西田宗千佳のRandomTracking

特別編:「バーチャルリアリティー」の歴史を俯瞰する

全ては1960年代から。「Oculus」の衝撃とその未来

 このところ、にわかにバーチャル・リアリティ(VR)の話題が盛り上がりつつある。2016年にOculus VRとソニー・コンピュータエンタテインメントが製品の市場投入を予定していることから、VRの市場が一気に拡大すると皆が期待し、2014年後半から、投資も極めて積極的に行なわれている状況だ。

2016年発売予定のPlayStation VR

 しかし、VRは最近生まれた概念ではない。CGの歴史とともに存在したものであり、日本での最初のブームから20年が経過しようとしている。

 そこで今回は、あえて昔話を思い出すところから始めてみよう。過去のVRの失敗の歴史と、現在なぜVRが急速に立ち上がりつつあるかを比較すると、今後同種のビジネスがどう広がっていくか、予想する上で役に立つはずだ。なお、今回の記事については、筆者の手元にある資料、およびインターネット上からリサーチできる情報を元にしている。

全ては1960年代からあった!

 日本でいわゆる「VRブーム」が最初に起きたのは、1990年代前半の事だ。世界的に言えば、VRという言葉を作ったのは、コンピュータ研究者のジャロン・ラニアーだと言われている。正確に言えば、「今のような意味で使って普及させた」のが、ということであるようだが。

 ラニアーが1984年に設立した「VPL Research」が、ヘッドマウント・ディスプレイ(HMD)で視界を覆った状態で、指からの情報をコンピュータに取り込むための「データグローブ」を開発し、コンピュータ空間内にインタラクションする手法としてアピールする段階で、VRという言葉が注目されるようになった。1990年代のVRブームにおいて、HMDとともにデータグローブがフィーチャーされたのは、そう言った事情に基づく。

 そもそも、世界初のHMDと呼ばれるものは、1968年に、コンピュータ研究者のアイヴァン・サザランドが、教え子のボブ・スプロールとともに開発した「The Sword of Damocles」だと言われているものの、実際には、その時期に「目を覆うような構造のディスプレイで視界を入れかえる」という発想が生まれていた、というのが正確だろう。

 当時は液晶などもまだ未成熟だから、今のようなHMDが作れるわけもない。あまりにも重く、HMDは天井から吊って保持するしかなかった。だが、その姿は現在のものに恐ろしく似ている。詳しくは、リンク先の写真をご覧いただきたい。

・A Critical History of Computer Graphics and Animation Section 17:Virtual Reality
http://design.osu.edu/carlson/history/lesson17.html

 アイヴァン・サザランドの元には、その後のコンピュータ・グラフィックの世界を作る才能が次々と集まってきた。特に、1968年から1974年、ユタ大学の教授であった時代のスタッフは綺羅星のような存在だった。あのアラン・ケイがいて、ピクサーの創業メンバーであり、CGの基礎理論をいくつも作ったエド・キャットムルがいて、バンプ・マッピングの生みの親であるジム・ブリンがいた。CG関連の論文やソフトのデモでおなじみの「ティーポット」が生み出されたのも、この研究室である。だからあのティーポットを、CG業界では「ユタ・ティーポット」と呼ぶ。サザランドがこの時期に設立したベンチャー企業「エバンスサザランド」には、のちにAdobeを創設するジョン・ワーノックと、シリコン・グラフィックスを創設し、その後ネットスケープも作ることになるジム・クラークが勤めていた。なんという人材の宝庫。個人的には、この時代のサザランド研究室を描いたドラマを作ると、幕末モノ並みにエキサイティングな作品になるのでは、という気もするのだが、それはまた別の話である。

 要は、当時のサザランド研究室からは、現在のCGを作る基礎のほとんどが生まれ、巣立っていったということだ。HMDも、そこで現実感を増すための道具として研究されていたものだ。だからこそ、CGの生まれる過程とVRの生まれる過程は一体だった。

 日本でVRを紹介した最初期の本としては、服部桂氏が1991年に書いた「人工現実感の世界」が挙げられる。実際この本は、1990年代前半のVRシーンにとってバイブルのようなものだった。個人的な話をすれば、服部氏は筆者にとって師匠のような立場でもあり、1992年から'94年あたりには、よく取材にくっついて行ったものである。

 先日、服部氏と久々に、仕事で長時間インタビューした。その際、昨今のVRブームについてコメントを求めると、彼は次のように答えた。

「今のVRにあるものは、ほぼ全てが30年前の研究室にあった、と言ってもいい。ただし、その当時と今とでは、大きく違う点がある。当時は、ちょっと新しい思いつきを実験するだけで1万ドルの予算が必要になった。だが、今はそれが200ドルでできる。しかも誰にでも」

「CGとVRの混同」がブームを終わらせた

 服部氏の指摘は、第一次VRブームの限界と現在のブームの関係を的確に表している。

 1990年代に入ると、CGは一気に一般化した。CMから映画へ、そしてゲームへと、爆発的に普及していった。そして、それに合わせて語られたのがVRだ。計算によってリアルな映像が生み出される様と、コンピュータに入ってしまう没入感が持つイメージがぴったりとマッチしていたからだろう。

 一方で、当時のVRは「没入」には程遠いものだった。単純に、リアルタイム演算で生み出せるCGの能力が乏しかったからだ。

 特に1994年以前は、低価格に扱えるリアルタイムCG生成機器は皆無、という状況だ。ベースとなるのは、軍用のシミュレータ向けに開発された機器と、その派生であるグラフィック・ワークステーション。そのさらに応用として、ゲームセンターやアミュースメント施設(当時的な言い方をするならテーマパークだ!)向けの専用機器が、なんとか存在している程度のものだ。PCやMac(当時だから、Macintosh IIfxあたり)、Amiga(リアルタイムCG向けには大抵Amiga 3000だったと記憶)などをベースにしたものはあったものの、その能力は低かった。1991年に市場に出たアミューズメントパーク向け機器「Virtuality 1000」も、中身はAmigaだったと記憶している。それらの機器が生み出す映像は、人々がCGに慣れ始めると、現実とはほど遠く、没入できないものになっていった。

 実際問題、VRをVRたらしめるには、リアルタイムCGの能力がまったく足りなかった。当時、筆者が取材した中でもわずかに実用的だと思ったのは、NHKの人形劇で、人形とセットをCGに置き換える、というものだった。手元の取材メモによれば、取材時期は1994年。人形劇はセットの準備と保存が大変なので、一部をCGに置き変えてしまおう、と考えたわけだ。当時のシステムは、VPL Researchのデータグローブとシリコングラフィックスのワークステーション(メモには残っていないが、確かIndigo2あたりだったと思う)。それでもシンプルな表現のCG人形だった。

 一方ゲームの世界では、1994年に「PlayStation」と「セガサターン」が登場、本格的にリアルタイムCGの時代が動き始める。表現の対象はあくまでブラウン管という平面の上だったが、それまでの映像とは違う「リアリティ」があった。

 一般的なCGが普及する一方、実用的なVRを構築するためのテクノロジーを低価格に提供する術がなかったことが、1990年代のVRを失速させた。正確には「それをVRと呼ぶことがなくなった」のである。当時は、CGを使っていれば何でもVRの一部に含めるようなところがあった。コンピュータで生成される映像であること=VRではなかったわけだが、CGが物珍しかった時代、報道はCGとVRの境目を曖昧なままにして進んだ。

 結果、2000年を迎える頃には、VRという言葉を使うこともなくなっていた。こうして、第一次VRブームは消えた。

一時はニッチへ引っ込んだVR

 その過程で、市場には何度かHMDが登場しては消えた。背景にあるのは、液晶デバイスの進歩だ。「The Sword of Damocles」の頃は巨大だったシステムも、液晶パネルを目の前に置く、というやり方に変えれば軽く作れる。ソニーの「グラストロン」からタカラの「ダイノバイザー」まで、価格も画質もいろいろあった。任天堂の「バーチャルボーイ」も、両眼立体視という意味では近いが、対象がゲームボーイ的な2Dグラフィックスをレイヤー処理で立体化したものだったので、VRというのは少々無理がある。ほとんど知られていないものの、セガも同時期にHMDを使ったゲームを企画していた。だが諸般の事情から、世に出ることはなかった。

ソニーのグラストロン・ライト(1999年発売)

 2011年までのHMDの欠点は明確だ。簡単に作れたものの、目に入る映像は「暗闇の中の小さな窓」に見えたことだ。人間に没入感を与えるには、視界を入れかえるか、視界を覆うほどに画角が大きい状態を作る必要がある。前者はなかなか難しいが、後者はなんとかなる。映画館が巨大なスクリーンであるのはそのためである。

 が、HMDとなるといろいろ大変だった。目とディスプレイの物理距離が短く、焦点が合うよう配置すると、「数インチの画面が目の前にある」状況になってしまうからだ。そこで、HMDは「暗い中で小さいが精細感のある画面を見て、映画館のような効果を期待する」か、「VR効果を狙わず、視界の一部に映像を重ねる」か、というアプローチに分かれた。ソニーが2011年以降商品化した「HMZシリーズ」は前者のアプローチで、ザイブナーの製品やGoogle Glassは後者のアプローチである。

 研究者・商品企画者の多くが、VRという方向性を捨てられずにいた。仮にVRにならなくとも、視界の中に「自分専用のディスプレイを用意する」ことができれば、新しいニーズができるはず。そうした発想から、あるものは業務用機器として、あるものはAV向けの付加価値として製品が生まれては消えていった。結局、「パーソナルなディスプレイ」としては使い勝手が悪く、マスに広げられなかったからだ。業務用ディスプレイとしては生き残ったものの、マス向けには困難が伴うばかりだった。

コペルニクス的転回を与えた「Oculus」の衝撃

 そこに、まさにコペルニクス的な転回を与えたのが、2012年に登場した「Oculus Rift」だった。

 Oculus Riftでは、レンズで小型ディスプレイを拡大してみせる、という一般的なHMDのアプローチを使いつつ、逆転の発想を組み込んでいた。それが、レンズを魚眼レンズにして映像をわざと歪ませることで視界を広く覆う一方で、ディスプレイに映し出す映像の方は「レンズが生み出す歪んだ映像」から逆算し、最初から歪ませて表示する、というアプローチである。

 こうすることで、人間の目にはきちんとした映像に見えつつも、目からの距離が数センチというニアフィールドディスプレイで、視界を違和感なく覆うというやり方を現実のものにした。

2016年発売予定の「Oculus Rift」製品版

 とはいえ、実際には、このアプローチもOculus以前に研究はされていたものだ。

USCでパルマー・ラッキーも参加していた「FOV2GO」。現在の「Google Cardboard」の元にもなった

 画像は、南カリフォルニア大学(USC)が公開している、スマートフォンを簡易HMDにするキットである「FOV2GO」だ。ここには、「魚眼レンズ」「視聴用の映像を生み出すアプリ」という、Oculus Riftが持ち込んだアプローチがすでに存在している。

 Oculus Riftの発明者であり、Oculus VRの創設者であるパルマー・ラッキーは、FOV2GOのプロジェクトにも関わっていた経験を持つ。FOV2GOで得られた知見を活かし、作りこんだHMDにすれば「本格的な没入環境になる」というのが、パルマー・ラッキーの狙いだったのだ。

 一方でSCEは、2011年頃より本格的なゲーム用HMDの開発に着手していた。グラフィックスの単純な強化では、いつの日かゲームの世界を差別化できなくなる、という危惧があったからだ。モーションと位置をゲーム内に取り込む技術については、SCEヨーロッパ所属の研究者であるリチャード・マークスを中心としたプロジェクトチームが組まれ、開発が進められていた。リチャード・マークスは、「Eyetoy」や「PlayStation Move」といった、画像認識によるモーションコントロール技術の開発者で、この分野ではトップクラスの実績を持つ。彼のチームが持つモーションコントロール技術を使ったHMDこそが、現在の「PlayStation VR」の元になったものだ。リアリティを実現するために湾曲系光学システムの検討に入っていたが、そこにOculusの話題が入ってきて、彼らも本格的な「モーションコントロール+湾曲系光学システム」によるHMD開発を加速する。

 パルマー・ラッキーが採った手法の最大の利点は、とにかくハードウエアコストがかからない、ということだった。従来のHMDは、光を忠実に目に届かせつつ、できる限り大きな映像に見せるため、高精度なレンズを組み合わせて使っていた。その分高価になるし、開発にもノウハウがいる。しかしOculusのアプローチでは、低価格なプラスチックレンズで十分。あとはPCやスマホの上で映像を正しく加工する技術さえあればいい。比較的単純なものだから、そこにも技術はいらない。

 ある技術系ベンチャーのトップは、Oculus Riftについて、かつてこう評価している。

「あれの本質は、誰でも同じものが作れること。実は発想の転換が必要だったに過ぎないのだが、それをもたらしたことが最大の価値。一方で、HMDは真似するメーカーが増え、過当競争になるだろう」

 その意見は、一面で正しく、一面で間違っていた。

 確かに、湾曲系光学システムのHMDを作ることは難しくない。一方で、それでクオリティの高いHMDを作るのは困難が伴うこともわかっていた。

 問題は「酔い」だ。

 VRでは没入度が高いことが求められるが、没入度が高いほど、人間の実際の視野との差や、動きとの違いによって、強い「酔い」を生み出す。実は筆者も、Oculus RIftの最初の開発者向けモデル「DK1」を手に入れた時は、30分使っただけでトイレに駆け込む羽目になった。

 酔いが少なく、クオリティの高いVRを作るには、モーションの認識から表示に至るまで、できる限り短い遅延で反応する必要がある。そのノウハウは数ミリ秒の短縮を積み重ねる世界で、現状は「インターフェース変換に伴う遅延すら避ける。無線伝送など持ってのほか」(あるVR技術者)だという。それにはノウハウの積み重ねが必須だ。

 また、PCなどから出力される映像の内容についても、どういう動きにすると酔わない・面白いVRになるか、ということもノウハウの塊である。

 そうした部分に配慮して開発をするのは大変だ。OculusにしろSCEにしろ、最終的な製品版ハードウエアは、初期の試作モデルとは大きく異なる。地道に知見を積み立てて、改良を繰り返してきた結果だ。

 そこで大きかったのは、OculusにしろSCEにしろ、今VRに関わる人々の横のつながりが深かったことにある。商品計画やビジネスプランでは競争しているものの、「酔い」の問題を解決するために必要なノウハウの共有は積極的に行った。共通の問題をクリヤーし、VRを大きなビジネスにするには、みんなが寄ってたかって「いいものにしていく」努力が必須だった。

 そうした動きは、OculusとSCEだけにあるものではなく、ValveやHTC、サムスンにも見られた。関わる企業が単純な先陣争いにこだわらず、最初のハードルをクリヤーしに行く流れは、ある意味小気味よく、今のVRシーンを特徴づけるものだ。VRを遠巻きに見ていた人々の多くは、「あのダイナミズムに驚いた」と口をそろえる。

 おそらくそれは、中核にいたのが大企業ではなく、Oculusという絵に描いたようなベンチャーであったことと、無関係ではあるまい。

スマホ投資の一巡から、アメリカで投資意欲が拡大

 Oculusのパルマー・ラッキーは若い。なにしろ1992年9月生まれで、まだ23歳だ。筆者は長時間のインタビュー経験こそないが、ちょっと立ち話はしたことがある。あれだけ急激に成長した企業の創設者とはにわかに信じられないくらい若い。7年ほど前に、facebookが日本進出を果たした際、マーク・ザッカーバーグを見て「若い!」と驚いたが、パルマー・ラッキーの第一印象はそれに匹敵する。

 だが彼は、Oculusのビジョナリーであり精神的な支柱だが、経営トップでないことに注意が必要だ。大学をスキップで卒業した秀才だが、ビジネスの経験は多くない。

 彼はクラウドファンディングを使ってOculusをプロモーションしつつ資金を集めた。その過程で、カリフォルニアにいる様々な起業家やベンチャー・キャピタリストが助言を与え、慎重にビジネス展開を検討していった。Oculusの革新性は疑いがなく、成功の規模こそ予測が難しかったが、確実にある程度の規模のビジネスになる、と、2013年には多くの関係者が確信していた。

 2014年3月、OculusはFacebookに買収されるが、結果的には、それが「VR市場への期待」を爆発させることになった。

 1990年代、そしてそれ以降のVRと今回の動きが大きく異なるのは、投資がVRにしっかり集まって、クラスター的に関連企業が増えて行ったことだ。

 2012年後半になり、Oculusの活動が注目され始めた頃から、VRへの投資は加速した。この時期に、スマートフォン関連ベンチャーへの投資が一巡し、彼らが手持ち資金の次なる投資先を探していたタイミングであったことも功を奏したのだろう。特に2013年も後半に入ると、投資家を前提としたVRイベントも開かれるようになり、アメリカは一気に「VRでの起業が一つのトレンド」になって行った。

お金が集まるところには、人も集まる。今のVRブームの加熱は、技術的な可能性に加え、そうした「時を捉えた良さ」があるのは間違いない。

 投資への鈍さもあり、日本はこの流れに乗れているとはいえない。だが、個々のエンジニアやコンテンツ制作者の熱気は本物で、それがビジネス化の動きをかろうじてカバーしている部分がある。

 逆に1990年代は、日本でもVRへの投資は活発だった。だが、残念ながら事業発展のスピードも遅かったし、技術も未熟だったし、未熟さを判断する目にも欠けていた。

 今、あの時の資金があったら、どうだったろう。それを想像するのは、少し悔しい気持ちもする。

ゴールは先だが「そこまでの道」は見えた

 このように、「人」「モノ」「カネ」がうまく回り始めたことが、VRを一気に発火させた理由だ、と言える。その産業規模は、人によって予想はまちまちで、そこがビジネスとしてのネックである。短期の立ち上がりを想定しているのは相当に楽観的な人だけで、5年単位での戦いを覚悟している人がほとんどだ。

 だから、今年(2016年)の製品発売後、話題が落ち着くと「ブーム失速」と書かれる時期が来るのは、火を見るより明らかである。

 だが、20年前と違うのは、ここでついた火は、「いつか」大きくなると、ほとんどの人々が確信していることだろう。20年前は1,000キロ先のゴールだったものが、今は100キロ、いや50キロ程度まで近づいた。地道に走ればあそこにつける、と疑わない人が増えるくらいには、当面のゴールが近づきつつある、と筆者も確信している。

初出について

本記事は、メルマガ 小寺・西田の「金曜ランチビュッフェ」 2015年9月25日 Vol.051 初出の『「バーチャルリアリティー」の歴史を俯瞰する』に追記、修正を加えたものです。メルマガの購読はこちら

西田 宗千佳

1971年福井県生まれ。フリージャーナリスト。得意ジャンルは、パソコン・デジタルAV・家電、そしてネットワーク関連など「電気かデータが流れるもの全般」。主に、取材記事と個人向け解説記事を担当。朝日新聞、読売新聞、日本経済新聞、週刊朝日、AERA、週刊東洋経済、GetNavi、デジモノステーションなどに寄稿する他、テレビ番組・雑誌などの監修も手がける。
 近著に、「顧客を売り場へ直送する」「漂流するソニーのDNAプレイステーションで世界と戦った男たち」(講談社)、「電子書籍革命の真実未来の本 本のミライ」(エンターブレイン)、「ソニーとアップル」(朝日新聞出版)、「スマートテレビ」(KADOKAWA)などがある。
 メールマガジン「小寺・西田の『金曜ランチビュッフェ』」を小寺信良氏と共同で配信中。 Twitterは@mnishi41