本田雅一のAVTrends

サラウンドの常識を打ち破るドルビーATMOS




 前回、Dolby TrueHDのエンコーダにアップサンプリング機能が加わったことをお伝えした。アップサンプリング機能を用いたTrueHDソフトには、次のようにロゴやステッカーが記されるとのことだ。あとは、ソフト製作側がTrueHDとアップサンプリング機能を使うか否かだけだ。

 パッケージ製作側としては、TrueHDをロスレスコーデックとして選択し、アップサンプリングのオプションにチェックを入れるだけなので、今後はアップサンプリングのタイトルが増えていくだろう。チャンスがあれば、どこかでこの機能のオン/オフを体験できるデモイベントなどをやってみたいものだ(現状、一般には配布していないTrueHDのデモディスクでなければ、比較できない)。

 さて、今回はドルビー本社でデモを受けたDolby ATMOSについてレポートしたい。すでに発表済みの技術だが、劇場向けのサラウンド技術を大幅に発展させるのはもちろん、将来は家庭向けにも新たな付加価値を提供できる余地もありそうだ。

 ここではDolby ATMOSとは何か? 従来のサラウンドの延長線とは異なる新しい方向に進化したATMOSの新しい体験を、ドルビー本社のスクリーニングルームからのレポートとしてお伝えしたい。


■ サラウンドの進化は止まった? いやいやまだまだ、との主張がATMOS

 サラウンド音声というと、“5.1”とか“7.1”(前者は観客を包囲する音声チャンネル数、.1はサブウーファーチャンネル)といった表現がされるように、独立した音声チャンネルの数で、そのタイプを表現することが多い。

 一方、DolbyかDTSかの違いは、以前は大きな意味があったが、(細かな機能や圧縮方式の違いはあるものの)今では本質的なサラウンド技術の差異化要因ではなくなってきている。ステレオトラックからサラウンド音場を作り出すドルビーステレオの時代から、フィルムにQRコードのようなデジタル符合を埋め込んで5.1チャンネルの独立音声トラックを得るアイディアを生み出したドルビーデジタル。対してCD-ROMドライブとの同期で音声を重ねようとしたDTSなど、映画向けオーディオシステムソリューションの違いが、両ブランドの違いになっていたのは昔のこと。

 今はデジタルシネマの時代へと移り変わろうとしており、パッケージもブルーレイディスクになった。サラウンド音声が独立(ディスクリート)なのは当たり前だし、ディスクリートなら、あとは目的ごとにチャンネル数(≠スピーカー数)が増えれば、音場の作り方を変えていける。

 劇場の場合、スクリーンの裏に左右スピーカーとセンタースピーカー、スクリーンが大きい場合はセンターと左右スピーカーの間に、それぞれ1台のスピーカーが置かれる。各チャンネル独立させたシステムもあるが、通常はサラウンドプロセッサで処理されて間のチャンネルが作られる。

 左右と背後にも、部屋の大きさに合わせてスピーカーが並べられる。たとえばドルビーのスクリーニングルームでは、左右に3台づつ、後ろに2台のサラウンドスピーカーが配置されていた。

 こうした劇場では、真ん中より少し後ろの席にスイートスポットを持ってくるため、そこで音を聴いてる限りは、どんなソース(7.1でも5.1でも)を持ってきても、豊かな音場が得られる。たとえば真上から聞こえる音や、スクリーンの右上から聞こえる音、なんていうのも、スピーカーから出る音の位相差(微妙な時間差)を創り出すことで、表現できる。今のサラウンドデザインツールは、とても進化しているので、パソコンのアプリケーション(Pro Toolsがよく使われる)の中で各音源のパラメータを付けていくと、自動的にアプリケーションがサラウンドチャンネルへと分解し、割り付けてくれる。

 独立の音声チャンネルが増えるほど、位相差による方向感に依存しなくても済むため、スイートスポット以外でも意図した音場を楽しめるようになる。劇場ではたくさんの人が映画を楽しむので、スイートスポットを拡大して、より明確な演出効果を与えたい。

 5.1から7.1への進化(の前に後ろ1チャンネルの6.1もありました)というのは、まさに前後の移動感覚、背後での移動感を強化するものだった。

 ちなみに2003年には、シーリングチャンネル(天井チャンネル)を独立音声として追加するという提案を、ドルビーは行なっている。明確に上方向から音を出すことで、他のチャンネルとの位相をコントロールし、より立体的な音場形成を狙ったのだが、こちらはあまりうまく行かなかった。筆者が知る限り、対応しているソフトは1本だけで日本では公開されていない。

 民生用では、5.1や7.1などのソースから、位相差成分を分析して独立したスピーカーへと割り当てる技術の実装が進んだが、もともとの製作現場における独立チャンネルの増加は、費用対効果の面であまり進んでいない。


■ ATMOSの音場は“独立チャンネルの追加”ではなくリアルタイム演算で作られる

 これに対して、ATMOSの発想はまったく異なる。独立した音声チャンネルを増やすのではなく、映画制作者が使っているサラウンドデザインのツールそのものを、劇場の中に持ち込もうという発想で作られている。独立チャンネルのチャンネル数も、劇場のサイズに合わせて増やすことができる。

 なぜなら、ATMOSの音声データは、それ単独ではサラウンドミックスされない状態で配給されるからだ。

 映画の音声は前述したように、Pro Toolsでサラウンドのデザインが行なわれている。効果音などは個別トラックが割り当てられ、それぞれの音がどの方向から聞こえるか、どのように動かすかを指定しながら、音場に貼り付けていく感覚だ。ならば、Pro Toolsでデザインしているデータそのものを、劇場のスピーカー構成に合わせて再レンダリングすれば、配給する独立チャンネル数に縛られることはない。

Pro Tools向けにATMOSプラグインを提供

 そこで、ドルビーはPro Tools向けにATMOSのプラグインを提供。最大128個までのサウンドオブジェクトを、リアルタイムにミックスするシステムを作った。従来の5.1や7.1の音場にプラスして、リアルタイムレンダリングしたサウンドオブジェクトをミックスして聴かせる。

 たとえば、ドルビー本社のスクリーニングルームの場合、左右それぞれ3台づつ、後ろに2台のサラウンドスピーカー、天井に2列3台づつのスピーカー(天井スピーカーは左右の壁にあるスピーカーと同じ数、同じスクリーンからの距離に配置する)が置かれていた。それぞれのスピーカーは、通常の劇場のようにグループ分けして鳴らすのではなく、異なるチャンネルとして異なる音が出てくる。

 劇場が大きくなり、スピーカー数が増えれば、レンダリング時に生成されるチャンネル数も増えていく。最大で64個までのスピーカーチャンネルに対応するため、上限はないと考えていいと思う。

 これでは各スピーカーごとにアンプが必要となり、コストがかかると思えるが、細かな位相差などで音場が曖昧になることがないため、チューニングや利用する機材のコストなどをトータルすると、あまり変わらないそうだ。

 ATMOSのデータは、DCP(Digital Cinema Package)形式の中に収めるようになっている。元の音声データがそのまま入っているので膨大なデータ量になるが、現在のプロセッサの能力やストレージのコストを考えれば問題は無いとのことだ。

ドルビーのスクリーニングルームでは、左右それぞれ3台づつ、後ろに2台のサラウンドスピーカー、天井に2列3台づつのスピーカーを配置

■ 効果は絶大、ではホームシアター向けには?

 さて、実際に音を出してもらった。Pro Toolsを操作しながらサウンドオブジェクトをマウスで自在に動かしていくと、確かに正確な移動感が得られる。特筆すべきはスイートスポット以外に座った時の移動感。全スピーカーが独立チャンネルになっているので、オフセンターにいても明確に音の出所が認識できる。上下感覚、前後感覚も、天井に配置された複数チャンネルのスピーカーとの組み合わせで見事に再現してくれた。

 例えば、5.1ミックスで左後ろで三人が並んで歌を歌っているとしよう。通常のサラウンドミックスでは、大きな塊から音が出ているようにしか聞こえない。三人が別々のところに立っているのは明らかだが、その位置関係は曖昧。ところがATMOSになると、三人の声は、明確に別の場所から独立した声として聞こえる。

 アクション系のアニメ映画(未公開のためタイトルはここでは書けない)では、サラウンド音場とは別に、ATMOSで生成しているオブジェクトの動きだけを聴かせてもらったが、画面に映っていない敵の位置が明確に判る上、一人称視点で動き回る時の周囲の動きがハッキリして、今までにないリアリティを得られた。

 このようにATMOS向けにデザインした音声データは、あらかじめ5.1や7.1にレンダリングしてパッケージすることもできる。制作者はATMOSのツールでサラウンド音場を作るだけで良く、今までのシステムに対してプラスアルファの追加作業は必要無い。この部分、すなわち追加のオーサリングが不要という点がミソだ。ディズニーは今後製作していく映画に積極的に利用していくことを表明している。

 なお、米国、英国、中国では、すでに先行導入の映画館が決まっているが、日本はまだ発表できないとこと。リノベーションにかかる予算というよりも、震災後ということもあって、天井にスピーカーを配置することに抵抗があるところが多いとのことだ。とはいえ、すでに話は進んでいるようなので、そう遠くないうちに、ATMOSを楽しめる館は出てくるだろう。本格的には2013年から導入が進む見込みだ。

 ではこのシステム、ホームシアター向けの可能性はあるのだろうか? と集まったプレスから質問が飛んだ。

 現状、サウンドオブジェクトの個別データ+ベクトルデータを管理しなければならないため、ブルーレイディスクに入れることは難しいと言わざるを得ない。音声トラックの収録規格の問題もあるが、容量そのものも問題だ。

 ということで、結論は難しいということなのだが、決して不可能ではないとも考えているようだ。すなわち、ドルビーとしては「今はまだ劇場向けで手一杯」なので、落ち着いたならば家庭向けをということになる。

 劇場向けでは必須となっている天井スピーカーだが、ATMOSの仕組みから言えば、どこにスピーカーがあっても、構成さえきちんとセットアップできれば、自在にリアルタイムの音場レンダリングを行える。ずっと先の話になるだろうが、AVアンプにATMOSのレンダラーが内蔵されても、筆者は驚かない。

 ネットで音声データを追加ダウンロードし、後から同期させて再生するなど、技術的な実現方法はいくらでもある。劇場向けにATMOSで製作されるなら、それをそのまま家庭にも届けるというのは自然な流れ。もちろん、そのニーズが存在すればだが、何年か後にはATMOSを家庭向けシステムに活かす提案が、ドルビーかなされるのではないだろうか。

 ともかく、次世代のサラウンドシステムとして注目のATMOS。はやく、日本での導入館の情報が発表されて欲しいものだ。

(2012年 5月 29日)


本田雅一
 (ほんだ まさかず) 
 PCハードウェアのトレンドから企業向けネットワーク製品、アプリケーションソフトウェア、Web関連サービスなど、テクノロジ関連の取材記事・コラムを執筆するほか、デジタルカメラ関連のコラムやインタビュー、経済誌への市場分析記事などを担当している。
 AV関係では次世代光ディスク関連の動向や映像圧縮技術、製品評論をインターネット、専門誌で展開。日本で発売されているテレビ、プロジェクタ、AVアンプ、レコーダなどの主要製品は、そのほとんどを試聴している。
 仕事がら映像機器やソフトを解析的に見る事が多いが、本人曰く「根っからのオーディオ機器好き」。ディスプレイは映像エンターテイメントは投写型、情報系は直視型と使い分け、SACDやDVD-Audioを愛しつつも、ポピュラー系は携帯型デジタルオーディオで楽しむなど、その場に応じて幅広くAVコンテンツを楽しんでいる。

 個人メディアサービス「MAGon」では「本田雅一のモバイル通信リターンズ」を毎月第2・4週木曜日に配信中。


[Reported by 本田雅一]