西田宗千佳のRandomTracking
消える築地市場を「VR」で残す。歴史を360度記録するための技術と信頼
2017年8月15日 08:00
朝日新聞社が、ニュースサイト「朝日新聞デジタル」の中で、面白い試みをしている。移転が決まっている「築地市場」をデジタルで残す試みだ。「築地 時代の台所」と題したこのコンテンツでは、築地市場の中を丹念に取材し、写真などで内部を記録し、ウェブ上で公開している。
この中に、5月から特別なコンテンツが追加されている。それが「築地VR」と呼ばれる、360度動画である。築地市場の内部の、実際に日常的に働いている風景の中で360度動画を撮影し公開したものだ。
この出来が非常に良い。360度動画はもはや日常的なものになったが、日常的なスナップがほとんどで、「面白い」ものは意外と多くない。だが築地VRは面白い。築地市場の中は、多くの人々にとって「非日常」の場所だろう。テレビもなかなか入らない、観光用でも公開用でもない場所で、日々働いている人々の日常が、非常に生々しく記録されている。現場記録の面白さが最大限に発揮された映像だ。記事を読む前に、ぜひアクセスして確認していただきたい。
360度動画を撮影したことがある方ならおわかりだと思うのだが、360度動画は普通の写真と違って、「腕」が出にくい。撮影をなかなか工夫しづらいからだ。だが、築地VRはまさに「腕」の出た、プロの撮影だ。
この差は、どういう制作環境から生まれたのだろうか? 報道機関で360度動画の活用は進んでいるが、そこではどのようにコンテンツが作られていくのだろうか?
朝日新聞社は、360度動画を日常的に公開し、スマホ上で見せる「NewsVR」というアプリも公開している。報道内での360度動画には積極的な企業だが、その製作体制も気になる。
そこで、「築地」企画の担当者とNewsVRの担当者に現状を聞いた。「良い360度動画」「残すに値する360度動画」とは、どうやって作るべきものなのだろうか。
消える「今の築地」をデジタルで残すために「ひたすら交渉」
築地VRの特徴は、現場に入り込んだ生々しさにある。あの場所に360カメラを置いたことそのものが企画の勝因だ。
企画を立ち上げ、「築地」企画でデスクを担当した、朝日新聞社・東京本社報道局の長沢美津子氏は「デジタルの部署に来た時から、築地市場そのものを記録したいと思っていた」と話す。
長沢氏(以下敬称略):企画を動かし始めたのは2014年春頃、最初のページを公開したのが、2015年です。実は最初は、VR(360度動画)の話はありませんでした。ただ、築地市場はかなり立体的な構造物なので、それを見せてあげたい、ということはあったんですよね。
企画を始める時に意識にあったのは、香港の九龍城です。1993年に取り壊しが始まりました、その前の風景については、学者が絵にしたものはあるものの、内部を詳細に記録したものがない。特にデジタルの表現で記録しているものはありません。
築地場内を詳細に記録すること、あの場所に到達して取材することに意味があります。いま公開されているものの他にも、まだまだやりたいことはあるのですが。
「築地」企画そのものは、360度動画を前提に作られたものではない。写真・記事・動画などで多角的に築地の中を記録しよう、という企画だ。360度動画も、その一環として制作された。
問題は明確だ。築地の中を本当に詳細に取材して記録していくのは、けっして簡単なことではない、ということである。
長沢:築地市場は東京都の公営の施設ですが、その中で民間が営業しており、色々な団体が関わっています。卸、大卸(全国から集める会社)の団体もあれば、仲卸(水産、青果)など、多数の関連団体があり、いろんな人達が働いています。そして、利益も相反する場合があります。多くの人が築地で思い浮かべる「場外」は観光地ですが、場内は仕事の場。非常にアンバランスな場所でもあります。
後ろ向きな場所ではないですが、仕事の場なので、正直「取材はウェルカムではない」ところも。そこで、東京都はもちろん、場内に関わる団体・組合すべてに許可を得る必要があります。
そんな中、「築地」企画にとって追い風だったのは、東京都が、築地市場内の長期撮影について、許諾や便宜を図る体制を整えはじめたことだ。築地市場移転が(諸々の問題を抱えつつ)現実味を帯びる中、「記録」の価値を当局も真剣に考えていたためだ。
そのため担当チームは、まず関係者の元に足を運び、「どのような記録をとるのか」「どう取材するのか」についての説明を繰り返した。
長沢氏と、撮影を担当したデジタル編集部の竹谷俊之氏は、巨大なファイルを取り出した。
長沢:魚河岸・仲卸の写真を残すことにしたのですが、「どうせなら全店舗を」ということで、許可をひとつひとつ取りました。全部で600あります。昔は1,000以上あったそうで、これでも減っているんですよ。
まず行なったのは、各店舗の「写真撮影」だ。どこにどういう店があり、そこでどんな人がどのように働いているのか。マップを作り、つぶさに記録した。実際に撮影をした竹谷氏は、週に2回、アンケートに基づいて設定したスケジュールで撮影していったという。
竹谷:ペアになってた記者がアタリをつけて、時間帯を聞いてスケジュールして撮影していきました。ただ、みなさんとにかくお忙しいので、予定通り撮影できるとは限らない(笑)。なので、リスケジュールだらけ。何回も何回も足を運んで、撮影が終わっても周囲をうろうろし、そこから談話が広がったりしました。撮影は6月からはじめて、11月くらいまでかかりました。
長沢:結局、竹谷さん達が「市場の流儀、仕事の流れがわかっている」と現地の人に認知してもらったことが大きいのだと思います。要は、一番忙しい時間帯に撮影したいわけですから、そこに事情を知らない人が来て、メチャメチャにされるのが、彼らとしては困るわけで。
築地VRは、そうした信頼感の積み上げで出来たものだ。関係者のごく近くにカメラを設置し、自然な形で取材できたから、あの迫力のある映像が撮影できたわけだが、その秘密は、結局「信頼関係」という、平凡だが重要なファクターだった。
竹谷氏は次のように笑う。
竹谷:結局は、「近かった」のが良かったんでしょうね。長靴もって「行ってきます」で行けますから。
朝日新聞東京本社は、築地市場の目の前にある。歩いてほんの数分だ。そのことが、関係構築には大きく影響していた。
中に入り込んで撮った「築地VR」、主人公を立てる方法論で撮影
2015年になり、世の中にはVRの話題が出始めた。360度動画も同時に話題になりはじめたため、プロジェクト内部でも「360度動画を撮影しよう」という話が出てきた。これが、冒頭で挙げた「築地VR」に続く。
竹谷:最初に撮影したのは、冷凍マグロの競り場撮影です。この時には広い場所だったので、かなりやりやすかった、という点はあります。あれはGoProを6台用意し、映像をスティッチしたものですが、けっこうきれいに撮れていますよね。これが、2016年5月のことです。
その後、「全部の場所はできないけれど、出来るところだけでも」ということで撮影を始めました。使っているのはGear360(2015年モデル)です。撮影解像度が高く、使いやすかったのが選択の理由です。仲卸で顔見知りになったところに直接行って交渉し、撮影許可を取りました。
ただ、通路にはカメラを置けないんですよ。往来が激しすぎて。そのため、「この時間だったらいい」という時を聞いた上で、うまく場所を工夫して撮影しています。行って、10分くらいで撮っていますよ。こんな風に機材を立てて。
360度カメラにはひとつの難点がある。撮影者の間で「おっさんが映り込む不具合」と冗談で言われるものだ。全体を一度に撮影してしまうため、撮影者が映り込んで、写真としての完成度を下げるのが悩みになる。
竹谷:Gear360を使ったので、シャッターや映像の確認はスマートフォンで行なっています。映らない隠れた場所に移動して、そっと(笑)
ただ、そこで「どう撮るか」はやはり重要だったポイントだ。
竹谷:築地に関しては、正直、どこを見ても「絵になる」と思ってはいます。みなさんが働いている中で撮影しているので「全部が動いている」わけで。天井すら風情がある。そこで、場所を選んで置かせていただき、撮影しました。
ポイントは、メインになる人が手前にいるように撮っていることです。みなさん、自然のままに振る舞っていただきました。撮影をお願いしている人達は、みな気合いの入ったプロの方々です。その方々が本気で働いている映像だから、その出で立ちが映像に映ってくるのだと思います。
360度動画は全部を一度に撮るので、撮影者の意図が出にくい。それがつまらなさであり、「腕の出ない」写真になる原因だ。だが、そこで竹谷氏は、ひとつの「意図」として、メインになる人物を設定し、それを中心に構図を組み立てている。この方法論こそ、360度動画のクオリティを上げるために重要なことなのだろう。
実は、撮影に使ったのがGear360であったことは、撮影対象に自然に振る舞ってもらうために効果的だったのでは……という話もあるという。2015年のモデルは、「目玉のオヤジ」とも言われる愛嬌のあるデザインだ。それが、撮影対象の気持ちを緩めたのでは……と竹谷氏は言う。
そして、もうひとつ重要な要素を指摘する。
竹谷:「ぼかしだらけ」だと価値がなくなるんです。テレビなどが取材に入ると、プライバシー保護の観点で、どうしても人の顔を「ぼかす」ことになります。でも、それでは意味が薄れます。
ですから、みなさんにわかるように、カメラの下に「撮影中」と表示して撮影しました。協力いただいた仲卸の社長さんが一言言い添えてくれた、ということも大きかった。心配はしましたが、今のところ、なにもクレームはありません。
アーカイブとして残すこと、そして、現地の人々と良い関係を築いたうえで撮影したことが、「ぼかし」のない映像につながったのだ。
報道での360度動画は発展途上、ノウハウは構築できるか
現在、360度動画や360度写真は、報道の現場でも使われるようになっている。ニューヨークタイムズが2016年から積極的に活用しており、日本でも、NHKや朝日新聞が専用アプリやウェブを立ち上げている。テック系メディアでも、360度写真を見る機会は増えた。
朝日新聞社の360度動画アプリ「NewsVR」を担当する、同社メディアラボの堀江孝治氏は、きっかけを次のように語る。
堀江:VRについては、2016年に、竹谷さんたちと一緒にOculus Japanを訪問した時、初めて体験しました。ニューヨークタイムズがビジネス的にも成功しており、彼らにできるなら我々も……ということで検討を始めました。360度動画になることは、「見る報道」から「体験する報道」への変化です。「体験したことの9割は忘れない」と言われるのですが、報道するものもVRで体験すれば、より自分事に感じるのではないでしょうか。2年前から「課題解決型ジャーナリスム」に取り組んでいるのですが、その一環として取り組んでいます。
現状、朝日での360度動画のPVは、まだそれほど高くない。ウェブに埋め込まれればそれなりに見られているが、アプリ経由では認知がまだ少ない。「秋にはハイエンド機向けにも展開を検討している」(堀江氏)とのことで、ここからじっくりやっていく体制だ。取材時には、通常のカメラとともに360カメラも持っていく形になっており、日々映像は作られている。
竹谷氏は、カメラマンとして日々取材に向かいつつ、積極的に360度動画を制作しているが、そこではやはり気をつけていることが多い、という。
竹谷:結局、自分がその360度動画を見た時に、面白いと思うものを追わないとダメですね。災害取材でも、ズームレンズで寄れるわけではなく、撮影できる地点が限られるので、かなり難しいです。また静止画の場合、動画以上に被写体の違いが品質に大きく影響しますので、撮影者側で工夫する必要があります。動画に比べ変化に乏しいので、音楽を流すなどの配慮が必要になることもあるでしょう。
簡単にその場の雰囲気を伝えられるが、人を惹きつけるような力では、まだ、意図の大きく反映できる写真の力が大きい。360度動画でも、撮影者がうまく「空気感」「意図」を汲み取って切り出さないと、胸を打つものにはなりにくい。その方法論が出来上がっていないのだ。
そういう意味で「築地VR」は、アーカイブとしての価値だけでなく、「意図のこもった360度動画作品群」としても価値あるものだと感じる。こうした部分での知見が、今後の映像の世界に影響を与えていくのだろう。