藤本健のDigital Audio Laboratory
第586回:ビクタースタジオが“産直”ハイレゾ配信を始めた理由
第586回:ビクタースタジオが“産直”ハイレゾ配信を始めた理由
「K2HD」はハイレゾ普及のカギになるか?
(2014/3/24 11:36)
既報の通り、ビクターエンタテインメントは、キングレコードなど合計4社が参加するハイレゾ音楽配信サイト「VICTOR STUDIO HD-Music.」を設立し2月6日より配信サービスを開始した。ここではカジュアルなユーザーをターゲットにジャズやクラシックだけでなく、70年代、80年代の歌謡曲などポップス系のタイトルも充実させての配信を行なっている。またCDマスターからK2HDプロセッシングによって作成した音源も数多く用意されているという。
そもそも、なぜこのタイミングでビクターがハイレゾの音楽配信をスタートさせたのか、またK2HDプロセッシングとはどんなもので、本当にハイレゾとしての意味があるものなのか、といったことについてビクタースタジオに行って話をうかがうとともに、実際の配信楽曲を試聴した。対応してくれたのはビクタースタジオ長の秋元秀之氏、デジタルソリューショングループゼネラルマネージャー兼K2ラボラトリーソフト開発担当の鈴木順三氏、そしてマスタリングエンジニアの袴田剛史氏だ(以下、敬称略)。
CD音質を“ハイレゾ化”するK2HDとは?
――2月6日にハイレゾ音楽配信サイトをスタートされましたが、その経緯について教えてください。
秋元:背景としては、2012年9月に「VICTOR STUDIO HD-Sound.」というレーベルを立ち上げたことがあります。これは当社が保有する豊富なカタログより高音質での提供に適すると判断するタイトルを厳選し、24bit/96kHz、24bit/192kHzで提供するもの。第1弾としてはその2012年9月25日に19タイトルを発表したのに続き、第5弾まで計72タイトルを発表してきており、「e-onkyo music」での配信を行なってきました。
――e-onkyo musicのランキングを見ても、これまで常に上位のほうをキープしていましたよね?
秋元:おかげ様で非常に好評です。でも「こんなに市場って狭いの? 」というのが正直なところ。「トップをとったのに、たったこれだけ? 」、と。私たちとしては、ハイレゾ市場はもう熟成しており、かなり広いマーケットだと思っていたのですが、そこには遠く及ばない、まだマニアだけの市場だったようなのです。e-onkyo musicからは、当社のコンテンツの売上情報だけはわかるけれど、他社の動きや市場全体については、当たり前ですが情報が入ってきません。これは、やはり自分たちで始めるべきなのではないかと思うようになりました。産地直送というわけではないですが、実際制作している私たち自身が配信することで、他社とは違う訴求ができるはずだ、と考えたのです。
――ちょうど昨年10月にmoraがハイレゾ配信を始めましたが、ちょうどそれに対抗するような恰好ですね。
秋元:moraが始めたからウチも、というわけではなく、もっと以前から準備していたんですよ(笑)。このVICTOR STUDIO HD-Sound.のコンセプトは「ハイレゾは特別ではない」ということ。そもそもスタジオではハイレゾでレコーディングしているからハイレゾは当たり前。世の中でCDがメインであるため、CDに無理やり詰め込んでいるのが実情で、ここにあるサウンドをそのままリスナーにお届けできれば、スムーズだろう、と。ハイレゾって特別なオーディオファンだけのものではなく、高級オーディオを使わなくてもそのまま聴いて気持ちいいものなんです。だから、今までと違い、もっとカジュアルに聴いていただきたいんです。またポップス系のアーティストでもこだわっている人たちが増えてきています。
――ハイレゾの中でも、ビクター独自のK2HDプロセッシングに興味があるのですが、これについてもっと詳細を教えてください。
鈴木:もともとK2テクノロジーは1987年に生まれたビクター独自のデジタル音質向上技術です。当時の日本ビクターの技術者の桑岡さん、ビクタースタジオの技術者の金井さんの二人の名字の頭文字を取ったネーミングとなっていました。そして信号処理を行なう技術と、演奏系の波形をキレイにする技術の2つを組みあわせたものとなっていましたが、その後、さまざまな発展をしながら、2012年に登場したのがK2HDプロセッシングです。これはCDのマスターからハイレゾを作ることができる技術です。
秋元:K2HDプロセッシングはK2HDの進化版ともいえるもので、CDフォーマットでカットされた20kHz以上の高域情報を最大100kHzまで復元することができます。もちろん、元とまったく同じようになるわけではありませんが、無い音を無理やり足すというのではなく、元の音に非常に近い音に仕立て直しているのです。
――これまで各オーディオメーカーからもMP3やAACの音を復元する技術がいろいろ出ています。それらを使うと多少聴き心地がよくなるような気がしますが、やはり元の音が完全に復元されているわけではありません。
秋元:K2HDプロセッシングでは単純に自動で音の特性を復元しているわけではなく、マスタリングエンジニアが自らの耳で確認しながら、細かく調整をしながら音を作っているのが大きな違いです。思想としては、単に聴き心地をよくしようというのではなく、いかにオリジナルに近づけるかという観点で行なっているのが他との違いだと思っています。実際に、24bit/96kHzや24bit/88.2kHzで作られたマスターと、そこから作られたCDをK2HDプロセッシングで24bit/96kHz化したものを細かく比較検証しながら、どのようにして復元するのかというノウハウを付けてきているのです。
鈴木:K2HDの基本的な原理を説明しましょう。音楽信号は、基本波に高調波成分が含まれていて、複雑な波形でできています。しかも、この高調波成分は音楽、楽器、演奏者によって異なっており、同じ楽器でも演奏者によって大きく異なるため、結果として音色が違って聴こえるのです。この高調波成分は、大変重要なもので、これこそが音質、音色の要となるものなのです。基本となる波形の周波数に2倍、3倍、4倍……と整数倍の周波数高調波成分が含まれていることが知られています。
――なるほど、その高調波を意図的に追加しようというわけですね。
鈴木:はい、もう少し具体的に楽器による波形の違いを説明してみましょう。たとえばクラリネットの波形を簡略化すると下の図のような波形になります。このクラリネットの波形も基音のみでは単純なサイン波となっているわけですがここに3次高調波、つまり3倍音を加えるとクラリネットの波形となるわけです。一方、バイオリンの波形の場合は、クラリネットとはかなり異なる波形となっています。これも基音であるサイン波に2次、3次高調波を含ませていくと波形が少し角ばってきて、バイオリンの音になる……といった具合ですね。
実際の音楽信号では、基音に対し、各楽器ごとに特有の高調波成分が加わった複雑な波形になります。したがって複雑な波形がきちんと再現されることにより、楽器本来の音色、音質感が表現可能になるわけです。しかしCDフォーマットの場合、44.1kHzのサンプリング周波数ですから、理論上22.05kHzまでの音しか収録することができません。たとえば10kHzの基音の場合、2次高調波は収録できるけれど3次以上は削られてしまい、元の複雑な波形が再現できなくなってしまうから、楽器本来の音色、音質感が変化してしまうわけです。これをK2HDプロセッシングで復元してあげるわけです。
――基本的な考え方はわかりますが、それほど単純なことではないですよね?
鈴木:そうですね。とくに時間軸上の復元の仕方が難しいところで、そこがこれまで長年K2が培ってきた技術にノウハウが含まれています。つまり細かくサンプリングしたそれぞれのポイントに、時間軸を基本に波形補正を行なっていくのです。
――先ほどのお話でも楽器によって、高調波の構成が違うということでしたが、実際のCD作品には数多くの楽器が含まれていますよね。そうなると、各楽器ごとに処理を施すとなると、いくらDSP処理速度が高速化したとはいえ、あまり現実的ではないように思うのですが……。
鈴木:残念ながら、まだ楽器ごとに分解するということはできておらず、CDの音そのものの倍音成分を追加するということに留まっており、今後の技術の進化にともなって発展させていくものだろうと考えております。だからこそ音質評価を日常、レコーディングにかかわっている各エンジニアが担当することにより、レコーディング時の音色感を基準に高い精度で、補正アルゴリズムを開発しているのです。
CD化以降、アナログマスターテープがほとんど残されていない
――ところで、もっと根本的な話ですが、24bit/96kHzでのマスターやアナログテープでのマスターというものは残っていないのですか?
秋元:みなさん、よく勘違いされているのですが、マスターとして保存してあるのは、あくまでもCDのマスターですから、フォーマットも16bit/44.1kHzで同じものでしかないのです。もちろん本来ならば音楽作品の提供においてハイサンプリングデジタル音源やアナログマスターかからハイレゾ音源を作成することが理想ではあります。しかし、1980年代後半から約20年近く、CDフォーマットで制作された作品でアナログテープで残っているものは極めて少ないのが現状なんです。そこで、CDでしか残っていない音楽的資産を、その時代に音楽をプロデュースしたり、録音したエンジニアが監修できる今、当時作られた音楽、音質感覚を基準にハイレゾマスターとして復刻することが大切なんです。
――マルチトラックのテープというのも残っていないのですか?
秋元:ものによっては残っているものはあります。でも、それはあくまでも素材。それをミックスしなおすとなると、別の作品になってしまいます。やはり最終的にミックス、マスタリングされたCDというのは、そのときのアーティスト、プロデューサー、エンジニアの考えや感覚などで作り出された作品。もちろん、今の時代に作り直すというのもひとつの手ではありますが、すべてを再現するというのは非常に困難だし、当時の意向にそぐわないものになってしまう可能性があるなど、現実的にはなかなか大変なことではあるのです。
――K2HDを使ってハイレゾ化している音源は、ビクタースタジオ以外に、他社の作品を請け負うケースはあるのですか?
秋元:今は自社のものだけですが、体勢としては、他社さんのものも受け入れる体制はできています。今後、依頼があれば対応は可能です。
――K2HDプロセッシングはハードウェアで行なっているとのことですが、例えばオーディオ機器そのものに、K2HDのプロセッサが入ればいいのではと思いました。
鈴木:実はハードに入れる形も検討しています。ただし、シンプルな形にしないと載らないですね。かつて、KDDIさんのフィーチャーフォンで、ハイレゾではないんですが圧縮音源を高音質化するK2処理(編集部注:net K2)を掛ける端末があり、2,000万台ほど出荷されて好評をいただきました。
――ゆくゆくは、K2HDの簡易版を搭載したハードウェアが出てくる可能性もありますか?
鈴木:あります。もしかしたらソフトウェアで実装するという可能性もあります。アルゴリズムはもう確立されているので、あとは何に実装するかですね。一番音質が良いのは、ハードウェアで細かくやっていく方法だと思います。
――さきほどフィーチャーフォンの話が出ましたが、スマートフォンにも展開していくのでしょうか?
鈴木:スマートフォンなどへの取り組みは、現時点で具体的には話せませんが、ソニーさんがAndroidウォークマンでやっていますよね(編集部注:DSEE HX)。こういったものは、国内だけでなく海外からも既に問い合わせがあり、まさに今やろうと考えています。
マスタリングエンジニアに聞く「ハイレゾ楽曲のできるまで」
冒頭で紹介した袴田剛史氏は、現在ハイレゾ配信されているVICTOR STUDIO HD-Sound.の72タイトルの中の多くを手がけたマスタリングエンジニア。今回、袴田氏のマスタリングルームで、いくつかのサウンドをAAC 256kbps、CD、そしてK2HDプロセッシングしたハイレゾで聴かせてもらった。筆者はオーディオ評論家ではないので表現するのは難しいが、K2HDプロセッシングのすごさは実感することができた。
CDとAACの違いはそれほど顕著ではないと感じたが、24bit/96kHzにしたサウンドは明らかに違うのだ。とくにボーカルの違いはハッキリしており、声に張りや艶が出るし、奥行き感も出てくる。またギターやストリングスのサウンドも、弦の1本1本の音がハッキリと感じられるといった具合で、単に聴き心地がいいというのではなくて、確かに「ハイレゾの音だ」と実感できるものだった。なお、今回は、下の4曲をそれぞれのフォーマットで試聴している。
- 「One the Line」(Lee Ritenour)
- 「長い間」(Kiroro)
- 「木綿のハンカチーフ」(柴田淳)
- 「スーパースター」(高橋真梨子)
まずはGENELECのモニタースピーカーで聴かせてもらったが、確かにハイレゾで聴くメリットを大きく感じられた。とはいえ、多くのユーザーはそんなすごい再生環境を持っているわけではない。そこで、同じ音を出力先を切り替え、小さいミニコンポ(JVCのウッドコーンコンポ)で再生してくれたのだが、ここでも十分にその音の違いを感じられたのは面白いところだった。先ほども秋元氏が「ハイレゾをカジュアルに」という話をされていたが、そのことを証明してくれた格好だ。
袴田氏が「これまでK2でリマスタリングした作品はありましたが、これらは16bit/44.1kHzの信号を内部的に24bit/96kHzにして、音を整えた後に再度16bit/44.1kHzに戻してCD化していたわけですが、せっかく内部で24bit/96kHzにしているなら、それをそのまま取り出してしまおうというのがK2HDプロセッサです」といって見せてくれたのが、この一番上にある白い機材、K2HD PROCESSOR HDP-1126。ここにCDの音を通すとハイレゾ化するという。
具体的には、この機材にAES/EBUフォーマットで16bit/44.1kHzを入れると倍音成分を付加した上で、24bit/96kHzに変換された信号が出てくる。ここにはA/DやD/Aなどは入っていない純粋なデジタル機材であり、まさに信号処理だけを行なう機材。試しにCD信号を入れてもらい、フロントのスイッチでオン、オフを切り替えてみると、明らかにサウンドが大きく変わることを実感できた。
「倍音構成をどのようにするかという複数のプリセットが用意されているので、曲によってそれを切り替えるとともに、さらに倍音成分の具合を調整することで元の音に近づけていきます。最終的に生成された音に対してEQやコンプレッサ処理なども行ないますが、それは最後の微妙な調整であり、基本的な音作り自体はこのプロセッサで行なっています」(袴田氏)とのこと。
ところで、今回の試聴で最初に聴いたのがLee Ritenourの「On the Line」という楽曲。これも、かなり違って聴こえたのだが、ひとつ不思議な現象があった。それはAAC、CDで聴いていた際に、左チャンネルから聴こえるエレピの音に数箇所、歪んだところが感じられ、かなり気になったのだが、ハイレゾでは音質が向上しているだけではなく、その歪みがキレイになくなっていたのだ。先ほどのK2HDプロセッシングで、そんなことまでできてしまうのだろうか? これについて袴田氏に確認したところ、「ここはK2HDプロセッサの処理ではなく、iZotopeのRXを用いて波形自体をエディットしています。明らかに歪んでいましたから。中には、なぜ音を変えたんだ、と文句を言う方もいないわけではないですが……。できるだけ、ミックスされた音を尊重しつつ、明らかにおかしいところだけを修正しています」という話だった。
以上、K2HDプロセッシングとVICTOR STUDIO HD-Music.について、インタビューしてきたが、いかがだっただろうか? ここまで自動化ができるのなら、これまでのビクターの作品すべてをどんどんハイレゾ化していけばいいようにも思うのだが、その点について秋元氏に尋ねてみたところ「K2HDプロセッシングで処理をしても、違いが感じられない作品も数多くあるのです。だから、明らかにこの処理をして価値があるというもののみを厳選して提供しているのです」という返事が返ってきた。最初に16bit/44.1kHzを信号処理で24bit/96kHz化しているということを知ったときに、最初は「どうなんだろう……」と疑問に思ったのだが、今回、実際に音を聴き、その制作の考え方を知り、K2HDプロセッシングを施した作品はハイレゾとして大きな価値があり、かつ非常に正直なビジネスをしていると思った次第だ。