樋口真嗣の地獄の怪光線

第8回

凄いぞ4K/HDR。初HDR仕事「精霊の守り人~最終章~」が苦境すぎたので見てほしい

いやあ、やっぱ素晴らしいですよ4K。

「仕事でも完パケ納品経験がないサイズを何が悲しくてご家庭で堪能せにゃならんワケ? そんなので目が慣れたら仕事できなくなるでしょ?」

 長く仕事を続けて責任ある立場に回り歳月を経ると若い頃の攻撃的なまでの冒険志向が衰え、あの頃唾棄していた我が身可愛さ故の保守的な思考が支配して来たのであれば大問題ではないのか。現状に対する根拠なき後ろ向きな容認、哲学なき妥協は開拓者としての死を意味するものである。猛省を促したい。

そこのお前だ。

数カ月前に訳知り顔でそんなオーバースペック、猫に小判ですよとか言ってた俺のことだよ!

 と、今の俺はもう違うさらば今までの俺。それならば聞こう。こんな素晴らしい環境を前にかつて共に戦い抜いてきた戦友はどうした?

 マトリクス方式のサラウンドのリアチャンネルから再生される戦闘機の後方旋回や頭上を通り越した破片の落着音。つないだばかりのサブウーファから響き渡るLFE信号。バックライトで照らし出される鮮明ゆえに強調されてしまうマッハバンド。

みんなが追いかけていた夢の最果てがここにあるというのにどうした!

穏やかな家庭のその奥さんの趣味に支配されたリビングルームにスピーカーシステムはいらないのか?

可愛いペットが怖がるからって重低音を諦めるのか?

美学とは何か? 性能だ! カタログ数値だ! キロやメガと言った桁外れの単位や小数点以下4桁の測定不可能領域に吹き出したアドレナリンはどこへいった?

何が配信だ!?

そんなパスワード忘れたら泡沫へ消えていくデータ閲覧の承認項目に何の価値がある?運営方針一つであっという間にメニュー画面から消えるような存在だけで満足できるのか?

データ転送方式に左右された圧縮比率に製作者の意図が反映されているとお思いか?

欲しいものは我が手に収める、そうしないと全て消えゆくわけよ、それが定めなのさ、トっつぁーん!


落ち着け俺。

 落ち着いた上で言わせていただくと4Kプレーヤーのブルーレイディスクのアップコンバート性能も十分素晴らしいと思うよ。

 でも、そんなデジタルデータを再生しているだけの情報に何をぬかすか?と思われるのを覚悟で言わせてもらうが、アップコンは何だかんだケミカルな匂いがするんだよ。それにひきかえ生(キ)の4K画像のナチュラルなフレッシュさといったら!

みんな早く乗り換えれば、いいのにね。

そうしないとあれやこれの4K版が出ないんだよ!

みんなでこの深い沼を渡ろうよ!

そんな私もやっっと4K仕事にありつけましたでやんすよ。

 すでにオンエアが始まっているNHK大河ファンタジー「精霊の守り人」の最終章です。

 上橋菜穂子さん原作の国産最大級のスケールで描かれるファンタジー小説をもとに連続ドラマ化されています。すでにシーズン1、シーズン2を経ていよいよクライマックスです。

大河ファンタジー「精霊の守り人~最終章~」
総合テレビ 毎週土曜日 午後9時~

 私は6話からラストまでのエピソードを担当しておりますが、このドラマ、当初から世界初の4K/HDR収録の4K/HDR仕上げを謳っておりまして(注:放送はSDR)、これが従来通りの方式でもかなりいっぱいいっぱいな作業をさらにカツカツにしちまっておりまして、しかも4Kだけならいざ知らずHDRという高画質表現が可能になるフォーマット、ということはファイルサイズが冪乗的に膨れ上がってよほどのインフラが整っていないといかんわけで、その辺世界最大級の放送局の底力が控えているので何の疑問の挟むことなく大船に乗ったつもりでドンブラコでございますよ。

HDR、ダイナミックレンジがハイだからハイダイナミックレンジ。

 白のピークから黒のボトムまでの輝度の階調って、従来のフィルムやハイビジョン等のフォーマットでは人間の目が捉えることができる段階にはるかに及ばない範囲しか表現ができませんでした。

(詳しいテクニカルな解説はこちら)

 つまり、眩しい太陽光を背にした逆光を背負った人物を撮ると背景の空は強い光源に近いので空ごと白飛びし、人物の表情は暗部に潜り込み、いわゆるシルエットになります。普通のスナップや記念写真であれば、よくやる失敗写真の典型ですが、それを逆手に取って演出表現に昇華させたのは他ならぬ我が国を代表する映画監督、黒澤明でございました敬称略。昭和28年の羅生門で当時はタブー視されてきた太陽にカメラを向けた撮影…… 当時のフィルムベースは可燃性のセルロイド製で、一度発火したら有毒ガスを発生させて水をかけても消せないほどの厄介な物質なのに、それを映写するために高熱を発するランプのそばを瞬間的とはいえ通過させただけでなく数百人の観客を密室に押し込めた上で!という恐ろしいことを平気でやってたのです。「ニューシネマパラダイス」の舞台となった映画館が焼失したのも、「イングロリアス・バスターズ」でアドルフ・ヒトラーが蜂の巣にされるのも、「ララランド」でエマ・ストーンとライアン・ゴズリングがくっついちゃうのもすべてセルロイドベースのフィルムに起因しているのです。(一部は映画のウソですよ)

 そんな火薬庫のようなフィルム1/24秒だけとはいえに太陽光線をレンズ越しに照射して撮影したらどうなるか? という命がけの実験の結果生まれたのが木漏れ日の中歩く志村喬のバカアオリフォローショットだったのです敬称略。そこで運気を使い果たしたのか、羅生門のダビング作業中にダビングロールが発火するという恐ろしい事態に二度も遭っています。

(編注:詳しくは「羅生門」をご覧ください)

 話がずれましたが、あのカットこそフィルムのダイナミックレンジの狭さを利用して生まれた名場面といえましょう。

 それに端を発して光と影を強調した絵作り……光の中に佇むシルエット、暗い影の中に蠢く気配こそが映画的なルックであると崇められ、その狭いラチチュードをいかに味方につけるかが映画作家としてのテクニックとセンスが問われ競いあい高みを目指してはや一世紀。センチュリー!

そんな映像美のルールが通用しないのがHDR、ハイダイナミックレンジなのです。

 なにしろ限りなく人間の目に近い状態で輝度を捉え再現できるのです。

 どんなに逆光でも光源はより強く光るにもかかわらずその周囲のディテールは明確に残り物陰や夜の暗闇は細部にわたるまでクッキリと。

 陰影を画面内に構成することで不足している細部の描写を補う必要がなくなった結果、全部が均等に見える世界がやってきたのです。困ったことに。

困る理由は二つあります。

 一つは陰影の強い。生まれてこのかた見続けてきた情報量をコントロールして得られる映像のスタイルがかっこいい、としていたので、それ以外の映像をかっこいいと思えないこと。

 もう一つは製作過程における様々な制約は、その陰影の表現でクリアできてきたのです。それが難しくなった。

 例えばセットで撮影した窓の外。窓外からの強い日差しが室内に差し込んでいるとしましょう。

 その場合、室内の人物に露出を合わせれば窓の外は明るいので特に何も作らず白い布幕を貼り、そこに強い照明を当てて白く飛ばすはずでした。今までのSDR……スタンダードダイナミックレンジであれば。

 ところがHDRだとその窓の外の白い布としてピンと張った時にできる細かいシワが明瞭にわかっちゃうのです。

 夜の場面だから森のセットの奥の方は暗幕を貼ればオッケー……のはずだったのに暗闇は暗闇でなくすべて黒い布として見えてしまうのです。

 100年かけて作り上げてきた先輩たちから受け継がれた美意識をこうも簡単に更新しなければならないとは!

 大自然と向き合うような本物だけで勝負ができない切実な事情を抱える我々ファンタジーチームも、陰影が強目の方が本物らしいという作り手と観客の間で共有が可能なビジョンを利用してさも本物らしく錯覚させてきたのにそのやり口もまた使えません。

万策尽きた中での一から出直しからのまた勝負。

 NHKのドラマという初めての環境での演出含めて、五十過ぎてチャレンジとはなんたる無謀。

 でもそんな無茶とか無謀ばかりやってきたので、こうやって後になって客観的にならないとそれが無謀かどうか判断がつかない、というかやりますと決めた時は意外とやれそうなんじゃないかと思ってるあたりに学習能力がないというかつける薬がないほどの太平楽というか。

 でも、意外とそんな苦境、いや環境を楽しんでやりましたんで、みてくださいな。

1月6日から毎週土曜日21時からやります。

もうスタートしてますので第6話からスタートです。

一時間枠です。この一時間というのがまたただの一時間ではございませんでしたが、その話は来年に。それでは良いお年を。

樋口真嗣

1965年生まれ、東京都出身。特技監督・映画監督。'84年「ゴジラ」で映画界入り。平成ガメラシリーズでは特技監督を務める。監督作品は「ローレライ」、「日本沈没」、「のぼうの城」、実写版「進撃の巨人 ATTACK ON TITAN」など。2016年公開の「シン・ゴジラ」では監督と特技監督を務め、第40回日本アカデミー賞最優秀作品賞を受賞。