ソニー・大賀典雄氏が逝去
~SONYブランドの力を高め、コンテンツ事業の育成に務める~
23日に逝去した大賀典雄氏(2003年撮影) |
ソニーの相談役である大賀典雄氏が、2011年4月23日午前9時14分、多臓器不全のため、逝去した。享年81歳。
葬儀は近親者のみの密葬とし、後日、社葬を行なう予定だという。
1930年1月29日、静岡県沼津市千本松原に生まれた大賀氏は、1942年に旧制沼津中学校に入学。1946年には学制変更により沼津第一高等学校(現・沼津東高校)へ通う。この年の5月にソニー(当時は東京通信工業)が設立されている。
1949年には東京芸術大学音楽学部声楽科に入学。1953年に東京芸術大学音楽学部卒業後、1954年に東京芸術大学専攻科修了。同年にはミュンヘン国立高等音楽大学に入学し、1955年にはベルリン国立芸術大学音楽学部に転学。1957年に同大学を卒業している。
東京芸術大学在学中の1953年、NHK交響楽団ソリストとして出演するなど、学歴の上では音楽の道を一途に歩んでいたようにみえる大賀氏だが、その一方で同年には、東京通信工業(現ソニー)とも嘱託契約を結んでいる。
電気、機械に関する専門的知識を持っていたこと、さらに将来の傑出した経営者としての才覚があることに気がついた、ソニー創業者である井深大氏と盛田昭夫氏は、当時、学生であった大賀氏と嘱託契約を結び、さらにはベルリン国立芸術大学を卒業した後の1959年、2人の創業者の強い誘いによって、ソニーに正式入社した。
ソニー入社時の年齢は、なんと29歳であった。
大賀氏は当時を振り返り、「盛田さん、井深さんに、人生を強引に曲げられた」と笑いながら表現していたことを思い出す。
続けて、「1959年にソニーに入社した途端に任されたのが第2製造部長。その後、宣伝部長と、デザイン室長を兼務させられた。盛田さんが3つの部長を私に任せたのは、仕事が忙しくて、音楽分野に行く暇を与えないことを狙ったものだと後で気がついた。盛田さんの人事のやり方はまさに天才的だ」と、当時の逸話を、冗談を交えて披露していた。事実、大賀氏は、1961年に宣伝部長と、デザイン室長に兼務で就任している。
大賀氏が「最も印象に残った製品」とするテープレコーダーのTC-777」 |
この時、大賀氏は、テープレコーダーのTC-777の開発に携わった。将来に渡って、「最も印象に残った製品」としているのがこのTC-777であり、「私がソニーに入社して最初に手がけたということもあるが、ダイキャストボディの美しさは、いまでも美しいと思えるものだと自画自賛している」と語っていた。
音楽を志していた大賀氏にとって、テープレコーダーへの思い入れは強かった。
大賀氏が学生時代が市販されていたテープレコーダーは高価なものであったが、人がしゃべる言葉を録音するにはいいが、音楽を録音するにはあまりにも性能が劣っていた。
「バレリーナが鏡をみてレッスンをするように、音楽家は、鏡の代わりにテープレコーダーを使って練習をしなくては駄目」というのが音大生時代の大賀氏の持論。そして振り返ってみれば、井深氏が大賀氏に惚れ込んだのも、テープレコーダーの話題がきっかけだった。
音大生でありながら、大賀氏は海外の文献からテープレコーダーの事情を詳しく知っていた。
ソニーを訪れて井深氏などと会合を持った際には、音を録音する際に必要となる性能の条件を提示したり、音の振れを少なくするためにインピーダンスローラーの採用を提案するなど、技術分野にも踏み込んだものだったという。
井深氏は、「最初は、音楽学校の学生さんがきて、面倒な注文をしにやってくるぐらいに思っていた。専門用語をまくしたてていい加減にあしらうつもりだった」というが、途中から様子が違うことに気がつき、「こりゃあ、テープレコーダーの知識は玄人以上の本物だ」として、この話に真剣に向かい合うことになる。そして、この時に「世話好きで、親分肌」の大賀氏の性格がすっかり気に入ってしまったという。
1963年のソニー商事取締役就任を経て、1964年、34歳のときに、ソニーの取締役に就任する。2003年1月に取締役議長および取締役を退任するまで、38年間に渡り、ソニーの取締役を務めたことになる。この記録は破られることがないだろうというのが、ソニー社内の声だ。
1968年には、米CBSとの合弁で、CBS・ソニーレコードを設立し、専務取締役に就任。1970年には、40歳で、CBS・ソニーレコードの社長に就任。1972年には、ソニー常務取締役就任、1974年にソニー専務取締役就任。そして、1976年のソニー代表取締役副社長およびソニー商事社長就任を経て、1982年には、52歳でソニー代表取締役社長に就任した。
2003年1月の取締役議長および取締役退任の会見で、当時社長の出井伸之氏(左)と握手する大賀典雄氏 |
1989年には、ソニー社長兼CEOに就任し、同年には米コロンビア・ピクチャーズを買収。1995年には、出井伸之氏に社長の椅子を譲るとともに、自らは会長に就任。2000年には、ソニー取締役会議長に就任した。
だが、2001年には中国・北京を訪問中に倒れ、3カ月間に渡り意識不明の状態となるという事態に陥った。その後、奇跡的な回復を見せ、2003年からは名誉会長に就任。オーケストラを率いて、自ら指揮を振るまでになっていた。2006年からは相談役に退いた。
経済団体連合会副会長、東京商工会議所副会頭、日本電子機械工業会会長などを歴任。東京フィルハーモニー交響楽団会長兼理事長にも就任した。
藍綬褒章、勲一等瑞宝章のほか、フランスのレジオン・ド・ヌール、ドイツやイタリアの功労勲章、オーストリアの有功勲章、米ジョージ・ワシントン大学から国際CEO賞などを受章している。
ソニーの退職金となった約16億円はすべて、長野県軽井沢町に寄付し、2005年には、同市にコンサートホールである軽井沢大賀ホールが建設されている。2011年5月4日には同ホールで、大賀氏の指揮による東京フィルハーモニー交響楽団の演奏が行なわれる予定だったが、4月18日に指揮者が変更されていた。
モノづくりへのこだわりは、大賀氏ならではのものだった。そして、ソニー製品の品質、機能、デザイン、宣伝において、大賀氏が果たした役割は極めて大きなものだった。
「お客さまが欲しくなる商品づくり」というプロダクト・フィロソフィーを社内に広く浸透させたこと、さらに、大賀氏が常々語っていた「お客さまの琴線に触れる商品」という考え方の継承は、現在もソニーの商品づくりの基本理念として定着している。
モノづくりへのこだわりを示すエピソードとして、社内ではこんな逸話が残っている。
「あまりにも開発者の考え方が前面に押し出され、お客さまが欲しい思える商品づくりになっていなかった試作品を、会議の途中に、いきなり掴んで、壁に向かって投げつけた」、「机の上に並んでいた試作品を、端から順番に見ていきながら、気に入らない製品は、持っていた指揮棒で倒していく。大賀さんが会議室を出た後に、立っていた製品が、大賀さんからOKをもらった証だった」などなど。
大賀氏の後を継いだ経営トップからも、こんな逸話が聞かれるぐらいだから、少なくともこれに類した事実があったことは間違いなさそうだ。
ソニーロゴの変遷 |
そして、SONYのブランドロゴの策定にも、大賀氏が直接関わり、世界で最も知名度が高い日本のブランドへと育て上げた。
「私が取り組んできたのは、世界のハードメーカーのなかで、最もすばらしいデザインを作るチームを作り上げることと、ソニーの広告を見て、多くの人がすばらしいと思ってくれることだった」と大賀氏は振り返る。
「SONYの4文字はソニーの最大の財産」と、大賀氏がいうこだわりは、ソニーに憧れる数多くのユーザーを、全世界で生むことにもつながっている。
それだけに、手厳しい発言も過去にはあった。
経営の第一線から退き、名誉会長に就任していた2004年、米国家電協会(CEA)に殿堂入りした大賀氏は、授賞式後に、「昔はソニーブランドは1位だった。だが、いまではブランド調査で20位に後退している。がっかりだ」と発言したのだ。
ソニーは、その後、韓国サムスンにも、ブランドイメージ調査で抜かれることになり、さらにブランド価値を失墜させていった。自らブランドの価値向上に取り組んできた大賀氏にとっては、授賞の場で公言するほど、この出来事は見過ごせないものだったのだろう。
1982年に発表された世界初の音楽CD | '79年にソニーとPhilisがCDの共同開発を決定。左からソニー盛田昭夫会長、指揮者のヘルベルト・フォン・カラヤン氏、Philipsオーディオ部門のJoop van Tilburg氏(いずれも当時) |
LPレコードに代わるメディアとして開発されたCDにおいて、大賀氏がこだわったのは75分という収録時間。これは、ベートーヴェンの「第九」が収まる時間であり、まさに音楽家としての見識が仕様策定に生かされている。
この時に、親交があった世界的指揮者であるヘルベルト・フォン・カラヤン氏が、仕様提案の後ろ盾になったという逸話もある。カラヤン氏が1989年に急死した際に、最後に面談したのが大賀氏であり、お互いは飛行機を自ら操縦する趣味があるという点でも共通の話題があったというように、公私ともに付き合いがあった。
そして、コンテンツに対しても、強い意志を持って取り組んできたのも大賀氏の経営の特徴だった。
ハードとソフトを車の両輪に例え、1968年のCBS・ソニーレコード設立や、1988年のCBSレコード買収。1989年のコロンビア・ピクチャーズの買収のほか、プレイステーションによって、家庭用ゲーム事業に参入するとともにゲームソフトウェアの開発にも着手。総合エンタテインメント事業に向けた基盤づくりに奔走した。
いま、ネットワーク時代を迎えるなかで、ソニーは、他の電機メーカーにないハードとソフトの両輪を持つことが強みになろうとしている。それはソニーの経営トップの発言や、最近の事業方針説明のなかでも明らかだ。
20年以上前に行なわれた大賀氏による決断が、いよいよここにきて本格的に花を開こうとしているのだ。
ソニーの取締役会議長を退任した2003年1月こそが、大賀氏が、ソニーの経営の第一線から退いたタイミングになる。実は、この時の会見で、大賀氏はこんな回答をしている。
「井深さん、盛田さんの2人は、違いこそあれ、本当の天才である。私は、この2人と一緒に、ソニーのマネジメントをやらせていただいたことは大変な誇りであり、私の人生には大きなプラスであった。もし、生まれ変わっても、ソニーに盛田さん、井深さんがいれば、私は、ぜひソニーに入りたい」
最後の最後までソニーを愛し、ソニーの成長に尽力する人物であったことは、誰もが知っていることではある。そして、大賀氏自身も、最後まで、それを公言してはばからなかったのである。
(2011年 4月 25日)
[Reported by 大河原克行]