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世界初デジタルNCヘッドフォンの高音質の秘密
-ソニー「MDR-NC500D」のノイズ低減技術を探る




 ソニーから発売された世界初のデジタルノイズキャンセリングヘッドフォン「MDR-NC500D」を試用してみると、明らかに従来のノイズキャンセリングヘッドフォンが持っていた、アンバランスな周波数特性が改善されているのが判る。

 なぜNC500Dは音質が改善されたのか? そして、なぜ従来はデジタル化されていなかったのか? インタビューでの開発者のコメントを交えながら、NC500Dという製品とその背景にある技術について迫ってみたい。

MDR-NC500D 左からオーディオ事業本部 オーディオ開発・技術部門 技術1部 2課 サウンドプロセッシングエンジニア 板橋徹徳氏、技術1部 2課 チーフサウンドコンピューティングエンジニア 浅田宏平氏、オーディオ事業本部第3ビジネス部門 1部 主任技師 角田直隆氏、第3ビジネス部門 1部1課 水内崇行氏


■ 近年のNCヘッドフォン音質向上の理由

 そもそも、筆者はソニー製、いやボーズ以外すべてのノイズキャンセリングヘッドフォンに、全く興味を持てずにいた。なぜならノイズキャンセリングに伴う音質の低下が著しく、その割にはノイズキャンセリング効果も満足な性能を持っていないと感じていたからだ。

QuietComfort2

 筆者が初めてノイズキャンセリングヘッドフォンを体験したのは、アメリカン航空で乗客に初代のQuietComfort(クワイアットコンフォート)を貸し出していた(当時はまだ市販はされていなかった)時で、音質はさほど高くないものの、ノイズキャンセリング効果は大きく非常に良い印象を持った。

 ところがその後、国内でソニー「MDR-NC20」を購入してみたところ、音質もキャンセリング効果も低く、さらに松下電器を始めいくつかのメーカーを試したものの、どれも頭がクラクラくるほど質が悪い。結局、遮音性の高いカナル型イヤホンを使うようになり、現在はボーズのQuietComfort2とカナル型を利用場面に応じて併用している。

 その状況が変化したのは約2年ほど前。各社製品のノイズキャンセリング性能が急に上がり始めた。メーカーは詳しい話をしないが、どうやらボーズが保有していたフィードバック型ノイズキャンセリングの特許が切れたのが理由らしい。

 ノイズキャンセリングの方式は大きく分けると2種類あり、耳の近くで暗騒音を収集し、それが耳の中でどの様に聞こえるかを演算。その結果を逆位相にしてヘッドフォンから出力するのがフィードフォワード方式。イヤーハウジングの中の音をマイクで収め、その逆位相成分をスピーカーから出力するのがフィードバック方式だ。前者は一般的な耳の形などをモデル化して演算するため、人によって効果の程度が異なる他、ノイズキャンセリング効果も小さいが、後者は密閉型イヤーハウジングのヘッドフォン以外では実現できないという制限もある。

 本誌でテストしてきたソニー製ノイズキャンセリングヘッドフォンも、二世代ほど前から急に性能が上がっている。その時点からフィードバック方式になったようだ。



■ デジタル化によるフィルタ処理が音質向上に寄与

MDR-NC500D

 さて、上記は「市販のノイズキャンセリングヘッドフォンで、なぜボーズ製だけが高性能だったか?」の理由だが、ではQuietComfortシリーズの音質が特段に優れていたか? というと、それはまた別の話だ。

 現在使っているQuietComfort2は、キリキリとしたきついイヤな音こそしないが、音の表情は平坦で、なにより周波数特性や低域の位相がおかしい気がする。ノイズキャンセリング効果の高さは魅力だが、音質という面では改善の余地があると思っていた。とはいえ、同種のヘッドフォンでは最も良い音だとは思うが…。

 一方、NC500Dを試してみて最初に感心したのは音質だった。ノイズキャンセリング効果が高いことは、装着した瞬間に体感できるが、これはあらかじめ予想できたことである。一方、音質はQuietComfort2にあった、やや低域よりのバランスや位相ズレといった感覚がない。


オーディオ事業本部第3ビジネス部門 1部 角田主任技師

 さすがにHiFi向けヘッドフォンに比べれば見劣りはするが、周波数バランスやしっかりとした細書きの音像表現は、これまでのノイズキャンセリングヘッドフォンには無かった快感である。この理由について、今回のヘッドフォンの企画・設計・音質チューニングを行なった角田氏は、「音質向上こそデジタル化最大の恩恵だ」と話す。

 角田氏は過去にスタジオモニター、ハイファイ系で数々の名作と言われるヘッドフォンを作ってきた技術者で、「QUALIAヘッドフォン」や、「MDR-Z700DJ」といった高音質ヘッドフォンも開発した人物。今回、ソニーのノイズキャンセリングヘッドフォンを試してみようと思ったのも、実のところ角田氏が担当したと噂で聞いていたからだ。

 しかしその角田氏も「ノイズキャンセリングヘッドフォンの音質を良くするのは、難しいと思っていました」と振り返る。「最大の理由はハイファイ用に使うドライバユニットと、ノイズキャンセリング性能を高めることができるドライバユニットは特性が大きく異なるからです(角田氏)」

 たとえば、主な用途として想定される飛行機の騒音は、計測してみると実に100dBぐらいの音圧がある。加えて、飛行中にはたまに、唐突に120dBの音圧に相当するぐらいの気圧変化が突然起こるそうだ。特に低域成分が多く、音楽信号ではあり得ない大振幅をキャンセルするため、一般的な音楽用ドライバよりも低域感度の高いドライバユニットが必要になる。

「通常のヘッドフォン用とは全く異なる特性のドライバでなければ、低域のノイズキャンセル性能は出ませんが、ノイズキャンセリング能力の高いドライバをそのまま使うと、低域が10dBぐらいブーストされたヘッドフォンになってしまいます。設計によるチューニングを施しても、これだけ周波数特性が崩れているとつぶしきれません(角田氏)」

 このためノイズキャンセリングは低域補正のイコライザ回路を内蔵させているが、特性をフラットにするために、数種類のアナログのフィルタを組み合わせるとホワイトノイズが多く出てしまう。回路規模も大きくなり、消費電力も増加する。加えて位相特性が悪くなることも避けることはできない。

 ノイズキャンセリングヘッドフォンをデジタル化する第1の長所は、この特性補正フィルタをデジタル化できることにある。デジタル処理であれば、特性に合わせたFIRフィルタをプログラムすることで、位相特性に大きな影響を与えずにフラットな周波数特性を実現できるのではないか?

 ちょうどオーディオ事業部内では2年ほど前から“オーディオユナイテッド”をキーワードに、ハイファイコンポーネントの開発で培ったノウハウと技術を、車載機器やポータブルプレーヤにも活かそうという動きが活発になっていたという。そこで角田氏が発見したのが、オーディオ開発・技術部門 技術1部 2課 チーフサウンドコンピューティングエンジニアの浅田宏平氏らが開発したAVアンプ向けのD.C.A.C.という音場補正機能に使われたデジタルイコライザだった。

 このイコライザは筆者も評価したことがあるが、通常、大きく変化するハズのデジタルスペクトラムアナライザで、31バンドもの細かな周波数特性の補正をかけつつも、鮮度感や情報量が失われず、位相特性も良好(サラウンド音声ではスピーカーごとの位相特性が極端に違うと、音場が崩れやすい)という非常に優秀なものだった。

オーディオ事業本部 オーディオ開発・技術部門 技術1部 2課の浅田チーフサウンドコンピューティングエンジニア

 TA-DA9100ESという製品に実装されたD.C.A.Cは高速DSP向けに作られているものだが、2チャンネルのヘッドフォンならば、ポータブルでも実装できる。本機で採用されている「DNCソフトウェアエンジン」は、ヘッドフォン内蔵のDSPでも処理できるよう、D.C.A.C.のイコライザと同じコンセプトで、なおかつ処理負荷が低くなるよう設計したものだ。

 浅田氏は、「このイコライザは、実際にはFIRではなく独自のアルゴリズムで設計したものです。位相への影響は些少で、音質的な変化が少なくなるように配慮してプログラムしました」と話す。D.C.A.C.のイコライザでも同じ特徴だが、なぜそのようなフィルタになるのだろうか?

「フィルタ処理における各処理の手法は、そう多く種類があるわけではありません。しかし、処理の順番を入れ替えるなど工夫し、なるべく情報が落ちないようにすると共に試聴しながら開発を行なっています。セオリー通り、教科書通りに作るだけでなく、実際に耳で試聴しながら、どの順番、どのパラメータ、アルゴリズムが良い音になるかを確認しながら開発しています。音の質感は理論通りにやっても良くなりません。実際の現象として音質の変化を確かめながら開発することで、高音質を獲得しています(浅田氏)」

 NC500Dはノイズキャンセリングヘッドフォンとしては高い音質を確保しているが、それと共に注目されるのが、ノイズキャンセリング量の多さと低域のキャンセリングに伴う耳への音圧感が少ないことだ。キャンセリング効果の高さは店頭などで実感してみるのが一番いいが、これらの長所もデジタル化が貢献している。

 前述したようにデジタルフィルタによるイコライザを搭載することで、ノイズキャンセリングに有利なドライバユニットを使えるようになったからだ。従来は周波数特性とノイズキャンセリング効果のバランスを取ったドライバユニットの特性を選んでいたが、NC500Dではよりノイズキャンセリングに適したドライバユニットを用いても、周波数特性を整えることができる。

デジタルノイズキャンセリングのシステム構成


■ マイナス要因も極小化。バッテリ駆動時間は物足りない

 しかし、一方で懸念もある。それはデジタル処理による遅延の大きさ。素子の遅延だけで済むアナログ回路とは異なり、デジタル処理ではサンプリングしたデータを演算処理する時間が必要となり、どうしても遅延は大きくなる。遅延が大きければ、ドライバユニットからノイズと逆位相の信号を再生しても、ノイズ波形との位相差が大きく十分なキャンセリング効果を得られない。

 実際、角田氏はNC500Dの企画を仕事仲間に打ち明けると、決まって「デジタルでのノイズキャンセリングヘッドフォンは無理だよ」と、否定的な意見を聞いた。キャンセリング信号の遅延が避けられないことを、技術者なら誰もが知っているからだ。

 しかしデジタル処理のアルゴリズムを見直して徹底的に遅延を詰め、さらにイヤーハウジング内のノイズサンプリング用マイクの位置を可能な限り耳道に近い位置に置くことで、アナログフィルタ並の特性が出せるようになった。角田氏は「開発に関わったメンバー全員が、単に担当するパートの開発だけを行なうのではなく、試作ができると必ず試聴して開発成果がどのように製品に反映されているのかを確認しながら進めることが出来たのが、完成できた最大の要因」と話す。

MDR-NC500Dの主基板。TI製のDSPを搭載している

 もっとも、ノイズキャンセリング処理のデジタル化は良いことだけではない。ザッと思いつくだけでも、消費電力、音量変化による音質の低下などの懸念がある。デジタル化によるトレードオフには、どんな要素があるのだろうか?

 フィルタアルゴリズムの徹底した見直しで、フィードバック時の遅延時間短縮を図ったNC500Dだが、そうは言ってもDSPの高速化による恩恵も無視できない。しかし高速なLSIを使うとバッテリ持続時間は短くなる。何しろ、最初の試作機は「回路全体をワゴンに載せて運ぶ必要があるほど処理部の回路規模が大きかった」そうだから、必要な処理能力の多さがイメージできる。

バッテリ駆動時間は15時間。より長時間の利用には外付けの乾電池ボックスなどが必要。充電用のACアダプタもやや大きい キャリングポーチ収納例

 本機は内蔵バッテリで連続15時間というバッテリ持続時間。これはQuietComfort2をアルカリ乾電池で使った場合の半分以下だ。ソニーでは「少なくとも東京からロンドンにフライトする際、片道分はバッテリが持続できるようにとの目標で作りました(角田氏)」と話しているが、やはりこの点は今後の課題と言えるだろう。

 バッテリパックが取り外し式で、2個のバッテリパックを添付してくれれば使いやすくなるが、NC500Dのバッテリは自分では交換することができない。ハウジング内に内蔵されており、バッテリ交換は修理扱いになる。

 ちなみにバッテリを内蔵式にした理由は軽量化のため。本機は超超ジュラルミンやマグネシウム合金を用いることで、MDR-NC60比で15%の軽量化を実現している。

 今後、処理LSIの消費電力と能力が改善されることで、バッテリ持続時間の問題は解決していくだろうが、同時にバッテリの運用性にも目を向けて欲しい。旅行先で充電を行なうためには、この手の製品としてはやや大きめのACアダプタを持って行かねばならず、専用ケースに収まるとはいえ、スマートとは言いがたい。

ハウジングにはマグネシウム合金を採用し軽量化を図っている ヘッドバンドには超超ジュラルミンを採用している

 なお、もう一つの懸念材料である音量による音質低下に関しては「その心配はない」と角田氏は話す。

 ノイズキャンセリングをデジタルで行なうためには、音楽信号とイヤーハウジング内のマイクからの信号、両方をデジタルサンプリングしなければならない。普通にサンプリングするだけでは、小音量時の分解能が下がってしまい音質が落ちる。マイクで拾う信号も、静かな場所と飛行機の中などでは大幅にレベルが異なるため、静かな場所ではノイズキャンセリングの精度が下がるはずだ。

 この点について質問したが、ソニーの回答は「音質が低下しないように工夫を施していますが、具体的な内容はお話できません」というものだった。単純に考えれば、入力されるアナログ信号のレベルに合わせてA/D変換時の感度を自動調整し、その際の補正値をD/A変換時に逆方向で適用させればいいハズだが、単純な実装でうまく動作するかどうかはわからない。おそらく、このあたりに“高音質なノイズキャンセリングヘッドフォン”を開発する上での、鍵となるノウハウが隠れているのかもしれない。


■ 「音」に感じるデジタル化の恩恵

 さて、最後に実際に使った感想を書いておきたい。試用期間中はアップルのiPod touchと接続し、特に音質評価はApple Lossless CODECで圧縮した音楽データで行なった。場所は都内各所の電車内と、上海へと向かうジェット機の中である。

 まず感じたのが鼓膜への圧迫感の少なさと低域ノイズの低減効果が非常に高いことだ。従来のノイズキャンセリングヘッドフォンは低域ノイズ、100Hz以上の中低域ではなく、もっと低い空気がうねるようなノイズの低減効果が少なく、また超低域のうねりに合わせて鼓膜への圧迫感が感じられた。圧迫感は本機では完全に解消されているわけではないが、しかしアナログ式QuietComfort2に比べるとグンと小さい。

 これは低域のノイズキャンセリング能力と密接に関係しているようだ。つまり、低周波数信号へのレスポンスが良いドライバユニットを使っているため、キャンセルしきれずにイヤーハウジング内に残る不安定な低周波が少なくなるからではないか……という仮説だ。

 一方、中域から高域にかけてのキャンセリング能力も高く、音楽をかけていると周辺の様子が映画のワンシーンのように、非現実的な風景として流れていくように感じる。遮音性のひじょうに高いカナル型イヤホンほど、耳栓ライクなノイズキャンセル効果は感じないが、もっと自然で耳への当たりがよく装着感もいい。

 非常に高価な製品であることを考えれば、高性能であることは“当然”とも言える。とはいえ、ここまでハッキリと音質・キャンセリング効果の両面で差を感じるのだから、その価値はある。筆者もQuietComfort2と一緒に出ていれば、おそらくNC500Dを選んだだろう。いくつかの不満も書いたが、それにも増してノイズキャンセリング効果と音質の良さが魅力的に感じる。

 ではQuietComfort2ユーザーは、本機に買い換える価値があるだろうか? 非常に悩ましいところだが、以下の条件に3つ以上当てはまるなら買い換えてもいいかもしれない。

  • アナログノイズキャンセリングヘッドフォンの音質に不満がある人
  • 一方でハイエンドのHiFi用ヘッドフォンほどの音質は求めない人
  • 軽い装着感と優れたフィット感を求める人
  • ノイズキャンセリング効果の高さを求める人
  • 毎日の充電が苦ではない人
  • 最新の技術を体感してみたい人

□ソニーのホームページ
http://www.sony.co.jp/
□ニュースリリース
http://www.sony.jp/CorporateCruise/Press/200803/08-0313/
□デジタルノイズキャンセリングの技術情報
http://www.sony.co.jp/SonyInfo/technology/technology/theme/noise_01.html
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-世界初のデジタル信号処理を採用。49,350円
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【2005年10月6日】【新プ】完成度を増した最上級NCヘッドフォン
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http://av.watch.impress.co.jp/docs/20051006/npp81.htm

(2008年4月11日)


= 本田雅一 =
 (ほんだ まさかず) 
 PCハードウェアのトレンドから企業向けネットワーク製品、アプリケーションソフトウェア、Web関連サービスなど、テクノロジ関連の取材記事・コラムを執筆するほか、デジタルカメラ関連のコラムやインタビュー、経済誌への市場分析記事などを担当している。
 AV関係では次世代光ディスク関連の動向や映像圧縮技術、製品評論をインターネット、専門誌で展開。日本で発売されているテレビ、プロジェクタ、AVアンプ、レコーダなどの主要製品は、そのほとんどを試聴している。
 仕事がら映像機器やソフトを解析的に見る事が多いが、本人曰く「根っからのオーディオ機器好き」。ディスプレイは映像エンターテイメントは投写型、情報系は直視型と使い分け、SACDやDVD-Audioを愛しつつも、ポピュラー系は携帯型デジタルオーディオで楽しむなど、その場に応じて幅広くAVコンテンツを楽しんでいる。

[Reported by 本田雅一]


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AV Watch編集部

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