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第343回:もう一歩進んだSACDマルチの音作り【後編】
~ ホールレコーディングと自作のサラウンド用マイク~



藤田恵美さんニューアルバム「ココロの食卓~おかえり愛しき詩(うた)たち~」

 前回に続き、今回も藤田恵美さんが9月17日にリリースしたニューアルバム「ココロの食卓~おかえり愛しき詩(うた)たち~」(PCCA-60022/3,200円)の制作に関するインタビューをお届けする。このアルバムはCDとSACDのハイブリッドで、SACDは2chとマルチの2種類のミックスが収録されているという、ポップスにおいてはまだとても珍しい構成の作品だ。

 しかも、実際に聴いてみるとわかるように、非常に高音質で、とくにSACDのマルチはこれまでほとんど存在しないといってもいい、完成度の高いサラウンド作品に仕上がっている。前作の「camomile Best Audio」をも上回るクオリティーとなっているのだが、どのようにしてこの作品を作り上げたのか、レコーディングエンジニアの阿部哲也氏を中心にいろいろと話を伺った。


■ ホールでのレコーディングで一発録り

藤本:以前、「camomile Best Audio」の制作に関してお伺いした際は、「かないまる」ことソニーの金井隆さんと二人三脚でサラウンド作品作りをしてきたということでした。また、ベスト盤ということもあって、過去にレコーディングしたアナログのマルチトラックのテープやデジタルデータを利用してミックスし直したということでしたが、今回はどのように関わっていったのですか?

阿部哲也氏(以下敬称略):前回のベスト盤を作っていく過程で、マルチをどうミックスしていくかという方法論は習得しました。一方、こういう音が録れればいいんだろうなというアイディアも浮かんでいました。そのアイディアを具現化するベストな方法は、ホールでレコーディングすること。こうすることで、リアルにサラウンドサウンドをレコーディングすることが可能になるからです。

藤本:確かに、クラシックコンサートなど、SACDのマルチの作品はホールでレコーディングしていますよね。とはいえ、そうなると一発録りということになりませんか?

今回のアルバムのうち、3曲をレコーディングしたホール「秩父ミューズパーク音楽堂」

阿部:そうなんです。すべてコンピュータでレコーディングし、編集する現在、差し替えができないなんてことはありえないシチュエーションです。でも、本当にいいレコーディングをするためには、それが必要だろうと考えました。反対にいえば、演奏する人に協力してもらうしかない。もちろん歌い直しもできません。ぜひ、やりたいんだけど、録り直しができないというリスクがある。恵美さん、どう思います?って聞いてみたら、「協力するよ」って軽く返事が返ってきたんですよ。

藤田恵美さん(以下敬称略):そう言われたときは、あんまりピンと来なかったというか、まあ、やり直しもお願いすればなんとかなるんだろう、って軽く考えていたんです。コンピュータで何でもできる時代ですから。が、実際に本番で確認したらハッキリと断られて……(笑)。そのとき、初めてすごいこと承諾しちゃったな、って思いました。

藤田恵美さん 阿部哲也氏

藤本:トラック数的には5chとか6chというわけではないですよね?それでもトラックの差し替えはできないわけですかね?

「アザミ嬢のララバイ」ではホールの客席の一番後ろに立って歌っている

阿部:確かにトラックは20トラック以上使っていますが、それは最後にミックスダウンするために分けているわけです。いくらたくさんトラックがあっても、すべて同時に録っていて、それぞれのトラックには、いろいろな音が回りこんでいますから、差し替えは不可能なんです。一発勝負ですね。まあ、緊張感があったからか、結果的にはそれほど時間をとっていないんですよ。

 最初に録音した「アザミ嬢のララバイ」は2テイク目、「ゴンドラの唄」もこのスタイルでいきましょうといって、結局2テイク目でOKとなりました。ただ、実際に録るまで、歌う場所でいろいろ試行錯誤しました。アザミ嬢のララバイは恵美さんが客席の一番後ろに立って歌ったのですが、恵美さんが一歩下がった感じを出すことができ、うまく演奏と調和したんです。ところが、ゴンドラの唄もそのままやってみたところ、カラオケっぽくなって一体感が出ない。そうしたところ、恵美さんからも「歌いにくい!」という声があがったのです。「じゃあ、ステージに上がってみます?」といって上がってもらって、再度歌ったら、すべてが一体化したんです。


■ 自作のサラウンド用マイクで奥行き感を出す

藤本:今回のレコーディング、サラウンド録音のための秘密兵器を使ってましたよね。あれは、どういうものなんですか?

阿部:あの5chのマイクですね(笑)。前回はないところから、無理やり5chを作り上げ、ここが一番つらいところでした。やはりサラウンド作品を作るなら5chのマイクは必須です。このマイクは5本のマイクを組み合わせているのですが、5本のスピーカーへそのまま送るものを最初から作ってみたいと思っていたんです。

阿部氏がスタンドなどを自作したというサラウンド用のマイク

 選曲会議中に、サラウンド用のいいマイクがないか、いろいろ探していたのですが、どうしても自分が思っていたものが見つからなかったんです。確かに製品は存在しているけれど、やはりクラシック用だから、セオリーは正しいけど、ポピュラーには向かない。ただ、ないものは自分で作るのが私のコンセプト。部品をいろいろと探し、最終的にこれだったらいい音がするんじゃないかというものを試作しました。さらに、それを自宅やスタジオで角度を変えて、距離感を確認するなど調整をしていきました。

藤本:あれは阿部さんの自作だったんですね。でも、自宅で調整って、それでいいんですか? やはり、場所によって角度を変えたりするわけですよね?

阿部:いいえ、このサラウンド用のマイクは音の広がりではなく、奥行き感を出し、立体的な聴こえ方を実現するためのものです。だから、部屋が大きかろうと小さかろうと同じ。自宅で調整した状態のまま、ホールやスタジオで使っているんです。ちなみにホールで録るのは響きを利用しているんです。観客席なら一番いい音とは限りません。どこがいい音かは耳で聴いて確認してマイキングしていきます。「アザミ嬢のララバイ」は完全にリバーブとして利用し、「ゴンドラの唄」や「酒と泪と男と女」は人の気配を録るのに使っています。

サラウンド用のマイクはホールに限らず、今回レコーディングを行なったほかのスタジオでもすべて利用している

藤本:ちなみに、そのホールというのはどちらなんですか?

溜知篤氏(以下敬称略):秩父ミューズパーク音楽堂というところです。クラシックのレコーディングにもよく使われている、その筋では結構知られているところなんです。私もまったく別のプロジェクトで2年前にクラシックギターを録ったことがあります。都内にもホールはいろいろありますが、ちゃんとした響きのホールとなると、かなりコストも高くなってしまいます。

阿部:一応、できるという自信はありましたが、やはり初めてのことですから、ある意味実験。あまりに高いホールで録ると、やってみてダメでした、というわけにはいきませんからね。

秩父ミューズパーク音楽堂へはDigital Performerを中心とした機材を持ち込んでレコーディング

藤本:その秘密兵器以外のレコーディング機材はどうしたんですか?

阿部:やはりここはレコーディングスタジオではなく、あくまでもホール。そのため、機材は一式持込ました。Digital Perfomer関連の機材ですね。具体的にはMOTU 1296を2台とMOTUの8Pre、さらにMOTU896です。またヘッドアンプ、マイク、マイクスタンド、ケーブルまですべて持参しています。

藤本:私は、一口坂スタジオでのレコーディング中に見学にいきましたが、あそこではDigital PerformerではなくProToolsを使っていましたよね?


一口坂スタジオなどProToolsの機材を使っている場合は、金井隆氏が開発・設計を行なっているFineFocusケーブルに差し替えて使っている。写真は開発者の金井氏。

阿部:今回のアルバムのレコーディングは、秩父ミューズパーク音楽堂、一口坂スタジオ、原宿アコスタジオ、クレッセントスタジオの4箇所で行なっています。音的にはやはりDigital Perfomerが好きですが、スタジオはProToolsが常設されていて、アシスタントもいるので、ProToolsを使っています。ただProToolsの音質を向上させるため、ProTools用のデジリンクケーブルとして、FineFocusケーブルというものを持っていき、それに交換しています。これは金井さんに開発・設計をお願いし、うちの赤川も加わって試行錯誤しながら共同で仕上げたものです。これに変えるだけで、見違えるほど音がよくなるんです。また電源関係も持っていっているので、通常のProTools環境と比較すると、格段にいい音になっています。

藤本:そういえば、一口坂スタジオでも、サラウンドのマイクを使われていましたよね。

阿部:はい、今回はホールだけでなく、いろいろなところで使っています。


■ SACDマルチへミックス

藤本:こうしてレコーディングした音を、CD用、SACDの2ch用、マルチ用にミックスしていくわけですよね?

阿部:はい、まずは自宅スタジオでミックスし、その後、金井ルームへ持っていって、最終確認しています。金井ルームでは、まず私自身で聴いて確認した後、恵美さん長岡さんには音楽的な部分をいかにリアルに表現できているか、そして金井さんにはオーディオ的な部分を細かくチェックをしていただき、オーディオファンの方々に心地よく聴いていただけるように仕上げていきました。それぞれの違う目線からの意見をまとめていくチーム一丸としての作業となりました。その際に、できるものはその場で調整しますが、ダメなものについてはお持ち帰り(笑)。結局、金井ルームでの確認作業は7日くらいかかったでしょうか……。

関本毅久氏:阿部さんと金井さんのディスカッションは緊迫感も漂っていましたが、ディスカッションする度に音がものすごく生き生きしていくのがわかり、とってもワクワクしました!

阿部:その後、前回同様、SACD部分はソニーの井上滋さんにSONOMAに流し込んでもらい、フラグを立ててマスタリング完了。CD部はポニーキャニオンで作業してもらっています。事前に長岡さんに音量調整の確認はしてもらっているので、通常行なわれるマスタリングで音をいじることをしていないというのも前作と同じ大きな特徴かもしれません。

藤本:実際、今回のミックス、前作の「camomile Best Audio」と比較していかがでしたか?

阿部:前回と比べると、かなり楽でした。予め5chで音を拾っているので、あとは単に広げるだけ。リバーブなどのエフェクトで空気感を作るのではなく、本当に空気そのものを録っているのですから、気持ちいいですよ。本当にあのマイクが効いています。その点では、金井さんのお墨付きももらっています(笑)。実際、このマイクで拾った音があるのとないのでは、まったく違う次元になりますから。金井さんからも、「今回、これが一番違う点だね」と評価してもらっています。

藤本:2chのミックスにも、このサラウンドマイクで拾った音は使っているのですか?

阿部:そうですね。フロントおよびバックのL/Rを加えることで、ステレオにおいても奥行き感が出てきます。というのも、物理的に広がったマイクだから位相差がでるので、それが奥行きとして表現できるのです。かなりいいアンビエンスマイクとして機能するんです。

藤本:今後も、阿部さんとしてはマルチに積極的に取り組んでいこうというお考えですか?

阿部:ぜひ、そうしたいです。ただ、残念ながら、まだ業界の中で、知っている人が少ないのが現実です。また、リスニング環境が整っている方も少ないので、徐々にでもいいので普及していって欲しいですね。すばらしいマルチ音源を聴けば必ず感動しますよ。私もこのメンバーも全員感動しました。今回のアルバムがそんなキッカケのひとつになってくれると嬉しいです。


 以上、2回にわたって藤田恵美さんのニューアルバム「ココロの食卓~おかえり愛しき詩(うた)たち~」の制作の裏側を伺った。

 前作の「camomile Best Audio」が英語のカバーであったのに対して、日本語のカバーであることから、雰囲気はちょっと違うが、サラウンドの音楽って、こういう世界なのかと堪能できる作品であることは間違いない。これからサラウンドのシステムをそろえる人、またすでに持っているけれど、映画の音しか出したことがないという人も、ぜひ一度試してもらいたい。



□藤田恵美さんの公式ホームページ「cafe Camomile」
http://emifujita.jp/
□Eng 阿部哲也氏 所属 STRIP incのホームページ
http://web.mac.com/strip_01/
□「かないまるのホームページ」
http://homepage3.nifty.com/kanaimaru/
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(2008年9月29日)


= 藤本健 = リクルートに15年勤務した後、2004年に有限会社フラクタル・デザインを設立。リクルート在籍時代からMIDI、オーディオ、レコーディング関連の記事を中心に執筆している。以前にはシーケンスソフトの開発やMIDIインターフェイス、パソコン用音源の開発に携わったこともあるため、現在でも、システム周りの知識は深い。
著書に「コンプリートDTMガイドブック」(リットーミュージック)、「できる初音ミク&鏡音リン・レン 」(インプレスジャパン)、「MASTER OF SONAR」(BNN新社)などがある。また、アサヒコムでオーディオステーションの連載。All Aboutでは、DTM・デジタルレコーディング担当ガイドも務めている。

[Text by 藤本健]


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