ソニー、大賀典雄相談役の「お別れの会」を挙行

故人ならではの「音楽葬」で関係者が送る


社葬が行なわれた東京・上野の東京文化会館

 ソニーの会長、社長などを歴任したソニー相談役の大賀典雄氏の「お別れの会」が、2011年6月23日午後3時から、東京・上野の東京文化会館で、しめやかに行なわれた。

 ソニー株式会社およびソニーグループの社葬として開かれた「お別れの会」は、故人の生前を忍ぶソニー関係者や業界関係者、音楽関係者など約1,100人が出席。出席。ソニーのハワード・ストリンガー会長兼CEOが葬儀委員長を務めた。


4月23日に逝去した大賀典雄氏(2003年撮影)

 式辞を述べたストリンガー氏は、「キャリアの大半をテレビ局で過ごした私がソニーのCEOになった時、大賀さんがエンタテインメントからキャリアを築いたことを知り、どんなにほっとし、心強く感じたことか。今日、この会場には悲しみが満ちている。しかし我々は、生前の思い出を分かち合い、たたえるために集まった。あなたの残した遺産は、力強くゆるぎのないもので、我々が波立つビジネスの海を航海するにあたり、時に地図となり、時には羅針盤となる。技術とともにに、デザインとマーケティングの魅惑的なコンビネーションこそが、『お客様の心の琴線にふれる』伝説的な商品を生み、ソニーを偉大な成功に導いた。ソニーは世界で最も尊敬される、燦たるブランドとなった。エンターテイナーの心と技術者の頭脳をもったあなたは、色々な意味で、ソニーそのものである。あなたの奏でる『ソニーの旋律』で我々を揺るぎない未来へと導いてほしい」などとした。


 


■ 「人生に悔いはない、だから死んでも悲しむな」

 お別れの会は、「音楽葬」の形を取り、1時間弱に渡って、大友直人氏の指揮により、東京フィルハーモニー交響楽団が献奏。合唱はソニー・フィルハーモニック合唱団が行なった。

 

音楽葬の形で行なわれた「お別れの会」(写真はソニー提供)

 ソニー入社以前は、東京芸術大学音楽学部声楽科卒、東京芸術大学専攻科修了のほか、ミュンヘン国立高等音楽大学、ベルリン国立芸術大学音楽学部に学んだ経歴を持ち、ソニー入社後も東京フィルハーモニー交響楽団会長兼理事長を務めるなど、音楽とは切っても切れない大賀氏ならではの生前を象徴する葬儀となった。

2003年1月の取締役議長および取締役退任の会見で、当時社長の出井伸之氏(左)と握手する大賀典雄氏

 お別れの会の開始とともに、ベートーヴェン 交響曲第3番「英雄」第2楽章が献奏され、そのほか、モーツァルト レクイエムより「ディエス・イレ」、「ラクリモサ」、ヨハン・シュトラウスII世 「こうもり序曲」、ベートーヴェン 交響曲第7番第2楽章、シューベルト 交響曲第8番「未完成」第2楽章が献奏された。

 また、桐朋学園大学学長であり、サントリーホール館長の堤剛氏のチェロによるバッハ 無伴奏チェロ組曲第6番サラバンドが献奏されたほか、お別れの会の最後には、大賀氏自身が「私の葬儀の最後に演奏してほしい」と希望していたシューベルト 「ロザムンデ」間奏曲第3番が献奏された。

 弔辞を述べた日本政策投資銀行 代表取締役社長の橋本徹氏は、「初めて大賀氏と出会ったのは、いまから59年前の昭和29年。戸隠高原で行われた全国高校生キャンプ大会で、高校生の私にキャンプファイヤーの歌の指導をしていただいたのが、当時、東京芸術大学4年生の大賀さんだった。歌指導もすばらしかったが、リーダーシップにも迫力があった。その後、1982年に大賀さんがソニーの社長に就任するまでは音信が途絶えていたが、新聞に掲載された写真をみて、あのキャンプ大会での大賀さんだとすぐにわかった。声楽の道を歩むと思っていたので驚いた。その後、折りに触れてお会いしていた。私が富士銀行の頭取のときに経団連のアジアミッションで、シンガポールからクアラルンプールまで、自分が操縦する飛行機に乗らないかと誘われた。富士銀行の秘書室は万が一のことがあると大変なので、それには乗らないでくれといったが、私は、大賀さんは仕事だけでなく、趣味も徹底して極める人なので、上手なはず。私は大船に乗ったつもりで乗せてもらうと回答した。実際にその通りだった」と振り返る。

 また、橋本氏は「私は、大賀さんがソニーという世界的企業の経営者として多忙な日々を過ごすなかで、どうして完璧にオーケストラの指揮を執れるのかを聞いてみたことがあった。するとソニーに入社した時から、会社の仕事と音楽という二足のわらじを履くことを決め、会社では会社の仕事に全力を注ぎ、家に帰ると夕食をとってすぐに寝て、夜中の1時ぐらいに目を覚まし、楽譜を手に想を練っていたという。そしてもう一度ぐっすり寝直して翌日に備える。人一倍努力して、見事に二足のわらじを履ききった。大変長い間、親しく、ご指導をいただいた。ありがとうございました」と、故人との数々のエピソードを披露した。

参列者に配られたCD。ジャケットには大賀氏による「夢」の文字。大賀氏はバリトンで参加している

 遺族代表として挨拶した長男の大賀昭雄氏は、「49歳だった1979年にヘリコプターの墜落で背中の骨を骨折してから、病魔との戦いが始まり、海外で5回、日本で9回の合計14回も救急車のお世話になっている。70歳の時には、中国・北京でオーケストラを指揮している最中にくも膜下出血で倒れ、1カ月あまり意識が戻らないまま帰国し、2カ月後に奇跡的に意識が戻り、無事退院した。昨年の大晦日に、ベッドから滑り落ち、右肩を骨折し、体力、抵抗力が落ちているところにインフルエンザにかかり、2月4日に救急車で運ばれた。お見舞いに来られた方が、大賀さんならば甦る、ビジネスの現場に戻ってくるといってくれ、私たちも奇跡が起き、回復して欲しいと神様に祈っていた。ジェットパイロットでもある父は、日々意識が薄れるなかでも人生の操縦桿を離さなかったが、灯火が消えるように安らかに眠っていった」と語る。

 昭雄氏は「1999年に盛田昭夫氏の葬儀では、我々残されたものは、井深さん、盛田さんが築いた大きな夢と精神を受け継ぎ、21世紀もソニーはより輝いたすばらしい会社に育てると弔辞で述べた。天国に行って、21世紀もソニーは世界中で愛されていると、井深さんと盛田さんに報告しているはず。また、81歳と3カ月という同じ人生を過ごしたことになるカラヤン氏(世界的指揮者であるヘルベルト・フォン・カラヤン氏)とは、音楽の話をしたり、世界地図を広げながら最新の飛行機の話をしたりしているだろう。父は生前からやりたいことはすべてできた、人生に悔いはない、だから死んでも悲しむな、といっていた。幸せな人生を送れた父である」と述べた。



 大賀氏は、2011年4月23日午前9時14分、多臓器不全により81歳で亡くなった。

 大賀氏は、ソニー創業者である井深大氏と盛田昭夫氏の強い勧誘もあり、東京芸術大学在学中の1953年に東京通信工業(現ソニー)と嘱託契約を結び、29歳だった1959年にはソニーに正式入社。第2製造部長としてソニーでの社会人生活をスタートさせた。

 その後、宣伝部長やデザイン室長を兼務。初期に携わった製品には、テープレコーダーのTC-777などがある。

 1964年にはソニーの取締役に就任。2003年1月に取締役議長および取締役を退任するまで、38年間に渡り、ソニーの取締役を務めた。

 1982年にはソニー代表取締役社長に就任。'89年には、ソニー社長兼CEOに就任。'95年には会長に就任した。2000年には、ソニー取締役会議長に就任し、2003年からは名誉会長に就任。2006年には相談役に退いていた。

 財界活動にも積極的で、経済団体連合会副会長、東京商工会議所副会頭、日本電子機械工業会会長などを歴任した。

ハワード・ストリンガーCEOによる式辞(和訳)

親愛なる大賀さん、

私がソニーファミリーの一員となった時、あなたは会長兼CEOとしてご活躍でしたが、あなたの功績はすでに伝説的なものでした。 ソニーのマネジメント会同に参加して初めて間近に大賀さんのお姿を拝見しましたが、本当に光栄で、それから何度あの日を思い出したことでしょう。

私はいつもあなたに対して親近感を覚えていました。あなたは初期のCBSソニーレコードをたちあげられました。 一方私はCBSを経て、ソニーに入社いたしました。二人とも背が高いという共通点もありますよね。キャリアの大半をテレビ局で過ごした私がソニーのCEOになった時、あなたもエンタテインメントからキャリアを築かれたことを知ってどんなにほっとし、心強く感じたことでしょう。

本日は、あなたが館長を務めていたこの東京文化会館に、こんなにも多くの方々がお集まり下さいました。あなたが支援してきた東京フィルハーモニーの演奏を心に刻みながら、ご冥福をお祈り致します。当然のことながら、今日、この会場には悲しみが満ちています。 しかし我々は、本日あなたの生前の思い出を分かち合い、たたえるためにここに集ったのです。

すべての家族がそうであるように、ソニーファミリーのメンバーも年月を経て変わっていきます。しかし、あなたの残してくださった遺産は、力強くゆるぎのないもので、我々が波立つビジネスの海を航海するにあたり、時に地図となり、時には羅針盤となって我々を導いて下さるのです。あなたはいつも技術とデザインとコンテンツがお客様と商品の架け橋となることを御存知でした。そしてその生涯をかけて、情熱と才能と気品をもってこの架け橋を作ってこられました。

音楽の才能あふれる耳で初期のテープレコーダーの音質を改善し、人間的な魅力で最初のラジオを海外で訴求し、デザインセンターを設立してブランドロゴや商品のデザインに磨きをかけて下さいました。 技術と共に、デザインとマーケティングを第一線に押し出して下さいました。この魅惑的なコンビネーションこそが「お客様の心の琴線にふれる」伝説的な商品を生み、ソニーを偉大な成功に導いたのです。

音楽、映画、さらにはゲームへと事業領域を広げることで、あなたはソニーを、今日ある、世界的なエレクトロニクスとエンタテインメントの巨人へと発展させてくださいました。

あなたは世界中がソニーだけでなく、日本を見る目を一変させました。あなたの指導の下、‘made in Japan’ は商品を黄金に変え、ソニーは世界で最も尊敬される、燦たるブランドとなったのです。大賀さん、エンターテイナーの心と技術者の頭脳をもったあなたは、色々な意味で、ソニーそのものです。あなたが空の上にいらしても、あなたのたぐいまれなる精神はここに集う我々全員の中に、そしてソニーの商品、コンテンツ、サービス、ブランドの中に生き続けているのです。

大賀さん、あなたの奏でる「ソニーの旋律」で我々を揺るぎない未来へと導いてください。本当に長い間ありがとうございました。どうぞ安らかにお眠りください。

ソニー株式会社
会長兼社長 CEO
ハワード・ストリンガー



(2011年 6月 23日)

[ Reported by 大河原克行 ]