3月21日に発売になった、ソニーの新ウォークマン「NW-A800シリーズ」が売れている。市場調査会社の速報値によれば、新製品発売前、20%台であったソニーの市場シェアは、A800シリーズ投入により、30%台へと上昇しているという。ブログや各種掲示板などでの、購入者の評判も良好だ。
実際にA800シリーズを試用してみたが、確かに、評判に違わぬ、良い製品だと感じた。そして、多くの人と同じように、こんな感想を抱いた。「これが2年前に出せなかったのか」と。 ウォークマン再評価の流れは、なにもA800シリーズから始まったものではない。その前に登場した「Eシリーズ」あたりから好意的な評価が増え始め、昨年秋の「S600/S700」シリーズで、その流れはさらに加速した。ウォークマンは、はっきりと「変わった」のだ。 ではその時、ソニーではなにが起こっていたのだろうか? そして、ウォークマンは、これからどこへ行くのだろうか? 同事業の責任者である、ソニー コーポレート・エクゼクティブSVPであり、オーディオ事業本部の吉岡浩事業本部長に、お話を伺った。 ■ 「ソニーはあわてていた」。携帯事業からウォークマンを見つめる
「こりゃあ、大変な山だな」 吉岡氏が現職に着任したのは、2005年10月のことだ。当時ウォークマンは、どん底にあった。シリコンオーディオ・プレーヤー市場そのものには、アップルよりも1年先に参入していたものの、市場を拓く役目は、iPodに奪われてしまった。捲土重来を狙って「A1000/3000シリーズ」を投入するものの、市場が支持したのは、同時期に登場した「iPod nano」だった。A1000/3000シリーズで採用した新ジュークボックス・ソフト「CONNECT Player」の不評も重なり、ウォークマンの持つブランド価値は、ひどく傷ついた。 とはいうものの、吉岡氏は楽観的だった。「同じような山に直面してきたばかり」だったからだ。元々吉岡氏は、8ミリビデオやDVカメラの事業に携わってきた。名機として記憶に残る「DCR-PC7」なども、吉岡氏が開発リーダーとして手がけた製品の一つである。メモリースティック事業を立ち上げ、デジカメであるサイバーショット事業を手がけたのち、2001年10月に、ソニー・エリクソン日本法人の社長に就任する。 その時に直面したのが、同社製携帯電話の不具合騒動だ。最終的に42万台を回収することとなり、同社の経営に大きな影響を与えた。この時期は、Javaやメガピクセルクラスのデジカメなど、携帯電話に求められる機能が爆発的に広がった時期でもある。またその後には、ワールドワイドでGSM端末を統括する、という大仕事を抱えていた。携帯電話事業でふた山超えて、次に用意された新たな山が、ウォークマン事業立て直しであったわけだ。 「実は私、それまでオーディオを手がけたことはなかったんですよ。直前まで携帯事業で大変な目にあっていたところだったので、正直『苦境』であるのをすんなり受け止めていたようなところがあって」と笑う。 では、吉岡氏は当時の社内の状況を、「一言でいえば、冷静に商売をする状況にはなかった、焦ってしまっていた、ということでしょうか」と語る。 「アップルが作り上げた商品は、やはりすばらしいもの。アメリカのシェアが70%以上となると、敵があまりに巨大になりすぎていた。技術的にどうこうというより、世界中にカルチャーを作っていたところが強い。その中でどうやっていくのかというのは、かなり大きなチャレンジであるのは事実だな、と認識していました。どうも我々は、『アップルに負けた感じ』を、強く意識しすぎていたのかも知れません」 そこで吉岡氏が決断したのは、「冷静になって、基本に帰ること」。その基本とは、「ソニーとアップルでは、お互いに持っているものが違う」ということだった。 ■ ソニーの強みは「音質」と「顧客層」。高品質ヘッドホン採用も「異議なし」で実現 基本の一つめは「音質」だ。「音楽というところで見ると、やはり『音質を大事にする』ということですよね。これはやはり、匠の世界。長年手がけている人でないとできない。一旦忘れてしまうと、とたんにブランドの力がなくなってしまいます」と吉岡氏は語る。 いうまでもなくソニーは、ずっとオーディオを手がけてきた企業だ。内部には、音質に関する研究を続ける部隊もいる。そういった成果を商品に生かすのは、ある意味当然ともいえる。 S700シリーズで導入された「ノイズキャンセル機能」もそのひとつという。ソニーは長くこの技術を手がけており、製品に組み込むのは自然な流れに見えるが、商品として形にするのはなかなか大変であったようだ。 「S700は、通勤電車での利用を前提に企画した商品です。とすると、ノイズキャンセラーは必要なものでした。しかし、本体とヘッドホンの間に電池ボックスをぶら下げるようでは、商品として問題があります。結果的に、あるエンジニアの発想から、電池ボックスを使わず、本体から直接電源を供給する仕組みが実現できました。そもそもノイズキャンセル機能は、左右のバランスを保って高音質を実現するのがなかなか難しいんです。S700にしても、発表の一週間前まで調整を続けていたくらいなのです」。 こうした「音質重視」の姿勢は、吉岡氏着任後はっきりとした形で現れ始めた。いまや事業部の中では、わざわざ語る必要もない「DNA」のような存在になっているという。
A800シリーズが好評である理由のひとつに、標準添付のヘッドホンが高品質である、ということが挙げられる。これまで、ポータブルプレーヤーに標準添付されるヘッドホンは、数百円から千数百円程度で売られるものが使われる場合が多く、お世辞にも高級とは言い難かった。そこにA800シリーズは6,150円、店頭では5,000円程度で売られている「MDR-EX85SL」相当のものをつけたのだから、評判がいいのも当然である。 だから、議論を重ねた上での「思い切った選択」だったのではないか……とおもいきや、吉岡氏からの返答は拍子抜けするほどあっさりとしたものであった。 「特に、議論はなかったと記憶していますよ。コストアップになっているのは間違いないですが、それが問題になったことはないですね。音質を良くするのは当たり前の話ですから。もちろん、社内調達なので、店頭での価格差ほどのインパクトがないから、ということもありますが」。 二つ目の基本は「顧客層」だ。「アップルは、先進国の高所得男性にかなりフォーカスしています。それはそれでいい。しかし、ソニーを求めるお客様は、もっと広いんです」。
その一例が、「パソコンが使えない顧客」だ。昨年秋、Sシリーズ発売にあわせてアピールされたのが、HDD内蔵コンポ「ネットジューク」。パソコンをAV機器として使うことに違和感の少ない層から見れば、あまりピンとこないアピールである。会見でも、記者側の反応には、生暖かいものが感じられた。 だが、ソニーの分析は、決して間違っていなかった。むしろ甘かったくらいなのだ。「実はあの時、パソコンを使わない人向けの製品では、欠品を出してしまったんですよ」と吉岡氏は明かす。 といっても、欠品したのはネットジュークではない。欠品したのは、Sシリーズで、CDプレーヤーなどからダイレクトレコーディングを行なうためのケーブルだ。元々ソニーは、Sシリーズの下位機種「S600」を、ダイレクトレコーディングを指向する人向けの製品と位置づけていた。とはいえ周辺機器の販売数量は、本体の1割以下が相場。ソニーが準備した量も、S600の初期出荷量の1割程度であったという。 しかし、これが甘かった。ふたをあけてみると、「初期のS600購入者のうち、3割から4割が、ダイレクトレコーディング・ケーブルを買っていた」(吉岡氏)という状況。当然すぐケーブルは売り切れてしまった。ソニー側には、ダイレクトレコーディングに関する問い合わせが殺到したという。 「新商品が出ると、必ず2つの問い合わせが増えるんです。一つは、『電源アダプタがなぜ入っていないのか』ということ。USB給電ですから、本来不要なんですが。もう一つが、『詳細なマニュアルはどこですか』ということ。こちらも、CDにPDFの形で入ってます。パソコンを持っている方ならば特に問題とならないのですが、パソコンをもっていない方にとっては問題ですよね」。 そこでソニーは、S600シリーズ発売後に、あるパッケージを作る。紙のマニュアルと電源アダプタ、それにダイレクトレコーディング・ケーブルをセットにした、「パソコンがない人向けのキット」だ。 「相手が強いわけですから、同じところでだけ戦ってもしょうがないわけです。アップルさんのターゲットと我々のターゲットはかぶっているところもあるわけですが、元々強みが違う上に、相手とは違う場所、すなわちパソコンを使わなくてもいい商品を求めている方が多い。そこではソニーを求めるお客様が多いわけですから、そこに答えていくことが重要なのです」と吉岡氏は分析する。 そのせいか、A800シリーズ発売後にも、小型でノイズキャンセリング機能付きのS700、ダイレクトレコーディング主体のS600では、「あまり顧客を食い合わず、A800の分だけシェアが拡大する形で売れている」のだという。 ■ これからのトレンドは「画面を見て快速操作」。パワフルな新プラットフォームを導入
ソニーはこれまで、デジタル系ウォークマンの開発プラットフォームとして、自社で開発した省電力LSI「バーチャルモバイルエンジン(VME)」を利用してきた。しかし、A800からは、よりパワーがあり、OSとしてLinuxをベースにした新プラットフォームに移行している。処理能力が高まったことにより、圧縮時に失われた高音部を補完する「DSE」も採用できた。しかし、新プラットフォームの導入は、高音質化のためだけに行なわれたわけではない。むしろ狙いは、ユーザーインターフェイスの高度化にあった。 「携帯電話の普及により、日本だけでなく世界中の人々が、『画面を見ながら操作する』というやり方に慣れ始めています。従来の商品ですと、画面表示は小さい。私自身にしても、ほとんど表示は見ないで使っていました。ですが今は、大きな画面があって、それを見ながら使う商品の方がいい、というお客様が増えています。A800により、大画面タイプの製品に対する反響を見たい、と考えています。これまでのところ、概ね好評であるようです」。 実際、A800シリーズの操作方法は、評判のよくなかった2年前のA1000/3000と大差ない。しかし、動作速度・反応速度が違うことで、ユーザー側での受け止められ方は、はっきりと違ってきている。これまで、ソニーの商品は「操作の反応速度より、バッテリ持続時間やサイズの小ささを優先しよう」という思想で作られているように見えた。「スタミナや小型化はソニーのDNAであり、それはそれで評価していただけるお客様も多い」とした上で、吉岡氏は以下のように語る。 「中ではいろんな議論はありました。しかし、お客様の動向を見ると、操作の快適さを求める声が大きくなっているのは事実。だから、開発の基盤から見直してみよう、ということになったのです。そのため、多少時間がかかってしまったことは否めませんが」。 実際のところ、A800向けの新プラットフォーム開発は、2005年10月の吉岡氏着任以前から進められていたものだという。だから、A1000/3000の不評をうけた緊急プロジェクトでも、吉岡氏の一喝で始まったものでもない。 ただし、開発プラットフォームの計画に、吉岡氏の思想が大きく関与していることだけは間違いないようだ。たくさんの顧客ニーズに応えるには、充実したラインナップが必要。しかし、それは逆に、開発コストの増大も生み出しかねない。放っておくと、1社の中で開発プラットフォームがいくつもできてしまいやすいからだ。 そこで吉岡氏が考えているのは、開発プラットフォームの統一である。「短期的には、VMEを使ったスタミナ系も存続しますが」と前置きした上で、今後の方向性としては、A800系プラットフォームへの統合を進めている、と説明する。 これはなにも、「今後のウォークマンは、すべて大型液晶で薄型」ということではない。製品により、液晶のサイズや動画対応の有無、消費電力などは異なるものの、ソフトウエアの共通化などを進め、効率的な開発を狙う。 ■ HDD採用の予定はなし。軌道修正を容易にする新プラットフォーム 気になるのは、今後ウォークマンがどんな方向に向かうか、ということである。例えば、現在ソニーには、HDDを採用した大容量モデルはない。ストレージの選択について、吉岡氏は次のように明確なビジョンを示す。 「現時点では、HDDを使うつもりはありません。理由はシンプルで、フラッシュメモリの進化がものすごいから、です。実際、昨年11月から2カ月の間に、ある種のフラッシュメモリ・チップは、容量単価が2分の1になりました。よほどのことがない限り、フラッシュメモリで対応可能と考えます。HDDの方が値段も高いですし、メカものですから故障率も上がります」。 ただし、「映像」への対応を考えれば、HDDが求められるケースも増えてくるのではないだろうか? 特に、映画のように長い映像を蓄積するなら、ストレージの容量は数百GB欲しくなる。フラッシュメモリではそれが難しいのだが、吉岡氏はこの点について、ある見解を持っている。 「現時点では、英会話の学習やミュージッククリップといった、時間の短い映像が需要の中心。ならば、フラッシュメモリでいいんです。ムービーをメインとしたウォークマンの商品作り、というのはまだ行なわれていません。あくまで、音楽が主体と考えています」と説明する。 とはいえ、この見解が常に正しいわけではない、と考えているのも事実のようだ。「この見解は、あくまで『今は』ということです。間違いがない、とは思っていません。もし、市場で長編映像のニーズが高くなるようなら、それにあった修正を加えていくだけです」 実は、新プラットフォームへの統合も、この「修正」を容易にするための策である。高度な動画対応が必要になった時、自社の開発プラットフォームにそれを支える能力がなければ、開発コストは増大し、市場投入には時間がかかった結果、得られる利益も少なくなる。 「一世代前のプラットフォームでは、そういう商品を作るのは厳しいです。しかし、新プラットフォームはなかなかパワフルですから、仮にそういうニーズが出てきても、容易に対応できます。現時点でCPUをギリギリまで使っている、というようではダメなんですよ」 この方針こそ、携帯電話ビジネスで吉岡氏が学んだことだ。「携帯電話プラットフォームでは、3年、4年先を見据えた開発を行なっています。通信規格は決まっていますが、ネットサービスやJavaなどのアプリケーション側については、だれも答えを教えてくれない。間違ったらすぐやり直せないとダメなんですよ。大切なのは、2年、3年、4年後にどのような製品が求められるかを考え、適切にプラットフォームをメンテナンスしながら、効率的な開発を行なえるリソース配分をすることです。まあ、どのメーカーさんも考えていることではあると思いますが、明確な意志をもっていないと、困難なことではあります。放っておいたら、プラットフォームは増えてしまうものですから」。 このような方針は、吉岡氏着任以前から「芽はあった」という。だが、着任後は明確な意志のもとに体制作りが行なわれ、A800シリーズにつながったようだ。 ■ 「良いソフト」は一日にしてならず。SonicStageへの「動画統合」は予定なし 動画という点では、もう一つ気になることがある。現在ソニーは、音楽に「SonicStage CP」、映像に「ImageConverter」と、別々のソフトを使っている。アップルがすべてをiTunesで行なっているのに比べると、わかりにくい、という批判もある。
しかし吉岡氏は、「現時点では、統合の予定はない」と語る。むしろ、「現在の状況では、統合がプラスになるとは思えない」と考えている、という。 「アップルのように、映像も音楽もiTunes Storeから、という形ならば、統合するのもいいでしょう。しかし、それは現実的ではない。音楽ならば、iTunes StoreでもMoraでも、9割くらいは同じ曲が買える。しかし、映像はそうではない。オンラインストアによって入手できるものはまちまちで、1つのルートに絞っても、ニーズを満たせません。また、カムコーダで撮影した映像を見たい、という人もいれば、YouTubeなどのオンライン環境で入手した映像を見たい、という人もいて、ニーズそのものにばらつきがあります。ならば、下手に統合するより、様々なルートに対応できる柔軟な環境を用意しておいた方がいい、というのが、我々の結論です」。 とはいえ、ImageConverterはまだまだ未成熟なソフトで、吉岡氏のいうような「多様なニーズを受け止める」だけの機能は備えていない。さらなる熟成が必要だ。 またこの発想の裏には、評価が高まりつつある「SonicStage」を壊したくない、という意識もあるようだ。「着任当時、大手家電量販店のフロアマネージャークラスの方々にヒヤリングした時、次のようなことを言われたんです。『SonicStageでいいんです。余計なことをしないでください』と。 統合するというのは大変なことです。品質を重視すると、拙速なことはしたくない」。 社内ではこんなことが言われているという。「アップルのソフトは昨日今日出来たものではない。失敗の積み重ねの上にある。iTunesだって5年かかったんだ。それが『明日にはできる』なんて勘違いするな。一歩ずつやろう」。 この言葉は、現在同社でソフトウェア開発担当上級副社長を勤める、ティム・シャーフ氏の口癖だという。シャーフ氏は、アップルでインタラクティブメディア担当副社長を勤め、QuickTimeを作り上げた人物の一人である。アップルを内情を知る人物の言葉であるだけに、追いかけるソニーにとっては重い一言だ。 冷静に、着実に。基本ではあることだが、ウォークマン復活に必要だったのは、カンフル剤ではなかった、ということなのだろう。とすれば、A800の登場に2年かかったのも、頷ける。結局、技術に魔法などないのだ。
□ソニーのホームページ (2007年3月30日)
[Reported by 西田宗千佳]
AV Watch編集部av-watch@impress.co.jp
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