樋口真嗣の地獄の怪光線

第9回

ドカーン!とお詫び。マスターモニター vs 頑張りすぎるテレビ

まずはお詫びから

いやー申し訳ないです。

いきなりですが前回の「精霊の守り人」HDRについての書き方にNHKの技術チームから物言いが入りました。

現状の放送フォーマットでは4K HDRの放送はできません。ですから「精霊の守り人 最終章」の地上波放送は2K SDRで送出しております。

だとぉ?

つまり前回私がいかに苦労したかを連綿と語った4K HDRはでまかせ、デタラメだったと?

いえ? もちろん収録は4K HDRですし、これから時間をかけて4K版の作業をはじめます。

つまり…?

放送日に間に合わせるためのスケジュールでは、とてもじゃないけど4K HDRの品質で仕上げることは不可能ですとりわけギリギリになってあそこをああしたいこうしたいあんなんじゃ受信料を納めていただいている視聴者の皆様に申し開きができないとかいって直すなんて言語道断でもやっちゃうでしょだからこちらとしても皆様の言い分を最大限汲んだ上でできる対処法がこれだったわけですよそれなのに裏も取らずに有る事無い事でっち上げてどういうつもりなんですか? だいたいまだ試験放送もやっと始まったばかりなのに4K版慌てて作っても放送すらできないような状態なんですよ!

 と、口には出さないがその煮え繰り返ったはらわたの様子は手に取るようによくわかる。

 仮に4K HDRで仕上げていたとしても現状の放送フォーマットにダウンコンバートした上での放送だからそのご利益は限りなくない。そんな状況なのに嘘、紛らわしい表現で視聴者の期待をいたずらに煽りやがって抗議の電話が殺到したらどうするんだ? と心配したものの今のところどこからも文句は言われていないから、セーフ。セーフでしょう。(編注:前回記事に「放送はSDR」と注を入れさせていただいております)

大河ファンタジー「精霊の守り人~最終章~」

 それよりも4K編集室に入って、ずっと4K HDRだと信じてチェックをしていた時に久々に身悶えするような体験をいたしまして。

 フィニッシュまで持っていくための編集室の中は中央に鎮座する一際大きなモニター、高い品質の画を安定して表示できるマスモニ。マスターモニターが置かれ、それを取り囲むようにそれぞれの素材を同時に表示するための小型モニターや波形表示の専門的なモニター、それらがはめ込まれた壁と向かい合うように作業をする編集オペレーターのコンソールが部屋の中央にあり、我々ディレクターはその後方、壁際に置かれた座り心地のいいソファに座らされる。その傍には民生機…… 一般家庭にあるいわゆるテレビが置かれています。

 作業を品質の高いモニターでし続けると、それをお茶の間に流したら全然違って見えることがあるので絶えず確認しなければならないのです。

 実はそれぐらい民生機と放送用機器の間には差があったのですが、それもブラウン管の時代のこと。

 プラズマ、液晶とテレビが平面化した頃から、そのイノベーションについていけなくなったのが恐るべきことに放送用機器でした。

 まだ技術的な伸びしろがある、というのもあったのでしょうか、それまでのブラウン管のマスモニに取って代わる平面モニターに於けるマスターモニターはすぐに登場しませんでした。だから、編集室のマスモニが置かれる位置には従来のブラウン管式のマスモニか、当時の最高性能を誇る民生機が置かれていたのです。

 それがここ数年になってやっとその条件をクリアできるマスモニがあらわれました。

OLED……有機ELを使用した高性能な表示装置がやっとあらわれたのです。

 見ればため息が出るような驚異的な画質ですが ソニーの30インチで400万越えという個人では手が出せないビッグプライス!

ソニーの有機ELマスターモニター「BVM-X300」

 それ使用して色を調整しながら確認のために民生機に分岐してあるソースを見比べます。

 ここの環境で作業している絵が一般家庭ではどういう雰囲気で見えるのかを比較検討するためです。ご存知の通り『精霊の守り人』は我々が生まれ育った世界とは違う自然と文明を舞台にしたドラマです。現実とは違う世界をどう説得力を持って構築していくか。

 主人公役の綾瀬はるかさんをはじめとしてほとんどのキャストは過酷な環境で生活している境遇を見せるためにかなり濃い色のファンデーションでベースを作り、強い日差しを浴びて日焼けし、荒野を何日も移動して蓄積したであろう土埃にまみれています。

 華美さを避けてリアリズムを優先した絵作り…… 彩度を落としてコントラストを上げ、重厚な緊張感を孕んだルックに仕上げていきます。マスモニに写るその画に満足し、さて民生機では、と目を移すとせっかく落としたフェイストーンが鮮やかに輝いています。

ザラザラのマットな質感を追求した壁面はツルツル。

なんか全体的にキラキラピカピカして華やかです。

私たちが目指していた深刻なルックがどういうわけかハッピーな意図に書き換えられています。

どういうことでしょうか?

 今も昔も民生機の競争は量販店の店頭、ズラリ並んだテレビの洪水。高画質の濁流の中で執り行なわれています。

 行かれた方はお気づきかもしれませんが、量販店の店内はこれでもかと明るく輝き、その中でさらにテレビの表示パネルはその発色を、鮮明なコントラストを争い競いあっています。

 そういう環境下でソースに忠実な色を再現すると、見劣りしてみえるそうです。そうすると売れない、売れるのは明るく、鮮やかなパネル。商品価値の全てであるように女優の肌は限りなく透明で美しく、海外ロケの空や海は抜けるように青く輝くように鮮明なのです。

一般家庭の標準的な設定で観た場合、ツルツルのキラキラのピカピカでハッピーです。

 まあ普通のバラエティや歌番組であればとても幸せになれますが、先にお話しした通りのリアリズムを目指す異世界もそんな色づくりされちゃったらたまりません。

 民生機には民生機の役目ってものがあるので、文句を言っても始まりません。民生機でも脱色して見えるぐらいギリギリの色味を狙って彩度調整しますが、敵もさる者。

 眼の周りや唇に残ったわずかな色成分を拾い出してはよくぞここまで!ってぐらいに持ち上げてきます。どんなに落としても、鮮やかなリップやアイライン。綺麗な人はより美しく…って余計なお世話だよ!

 こうなるとNHK技術陣対家電メーカー技術陣との頂上決戦です。

 双方の言い分、双方の意地。どちらにも非はありません。

 そんなに色を出したくなければ、設定画面から画像設定を開けば相当なファンクション数で事細かに画質を調整できます。

 でも、放送である以上、すべてのお茶の間や定食屋のカウンターの上などでこちらの意図通りのチューニングで観てもらえるわけないのです。

 だけど、よりにもよって意図して作っていることの正反対のことをここまで徹底的にやられると相手は機械の自動機能なんだけども、なんだか間違っているのは我々なのではないかと疑いたくもなり、寂しくなります。

それでも船は進む、ショウマスト轟音でございます。

 そう遠くない近い未来、4K HDR放送が本格化した時のために、コツコツとHDR版「精霊の守り人 最終章」を作り続ける日々が続くのでありますよ。

ドカーンとやりたいんだよドカーンと

 轟音といえば、公共放送には今や切っても切れないラウドネス。

 といっても高崎晃さんのギターが唸ってヘドバンするラウドネスではなく、昔のラジカセについていてスイッチオンで低音域がバーンと 前面に出てど迫力再生には欠かせないけどいざ切ったら曲そのものがしょぼく聞こえてしまう麻薬のようなスイッチでもない(意味合い的には近いけど)。

 この場合の「ラウドネス」とは、「テレビ放送における音声レベル運用基準」です。今までのテレビ番組やCMはそれぞれ音量感が不揃いでした。番組を見ていてCMになった途端音量が大きすぎて慌ててボリュームを下げる、なんて経験はありませんか? そのままにしてまた番組になったら逆に小さくて聞こえない、落ち着いてテレビが見られない、そんな問題を解消するために、より聞き取りやすい放送を目指して「人の感じる音の大きさ」に着目し、「わかりやすく・新しいルール」として制定された基準が「ラウドネス」なのです。

 この基準にあわせてレベル調整をしたもの以外は納品も送出もできないのですが、民放向けの、どっちかといえば注目を集める目的のコマーシャルの狼藉を取り締まるものだから対岸の火事だとタカをくくっていたらその魔の手はNHKにも伸びていたのです。

 今までの映画づくり、絵作りや演出が及ばず至らぬ描写があった場合、音の演出でカバーする、ということが昨日今日に始まったわけではなく当り前の手段として常套化しておりました。

 少々の庇護すべき欠点はデカい音をがーんと鳴らして脅す驚かす、そして楽勝。そこまでいい加減ではありませんが、音の魅力魔力を最大限に活かして総合的にディレクションしてまいりました次第でございますよ実は!

 ところがNHKも準拠しなければならないらしいんですな民間放送じゃないのに! コマーシャルないのに!

 何せドカーンとしたシチュエーションですから当然のごとくいつものようにドカーンと音圧を上げようとするとラウドネスメーターが点灯、判定アウト。

 ゴゴゴゴゴと迫る脅威、張り詰める緊張感を表現するにはスーパー重低音でお茶の間を共振させようとフェーダーをガツンと突っ込もうとしたらラウドネスメーターが点灯、判定アウト。

 登場人物の感情もクライマックスですから昂ります、素晴らしい演技に加えてさらに感情の波…… ヴィブスにバイアスを加えるには佐藤直紀さんコンポーズの素晴らしいスコアが必須。お茶の間の皆さんの感情を一気にヒートアップするには音楽トラックのフェーダーをいつもよりも大きい位置目指して上げていくとラウドネスメーターが点灯、判定アウト。

 それでもそんな制約の中で最大限の表現を担ってきたNHKの音響チームの皆さんのテクニックによって相当いいとこまで持っていけましたが、それでも募るはラウドネスうらめしやでございますよ。

 そりゃいろんな家庭の事情もおありでございましょう、うるさかったりするのは良くないかもしれないけど、そう言う場面なんだから許してほしいよ、なあ…。せめてパッケージ版とかはスーパーウーファーならせるようにしときたいなあ……。

樋口真嗣

1965年生まれ、東京都出身。特技監督・映画監督。'84年「ゴジラ」で映画界入り。平成ガメラシリーズでは特技監督を務める。監督作品は「ローレライ」、「日本沈没」、「のぼうの城」、実写版「進撃の巨人 ATTACK ON TITAN」など。2016年公開の「シン・ゴジラ」では監督と特技監督を務め、第40回日本アカデミー賞最優秀作品賞を受賞。