藤本健のDigital Audio Laboratory
第598回:DSD音楽制作の新たな取り組みを解説「1ビット研究会」
第598回:DSD音楽制作の新たな取り組みを解説「1ビット研究会」
「音場の缶詰」を目指す技術も
(2014/6/30 13:08)
6月25日、早稲田大学で第9回目となる「1ビット研究会」が開催された。前身である1ビットフォーラムを含め、1bitオーディオの世界を引っ張ってきた山崎芳男教授が3月末で退官されて名誉教授となられたことを受け、この1ビット研究会の体制も若干変わったようだ。
プログラム的にも、これまでメーカーが中心となった発表であったのに対し、今回はコンテンツ作成などに主眼を置いたものになっていた。その内容について、筆者が多少なりとも理解できた範囲でレポートしてみたいと思う。
DSDの音楽データのダウンロードに注目が集まる中、この1ビット研究会も会を重ねるごとに参加者が増えてきているように思うが、今回の発表内容は以下の6つだった。
発表内容
[概要] オーディオ愛好家が陥りやすい1ビットオーディオに対する誤解や難解部分を挙げ、更に正しい理解の一助と するため、私達が考える解説を提案。自作ボードキット装置(改良版)により 11.2MHz/1bit 高音質音源の試聴
[概要] クラシック音楽が生まれ育ったヨーロッパの教会、宮殿やコンサートホールでの演奏と響きを聴衆の立場で収録、レコード芸術としての録音と異なる自然な音場再現による音楽の楽しみ方と今後の問題点を提言
[概要] 高音質・高臨場感体験を目指し、バイノーラル1ビット録音を行ない、ビデオを含む各種フォーマットで公開。個人HP「武蔵野メディア研究所」での大容量デジタルコンテンツ公開の実現方法なども交えて解説
[概要] 音声、無線通信分野で基盤技術となりつつある1ビットΔΣ変調技術。それらの相違点を紹介し、無線分野で広がりをみせるデジタル化の流れとバンドパスΔΣ変調技術を応用した1ビットデジタルRF技術について紹介
[概要]ΔΣ変調を用いずとも適切なディザを加えれば、高い標本化周波数での1ビット直接量子化による記録が可能。ライダーの原理に基づいた音場記録への応用を考えており、その手法を説明
DSD 11.2MHzの再生システムを再びデモ
最初の発表は、実は前回である第8回のリベンジ。デジタル・オーディオ装置自作愛好家を名乗る中島千明氏と的場文平氏の両名が自分たちで設計、開発したオーディオ再生装置を用いて、11.2MHzの1bit音源を会場で再生しようというものだ。しかし、前回はトラブルで動作せず、改めて今回再生デモが行なわれた。
一般にDSDのデータというと2.8MHzまたは、上位のもので5.6MHz。それを遥かに上回る11.2MHz(正確には11.2896MHz)でレコーディングされたデータは、まだ世の中にもほとんど存在していないが、1bitコンソシアムが公開しているデータが1つ存在する。「ストラディバリソサエティのバイオリン(クリストフ・バラティ)」である。これはシカゴのストラディバリ・ソサイエティで演奏したものを、前出の山崎教授が2006年にレコーディングしたというもの。ただ、これを再生できるハードウェアがなかったので製作した(編集部注:ヘッドフォンアンプのOPPO「HA-1」など一部機種は11.2MHzに対応)というのだ。的場氏によると「11.2MHz/1bit音源の再生音の生々しさは2.8MHzや5.6MHzとは次元の異なるもの」とのこと。仮説として「デジタルもある分解能を超えると急に自然さが増すのではないか」として、会場では実際にその音が披露された。
再生システムの詳細については前回の記事でも触れているのでここでは割愛するが、電源部分はシンプルになっている。今回は特に問題なく動作した。比較対象がないので何ともいえないが、確かに生々しい音であり、感激できるサウンドではあった。また、あらかじめAudioGateで176.4kHz/24bitのWAVファイルに変換したものを別のPCで同時に再生させ、それをWaveSpectraでFFT分析したものを画面に表示。これを見ても、確かに高域まで音が出ていることが確認できた。
このデモに続き、「オーディオ愛好家が陥りやすい1ビットオーディオの誤解」として、いくつかの点を指摘していた。具体的には下記のような点を挙げていた。
- 「DSDはPDM(Pulse Density Modulation)である」と、ΔΣ変調ぬきで、単純化している人が多い
- スーパーテクニックを使えば、ΔΣ変調された1ビットオーディオデータを簡単なビット演算で編集可能だと思っている
- DSDは1種類だと思っている
- PCMとの間で可逆的変換できると思っている
- 「PCM vs 1ビットオーディオ」と極端に単純化して、音質の良否を議論する
様々な場所でレコーディングする際の課題とは
2番目に登場したのは、つい数日前にドイツから久しぶりに帰国したという、レコーディングエンジニアの西村龍雄氏。西村氏は1966年にドイツに渡って以来、長年クラシック音楽のレコーディングに携わっているという大ベテラン。1983年にはドイツのHiFi協会の理事に就任するなど、ドイツでのHiFiオーディオ普及・促進にも寄与してきた人物なのだが、1985年にOne-Point Recordingというレコーディング手法を打ち出し、いまも、それを実践したレコーディングを行なうとともに、個人レーベルnishimuraでワンマン自営業を行なっている。
今回の発表において、西村氏は「クラシック音楽の演奏会場と音場空間の響き」ということで、さまざまな教会、修道院、宮殿、コンサートホールでレコーディングしたサウンドを披露。そして、これらはすべて聴衆の立場で収録したワンポイントレコーディングであって、マルチマイク録音ではない、というのだ。最近は、バイオリン、チェロ、ビオラ、コントラバス、フルート……とティンパニーに至るまですべて個別のマイクを立ててレコーディングするマルチマイク録音が増えているが、ここには大きな問題がある、と西村氏は指摘する。その問題が時間差だ。
例えばラインモーゼルホールの場合、指揮者から一番奥のティンパニーの距離は約11mある。これは音速にして32msecの時間差が生じるものであり、この時間差があって、はじめて成り立つサウンドなのだ。しかし、マルチマイクで録ると、確かに個々の楽器の音はキレイに取れても、音楽として成り立たなくなってしまう、と西村氏は指摘する。もちろんミキサーコンソールにディレイを掛けることで、疑似的に実現することは可能だが、そうした処理を現場でしているケースはほとんどないため、ワンポイントマイクの方式が一番自然でキレイなレコーディングができるのだという。これは、1bitのレコーディングでも同様であり、1bitで録ることで、より自然なサウンドで録音できると西村氏は話す。ちなみに、レコーディングにはB&K(ブリュエル・ケアー:現DAP)のカプセルを使ったデンマーク製の無指向性マイクを使っているという。
バイノーラル録音のDSDを公開、聴き比べ可能に
3番目に発表したのは武蔵野メディア研究所の田中和彦氏。武蔵野メディア研究所といっても、これは田中氏個人が運営している大容量の個人サイトのこと。元NTTの社員であり、現在は国際標準化団体に勤務する田中氏は1997年から高速ネットワークや家庭内でのLANを構築するともに、最新デジタル機器でのレコーディングなどを行なってきた。そして2013年から高速光回線を用いて、自宅の大容量のWebサーバーを武蔵野メディア研究所としてスタートさせたのだ。そのコンテンツのひとつとして公開しているのが1bitで田中氏がレコーディングしたデータ。コルグの1bitポータブルレコーダーであるMR2を2台用いて、田中氏が録音したものだが、すべて無料公開されている。
ユニークなのは、単にMR2で録音したデータを1フォーマットで置いているというわけではない点だ。まず1台は内蔵マイクで録音し、もう1台はRolandのバイノーラルマイクCS-10EMを用いて録音するとともに、DSD(2.8MHz/1bit)、WAV(192kHz/24bit)、WAV(44.1kHz/16bit)、MP3(128kbps)などで公開しているほか、その場で撮影したビデオも公開しており、さまざまな音を聴き比べることができるようにしているのだ。
田中氏は1bit録音について、生録音でもレベルオーバーに強く、小さな音もキレイに録音できるのは大きな魅力だと語る。また今後も、こうした録音/公開は続けていきたいが、課題は音源の開拓だそうだ。録音、撮影するにあたり、著作権、肖像権などの問題が生じるため、演奏者側の許諾が必要となるが、これがなかなか難しいというのだ。いかにそうした問題をクリアにしていくかが、これからのテーマだそうだ。
レコーディングエンジニアが効率的なDSD制作フローを解説
続いて登場したのは、プロの第一線のレコーディングエンジニアである村上輝生氏。村上氏は、まずこれまでのレコーディングの歴史について振り返った。古くはアナログのテープへのレコーディングだったのがCDの登場によって、ソニーのPCM-3348でデジタルレコーディングして、Uマチックのマスターテープへ落とす時代が長く続いた。しかし「ソニーがプロオーディオの世界から完全撤退してしまったため、ProToolsの時代へと強制的に移り変わり、現在へと続いている」という。ただProToolsで処理すれば録音からミックスまですべてProTools内でデジタル的に処理できるが「何か物足りない」、「暖かみが…」、「デジタル臭さが…」といった理由から、最後のファイナルミックス時にアナログテープを使うといった手法をとるエンジニアも少なくないという。
しかし、近年では、まったく逆の発想で「モニターしている音を変えないで、ありのまま記録するツール」として1bitレコーダを活用するエンジニアが増えてきており、村上氏自身も早い時期から取り組んできたそうだ。現在の機材の選択肢としてはコルグのMR-2000かTASCAMのDA-3000の2種類しかないが、これらは複数台同期させることができるので、マルチチャンネルでのレコーディングも容易になっている。実際、会場ではフロントに置かれた4.0chのシステムでの試聴も行なわれた。
ただ、現時点では1bitで収録し、そのままミックスして1bit作品としてリリースされているタイトルは極めて少ない。やはりネックとなるのが編集の難しさにある、という。演奏をそのまま、ただ曲頭と曲終わりの処理だけにするならAudioGateで可能だが、EQをかけたり、異なるテイクをつないだり、ということは基本的に不可能。パンチイン・パンチアウトが当たり前の現在、一発録りを求める1bitレコーディングはかなりハードルが高いようなのだ。
そうした中、コルグが開発した「Clarity」は画期的な存在だと村上氏は語る。Clarityを使えば、マルチトラックでの編集が可能になるのだ。といっても、PCMのDAWとは異なり、フェード処理をする程度なのだが、マルチトラックで行なえるので、かなり自由度が高くなるというのだ。とはいえ、Clarityは世界に3台しかなく、村上氏が使える環境はコルグの下高井戸のスタジオG-ROKSに設置されているものだけ。専任のスタッフにオペレーションをお願いしつつ、1時間6,000円の料金がかかるので、なかなか気軽に使うことはできない。そこで村上氏が編み出した手法は、ProToolsを使ってプロトタイピングを行なうというもの。
まずはMR2000でレコーディングしたDSDのデータをAudioGateを用いてPCMに変換。これをProTools上のトラックに貼り付けて、丁寧に編集作業を行なう。その後、これをミックスダウンした上で、いったん仕上げる。そして、その際使ったオーディオデータがどのファイルでどこからどこまで使用しているのかをリストとして書き出しておくのだ。
その後、DSDのファイルをG-ROKSに持ち込むとともに、ProToolsでの編集ログを元に、Clarityで作業していけば、効率よく編集作業が進められるというわけである。DSDのデータを貼り付けるとともに、慎重にクロスポイントとクロスフェードカーブを決めるとともに、微調整を行なったうえで、全部の編集作業が終了したらバウンスしてDSDのまま書き出す、というわけである。まさに苦肉の策ともいえる手法だが、確かに現時点においてはもっとも効率的な手法のように思える。
最後に村上氏は、「今後個人でClarityを所有できる状況になり、機能が洗練され使いやすいものに進化する日が来ることを願ってやみません」と語って講演を終えた。
無線通信にも1bitのΔΣ変調を活用
5番目の発表は、今回唯一のメーカー発表だが、オーディオ機器メーカーではなく無線通信を手掛けている住友電気工業の前畠貴氏。オーディオ分野だけでなく、無線通信分野においても1bitのΔΣ変調技術が使われており、大きな革新になってきているということでの発表だ。
まず1bit列で作られた時間波形は急激に波形が変化しているので、高調波成分を持っているという。オーディオにおいては、ローパスフィルターを用いて音声だけを取り出しているが、反対に低周波はカットし、バンドバスフィルターを用いれば、任意の周波数の電波を取り出すことができる、というのが回路から見た1bitデータの見え方だ。従来は無線信号自体をデジタル化することは不可能と思われていたが、1bitΔΣ変調技術は、音、無線、光などさまざまな分野を横断的に使用できる技術であると前畠氏は語る。簡単にいえば、これまで電波を出すには周波数変換部や発振器が必須であったが、メモリから直接電波を出力できるようになる。しかもバンドパスフィルタを複数設置することにより、複数の周波数での出力ができるのは画期的だという。
現在のスマートフォンには、複数の周波数帯に対応するため、複数の発振器、周波数変換装置が入っていて、これらが同時に動作しているために、どうしても消費電力が大きくなってしまう。しかし、1bitΔΣ変調技術を使えば、圧倒的に省電力なシステムを組むことができる、というのだ。その後、実際に2波同時送信した場合のデータ紹介やシステムブロック図、回路図の紹介がされたが、今後はアプリケーションの開発や高効率増幅器の開発に取り組んでいく、という。無線通信という、まったく異分野においても1bitオーディオの技術が応用されるというのは、なかなか意外であり、興味深い内容だった。
「空間内全体の音場を記録する」録音技術
そして最後の発表は早稲田大学によるもの。3月末に退官され、早稲田大学の名誉教授となるとともに、この1ビット研究会でも会長職となった山崎教授が、現役の学生とともに「ΔΣ変調を用いない1ビット直接量子化による高標本化記録と音場記録への応用」というタイトルで発表を行なった。この中で、ディザを加算した上で量子化し、量子化後にディザを減算すれば、歪のない音を再生できるという原理について解説をしたり、液体窒素を使い超伝導スピーカーを鳴らすといったデモも披露された。
そうした中、なかなか興味深かったのは山崎教授が以前、ソニーの創業者である井深大氏と交わした「音場の缶詰を実現する」という約束の実現に向けて、少しずつ研究が進んできている、という話だ。その詳細は学生である石川憲治氏が行なった。それによると、本来、ある空間の音場を完全な形で再現するためには、壁一面に小さな無数のスピーカーを設置し、そのすべてから現実空間と同じ音を出していく必要があり、現実的に不可能であったし、そのスピーカーから出す音も無数のマイクを用いて収録する必要があった。そこで考え出されたのが光と1bitオーディオを利用し、ある点の音情報だけでなく、空間内全体の音場を記録するという考え方だ。もともと音は空気の振動であり、大気中の分子の動きであるため、それを測定しようというのだ。ここに活用するのが気象観測システムで用いているLIDARというもの。これはパルス光を上空に向けて放射し、それが大気中の粒子にぶつかって発生する散乱光を観測して、上空の気圧、温度、風速などを計測するという技術。それを音場を測定する空間でも同じように実現しようというものだ。
あまりにも突拍子もない話で、最初、何を言っているのか意味が分からなかったのだが、よく聞いてみると革命的ともいえる録音技術。空間内にレーザー光を照射した場合、レーザーの速度は光速なので約30万km/s。つまり約0.3Gmとなるので、1GHzでサンプリングすれば1サンプルで30cmの動き、30GHzでサンプリングすれば光を1cmごとの動きとして捉えることができる。その際の光の散乱を見ることで、空気の波動が捉えられるというわけなのだ。現状においては測定点が7mまでであれば捉えることができるが、それを超えるとノイズが多く、精度的に難しいとのこと。確かにこれが実現してくると、音場の缶詰が技術的にも実現できそうであり、オーディオの世界に革命をもたらす可能性も秘めている。今後こうした研究がどう進んでいくかには注目したいところだ。
以上、第9回1bit研究会の発表内容についてまとめてみたが、いかがだっただろうか? 筆者の理解力の問題で、正しく伝えられていない部分も多そうだが、いろいろな技術が多方面から集結する1bit研究会については、今後もレポートを続けていきたいと思っている。