがこれまでやってきたことの問題点は何だったんですか?

阿部: 1st、2ndはRecもMixもスタジオでみんなで創り上げたので大きな問題点はありません。もちろん課題や反省は常にあります。問題は3rdにありました。先ほど言いましたが全般的にPCでのレコーディングが中心になりどこでもミックスができるようになりました。また制作費の削減などもありどんどんスタジオから自宅などでの作業が多くなりました。何が失われたかというとモニター環境が悪くなったのです。

 金井さんの言葉ではありますが『聴こえているもの以上の物は作れない』といった当たり前のことを忘れていたのです。ケーブル1本1本の選択から配置、またヘッドアンプに何を使うかまで、この楽曲だったらこうしようと組み立てやってきたにも関わらず最後のミックスに問題があったわけです。また最近のCDの傾向は、コンプやリミッターなどを用いてとにかくレベルを突っ込むというもの。そんなことをしたら、音が悪くなるのは当たり前だけど、レベルを突っ込むと聴いた瞬間にインパクトがあり、いい感じに思えるんです。ただ、こうしたミックスによって奥行き感や空気感というものがなくなってしまいます。3rdに関しては自ら自分の感性でやってみようとやりましたがやはり犠牲は同じことでした。

藤本:実際、camomileの作品を金井さんに聴かせたんですよね。

阿部:ええ、「コンプくさい!」って言われました。ただ、そのとき金井さんは原音はよさそう、最終的なCDになっていないものが聴いてみたい、とおっしゃっていたのです。実は金井さん、CDの制作過程でマスタリングという工程があることも、よくご存知になく、音楽制作の考え方に大きなギャップがあったことも確かです。レコーディングとPAの間でも大きな溝があり、現場でよく問題になりますが、民生機の開発者との間には、それよりももっと大きい溝がありそうだと実感しました。確かにお互いが畑違いであることはよく分かりましたが、かえってそのことが面白そうだなとも思ったんですよ。

藤本:それでお二人がタッグを組むことになったんですね。

阿部:金井さんから、SACDのマルチを作ってみないかといわれ、SACDのマルチでポップスで成功しているのは世界でも2、3作しかないと聞いて、世界に誇れるもの、日本にはないものを作りたいという金井さんの夢を聞き「これだ!」と思ったんです。


■ 最終工程で「聴こえなかった音が出る」

藤本:SACDに限らず、マルチチャンネルのサラウンド作品はクラシックではあっても、ポップスやロックといった世界では手法が確立されていませんよね。

阿部:CarpentersもThe BeatlesもPink Floydみんな違うアプローチをしていて、こうしなければいけないという方法論がまったくないんです。つまり「やった者勝ち」という状況です。日本初、世界初のいいものを作るチャンスがあるということでもあります。

 クラシックでは5点マイクで同時に録るという手法が確立されており、このマイクによってダイレクトな音はもちろん、ホールの反射音もすべて録ることができます。まさに人が聴くのと同じ距離感、奥行きが再現でき、世界的にいいと言われるものもいろいろとあります。しかし、ポップスでそれができるか、というのが大きな課題でした。歌は5点マイクではとれないし、どうやって奥行きや高さをつけたり、距離感を作れるかに挑戦したのです。

藤本:その結果、方法論は見出せたのでしょうか?

阿部:金井さん自身も方法論が出来上がっていたわけではなく、二人三脚で試行錯誤した結果、ようやく見えてきました。たとえばボーカルを正面から出すといった場合でも、いろいろな方法が考えられます。センタースピーカーだけで出す方法、LRのスピーカーで表現する方法、LRとセンターの3つのスピーカーを使う方法、サラウンドスピーカーも一緒に出す方法とあるわけです。

藤本:そのミキシング作業はDigital Performerを使っているんですよね?

阿部:はい。Digital Performerを用いて24bit/96kHzで再生しています。

藤本:今回、そのSACDのマルチとSACDの2ch、CDの2chがハイブリッドになっていると伺いましたが、それぞれのミックス作業というのは同じものなのですか?

阿部:それぞれ別です。順番的にはまず2chをミックスしてからマルチに取り掛かっています。その2chのほうはSACDもCDもミックスまでは共通ですね。ただ。DSDとPCMの仕様の違いがあって、最終工程がちょっと違うんです。CDは0dBまでだけれどDSDは+3dBまで許容できることから、最終のリミッターを緩めることができる。これによって聴こえなかった音が出てくるんです。天井を上げるだけで素晴らしい音になりますね。

 ステレオが完成したら、マルチのミキシングに入るのですが、これはまったくの別作業。ステレオを元にしているので、一からとは言わないけれど、かなり違う工程になります。

藤本:たとえばどんな点が違うのでしょうか?

阿部:ステレオでは入れた音が全部聴こえるというわけではないので、どこを見せるかを考えて音を作ります。それに対して、マルチチャンネルでは、入れた素材はほぼ全部聴こえてきますし、ステレオでは表現できない上下の表現も可能になり、本当に立体的な音作りを行なっていくんです。また、サラウンドとはいえ、広げればいいというものでもないんです。確かに5本のスピーカーがあるけど、その5本を感じさせないのも重要ですね。

藤本:実際に聴いてみても、本当に不思議な感覚ですね。映画のサラウンドなどとはまったく違って、真横や後ろから音が出てくるというのではなく、前から音が出ているけど、上のほうから音が出ているのを感じたり、上空で左右を音が流れたり……。

阿部:はい、世界初のマルチの音を楽しみにしていてください。

藤本:最後にまとめとしてメッセージをお願いします。

阿部:本当にあっという間というか長かったというか、これだけ長い間同じ曲をミックスしたのは初めてで、とにかく音を良くするという課題に取り組んできました。本当に贅沢な時間をいただきました。すべての楽曲はその瞬間を封じ込めて録音したもの。一つ一つにドラマがあります。入っている音の背景やそこに至った経緯を金井さんに説明し同じ目線で取り組んできました。

 畑違いの二人が成し遂げるにはあまりにもたくさんの問題があったように思います。ですが成し遂げた今得る物は本当に大きかったと痛感しております。この場を借りて金井さんをはじめとする皆さまに感謝いたします。ありがとうございました。そして恵美さんの歌声に出会えたことがすべてです。


 最初は、お互いが分からないことだらけで、衝突もしばしば。作業時間もかなりかかったようだが、最後はスピードも上がり、順調に進んだという。次回は、もう一人の主役、金井氏の立場から今回のプロジェクトをどう動かしてきたのかを紹介する。

□藤田恵美さんの公式ホームページ「cafe Camomile」
http://www.solcielo.co.jp/emi/
□「かないまるのホームページ」
http://homepage3.nifty.com/kanaimaru/
□関連記事
【10月9日】【DAL】「かないまるルーム」で生まれる究極のSACDとは?
~ その1:Le Couple藤田さん「CDで削ぎ落ちていたもの」 ~
http://av.watch.impress.co.jp/docs/20071009/dal298.htm

(2007年10月22日)


= 藤本健 = リクルートに15年勤務した後、2004年に有限会社フラクタル・デザインを設立。リクルート在籍時代からMIDI、オーディオ、レコーディング関連の記事を中心に執筆している。以前にはシーケンスソフトの開発やMIDIインターフェイス、パソコン用音源の開発に携わったこともあるため、現在でも、システム周りの知識は深い。
最近の著書に「ザ・ベスト・リファレンスブック Cubase SX/SL 2.X」(リットーミュージック)、「音楽・映像デジタル化Professionalテクニック 」(インプレス)、「サウンド圧縮テクニカルガイド 」(BNN新社)などがある。また、All About JapanのDTM・デジタルレコーディング担当ガイドも勤めている。

[Text by 藤本健]


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