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本田雅一のAVTrends

3Dへ注力し始めた英BBC。ウィンブルドン中継の舞台裏

「スポーツの3D中継」に対する日本と海外の温度差




ウィンブルドン選手権が行なわれるAELTC

 テニスが好きな方であれば、一度はAll England Lawn Tennis and Croquet Club(AELTC)の美しい芝コートで行なわれるウィンブルドン選手権の観戦を夢見たことがあるかもしれない。筆者はテニスに限らずスポーツ観戦が好きなのだが、まさか実際にスタンドで観戦できるとは想像もしていなかった。

 2週にわたって開催されるウィンブルドン選手権は、クラブ内に入るグラウンドチケットと、観戦席が割り当てられたシートチケットの二種類がある。あらかじめ予約しなければ見ることができないチケットは競争が激しくほとんど入手不可能。ウィンブルドン選手権を支援する企業などにコネでもなければ、なかなか見ることはできない。

 もっとも、それではごく限られた立場の人たちしか、ウィンブルドン選手権を観戦できないことになる。そこで毎日、朝早くから並べば、希望の試合のチケットを購入するチャンスも残されている(これをイギリスらしいという人もいるけれど、筆者はイギリスに行った経験が少ないので今ひとつ実感がない)。

 さすがにシングルス決勝ともなると、チケット入手の難易度はかなり上がってくるようだが、限られたチケットを熱心なファンと支援者に対し、フェアに割り当てるためのノウハウが、実にシッカリ根付いている。たとえばグラウンドチケットにしても、会場内に入れる人数は限られているので、午後に来ても当日券を購入できない場合がある。しかし、誰かがある時間になって会場を後にするときチケットを係員に返却すると、返却された数だけ新しい人が入れる。なるほど、そういう仕組みか! と感心しながら、“お見事”な運営のウィンブルドン選手権最後の3日間を過ごした。

 といっても、もちろん単なるテニス観戦のために行ったわけではない。AELTCとBBCに、スポーツ放送としてのウィンブルドンの考え方や、昨年から行なっている劇場向け映像フィードなどについて話を伺うためだ。今年はロンドンオリンピックもあるが、これまで世界の放送技術をリードしてきたBBCが、どんな考え方でスポーツ放送を捉えているのだろうか。

 取材を通して感じたのは、日本との考え方の違い。BBCとNHKはよく似た道を歩んできた(というよりもNHKがBBCを規範として前に進んできたのかもしれない)印象があるが、スポーツ放送に関してはまるで違う方向へと向かおうとしているようだ。



■ 少しでも多くの人たちに……が、AELTCの基本的な思想

AELTCのマービン・ホール氏

 「ウィンブルドン選手権というと、保守的なイメージがありますが……」と前置きしながら質問を始めると、AELTCの放送担当部長マービン・ホール氏は「うちは確かに競技運営やユニフォーム規定などでは伝統を守っているが、こと“テレビ放送”に関しては先進的なんだよ」と答えた。

 なんでも世界初のカラーテレビ放送は、ウィンブルドン選手権の中継だったのだそうだ。それ以来、テニスを楽しむための要素があるなら、積極的に取り入れているという。昨年からは、南アフリカのFIFAワールドカップで劇場への3D映像フィードを行なったソニーに協力を求め、劇場向け映像フィードサービスを始めた。

 「残念ながら観戦チケットの数は限られていて、今以上に増やすことはできない。我々が放送技術に対して積極的な理由は、なによりも現地で観戦できない人たちに、少しでも試合の雰囲気を味わって欲しいからだ」とホール氏は話す。

 劇場への映像フィードと3D撮影の両方をセットでAELTCが始めたのは、3D上映設備のある映画館に向けて高付加価値の映像をフィードするためだ。少しでも会場の雰囲気をというAELTCの姿勢に加え、後述するようにテレビ放送を担当するBBC側も、スポーツ中継の3D化に積極的な姿勢があったという。

 昨年のウィンブルドン選手権では、シングルス決勝だけを3D撮影していたが、今年は最後の5日間をすべて3D撮影として有力な試合は映画館向けに販売した。今年はスコットランド出身のアンディ・マリー選手が男子シングルス決勝に進出。映画を上映しても、とても映画館の集客は見込めないため、昨年よりもたくさんの映画館がウィンブルドンの映像フィードを購入するだろうとホール氏は話した(ちなみに昨年は全欧州で800館、英国だけだと400館がウィンブルドン選手権を上映。今年は大幅に上回る予定とか)。

 「実は南アフリカのFIFAワールドカップが終了した直後、ブリティッシュテレコムのセミナーで3D放送のデモを見たんだよ。一目見てやりたいことが判った。そしてテニスに向いた技術だとも直感した。そこでウィンブルドン選手権を3D撮影化し、映画館と家庭の両方でセンターコートの雰囲気を感じてもらえるよう、FIFAワールドカップと同じことができないかと思ったんだよ(ホール氏)」

アポロ・ピカデリーに置かれていたリーフレット

 ちなみに男子シングルスの決勝はロンドン市内にあるアポロ・ピカデリーという劇場で観戦したが、その待合室には「映画、音楽、スポーツ、オペラ、バレー」と書かれたリーフレットがスタンドに挟まれていた。劇場主曰く「映画館は映画だけのものではなく、音楽コンサートやスポーツイベント、オペラやバレーを楽しむ場になってきた。3D対応が進んでから、こうしたオルタナティブ・コンテンツを上映する機会が急増している」とのことだ。



■ 「経験値を高めなければノウハウは得られない」とBBC

BBCのポール・デイビス氏

 一方、BBCのスポーツ部門を統括するポール・デイビス氏には、違った角度の質問をしてみた。BBCとNHKはHD放送やサラウンド放送などで、共に世界の最先端に取り組んできた。ロンドンオリンピックのSuper HV放送(スーパーハイビジョン/8K×4K解像度での放送)は、NHKとBBCが共同で行なうものだ。ただし、再生環境がないためパブリックビューイングでの視聴に留まる。

 ほんの3年ほど前まで、BBCはHD化された放送が次に向かうのは3Dではなく、さらなる高精細化だと断言していた。むしろ3Dを忌み嫌っているように思えたほどだ(これはNHKにも言える)。だからこそのSuper HVへの取り組みだったはずなのに、2年ほど前から考えを変えてきたように思う。8Kの前に4Kもあるし、3Dもある。適材適所の放送をし始めたのだろうか? という印象だ。

 デイビス氏は「3DとSuper HV。どちらにスポーツ放送として魅力があるかと言うと、片方を選ぶことは難しい。将来を見渡すならば、さらなる高解像度化にはより大きな未来があるかもしれません。しかし、3D映像は今すぐに顧客に届けられる価値という点が異なります。店頭で販売されているテレビ受像機の多くが3D表示機能を持っていますし、ここ数年でかなり普及しました。その割合はどんどん増加しています。今後、BBCではいろいろな番組で、3Dをどのように使うのが効果的かテストをしていきます。あらゆる番組を3D撮影するわけではありませんが、色々な現場で実践し、ノウハウを溜めなければ、良い3D放送はできません」と話す。

今年はハンディサイズの3Dカメラが登場したので、ステディカムに載せて選手に近づくといった撮影も3Dで行なっている

 「こう撮影すれば、より会場の雰囲気を伝えられる、といったアイディアは、突然思いつくものではありません、経験を積んで学習し、初めて出てくるものです。より良い番組とするための挑戦は、普段の経験から生きるものです。Super HVも継続して実験していきますが、3D放送は別の切り口ですでに普及が始まっているテレビの上での新しい体験の提供への挑戦となります(デイビス氏)」

 ウィンブルドン選手権では昨年から3D放送を開始したが、評判を聞きつけ、それまでウィンブルドン選手権を放映していなかった国の放送局への配信も始まるなど、実際のビジネスとしてプラスになっているともデイビス氏は指摘している。

 ちなみに、ウィンブルドン選手権の3D撮影は、BBCに英国の映像制作会社CAN Cominicateと、米メジャースポーツやFIFAワールドカップでスポーツライブの3D中継ノウハウを持つソニーが協力する形で実施されている。CAN Comunicateはハリウッドでの3D映画勃興を受けて、映画制作やスポーツ中継などで3Dノウハウを溜めてきた。


CAN Cominicateのダンカン・ハンフリーズ氏

 その中継チームを率いるクリエイティブ・ディレクターのダンカン・ハンフリーズ氏は「最初の3D映画と今の3D映画ではまったく面白さ、3Dの活用方法が異なるのと同じだ。急速にノウハウが溜まり、映画としての表現に3Dが活用されるようになってきた。生放送となるスポーツ中継には、まったく別のノウハウとアイディアが必要。ウィンブルドン選手権は、昨年一度やっているから、今年はさらに3D撮影の良さを引き出せるよう視差を大きくした」という。

 さらにサーブレシーブの打点分析やライン判定などでお馴染みの“ホークアイ”映像も3D化し、間に挟み込んでいるという。来年はよりアグレッシブかつ快適な3D放送ができるとハンフリーズ氏は言う。「機材も進化し、制御ソフトも進化し、リアルタイムの3D映像補正装置も出てきている。これらを使いこなせば、ライブ放送の3D化は難しくない。ただしノウハウは必要だ。それらを僕らは溜めている」


中継車の中の様子
カメラ1台にひとりが張り付いて、リアルタイムに調整
3D中継に伴うさまざまな作業の様子
3D映像の調整確認用画面、左右映像のズレなどもここで確認している(左上の部分)。その下は3Dの出っ張り警告など Cellを用いたリアルタイム映像補正の装置MPE-200が大量に導入されていた。3D撮影時の歪みやバイオレーションを補正する。この使いこなしもノウハウのひとつだとダンカン氏


■ 3Dスポーツ中継、なぜ日本向けには中継されない?

 正直に言うと、実際に取材に来るまで、これほど3D中継に積極的だとは想像していなかった。もちろん、話を伺った人たちも、すべての放送が3Dになるべきとは考えていない。あくまで、一部のコンテンツには3Dが適しているということだ。バレエやオペラなど、チケットが高価な舞台モノの3D放送や劇場向けフィードも人気が上がっているという。

 ちなみにウィンブルドン選手権はNHKとWOWOWが放送しているが、3Dでの生中継は両者とも行なっていない。理由は現状、3Dで放送する際に利用されるサイド・バイ・サイドのフォーマットが、3D非対応テレビとの互換性がなく、従来のテレビでは正しい映像とならない。このため、3D専門チャンネルがなければ放送しにくい、という事情はあると思う。

 それでも、3チャンネルを運営するWOWOWは、総集編を3Dで放映するそうなのだが、ウェブページでは告知されていなかった(少なくとも7月の放映予定はないようだ)。ウィンブルドン選手権が放映されている地域で、3D放送がない主要国は日本だけだという。

 実はこれはロンドン・オリンピックでも同じ。オリンピックの映像はOBS(Olympic Broadcasting Service)が管理し、それを各国のテレビ局に配信している。OBSは今回のオリンピックから3D公式映像を提供するため、3Dのライブ中継ノウハウを集めて運営することになっている。当然、総集編での利用ではなく、生でオリンピックに来れない人たちに中継するためだ(もちろん、劇場向けの映像フィードもある)。

 ところが、日本を除くほとんどの地域(アフリカ、中南米、中東、アジア、東欧など新興国を含む)では3Dでのオリンピック中継が行なわれるものの、日本では予定がない。調べてみたところ、オリンピック終了後にBS民放チャンネルでの総集編が電機メーカーのスポンサードで放映されるのみのようだ。

 ご存知の方も多いと思うが、ここ何回かのオリンピックはNHKが系列のNHKメディアテクノロジを通して3D撮影しており、NHKのショールームでも毎日のダイジェストをシアターで見せるなど、経験値の高さでは最も進んでいたはずなのだが、今回はNHKが持つ3台分の独自カメラ中、1台を3DではなくSuper HVに割り当てるため3D収録は行なわない。またOBSからの3D映像フィードも使う予定はない。

 理由を各方面に訊ねてみたが、判ったのはNHKの研究開発機関がSuper HVへと傾倒していること、NHK本体の制作部門などに3Dを扱うことへの抵抗があること、それにBSで持っていた3チャンネル分の放映権のうち1チャンネル分を返上したため、3D専門チャンネルを割り当てる余裕がないことなどがあるという。

 加えて総務省が3D映像配信に対して、3D映像を見せる事による健康被害について懸念を示しているとの話も聞かれた。ただし、今回BBCやCAN Comunicate、AELTCなどへの取材でわかったのだが、かなり多くの視聴者を抱える彼らのところに、3Dによる健康被害を訴える声はまったくないという。



■ 少しばかり気になる動きも

 3D表示機能を持つテレビの普及という意味では、日本は各国中でもかなり高い。少なくとも3D専門チャンネルが3チャンネルもあるフランスよりは普及台数は多いようだ(もっとも所有者が3D表示機能を意識していないケースも多いとは思う)。そんな中で3D放送がほとんど行なわれず、良いコンテンツもない状態で、欧州(少なくとも英国)との意識差は大きいと感じざるを得ない。ウィンブルドン選手権、ロンドン・オリンピックともに「日本以外の主要な地域には」という説明を聞くということは、他の地域では少なくともライブ放送が届けられているのだから。

 そんな話を交えながら、取材先と話をしていると、気になる動きも見えてきた。3D放送で、今もっとも注目されているのは中国だという。これは中国中央電視台(CCTV)が3D放送に熱心だからで、オリジナルのコンテンツ制作もかなりアグレッシブに行なっているという。技術交流も盛んで、3D撮影機材の制御技術、撮影ノウハウ、中継機材、補正技術などを溜め込んでいる。3D撮影では、3Dパラメータをゲームコントローラのような装置でカメラマンとは別のオペレータがリアルタイムに調整しながら撮影を行なう。これらの使い方や、どう制御したいかといったノウハウも経験値で積み上げられるものだ。

 また、韓国は3Dコンテンツ制作や放送技術開発などを国策として支援している。現在はコンシューマ向けに留まっている映像機材の世界で、新たに食い込んでいきたいという意図があるようだ。実際、韓国では2Dと互換性のある3D放送技術として、サブストリームに別チャンネルの差分情報を加える規格を策定(ブルーレイの3D版と同様の互換メカニズム)して放送を始めている。意図するところは韓国発の技術を、国際放送規格に載せることだという。

 日本でのコンシューマ向け3Dテレビが、市場の立ち上げに失敗したことことは明らかだが、こうした海外との温度差を感じるにつけ、テレビと放送にまつわるビジネスがガラパゴス化(という言い方は不本意だが)しないかと心配になってきた。

 超大作の3D映画に良作が続いているため、劇場の3D化は日本でも進んでいるのだが、劇場向けのオルタナティブコンテンツ(映画以外のコンテンツ)配信が一部では始まっているものの、3Dライブ撮影の事例は少ない。たとえばワーナーマイカル・シネマズは、“シアタス”と称してオルタナティブコンテンツのプロモーションを開始しているが、執筆時点で3Dでの劇場フィードは見あたらない。

 3Dに対して否定的だったBBCの後を追えというわけではないが、このまま海外と国内の温度差がズレたまま進んでしまうと、あれよあれよという間に日本だけが取り残されていくような気がしてならない。


(2012年 7月 20日)



本田雅一
 (ほんだ まさかず) 
 PCハードウェアのトレンドから企業向けネットワーク製品、アプリケーションソフトウェア、Web関連サービスなど、テクノロジ関連の取材記事・コラムを執筆するほか、デジタルカメラ関連のコラムやインタビュー、経済誌への市場分析記事などを担当している。
 AV関係では次世代光ディスク関連の動向や映像圧縮技術、製品評論をインターネット、専門誌で展開。日本で発売されているテレビ、プロジェクタ、AVアンプ、レコーダなどの主要製品は、そのほとんどを試聴している。
 仕事がら映像機器やソフトを解析的に見る事が多いが、本人曰く「根っからのオーディオ機器好き」。ディスプレイは映像エンターテイメントは投写型、情報系は直視型と使い分け、SACDやDVD-Audioを愛しつつも、ポピュラー系は携帯型デジタルオーディオで楽しむなど、その場に応じて幅広くAVコンテンツを楽しんでいる。

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[Reported by 本田雅一]