西田宗千佳のRandomTracking

UEIが仕掛ける「enchantMOON」の正体

目指すは「新しいコンピュータ」

 2012年12月28日、ある企業が短いプロモーションビデオを公開した(http://enchantmoon.com/)。52秒という尺の短いものだが、非常に凝った世界観を持つものであることがおわかりいただける事と思う。

 冒頭で紹介したPVは短いものだが、実は本来、もっと長い尺で作られている。連作となっており、第2弾が、この記事が掲載される1月4日に公開の予定だ。第3弾の公開は1月8日、最後となる第4弾が1月中旬。それぞれ1分程度の長さだが、4本すべて見ると、この映像の持つ世界が見えてくる。なお、最終的な「全長版」(6分程度を予定)は、製品にのみ付属する、特別なものとなる。

 PVのスタッフは非常に豪華だ。製作総指揮である「のぼうの城」共同監督であり、平成ガメラ三部作などの特撮監督である樋口真嗣氏を筆頭に、普段映画で活躍するホンモノのスタッフ達。ある意味、力が入り過ぎといってもいい。

enchantMOONのPV。樋口真嗣氏指揮らしい、なんとも雰囲気のある仕上がり。監督は「真・女立喰師列伝 草間のささやき」などを手がけた湯浅弘章氏。第2弾は1月4日に、第3弾は1月8日、最後となる第4弾は1月中旬公開予定

【第2弾】(1月4日公開予定)(http://www.youtube.com/watch?v=QI8mFnlkj5E)

「enchantMOON」試作機を持つ、ユビキタスエンターテインメント・代表取締役社長兼CEOの清水亮氏

 このビデオは、あるハードウエアの開発計画に関するものである。そのハードウエアとは、「enchantMOON」。ユビキタスエンターテイメント(以下UEI)が作る、オリジナルのタブレットハードウエアである。

 タブレットが世にあふれる中、彼らはなぜオリジナル製品を作ろうとしているのだろうか? そして、コストをかけてわざわざPVを製作する狙いとはなんなのだろうか?

 UEIが「enchantMOON」というハードウエアでやろうとしていることを、同社代表取締役社長兼CEOの清水亮氏をはじめとした、スタッフに聞いた。

 なお、本記事に登場するenchantMOONの操作画面については、すべて開発途上のもので、最終的な製品とは変更になる可能性がある。また、本件については、1/9発行のMAGon「西田宗千佳のRandom Analysis」にて、UIやアーキテクチャ開発の方面から見た、別の切り口のレポートを掲載する予定だ。ご興味がある方は購読もしくは単品購入をご検討いただきたい。

ペンタブレットで「新たなるDynabook」に挑戦

 冒頭で紹介したPVの中で、少女が抱える「板状」の端末。これが、UEIが開発中の「enchantMOON」である。

中央で女の子が持っているのが「enchantMOON」。彼女は、PVで主役を務めた小泉 遥香さん

 この正体は、すでに述べたようにタブレットである。だが、一般的なタブレットとは形状がだいぶ異なる。サイズは、7インチクラスの製品をすこし大きくした程度。マグネシウム合金製のがっしりしたボディだ。特徴的なのは、上部に「ハンドル」があること。このハンドルはもちろん、タブレットを持つために使えるが、それだけでなく、卓上に置いて板面に角度をつけるために使ったり、卓上に立てて置いたりするためにも使える。ハンドル部にはカメラ用ストラップをつけられるようになっていて、肩からかけることだってできる。

ハンドルがついていて、ここを持ったり、立てたりするときに使える。デザインとして、最大の特徴でもある。
ハンドルで自立可能
カメラは背面でなく、ハンドルの奥に。「タブレットを構えて写真を撮る様が不自然だったので、位置を工夫した」(清水氏)とのこと

 独自性の強いデザインのタブレット。UEIはそれを作りたいと考えたのは事実だ。だが、それだけがenchantMOONの特徴ではない。清水氏はこう話す。

「OSは独自。UIも独自です。Androidをコアとして使っていますが、我々の手で徹底的に手を入れて、まったく独自のものに作り替えています。いままでと全然違うタブレット、『Dynabook』じゃないコンピュータを作りたい。ペンしかないコンピュータを作りたかったんです」

 enchantMOONはいわゆる「Androidタブレット」でも「iPad的」なものでもない。そういう「いまどきのスマートデバイス」を期待した方向けの製品ではない。enchantMOONはかなりコンセプチャルでピュアなコンピュータを作ろう、という計画である。ここでいう「Dynabook」というのは、東芝のノートパソコンのことではない。アラン・ケイが1972年に書いた「A Personal Computer for Children of All Ages」の中に出てくる、理想的板型コンピュータとしてのDynabookである。

 ここで重要なのは、UEIがなぜそういった「新しいコンピュータ」を作りたいと考えたかだ。

 現在、コンピュータアーキテクチャはおおむね固まっている。ソフトウエアやコンテンツの流通を考えると、配信プラットフォームも重要になる。それを今から作り上げるのは簡単なことではない。

 そもそも、読者の中でUEIのことをよく知っている、という方はほとんどいないだろう。

 UEIは、清水氏が2003年に設立したソフト開発企業で、これまでは主に携帯電話向けのゲームやUIソフトウエアの開発を担当してきた。NTTドコモのAndroidスマートフォンで使われている「Palette UI」の中核となっているミドルウエア「microZEKE」の開発が、もっとも有名なものかも知れない。その他、iOS向けの手書きメモアプリ「ZeptoPad」シリーズや「天空のエリュシオン」などの携帯電話向けゲームの数々も手がける。最近では、目的地までの経路を、カメラから取り込んだ実風景上にAR技術で重ね、道案内をする、iOS向け歩行ナビアプリ「Mapfan eye」の開発も担当した。技術系に特化し、伸びていく携帯電話・スマートフォンの中でも最前線で戦ってきたのが同社だ。

 他方で、UEIがこれまで作ったものは、自社ブランドであるゲームやZeptoPadなどのアプリを除くと、基本的に大手企業との共同プロダクトが多かった。社長である清水氏は、IT関連の事物ではある意味「論客」としても知られる人物であり、彼の人となりがフォーカスされることはあったが、ある意味UEIは「縁の下の力持ち」だったわけだ。

 だが、その過程で清水氏が感じたことがある。それは「一緒にやっても本当にやりたいことはできない」ということだ。

「大手企業と一緒にやったとしても、結局様々な障壁や制限がある。美観一つとっても、自分達が考えていることを完全に理解してもらって、理想的な形に仕上げるのは難しい。本当にやりたいこと、徹底して作りたいものをやるなら、ハードウエアからやらないといけない。もう、本気になれは俺たちにはハードウエアだって作れるんだ、というところを見せなければ、と思ったんです」

 清水氏はそう言う。

 そのような発想を支えたのは、現在進みつつある「ハードウエア開発の変化」だ。
「気がついてみれば、CPUコアはARMでコモディディ化されていた。ARMコアに好きなIPをつっくけてSoCを作ってくれる会社は中国にたくさんある。タブレットも、作ってくれる会社は乱立している。出来上がっているものを買ってくるなら300くらいでもいける、という時代。だから作ろう、と決めたんです」

UEI社内には、enchantMOON開発を鼓舞する自作のポスターが

 3年前なら話は違っただろう。AndroidベースのARMコアSoCを使ったハードウエアを製造できるメーカーは、HTCやFoxconnを中心に、ある程度経験豊かなところが中心。特にオリジナリティのある設計のものは簡単ではなかった。だが、今は違う。開発ノウハウは広がり、もはや特別なものではなくなった。バッテリ動作時間の延長など、一部のきわめて高いノウハウを必要とする部分はいまだ存在するが、「オリジナルのタブレット」というハードの開発を共に手がけてくれる企業は増えており、ハードルは低くなっている。

 その上で、オリジナリティの高いOSとUIコンポーネント、機能を盛り込んでいけば、自分たちの理想に近いコンピュータができる。

 結果、2012年春、UEIは、オリジナルのタブレット「enchantMOON」開発と販売を決定、プロジェクトを開始することになる。

独自改良/構造で「快速」動作、「子供にプログラミングを手渡す」ことが狙い?!

 ではenchantMOONはどのようなものになったのか?

 とりあえずこちらのムービーを見ていただこう。これは、enchantMOONの試作機による実機動作映像だ。

enchantMOONでの手書きシーンを動画で。非常になめらかで遅延のない書き味なのがわかるだろう。最終的には描線などももっと美しくなるという

 画面は真っ暗。黒い紙のように、UIコンポーネントはなにも表示されていない。ここに、付属のペンで線を書いていく。注目は、ペンでの手書きにまったく遅延が見られないことだ。現在のタブレット、特にAndroidでは、OS・UI層の操作遅延が無視しにくく、紙にペンで書くような素早さで手書きしていくのは難しい。細かな線を描くのも苦手である。また、緩やかな曲線を素早く描いた場合、描線に「角」が出来てしまい、なめらかさが表現できない。

 だが、enchantMOONではそんなことはない。きわめて自然で、なめらかな手書きが実現されている。

enchantMOONは「手書き」を基本とした機器。電磁誘導式のペンがセットになり、これで書く。指はスクロールやページ送りなどの操作に使う。表示は基本「白黒」だが、写真などだけカラーにもなる

 というと、非常に高性能なハードウエアを使っているのか、と思われそうだがそうではない。enchantMOONが使っているのは、中国のAllWinner Technology製のARM系SoCで、中身を見ると、CPUコアはARM Cortex A8、GPUはMali 400という構成だ。クアッドコアCPUが登場している時代に、たった1コアの、しかもさほど新しくないアーキテクチャのものだ。だいたい、2009年から2010年のデジタルガジェットで使われていたものと同レベル、と考えていただければわかりやすいだろうか。それで、最新のAndroidタブレットとはまったく違うレベルの快適さが実現できている。これは、同社がAndroidに徹底的に手を入れて、「enchantMOONオリジナルのアーキテクチャ」にまで昇華させたためにできたことだ。実際、この描画にはGPUの能力はほとんど使ってないという。

「計画を考え始めた頃は、手書きのポメラ(注:キングジムの「デジタルメモ」)みたいなものを考えていたんですよね」

 そう清水氏は笑う。我々が文字を「タイプ」するのは、それがきちんと「整理」しやすくて「人に伝えやすい」からである。だが、図を入れたり、アイデアを練ったりする場合、手書きの方が良いシーンはたくさんある。「もっと手に寄ったデバイス」(清水氏)に出来ることはたくさんあるはずだ。

「じゃあ、Dynabookとは違うコンピュータって、手書きメモツールなの?」

 もちろん、そんなはずはない。ここから先が、enchantMOONの特異な点である。

 enchantMOONでの手書きは、すべてベクターベースのデータになっている。そして、文字を書いた段階で、裏では自由フォーマット形式での、文字認識エンジンが走っている。手書きされた文字は見た目こそ「手書き」だが、裏ではタイプしたのと同じように「整理可能」な情報となっているわけだ。文字認識には、この分野では定評のある仏Vision Objectsのエンジンが使われている。同社エンジンは、手書きツールとして人気の高いMetamojiの「Mazec」でも採用されているものである。

 面白いのは、この手書き認識情報は「候補も含め複数保持されている」(清水氏)ということだ。手書きだと誤認識がつきもの。だが、誤認識の可能性があるものまで「複数の候補」を裏で保持しておけば、どれかで検索がヒットする。手書きで「Moon」と書いた裏には、「M○○n」や「M00n」があるかも知れない。「手書き文字」と書いた場合、「手書き文字」「手書き文示」などもあるかもしれない。言葉になっていなくても、「検索用のタグ」として埋め込んでおくことで、トータルでのヒット率を高め、情報としての活用価値を向上させる仕組みが入っているわけだ。

 このように、enchantMOONで書かれたものは基本的に「検索対象」になる。enchantMOONでは、文字や絵を描くのはペンで、操作は指で、という作法が貫かれている。書いた文字を指で囲んで選択すると、その描線が浮かび上がる仕組みになっている。ここで初めて、画面上に「UIコンポーネント」が出てくる。とりあえず、検索の対象は「ローカルのノート全体」と「Web」だ。以下の動画をご覧いただきたい。

enchantMOONで手書き文字を検索。書いた文字はすべて検索対象になり、ウェブ検索やローカルのノート検索に使われる

 動画では、Webを検索し(といっても、動画はデモ用の動作であり、内部の画像を呼び出している。実際にはGoogle検索の結果が表示される)、結果を表示している。そして、その結果を自由な形で(四角や丸ではないことに注目)切り取ると、それがそのまま「シール」となり、ページの好きなところへ貼り付けられるようになっている。シールには、タグとしてその情報のURLが埋め込まれているから、タップすれば当然そのページへ飛んでいく。

 動画ではWebを呼び出したが、ローカルのノートでももちろんいい。検索で呼び出せるということは、各ノートの関連情報の間を、自由にジャンプできるということでもある。ちょうど、HTMLがそうであるように。

 すなわちenchantMOONのノートとは、各ページが相互に繋がった、ウェブのような「ハイパーテキスト」なのだ。そこには、ウェブの情報が「シール」として貼られ、それもまた情報として活用される。

 一見なんのUIもない「紙」に見えるものが、相互に繋がった情報の「束」になる、というのが、enchantMOONの思想である。アプリを起動して機能を切り替える、現在のタブレットとは相当に考え方が異なるし、向いている方向も違う。

 ユニークなのは、貼られる「シール」にはスクリプトを埋め込めるという点だ。ここでは、簡単な文字列を組み合わせてプログラミングが出来る、同社が開発した「前田ブロック」というメソッドのプログラミング言語の発展版が使われている。タップに合わせてシールの色や形が変わる、といった簡単なことから、シールを使ったゲームまでプログラミング可能だ。どんな感じかは、これも同社のウェブに公開されている動画を見ていただくのが早い。

UEIが公開している、ブロック式プログラミングツール「前田ブロック」の説明動画。アルファベットを知らない子供でも簡単にプログラミングができるよう工夫されたものだ。これの発展版が、enchantMOONに搭載される

 さらに言えば、このスクリプトによる「シールのアプリ化」は、前田ブロックという形で見えているものの、そもそもがJavaScriptで記述されている。自分でさらに奥深くに入り、JavaScrpitを直接書いて制御する事だって可能だ。しかももちろん、動作はまったく遅くない。

 実はenchantMOONは、Androidをカスタマイズして作られた基盤部(通称SATURN-V)と、Googleがオープンソースで公開しているJITコンパイラ型のJavaScriptバーチャルマシン「GoogleV8」のカスタム版(通称EAGLE)の組み合わせでできている。単に最適化されたOSで動いているだけではなく、プログラマブルかつ高速に動作する上層部を生かして作られた、きわめて変わったアーキテクチャで動作しているのである。パフォーマンスも高く、「厳格なベンチマークの結果ではないが、EAGLEは、通常のオープンソース版AndroidのWebkitと比較した場合で3~100倍の処理向上が確認できている。特に特にグラフィックスが多いものでは10倍以上高速になる」(清水氏)という。

UEI提供による、enchantMOONのアーキテクチャ図。このように組み合わせられることで、独自性が高く動作も快適なハードが出来上がる

 UEIは、HTML5とJavaScriptを使ったオープンソース形式のゲームエンジン「enchant.js」を提供しており、enchantMOONとも大きな関連性がある。enchantMOON上で作られた「プログラミングされたシール」は、ネットワーク上に「自分の作品」として公開することができる。これは、同社がenchant.jsを使って展開している、若いプログラマの発掘と育成を目的としたゲーム開発コンテスト「9leap.net」にだぶる。彼らがもっているenchant.jsの力と、それを簡単に使えるようにする「前田ブロック」、そして、同社内にあったAndroidのソースを読み込んで深くカスタマイズする技術がすべて一体となって、enchantMOONは出来上がっている。だから、「enchant」が頭に付くのである。

 ハイパーテキストを基本に置いた、プログラム可能なドキュメントブロックによるコンピュータ。これはその昔、アップルが「HyperCard」で実現しようと思ったものに近い。実際清水氏は、「プロジェクトとしてはうまくいかなかった」ものの、同社内でHyperCardについて研究していた時期がある、と認める。今は消えたHyperCardの持つ可能性を、ハードウエアと一体化し、「手書き」という実用性とセットにして作り上げたもの。

 それが、UEIが考える「enchantMOON」の正体なのだ。

 enchantMOONがプログラミングにこだわりには、もう一つ理由がある。それは子供達のためだ。

「自分は、コンピュータがないとどうしようもない子供だった」と清水氏は言う。清水氏は、小学校の時代からプログラミングをはじめ、ソフトを作ることと共に育ってきた。おそらく、1980年代初めにパソコンに触れた世代(筆者もそうだ)の中には、そういう人種も多いはずだ。enchant.jsと9leap.netも、それを今に再現しようという試みである。

「実は、東日本大震災の後、被災地の子供達にパソコンを渡そう、という運動をしていたんですよ。自分がコンピュータがないといられなかったので、才能のある子にはパソコンを渡したかったんです。でも、実際には大人の手に渡っちゃったんですよね。大人もパソコンが不足していたので。だから今度は、そういう才能のある子のところに届くものが作りたい、と思ったんです。パソコンと同じ使い方の機械じゃだめだ、と。」

 清水氏はこうも言う。

「我々の時にも、父親が買って飽きたパソコンを僕らが使って育った、的なところがあるじゃないですか。だから、enchantMOONも、ガジェット好きな親が買って飽きたら、子供が使ってプログラムで遊んでくれる。そんなところもいいかな、と。そういう意味では『おとうさんむけ』と『こどもむけ』の製品なんです」

「普通にならない」ために樋口真嗣氏が参加、廃墟の離島でPV撮影

 だが、である。

 この話、すんなりとみなさんの頭に入ってきただろうか? コンピュータの歴史に詳しい方、コンピュータアーキテクチャに興味がある方なら面白いと思うだろうが、「普通の人」だとすぐに飛びつきづらいかも知れない。

 enchantMOONは、少なくとも試作機で見る限り、とても簡単な機械だ。手書きを生かす機器として使うなら、今のiPadやAndroidよりよほど簡単である。UI設計担当者は「自分の父や母にもすぐ使える、バリアーのないものを」目指したと言っており、それもうなずける。

「タブレットは特に、なにができるかわからないもの。いまですら、きちんと使いこなしている人は少ない」と清水氏は言う。新奇性の高いenchantMOONの場合はなおさらだ。

「新しすぎて誰もついてこない。そこで、ふつうの人向けの接点が必要だと思ったんです。それに、ハードを作るとしても、正直僕らだけでは、なにが『かっこいい』かわからない。かっこよさは、ぼくらだけでは作れないんです」(清水氏)

映画監督の樋口真嗣氏。UEIでは「CVO(チーフ・ビジョナリー・オフィサー)」を務める。写真はPV撮影中のもの

 そこで登場するのが、樋口真嗣氏と、作家の東浩紀氏である。

 清水氏は、まずenchantMOONのデザインを、漫画家の安倍吉俊氏に依頼した。現在の原型はそこでできる。さらに、樋口真嗣氏に、ビジュアルと世界観の製作を依頼した。「イメージしているものを具体的な形にしてもらうため。絵と映像と立体、すべてをやっている人は樋口さんくらいしかない」(清水氏)と考えたからである。

漫画家・安倍吉俊氏による、enchantMOONのコンセプトデザイン画。これを元に試作が重ねられ、さらに樋口氏がビジュアル監修の形で入り、製品版が完成した

 樋口氏は次のように経緯を話す。

「最初、『端末を作ってる』という話は聞いていたんですよ。デザインの相談に乗ってくれないか、という電話がかかってきて。それまでは飲んでいるだけの関係だったんですけどね。以前、士郎正宗さんやカトキハジメさんがマウスをデザインしたことがありましたよね?(筆者注:エレコムが2002年に発売した「M.A.P.P.シリーズ」)最低、あれは越えないといけない。とはいえ、形としては出来上がっていたので、そこに口を出したくらいですね。最初の試作品は、ハンドルの出来だとか、加工がださくて。それではダメだ、という話はしたんです」

 清水氏は、その「ダメだし」にかなり衝撃を受けたという。「いきなり、『ここは黒くなきゃダメでしょう』といって、試作品にマジックで色を塗り始めたんです。ああ、クオリティを上げるにはこういう人がいないとダメなんだな、と思った」と笑う。

 他方で、樋口氏は次のように謙遜もする。

「私は素人ですからね。それが口を出して影響を与えるとか、採用されるとまでは思ってないですよ。だから受け流されるのかな、と思ったんです。逆に俺が驚いているくらいで」

 しかし、その意見こそが、清水氏の求めていたことでもあった。

「そもそも、清水さんのやろうとしていることが、まあ、ちょっとおかしいわけです。ですから、そこでマトモでいてもしょうがない。俺は俺で、自分はこれでも常識的な人間だと思っているんですけれど(笑)、清水さんの狂ったチューニングを『狂い続けさせないと』いけないわけですよ。時々、常識的なことを言うんですよ。清水さんのくせに(笑)。守りに入る。そこに『ちょっと違うんじゃない』と言うのが役目かな、と」

 例えば、ハンドルのディテールにこだわること。紙のように使うなら「画面は白バック」という清水さんに「黒だ」ということ。デザインが「板」になりそうなことを止めること。配送に普通の「箱」を使おう、と言う意見に「水に漬けて配送しちゃどうか」と無茶を言うこと。そういうビジュアル的な無茶ぶりをし、このプロジェクトにある種の喝を与えることが、樋口氏の役割となった。

「だって、アップルの製品は良く出来ていますよ。単純に箱や板で出てくるなら、『Design in California』ってやられちゃあかなわない。あれ以上のものは出せない。だとすれば、質感そのものを変えていかないと、後追いにしかならない。どんなに良くても、同じじゃ後追いなんですよ。すべて疑ってかからなきゃいけない。普段あんだけ疑ってかかってる男がですよ、時々『間に合わないからこれでいい』とか言い始めるんです。そうじゃない。……だから、もしかするとこの会社の経営を破滅的な方向に導くのは、俺かも知れない(笑)」

 もちろん、最後は冗談だ。そもそもこのプロジェクトは、単純に利益を求めるものでない、と清水氏も言う。

「正直、そんなに売れないですよ。iPadのように『すぐに便利』なものじゃないですし。そりゃiPadの方が便利ですよ。それに、生産を予定している分が全部売れても、利益はトントンくらいです。いいんです。『こういうものが作れる』こと、R&Dとしてここから得られた成果で、長期間かけて利益が得られれば。もちろん、まったく売れないと困るのは困るんですが」

PV撮影中の、清水氏(左)と樋口氏(右)。清水氏が扮装しているのは、PVにキャストとして参加するため

 ある意味、自分達の会社が「なにをできるのか」を追い求めるプロダクトであり、自らの会社の「ショーケース」でもあるのだろう。

 それを多くの人に「わかりやすく」するための道具として考えられたのが、冒頭で紹介したPVだ。清水氏たち開発チームが考え、樋口氏が考える「普通じゃない」イメージを伝えるための手段として、映像の力を借りることになったわけだ。映像としてのストーリー性・イメージとなる言葉は、東浩紀氏が担当する。

 映像の「ネタバレ」にも繋がるので詳しくは説明しないが、アップルが有名なイメージビデオである「1984」で提示した、監視社会的なものへの反抗というビジョン(これはジョージ・オーウェルの1984のテーマでもある)に対し、同様にディストピア小説である「すばらしい新世界」(オルダス・ハクスリー)が描く、「個人が好きなものを体験して常に満足しているが、それも枠にはめられたものでしかない」という世界への反抗、というビジョンに基づいている。すなわち、今のアップルのあり方に対するアンチテーゼ、ということになるだろうか。

長崎県・池島。元々は炭鉱の島として賑わっていたが、2001年に閉山。この日は海が荒れ、撮影場所への到着もギリギリとなった。http://ikeshima.info/kengaku.html||t

 撮影は、長崎県・池島(軍艦島こと端島にほど近いところにある)を中心に行われ、屋外と同島にある池島炭鉱内で行なわれた。冒頭で述べたように、樋口氏の人脈により、力のあるスタッフが集まって作ったために、非常にクオリティの高いものに仕上がっている。相当にコストがかかっているものだが、本来このスタッフで作れば「おそらくこの価格ではすまない」(関係者)ものだそうだ。

屋外の寂れた風景の中での撮影。午前のまだ天気が良好な間に撮影が行われたというが、風景が寒々しい
メインの舞台となる池島炭鉱内。なんともいえない雰囲気。映り込むケーブルなどは、ほとんどが元々炭鉱で使われていたもので、セットではない
映像をチェックする、監督の湯浅弘章氏と撮影の村川聡氏
PVの撮影は、全編、キヤノンの「EOS5D」を使って行なわれた

 この映像は、enchantMOONの世界観を説明するものとして公開されるが、本来の狙いはもう一つある。それが、「Kickstarter」での説明用ビデオとしての意味合いだ。Kickstarterは、いわゆるクラウドファンディングの草分け。アメリカ市場向けには、主にこのルートでの販売を予定しているという。日本では、まだ正式な販路は決定していないものの、一般店頭ではなくAmazonなどを経由しての販売になりそうだ、という。

 価格はまだ決まっていない。だが「いまのところ、普通のタブレットよりは高くなる」とのことなので、低価格なガジェットだとは思わない方が良さそうだ。そういう意味でも、実用性より「思想」「おもしろさ」に投資する製品といえるかもしれない。

 UEIは、1月8日よりアメリカ・ラスベガスで開催される「International CES」にも、enchantMOONをもって出展する予定である(ブースはVenetian Ballroom - 70211)。CESに来ている方は、いち早く実機を見るチャンスだ。

西田 宗千佳