大河原克行のデジタル家電 -最前線-

シャープ、中興の祖である佐伯旭氏が死去

~千里から天理へ、緊プロなど、エピソードを振り返る~


 

佐伯旭氏

  シャープの2代目社長である佐伯旭氏が、2月1日に死去された。死因は慢性腎不全。享年92歳。

 1917年、広島県出身。1935年に早川金属工業研究所(現シャープ)に入社。経理畑を歩み、創業者である早川徳次氏の片腕として頭角を表し、47年には29歳の若さで取締役に就任。54年の常務取締役を経て、1958年に専務取締役に就任。専務就任後は、社長代行としての役割を担い続け、実際に経営の舵取りを行なってきた。

 1970年9月には満を持して代表取締役社長に就任。この年に、早川電機工業株式会社から、シャープ株式会社への社名変更も行なっている。1986年に取締役会長に退き、わずか1年後の87年には相談役に就任。その引き際は見事との声が当時の紙誌でも紹介されている。最近では最高顧問とし、経営面からの助言などを行っていた。現・町田勝彦会長は娘婿である。

 中興の祖とされる佐伯氏には、数多くのエピソードが残っている。そのひとつが「千里からへ天理」と呼ばれる決断である。

 


 

● 万博と総合開発センター。「千里から天理へ」 

天理の総合開発センターの建設風景(1970年頃)
 1970年、シャープは奈良県・天理に総合開発センターを竣工した。ここは、もともと東大寺が所有していた由緒ある土地。22万m2の敷地に、半導体工場のほか、中央研究所、商品開発センターなどを設置。現在のシャープの主要事業となっている液晶事業や太陽電池事業の成長は、この総合開発センター抜きには考えられない施設だといえる。

 この総合開発センターへの投資を検討する際、佐伯氏はひとつの決断を迫られていた。総合開発センターの竣工が予定されているのと同じ年に、日本万国博覧会(大阪万博 EXPO'70)が開催されることになっており、大阪に本社を持つ企業として、万博への出展が検討されていたのだ。

 この時の土地買収費用が約15億円。そして、万博への出展費用も約15億円。シャープは、どちらかを選択しなくてはならない状況にあったのだ。

 佐伯氏は、机の上の2つの提案書を並べて思案した。万博誘致には関西経済界をあげて取り組み、シャープもその一翼を担っていたのは事実。さらに、世界的にシャープの認知を高め、大阪への経済効果が見込まれる万博出展を選択すべきというとは当然のことだった。だが、その一方で、総合開発センターを建設し、シャープの将来に向けた投資を優先することも重要な要素だった。

 役員の声も2分していた。「出展しなければ、関西経済界から総スカンを食うことになる」、「社内の志気を下げることになる」、「半導体の工場に投資するのはリスクが大きすぎる」という万博推進派に対して、「たった半年間のパビリオンに15億円を投資する意味があるのか」、「半導体工場を建設することで、シャープが、総合家電メーカーから、総合エレトクロニクスメーカーに脱皮できるきっかけになる」という、総合開発センター推進派の声がぶつかりあっていたのだ。

 最後に、佐伯氏はこの案件を役員会に諮った。この時、佐伯氏は腹のなかでは、すでに天理への投資を決めていたようだ。

 それは、多数決の手法を用いずに、創業者・早川徳次氏の意見を聞き、佐伯氏自らも意見を述べ、そのなかで役員の意見をまとめるという手法を用いたから点からも裏付けられよう。

 「厳しい企業競争に打ち勝つには他社にない独自のデバイスを自社生産し、他社が真似できない商品をつくる以外に道はない。半年で取り壊すパビリオンよりも、企業体質の強化を優先したい」。そう佐伯氏は提言した。

 シャープは、吹田市の「千里」丘陵で開催される大阪万博に出展しないことを決め、「天理」に建設される総合開発センターへの投資を決定した。これが、その後、「千里から天理へ」と呼ばれる、シャープの経営判断となっている。

 千里から天理への決断は、家電のアセンブリメーカーから、半導体を生産し、液晶や太陽電池を開発する総合エレクトロニクスメーカーへの脱皮を意味した。いまのシャープにつがなる大きな転機であったのだ。土地買収を含む総工費は75億円。当時の資本金が105億円という同社が、まさに社運をかけて行なった投資だった。

 


● アポロの宇宙カプセルに搭乗。「自分たちで半導体を作れないものか」 

1969年に発売した世界初のLSI電卓「QT-8D」。卓上という言葉が当てはまる
 佐伯氏が総合開発センターの建設の中心的役割を担う、半導体の自社生産に強くこだわった背景は、1969年に、佐伯氏がノースアメリカン・ロックウェル社を訪問したことにあった。

 当時、シャープは、ノースアメリカン・ロックウェルの子会社であるオートネティクスから、電卓用のMOS-LSIを調達していた。シャープが1969年に発売した世界初のLSI電卓「QT-8D」は、オートネティクスから調達したLSIを使用したものだ。

 その提携関係もあり佐伯氏はノースアメリカン・ロックウェル社を訪問したのである。同社は、アポロ11号をはじめとするアポロ計画において、NASA(米航空宇宙局)に、LSIを供給していた。そのため、シャープのQT-8Dは、「アポロの申し子」ともいわれたほどだ。

ノースアメリカン・ロックウェルを訪問した際に、宇宙カプセルに乗り込んだ佐伯氏

 この時、佐伯氏はアポロの宇宙カプセルに乗る機会を得た。半導体技術の固まりともいえる宇宙カプセルに座った佐伯氏は、ノースアメリカン・ロックウェルの社員から説明を聞きながら、自分たちで半導体を作れないものかとの想いが高まってきたという。

 佐伯氏がそう考えたのは、ブラウン管テレビでは、商品企画やアイデア、アセンブリ技術で先行しても、ブラウン管を自ら製造しないため、後発メーカーに追い抜かれるという、基幹技術の開発、製造体制を持たない弱みを何度も味わってきたことにあった。

 さらに、社内に徐々にコンピュータおよび電卓、太陽電池に関する技術が蓄積されはじめ、今ならば半導体の自社生産に乗り出せるチャンスが訪れていると考えたことも見逃せない。

 遡ること10年。1960年に、入社5年前後の20代の若手社員たちが、専務だった佐伯氏に、コンピュータ、半導体、超短波の3つの分野の研究について進言したことがあった。それを聞いた佐伯氏は、「きみたちがそう思うならば、やってみたまえ」と即断。若手技術者たちは、コンピュータの開発に向けて、大阪大学工学部の尾崎弘教授のもとを訪ね、研究に没頭した。

 さらに佐伯氏は4億円をかけて、1961年に中央研究所を、大阪・阿倍野に建設。450人の技術者を集約し、ここでコンピュータ、半導体、超短波の研究が推進されることになった。これがのちの電卓開発につながるほか、電子手帳、PC、太陽電池、電子レンジ、IC、心電図計などの製品化につながることになる。 

オールトランジスタで製品化された、シャープの第1号電子式卓上計算機「CS-10A」
 シャープは1964年に第1号電子式卓上計算機「コンペット CS-10A」を完成した。これはシャープのコンピュータへの取り組みが結実した結果でもあった。だが、佐伯氏は、尾崎教授やシャープの技術者などを前にこう言い放ったという。

 「大きすぎるし、値段も高い。店頭で気やすく買えるものにしてくれないか。シャープの体質にあったコンピュータは、八百屋でも、魚屋でも使えるコンピュータだ」

 コンペット CS-10Aは、4,000点の部品を使い、重量は25kg。卓上という名称だが、実際には置くには場所を選んだ。また、初任給が19,000円という時代に、コンペット CS-10Aの価格は53万5,000円。八百屋が気軽に使える電卓ではなかった。

 同席した大阪大学の尾崎教授は「ムチャクチャや」と答えたというが、この時の佐伯氏の言葉が、技術者にとって、次の目標を明確に示すことになった。

 1966年に発売した世界初のIC電卓「CS-31A」は、13kgに軽量化し、価格は35万円。1969年の世界初のLSI電卓「QT-8D」は1.4kgと大幅に軽量化し、価格は99,800円。さらに、1973年の世界初の液晶搭載電卓「EL-805」は、200gとし、価格は26,800円としたのだ。

 シャープがその後の電卓戦争と呼ばれる熾烈な戦いのなかで、優位性を発揮し続けたのは周知のとおり。その背景には、若手技術者の声を聞き入れた佐伯氏の経営判断と、次への挑戦を促した佐伯氏の言葉があったといえよう。

 こうした取り組みが、天理への投資と同じ時期に動いていた。佐伯氏の決断した、コンピュータ技術の研究、電卓事業の展開、千里から天理への決断による総合エレクトロニクスメーカーへの脱皮が、いまのシャープの土台を築いたのは紛れもない事実だ。

 


 

● オンリーワン商品創出の源泉「緊プロ」。第一号はビデオ

 もうひとつ、佐伯氏の功績として見逃すことができないのが、1977年からスタートした緊急プロジェクトチーム制度である。社内では通称「緊プロ」と呼ばれ、シャープの独創的なものづくりに欠かせない仕組みとなっている。

 緊プロは、開発に緊急性を要する重点商品に関して、社内から横断的にスタッフを集結。町田勝彦会長も「オンリーワン商品創出の源泉」と位置づける。

 緊プロで創出される商品は、「独自の技術に基づく非価格競争商品」、「経営の根幹となる商品、設備の開発」とされ、研究開発費も事業部負担ではなく、全社予算のなかで計上される社長直轄の社内横断型プロジェクト。最終決裁は社長が行ない、すべての部署を対象に、最適な人材が優先的に召集され、物事はすべてに優先されて決定される。

 また、召集された緊プロに携わる社員には、役員と同じ金色の社員証を付与。出退勤も自由となる。緊プロは、1973年に発売された世界初の液晶電卓「液晶コンペット EL-805」で推進した特命プロジェクトが前身。このとき、佐伯氏の号令で各事業部から技術者が集められ製品が完成した。

緊プロ第1号となったフロントローディング方式のビデオレコーダー「マイビデオ V1」

 緊プロ第1号となったフロントローディング方式のビデオレコーダ「マイビデオ V1」は、2年をかけて開発された大ヒット商品。「ビデオレコーダーは、テレビの下に置く」という世界的な常識を定着させることになった。

 その後、緊プロとして、300を超えるプロジェクトが推進され、現在でも、約10個の緊プロが社内で動いているという。佐伯氏の経営判断は素早かった。

 時には「そんなに急いで走らなくてもいいのでは」と早川徳次氏に言わしめたほどだ。だが、その一方で、天理に建設した半導体工場が数年間赤字続きでも、「幼稚園から大学に一気にあがったようなもの。肩の力を抜いて楽な気分で」と、現場に焦りを見せることはなかったという。

 また、シャープの経営を救い、何度もシャープを生き返らせたのは佐伯氏という評価の声はあちこちから聞かれる。シャープ最大の危機とされる戦後復興期の業績悪化では、まさに企業存続の瀬戸際にあった。

 この時、早川氏は、人員を整理するぐらいならば会社を閉めることを考えていたが、佐伯氏は、企業存続に向けて労働組合側との話し合いの場につき、これが、労働組合側が自主的に希望退職者を募り、人員削減を行うという異例の動きにつながった。また、金融機関との折衝を前に、取締役の総意として、銀行融資への個人保証、持ち株の銀行担保、再建へ組織編成でも白紙の委任状を提出するという動きも、佐伯氏の提案をもとに決定されたものだったといわれている。

 「銀行からはどんなことをいわれても仕方がない状況にあった。だが、労使が一体で経営再建に取り組んでいる必死の姿を見てほしかった」というのが佐伯氏の気持ちだったという。その結果、富士銀行を筆頭する協調融資によって金融支援が開始され、シャープは奇跡的に倒産を回避できた。

 その後、シャープには、「二度と人員整理をしない」という不文律が生まれ、同時に緊縮経営と厳格な原価計算、品質管理といった経営手法をより強化していったのだ。 


● 負けず嫌いの根性と、仕事へのひたむきな情熱、努力

 早川金属工業研究所入社直後の佐伯氏の仕事は、ラジオや部品を、直売店の店先で販売することだった。午後5時に終わると、経理の夜学に通った。2年後に経理部門に異動。25歳のときに、早川氏が買収した神奈川県鶴見の企業の再建に、経理部門を統括する立場として赴任。半年間で再建し、軍部を通じて依頼があった石川島播磨工業からの売却要請に応えたという。

 ある日、佐伯氏は風邪で会社を3日間休んだ。社員が見舞いに行くと、高熱で起きられないのに枕元に洗面器を持ってきて、濡らしたタオルで頭を縛りながら、経理の本を読んでいたという。

 戦時中の満州で、両親と2人の兄弟を無くし、帰国した少年時代を送った佐伯氏は、15歳で早川金属工業研究所に入社。そのため、学歴といえるものは小学校と夜学だけ。だが、その勤勉ぶりはすさまじいものだった。

 後年、早川氏は「負けず嫌いの根性と、仕事へのひたむきな情熱、努力、それらを勘案すると、大学卒以上のものを身につけている」と評した。

 早川氏自身も早くに両親を無くし、独学で勉強を重ねていった。その生い立ちと重なる部分が垣間見えるといえる。

(2010年 3月 15日)

[Reported by 大河原克行]


= 大河原克行 =
 (おおかわら かつゆき)
'65年、東京都出身。IT業界の専門紙である「週刊BCN(ビジネスコンピュータニュース)」の編集長を務め、2001年10月からフリーランスジャーナリストとして独立。BCN記者、編集長時代を通じて、15年以上に渡り、IT産業を中心に幅広く取材、執筆活動を続ける。

現在、ビジネス誌、パソコン誌、ウェブ媒体などで活躍中。PC Watchの「パソコン業界東奔西走」をはじめ、Enterprise Watch、ケータイWatch、家電Watch(以上、ImpressWatch)、日経トレンディネット(日経BP社)、Pcfan(毎日コミュニケーションズ)、月刊ビジネスアスキー(アスキー・メディアワークス)などで定期的に記事を執筆。著書に、「ソニースピリットはよみがえるか」(日経BP社)、「松下電器変革への挑戦」(宝島社)など