本田雅一のAVTrends |
大晦日のロングラン音楽イベントUstream中継の舞台裏
-高音質、3D、サラウンド。これからの“中継”とは?
当日は様々な形式で楽しんでみた。写真は2D+2チャンネル音声で聴いているところだが、3D映像も意外や意外、3Dらしく見えて驚いた |
このイベントはベートーヴェンが作曲したすべての交響曲を一日のうちに演奏してしまおうというもの。昼13時からスタートの演奏は、間に休憩を挟みながら深夜まで続き、年越しまでには第九の歓喜の歌が終わる(予定だが、通年年を越していた。今年は予定通りに終了)という、クラシックファンなら誰もが知っているイベントだ。
“シンフォニーなんて興味ないよ”と言うなかれ。このイベントを2003年に始めた指揮者・岩城宏之氏(故人)の元に集まったメンバーを基盤とする岩城宏之メモリアル・オーケストラは、NHK交響楽団メンバーを中心に各オーケストラからエース級メンバーが結集。現地での取材は前日のリハーサルに行なったが、このときの音だけでノックアウトされるぐらい。
おそらく、初めてクラシックを聴くという方でも、つまみ食いではなくひとつの楽章の半分でも聴いてみれば、きっとその魅力に気付くだろう。そういった時代を超えた普遍的魅力がベートーヴェンという作曲家のすごさ、すばらしさ……と、失礼。本稿は「ベートーヴェンは凄い!」が凄いぞ! という話ではない。
実は、このイベントを3Dで撮影し、さらにインターネットで生放送するという取り組みが行なわれた、その背景を取材した。ちなみに、クラシックコンサートをインターネット配信する試みはこれまでも行なわれてきたが、今回のイベントにはいくつかユニークな点もある。まずは、なぜインターネット中継が行なわれた背景、3D撮影、インターネット配信と、それぞれについて話を進めていこう。
■ マゼールの一言がUsteramでの配信へとつながる
三枝成彰氏 |
三枝氏は今でも悩んでいる。何を悩んでいるかと言えば、無償でクラシックコンサートを放送し、誰でも生で聴ける機会を積極的に作るべきかどうかについてだ。
「音楽に限らず、コンテンツが育つ環境を用意できない国は敗退し、国内の文化芸術が衰退すると思います。たとえばモンゴルには40社以上のテレビ局が参入しているが、ほとんどが外国資本で、自国のテレビは毎日4時間程度しか放送されません。場所柄、周りの国の放送も受信できますから。インターネットでコンテンツ流通の枠組みが変化した時、果たして日本という国で、どこまで文化芸術を保てるだろう?」
と率直に話し始めた。ひとつ筆者が付け加えるとするなら、三枝氏もクラシック音楽をより幅広い人達に知ってもらいたいという気持ちは強く持っているようだが、同時に過度に一般化してしまい、一気に音楽業界が活動の基盤を失ってしまわないか? という危惧も同時に持っているということだ。
「たとえばドイツ・バイロイト音楽祭。私にとっては聖なるイベントであり、そこに一生に一度は行って生で楽しみたいとずっと思っていた。ビデオやCDになるのは何カ月も後だし、何より生で聴く音楽の良さは何にも代え難い。しかし、もし同時に自宅で音楽祭が楽しめたとしたら、聖なる地の重さがなくなるように感じている」(三枝氏)
クラシック音楽のコンサートに行ったことがある読者ならわかるだろうが、PAを通す事を前提とした音楽とは異なり、音楽ホールで生の音を聴かせるクラシックコンサートの音楽的な心地よさは、その場にいる人だけのものだ。これはインターネット中継が発達したとしても、その全ては伝えきれない。
無料か有償かはともかく、タイムラグなしにコンサートを聴くことができるとなると、みんなコンサートに足を運ばなくなるのではないか。圧縮音源の不完全な音になれてしまうと、クラシック音楽が本来持っている魅力に対して鈍感になっていくのではないか。色々な不安がよぎる。
そんな三枝氏がインターネット中継を決意したのは、昨年末の指揮を全曲担当したロリン・マゼール氏の一言だったという。「80歳になる今年(2010年のこと)最後の演奏を世界に向けて発信したい」(マゼール氏)
リハーサル終盤、3D映像を確認する三枝氏など |
この要望を友人であり多くのインターネット関連企業を起業してきた伊藤穰一氏に相談。慶應義塾大学湘南藤沢キャンパスの村井純氏に話がつながり、インターネットを使った放送へとつながったのだ。
三枝氏は「いまだにどうなるのか。まったく予想できない。たとえば東京には八つのオーケストラがあるが、ベルリンフィルのコンサートが生放送で体験できる(実際に現在も有償でのサービスが行なわれている)という時に、競争力を持てるかどうか。これから10年ぐらいの時間をかけて、何かが起きていくだろうし、何かをやっていかなければならない」と話す。
多くの人に見せたいという気持ちの一方、急激な一般化が文化を壊さないかという気持ち、様々な感情の狭間で、しかし自らが身を置く音楽業界の今後を考えていく上でも、今後の動向に注目しながら取り組んでいきたいという。今年の大晦日も、協力者さえあれば、インターネット放送を続けたい意志はある。
■ クラシックコンサートでの3D
スポーツイベント、コンサートを問わず、その場限りの“生”の映像を質の高い3Dで撮影できるプロダクションというのは、実はあまり多くはない。日本でもソニーPCLが昨今、積極的に音楽ライブやスポーツイベントの中継を行なっているが、その中でメキメキと実力を上げてきているのがNHKメディアテクノロジだ。
舞台袖の上に設置されたカメラが各1台 | オーケストラの中、観客席、それに天井から吊されたマイクなどの音をミックスして音場を創り出す |
舞台脇に置かれた3Dカメラ、今回使った中では唯一の縦型L字配置のリグ |
3D撮影の“実力を上げてきている”というのは少々失礼な話で、NHKの映像製作部門が独立した同社は20年以上もの間、3D撮影のリグやプリズムを使って両眼視差を小さくした並列型の3Dカメラ、それに超小型カメラを用いた3Dカメラリグを開発。オリンピックをはじめ、多くのイベント撮影をこなし、3D生中継のノウハウを蓄積してきた。
映画やドラマのように、あらかじめ計画して映像を作る場合でも3D撮影には特殊なノウハウが必要だが、ライブになると、さらに違ったノウハウが必要になる。そんなわけで、海外を含む色々なイベントで、実は3D撮影はNHKメディアテクノロジだった、なんて事がよくある。
直近には前述の小型3Dカメラを発表した他、3Dの撮影パラメータをリモートで調整する仕組みを自主開発してリグに組み込み、セットでの販売を始めた。従来はカメラクルーが画角や撮影距離に応じて、最適な3D撮影のセッティングを行なっていたが、それではライブでの撮影に集中できない。
そこで3D対応中継車(こちらもNHKメディアテクノロジが独自に開発)内で、各カメラの3Dパラメータをリモート操作し、被写体の深度などをコントロールできるようにした。あらかじめ深度を合わせてから、中継車のコンソールでスイッチングするため、シーンチェンジでも急激な深度(被写体の奥行きの深さ)の変化で酔わないよう、生中継でも手早く調整を行なえる。
今回は両舞台袖の上に1台づつ、舞台左に1台、会場真ん中奥に1台の3Dカメラが配置されていたが(2D映像は、このうちの片方を使う)、両袖のカメラは頻繁に被写体と画角を変えている。そのたびに中継車から深度を確認し、画面を切り替えているのだ。このところ3D撮影が増えた事もあり、道具の方もオペレーションを行なう側のエンジニアも、手早く画面の切り替えができるようになったそうだ。
舞台袖の上にあるカメラ | 観客席中央には、目立ちにくい小型3Dカメラを配置 | 写真では見づらいかもしれないが、リモートで輻輳点が変化するコントローラが付けられている |
指揮のマゼール氏を撮すカメラと演奏するオーケストラの俯瞰を撮すカメラの深度を合わせておき、ミキサーで両映像を重ねて見せるといった事も簡単に行なえる。実際、そうした演出を今回は行なっていた。リハーサル中にスイッチャーとコントローラ操作を試させてもらったが、なるほど、これは簡単な上に面白い。慣れてくれば映像演出面でも新しいアイディアが出てきそうだ。
音声ミキシングを行なう中継車の様子。楽譜帳を見ながら進行に合わせてミックスを変えていく | 映像のスイッチングを行なうコンソール。3D対応機器を使うのではなく、独自に改造したりソフトウェアを変更することで3D対応にしている |
中継を見ていた人たちは、ソーシャルストリームに「ものすごく映像がキレイ」と多くの人が書き込んでいたが、キレイな理由の大半は、放送前のソースが良いからだ。3D撮影テクニックは別にしても、2Dの段階から映像演出、カメラワーク、カメラの質に至るまで、映像作品として販売できる品質だ。
これは音質に関しても同じ。NHKのクラシックコンサート中継を数多く手がけてきた経験もあり、どんなコンサートホールでも的確に2chと5.1ch、両方のミックスを創り出すノウハウを持っている。NHKメディアテクノロジの担当者は、ライブ中継が可能な5.1chミックス設備とノウハウを持っているところは少ないと胸を張る。
同じホールでもオーケストラの編成、お客さんの入りなどで最適なマイク位置やミックスは変化し(従って今回のように多くの交響曲を演奏する場合、その数だけセッティングを詰める必要がある)、当然ながら曲の進行に合わせてマイクの強弱を付け、現場で聴く音楽のイメージに合うよう、コンソールをリアルタイムに調整していく。
NHKメディアテクノロジは、こうした技術を活かして世界各所の3Dイベント撮影の仕事をこなしているという。たとえば、今回のイベントは3Dでインターネット中継された始めてのクラシックコンサートとのことだが、実は撮影だけ終えてまだ放送されていないコンサートがある。それはベルリン・フィルのコンサート。その撮影を担当したのも、NHKメディアテクノロジだった。
■ 高音質・サラウンド・3D・拠点接続。四つの切り口で同時放送
WIDEプロジェクトチームの中継室 |
一方、慶應義塾大学・WIDEプロジェクトのスタッフたちは、これまでもIP伝送によるイベント中継は、何度も行なってきた経験がある。今やHD映像とサラウンド音声をIP伝送することは珍しくない。商業イベントでは、劇場にある3Dプロジェクタを活用した全国の映画館へのコンサートを配信なども行なわれている。
今回もそのノウハウを用い、15Mbps帯域の中継機材を4組(60Mbps)を使い、東京文化会館と慶應義塾大学・日吉キャンパスの間を結んで、キャンパス内でのコンサート視聴を行なった。ちなみに回線は大手町のインターネットエクスチェンジに1Gbpsの光回線を直結し、WIDEの回線を通じて日吉キャンパスに繋がっていた。
一般ユーザーが自宅で楽しんだのは、このときに同時に行なったWindows Media ServerおよびUstream Producerを使った放送である。東京文化会館からは、各配信サーバーへと動画や音声を送り、実際の配信はUstreamなり慶應大学キャンパス内のWindows Media Serverによって行なわれていた。
今回の特徴は、視聴者が自分の環境に合わせて、最適なストリームを選択し、楽しめたことだろう。電波による放送でも、サイドバイサイドを使うために、2Dと3Dの同時放送を行なっている場合もあるが、視聴環境に合わせてたくさんのチャンネルを使うということは通常はない。
まず3D中継と2D中継を分け、それぞれ選べるようにした。加えてWindows MediaとUstreamの両方での配信もしている。Ustreamでマルチチャンネル音声を通せない事も、複数の方法を組み合わせた理由かもしれない。Windows Media側では5.1ch音声による放送も用意されている。さらにはIPv4のユニキャスト、マルチキャスト、IPv6のマルチキャストといった具合に、配信方法によっても複数の経路を提供した。
音声だけのチャンネルも設け、Windows Mediaによる24bit/96kHzのWMA(320kbps)での配信も行なわれた。ただし、他の音声はNHKメディアテクノロジの中継車でミックスしたものだが、この音声だけは会場のマイク音声をアナログミックス(固定値)したものを直接中継室に引っ張り、A/D変換したもの。
このため、コンサート当初は入力レベルが高すぎ、途中からレベルを下げるように聴いている部屋からチャットで慶應の関係者に伝えてみたりと、手作り感たっぷりの面白さも楽しんだ。こうした双方向性もインターネット生中継の良さだろう。とはいえ、調整室を通っていないこともあり、鮮度感はとても高く、なかなか魅力的な音が鳴っていた。
それ以外の映像、音声はNHKメディアテクノロジが両方とも、スカパー!での放送と同じものを慶應大学側に供給したので、その品質は抜群だ。映像付き音声の収録レベルが低いという指摘もあったが、これは24ビット前提で控えめのレベルで入力したものを、何の後処理せずに配信しているためだ。パソコンで視聴していると、音量レベルを上げられずに困った人もいるかもしれない。
第九を演奏中、Ustream版の視聴者は約6,500人に達した。一人当たりの帯域は2Mbpsだったため、単純計算でUstreamのサーバには13Gbpsのトラフィックが集中した事になる。途中、急激に接続ユーザーが増えたところで音が途切れることはあったが、なんとか耐えて最後まで720pのHD放送を続けた(Windows Mediaの3D版はフルHDのサイドバイサイドで3Mbps)。
■ インターネットで中継するということ
前回のコラムを見て「今のNGNは放送には使えない」、「今から投資しても」といった意見を頂いた。もちろん、時計は巻き戻せないし、今さら地デジはやらない方が良かったなどと言うつもりはない。コラムでも書いたように、当時は今の状況を予想できなかったし、実際のところ現在でも電波の良さを上回る長所をインターネット回線が提供できているわけでもない。
もし、地デジ予算が通信回線に投資されていたなら……という妄想であり、これからどうするかは新たに考えていくべき事だろう。今現在、IPによる映像配信には様々な問題があり、(NTTのNGNも然りだ)……と、これは蛇足である。
本題に戻そう。昨年、慶應義塾大学教授で元マイクロソフト本社副社長の古川享氏らが友人の坂本龍一氏のコンサートを、北米からUstreamで生中継した。この活動が拡大し、1月9日の韓国・ソウルでのコンサートは、さらに協力スタッフを増やし、Ustreamで中継することになっている。パブリックビューを提供する場を募集し、全国の至る所でコンサートを共有するそうだ。
プロジェクトに参加する知人から伝え聞いたところでは、坂本氏は「CDが売れない世の中になってきて、なかなか作った音楽を楽しんでもらう事をビジネスにし辛い環境になってきた。無料でコンサートを配信というのは、正直に言えばやけくそという面もある」と話していた。より多くの人に知ってもらい、場を共有することで新たな音楽の可能性を考えたいという決意のようなものは、冒頭での三枝氏の話にも通じるところがある。
インターネットによる家庭へのコンサート中継に関して言えば、ベルリン・フィルのデジタルコンサートにも見られるように、有料でライブ配信するビジネスを行なっているところもある。
三枝氏が悩みながらも、これからの10年を見守るしかない、と話していたように、今、音楽・映像・写真・文芸、あらゆる作品の流通構造の大きな変化が訪れ、その歪みの大きさに悲鳴のようなノイズが出ている状況だ。いつか、この歪みも収まるのだろうが、まだその出口は見えそうにない。
一方、インターネットでの配信、生中継といった事は、今後も増えていくと考えられる。まずはそうした取り組みを楽しみたい。大いに楽しんだ上で、視聴者自身もそこにどう参加し、対価を作品を生み出す側に与えていくのかを考えていかねばならない。