藤本健のDigital Audio Laboratory

第686回 「アップサンプリング」で音は良くなる? 変わらない? 独自手法を提案する技術者に聞く

「アップサンプリング」で音は良くなる? 変わらない? 独自手法を提案する技術者に聞く

 よく論争ネタになるアップサンプリングの是非。「元が16bit/44.1kHzなんだから、それ以上音がよくなるわけがない」、「実際にいい音で聴こえる」など、話が噛み合っていないケースが多いが、その論争ネタを正面から捉えた上で、従来とはちょっと異なるオーディオ再生システムを提案する人がいる。「トランジスタ技術」や「トラ技エレキ工房」などCQ出版社の雑誌などで記事や回路を発表しているフリーのエンジニアである中田宏氏だ。

エンジニアの中田宏氏

 先日、早稲田大学で行なわれた第13回「1ビット研究会」において「1ビット技術を用いたCDの音質改善」という発表をしていて、その活動を知ったのだが、なかなか興味深い内容であったので、後日お会いし、どんな研究をされているのか聞いてみた。筆者が理解できた範囲でお伝えしたいと思う。

中田氏によるアップサンプリング手法の提案と、従来との違い

 「アップサンプリング」とは何かという言葉の意味、その変換方法自体が、厳密には定義されていないように思うが、広く捉えれば44.1kHzの信号を176.4kHzだったり、192kHzといったサンプリングレートに変換したり、16bitの信号を24bitや32bitに変換するものであり、その方法はいろいろあるようだ。

 その効果の有無について、以前このDigital Audio Laboratoryでの取材でひとつ納得できたのは、ウォークマンNW-ZX1についてソニーの開発エンジニアにうかがった際の回答だった。それは「16bit/44.1kHzで使うアンプやDACと、24bit/96kHzや192kHzといったハイレゾを再生する場合のアンプ/DACでは違う回路を利用する形になっており、当然ハイレゾのようのほうが、より高品質で繊細なサウンドを再現できるようになっている」というもので、明らかに音がよくなるという理由は納得できる。

中田氏に話を聞いた

 でも多くのオーディオ機器ではCD用とハイレゾ用の回路を二重に持っていたりはせず、同じDAC、同じアンプを通して音が出るから、劇的な音の変化などないように思えるが、「効果があるという人と、効果がないという人がいるのは、DACのせいかもしれない」と話すのが中田氏だ。それはどういう意味なのか。

 まず、これを考えていくために、一般的なデジタルオーディオの再生の流れを考えると図のようになる。つまり、CDでもハイレゾオーディオのデジタル信号であって、D/Aコンバータ(DAC)を通じてアナログ化され、それをプリアンプ、メインアンプを通じて増幅されてスピーカーから音となって出てくるというものだ。このうちの「DACがブラックボックスで、中身の詳細がよく分からない」と中田氏は指摘する。

デジタルオーディオ再生の流れ

 多くのDACの内部構造は、図のように3つの要素で構成されている。まず8倍のオーバーサンプリングが行なわれた上でΔΣ変調され、DSDに相当する1bit信号化された後に、アナログ化されて音が出て行くわけだ。ここで特に問題がありそうだと中田氏がいうのが、初段にある8倍のオーバーサンプリングの部分。一言で8倍オーバーサンプリングといっても、そこでの処理、計算方法、精度が公開されているわけではなく「チップによって違いがありそうだ」という点。演算パワーの大きいチップであれば、教科書どおりの理想的な変換がされるけれど、チップ生産の予算を下げる、小型化するといったメーカーの事情によっては、低い精度での計算しかされていない可能性が高いのではないか、と疑問を投げかけている。

DAC内部構造のブロック図

 通常、こうしたDACの場合、最高でも192kHzまでのサンプリングレートの信号しか入力できないが、いずれのサンプリングレートであっても、このオーバーサンプリング回路によって8倍にアップサンプリングされる。このため、あらかじめ精度の高い計算で96kHzや192kHzにコンバートされた信号を突っ込んでおけば、このオーバーサンプリングの精度が低くても、その影響を受けにくく、結果として「いい音」になる可能性がある、と中田氏はいう。つまり演算精度の低いDACを使っている場合、事前に高い精度のアップサンプリングをしていれば音質が向上する可能性があるが、そもそも高い精度のものならば、それほど変わらない結果になるだろうと推測しているわけだ。

“理想的な8倍オーバーサンプリング”のシステムを作成。音を聴いてみた

 ここで、CDなどの再生について別の見方をしてみよう。先ほどはDACを使ってアナログアンプを使って再生する方法だったが、それとは別にスピーカーの直前までデジタルで行なっていく、フルデジタルの方式だ。PWM変調をすることでDSDと同様の1bitのデジタル信号になるので、それをそのまま電力的に増幅して音を出してしまうという仕組みである。「DSDなんて抵抗1本あれば音が出せる」なんて話を時々聞くことがあるが、実際そんなことができるのだろうか? という興味から、約2年前に中田氏もチャレンジしたことがあるという。

フルデジタルアンプの方式

 「結論からいうと、当然抵抗1本で復号するなんてことは無理でしたが、すごく単純な仕組みで音を出すことはできました」と中田氏。1bitの信号をそのままアンプに通し、ローパスフィルタを通すだけでヘッドフォンから音が出たというのだ。「DSDの信号をこの回路に入れると、大きい音のときはしっかりと音が鳴ってくれたのですが、小さいとノイズに埋もれてしまって、まともに鳴らすことはできませんでした」と中田氏。さらに、その延長線上で改良を加えたバージョン2を作ったものの、やはりノイズ問題が解決できなかったために、DSDを直接そのまま再生することは諦め、PWM変調を行なう方式に切り替えた上で、D級アンプによる電力増幅、LC回路のローパスフィルタを介すことで、それなりの音が出るようになったという。

中田氏の用意したシステム

 さて、ここで話を元に戻そう。もしDACチップのオーバーサンプリングの回路が怪しいのであれば、PCのCPUを存分に使い、正確に理想的な8倍オーバーサンプリングをするというのが、ブラックボックスから抜け出すという意味で意義あることに思える。中田氏がとったのは、このオーバーサンプリングにおいて、IEEE 745の32bit単精度浮動小数点演算を行なった8191タップのFIRを用いるという方式。44.1kHzのCDの信号を入れれば352.8kHzとなり、その生成された信号をUSBで外部に送ってやる。これはPWMの信号で送られるので、ここから後は先ほどのDSD再生システムが役立ってくる。それがこの図に示す流れだ。要するにフル・デジタルの再生システムの、PWM変調までをソフトウェアで行なった構成である、と考えればいいようだ。

中田氏が作成した方式

 ここで中田氏が出してきたのが、BurrBrown(TI)など各DACとの違い。そもそもDACの内部処理がどうなっているのかは正確にはわからないが、公開されている情報などから推測したものとのこと。中田氏の作ったソフトウェアが一般に公開されているというわけではないが、この比較を見る限りでは大きなメリットがあるように見える。この計算をチップに行なわせることができれば、より簡単になるのではと思ったが、「ソフトウェアが必須というわけではなく、もちろんハードウェアで実現できればそれでいいと思います。ただ、これだけの計算能力を持ったDSPはなかなかないのが実情です。1個数万円のFPGAを使えばできるかもしれませんが、それならIntelのCPUでソフトウェア的に処理したほうが、安上がりなのでは? というのがこれまでの考えです」と中田氏。

他のDACとの違い(推測も含まれる)

 ちなみに、この増幅部分に用いられているのは、ごく単純なロジックのチップ。具体的には74AC245という双方向トランシーバー。74AC245とは、本来であればデジタル回路を接続する上で、複数のチップへ分岐させて送ると電力的に足りなくなり不安定になるので、それを増強するために使うもの。これを利用することで、簡単に1W程度の出力を可能にするのだという。ヘッドフォンなどを駆動するのであれば1W + 1Wあれば、なんとかなるがスピーカーを駆動するとなると、これでは足りない。そんな中、TIのチップに置き換えることで10W + 10Wを実現できることが分かった、という。実際、1ビット研究会でデモをしたのは、その10W + 10Wのシステムだが、その後に見せてもらったのは1W + 1Wのものだ。

10W + 10Wのシステム

 ヘッドフォンで聴かせてもらったが、非常にHi-Fiなサウンドだと感じた。他製品と比較しながらというわけではなかったが、このまま商品化すれば、多くの人が飛びつくのではないか、というものだと感じた。なお、ここでデモしていたのはLinuxを使ったシステムとなっており、そのコントロールはすべてWi-Fi経由でAndroidから操作していた。LINNのDSシリーズのような操作性を目指しているという。

1W + 1Wのシステム
ヘッドフォンで再生
Androidスマホでの操作画面

 中田氏のWebサイトにいくと、さまざまな情報、ノウハウが公開されているが、ソフトウェアや回路図自体が公開されているというわけではない。では、どうすれば一般の人が、この中田氏の方式を試すことができるのだろうか?

 「早稲田大学で1bitの研究をしているような学生さんであれば、ここの情報を元にクローンを作ることは可能だと思います。ただ、そこまでの暇もないし、金もないけれど、やっぱり欲しいということであれば、ぜひメーカーさんに中田方式で作ろう、と訴えていただければ、と(笑)」。中田氏としては、これまで多くの時間と金をこの研究に費やしてきたので、この方式でなんとか製品にしたいという。一番成立しやすいのは、どこかのメーカーと中田氏がアライアンスを組んで製品化していくというものだが、「各メーカーにはそれぞれのポリシーや事情もあるので、なかなか簡単にはいかなそうです」と話す。それならば、最近流行りのクラウドファンディングを使うのも面白いかもしれない、とも考えているようだ。「まだ真剣にクラウドファンディングを検討しているわけではないので、どうすればいいのかが分かっていませんが、ぜひ何らかの形で実現させたいですね」と中田氏。

 さらに出力の精度を向上させるなど、研究を続けているようだが、こんな機材が入手できるようになる日を心待ちにしたい。

藤本健

 リクルートに15年勤務した後、2004年に有限会社フラクタル・デザインを設立。リクルート在籍時代からMIDI、オーディオ、レコーディング関連の記事を中心に執筆している。以前にはシーケンスソフトの開発やMIDIインターフェイス、パソコン用音源の開発に携わったこともあるため、現在でも、システム周りの知識は深い。  著書に「コンプリートDTMガイドブック」(リットーミュージック)、「できる初音ミク&鏡音リン・レン 」(インプレスジャパン)、「MASTER OF SONAR」(BNN新社)などがある。またブログ型ニュースサイトDTMステーションを運営するほか、All AboutではDTM・デジタルレコーディング担当ガイドも務めている。Twitterは@kenfujimoto