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マルチスクリーンの先駆けとなったエキスポ'58「チェコスロバキア館」
2024年10月7日 08:00
連載・世界の名パビリオン ブリュッセル万国博覧会「チェコスロバキア館」
過去の博覧会においてどんなパビリオンが造られていたかを、映像展示・技術に注目して語って行くシリーズ。今回は、前回も紹介した「ブリュッセル万国博覧会」(Expo'58)において、「フィリップス館」と並んで人気パビリオンだった「チェコスロバキア館」を取り上げたい。
「チェコスロバキア館」の展示コンセプト
チェコスロバキア情報省の展示会担当課長であった建築家のインジフ・サンタールは、他の展覧会で成功を収めたことから、ブリュッセル万博・チェコスロバキア館の企画担当者に抜擢される。当時は冷戦の真っ最中であり、この万博自体が朝鮮戦争の影響で3年間延期されていた。
しかしサンタールは、展示のコンセプトを「脱イデオロギー」と定め、プロパガンダ的要素を一切排除することにした。また当時、東側諸国に義務付けられていた“社会主義リアリズム”(※1)から脱却することも目標に掲げ、パビリオンのテーマを「チェコスロバキアのある1日」と決定する。
※1
ソ連のスターリンが提唱した「形式においては民族的、内容においては社会主義的」という方針に従い、全ての芸術作品に義務付けた思想。そのため、前衛芸術はフォルマリズム(形式主義)として批判され、労働者や農民にもわかりやすく写実的で、伝統的な画法や様式を用いることが強制的に求められた。
そしてサンタールは、館全体を12のセクションで構成するプランを作り、これを実現させるため国内最高のクリエーターチームを結成する。
集められたのは、建築家のフランティシェク・クブルやヨゼフ・フルービー、ズデニェク・ポコルニー。アニメーション監督/人形作家/絵本作家のイジー・トルンカ。ガラス作家のレネー・ロゥビチェク、スタニスラフ・リベンスキー、ヤン・コティーク。織物作家のアントニーン・キバルなどといった人々だった。
パビリオンのデザイン
「チェコスロバキア館」のために指定された場所は、他のパビリオンから道路で隔てられた会場の縁で、使いにくい三角形のエリアという不利な条件だった。だがこのことは、近隣のパビリオンの影響を避け、独立した建築コンセプトが可能という大きな利点にもなった。
機能主義者だったフルービーは、立方体2階建てのビルを3棟建て、その間をガラス張りの通路で結んで、全体をL字型にデザインした。公共の図書館のような生真面目さを感じる、恒久施設のような印象だ。そして空いたスペースには、バームクーヘンをカットしたような、C型の全面ガラス張りレストランを置き、ここからはオッスゲム・ラーケン公園の開けたエリアが望めた。
こうして1958年4月17日からブリュッセル万博は開催されるが、チェコスロバキア館は初日までに間に合わせた、数少ないパビリオンの1つとなった。
展示で特に話題になった『ラテルナ・マギカ』
展示の中で特に話題になったのが、文化セクションで上演された『ラテルナ・マギカ』である。
この製作総指揮を手掛けたのは、1937年にパリで開催された「現代生活の中の美術と技術国際博覧会」のグランプリ受賞者である、舞台美術デザイナーのフランティシェク・トロスターだった。
そして、全体の構成を舞台/映画監督のアルフレッド・ラドックと、弟で映画監督のエミール・ラドック、舞台美術家のヨゼフ・スヴォボダ、製作/企画責任者にヤロスラフ・シュトラーンスキー、脚本をミロシュ・フォルマン、演出は俳優で映画監督でもあるウラジーミル・スヴィターチェクと、舞台/映画/テレビ/音楽監督のヤン・ロハーチが務め、さらに振付はイジー・ネーメチェク、衣装デザインをエルナ・ヴェセーラが担当した。
『ラテルナ・マギカ』を一言で表現すると、「映像と、ライブの演劇・ダンス・音楽の演奏などを一体化させて、物語を展開する舞台芸術」となる。だが、単純に演劇と映画を交互に見せるだけでは、昔の連鎖劇(※2)と変わりない。『ラテルナ・マギカ』の場合、スクリーンの形状や数が自由で、俳優はそこから自由に出入りが可能となる。
※2
演劇の一形式で、アクション場面になるとスクリーンを降ろし、予めロケ撮影しておいたフィルムを上映しながら陰で俳優がセリフを言う。そしてアクション場面が終わるとスクリーンを巻き上げ、その続きを映画と同じ俳優が舞台で演じるというもの。日本で、明治末年から大正中期にかけて流行した。
ただし宝塚では、1938年(昭和13年)5月の星組公演『軍國女學生』から、盛んに“キノ・ドラマ”と呼ばれる連鎖劇を上演していた。そして驚くべきは、1938年9月の星組/雪組公演『ショウ・イズ・オン』の劇中において、日本最古と思われる立体映画(アナグリフ方式)が上映されていたことである。これは筆者と、宝塚歌劇専門チャンネル「タカラヅカ・スカイ・ステージ」の共同調査で判明したことだった。
オープニングは、まず女性の司会者が左右2つのスクリーンに観客に背を向けて映写され、自分の出番を待っている。中央のスクリーンは、同じ司会者が遅れ気味でメイクを終えた所で、カメラがその後ろを追って行くと、彼女がドアを開け、実際の舞台にライブで登場する。すると同じタイミングで左右スクリーンの司会者も客席側を向き、それぞれ3カ国語でプレゼンテーションを行なう。
司会役の女優は、シルヴァ・ダニチコヴァーと、ズデンカ・プロハースコヴァー、ヴァレンティナ・ティエロヴァーの3人が交代で務めた(ティエロヴァーはオープンして数週間で帰国したため、ダニチコヴァーとプロハースコヴァーが最後まで舞台に立っている)。
それから、工場の映像を背景としたヤルミラ・マンシングロヴァー、ナーイェラ・ブラジチコヴァー、イヴェッタ・ペシュコヴァーらや、エヴァ・ポスルシュナー、ミロスラフ・クーラ、ヴラスチミル・ジレクといった、国立劇場所属のダンサーたちによる踊り。フォークダンス映像の前での民族楽器ツィンバロンの生演奏などが続く。
中でも凝っていたのが、音楽家イジー・シュリトルによる、トランペット、トロンボーン、クラリネット、ピアノ、ウッドベースの演奏を5重合成した映像を背景に、本人が生でピアノ演奏を行なうといったパフォーマンスだった。
トータルで35分となるショーは大反響となり、ソ連、シリア、エジプト、米国、英国、フランス、オランダ、ベルギー、オーストリア、スペイン、イスラエルから公演のオファーを受け、さらに多くの国からライセンス取得の可能性について問い合わせが来た。
マルチスクリーンの方向性を決定付けた『ポリエクラン』
もう1つ『ポリエクラン』というショーもあった。ポリエクランとは、ギリシャ語を語源とする“多くの”という意味のpolyと、フランス語で“スクリーン”を意味するécranを組み合わせた造語で、文字通りマルチスクリーンのことである。
これもスヴォボダがデザインしたもので、チェコスロバキアのメオプタ製35mmムービープロジェクターMeopton 4を7台と、スライドプロジェクター8台を用い、角度を付けて空中に吊った様々なサイズのスクリーン8枚に映像を投影していた。
エミール・ラドックが脚本/演出を務めた『プラハの春』という演目は、ヤン・フランク・フィッシャー作曲の音楽に、プラハの歴史、美しい街の風景、スクリーンからスクリーンへ飛び移るバレエダンサーの映像などを組み合わせた、10分間の作品だった。
このポリエクランは、前回紹介した「フィリップス館」以上に、その後の博覧会における、マルチスクリーンの方向性を決定付けたと言えよう。博覧会終了後、ポリエクランのシステム一式はプラハに運ばれ、1958年12月から上映され、しばらくして国立技術博物館に移された。
チェコスロバキア館の功績
「チェコスロバキア館」は、会期中の動員数が600万人を超え、ベスト・パビリオンを称えるゴールドスター賞と、建築部門大賞、インテリアデザイン部門グランプリを受賞した。
さらに、ヴィンチェンツォ・マコフスキーの彫刻「Atomový věk」(原子力時代)(※3)、レネー・ロゥビチェクによるガラス芸術、メオプタ社のプロジェクター、『ラテルナ・マギカ』、ヤン・ヌシュルによるゴールドジュエリーなどがグランプリを受賞している。
※3
この作品は、後に「Nový vek」(新しい時代)と改題され、1959年にチェコスロバキアのブルノ展示場に移設された。
他にもヤン・ルカスの写真が金メダルを獲得。また万博の関連イベントとして開催された国際映画祭で、カレル・ゼマン監督の映画『悪魔の発明』(1958)がグランプリを受賞した。
結果としてチェコスロバキアは、大賞56、名誉賞47、金メダル35、銀メダル18、銅メダル14を獲得し、チェコスロバキア国内においても、文化大臣から建築家たちへ国家賞が授与された。
パビリオンのその後
チェコスロバキア政府は博覧会終了後、パビリオンを歴史的建造物と判断し、国内で保存すると決定した。
L字型の本館は、プラハ北部のブベネチュの展示場である「ヴィスタヴィシュチェ・プラハ」(※4)に移築され、「ブリュッセル・パビリオン」と名付けられる。そして、この施設を用いて数多くの展示会が開催されてきたが、1991年10月25日に火災で全焼し、完全に取り壊されてしまった。
※4
「ヴィスタヴィシュチェ・プラハ」は単なる展示場ではなく、1891年のジュビリー産業博覧会(国内博)の跡地を利用したもので、博物館、パノラマ、水族館、競技場、遊園地、美術館、音楽ホールなどを備えた大規模複合施設である。だが、度々大きな火災が発生しており、2005年にも木造のグローブ座が全焼している。これは、エリザベス朝時代のロンドンの劇場を再現したものだった。
また2008年には、産業宮殿の左翼全体が焼失している。この建物は、ジュビリー産業博の時に建てられた、「ヴィスタヴィシュチェ・プラハ」で最も古いアールヌーボー様式の建造物だった。再建は2022年に始まり、2025年に完了する予定である。
一方で、C型をしたレストランは、プラハ城の北に位置するレトナ公園に移築される。そして、1960年代から国家の管理下でレストランとして営業し、1964年には文化的記念物に登録された。しかし1989年末のビロード革命以後は、共産党政権が崩壊して公的資金がストップする。そして1991年から民営化され、個人向けとして競売に掛けられた。だが所有者が転々とし、徐々に建物は荒廃していく。
やがて、広告代理店のハバス・ワールドワイド・プラハが、オフィススペースとして利用したいと発表した。しかし2000年に、パヴェル・ドスタル文化相がレストランとしての機能を維持することを要求し、改築の許可を取り消してしまう。その年の秋に、ようやく改築許可が下りたころは、鉄の支柱だけを残して大半の部材が盗まれ、完全な廃墟と化していた。
2001年にハバス社は、可能な限りオリジナルの構成要素を残した上での再建を行った。そして、2002年度のベスト不動産復興工事賞を受賞するほどの再現度で、再建工事が完了する。現在、「ハバス・ビレッジ」と名付けられた建物は、オープンハウス・イベントの際に一般公開されており、また映画のロケでも利用されている。
国家的遺産となった『ラテルナ・マギカ』
1959年5月9日から『ラテルナ・マギカ』は、プラハにある国立劇場において常設で上演されるようになる。基本的にアルフレッド・ラドックと、スヴォボダが芸術監督を務め、最初は「ブリュッセル万博」と同じ演目が上演されていた。
そして1960年12月5日に、最初の招待公演がソ連のレニングラード(現サンクトペテルブルク)で開催される。しかし、この公演用に作られた新作『ラテルナ・マギカII/ツアープログラム』が、プラハで演じられることはなかった。チェコスロバキア文化大臣ヴァーツラフ・コペツキーが、上演許可を出さなかったからである。コペツキーは、強硬なスターリン主義者であり、社会主義リアリズムの絶対的推進者だった。
イデオロギーの介入を嫌ったアルフレッドは、自分から芸術監督の職を辞した。しかしコペツキーは1961年に亡くなり、チェコスロバキア政権も次第に自由な方向に向かって行く。1962年には、前衛的な仮面劇を行なっていたシュルレアリストのヤン・シュヴァンクマイエルを、演出家として迎え入れる。さらに1966年には、『ラテルナ・マギカII/ツアープログラム』もレパートリーとして加えられ、それと共にアルフレッドも芸術監督に復帰した。
そして『ラテルナ・マギカ』が、より世界に知られるきっかけとなったのが、1967年4月28日から10月27日までカナダで開催された「モントリオール万国博覧会」(Expo'67)の「チェコスロバキア館」だった。ここでは、他にも「ブリュッセル万博」を大幅にパワーアップさせた映像展示が試みられている。ある意味、この時代のチェコスロバキアは、世界の中でも突出した前衛芸術の国だった。
そういった傾向を支えたのが、アレクサンデル・ドゥプチェク共産党中央委員会第一書記だった。彼は、芸術に対する検閲を廃止し、表現や言論、集会、経済、報道、移動、宗教、複数政党制の導入などの自由を認めた。これが「プラハの春」と呼ばれた改革だったが、これに危機感を抱いたソ連が1968年に軍事侵攻を行なった。この時、約7万人が国外に亡命し、その中にはラドック兄弟(※5)もいた。そしてシュヴァンクマイエルも、一時期オーストリアに逃げている。
※5
兄のアルフレッドはスウェーデンに、弟のエミールはカナダにそれぞれ亡命した。
そういった出来事があったものの、スヴォボダを中心として『ラテルナ・マギカ』の公演は続けられた。1970年の「日本万国博覧会」(Expo'70)では、エキスポランド内に「ラテナ マジカ」という専用シアターも設けている。
現在プラハでは、「国立劇場ニューステージ」というモダンな劇場で『ラテルナ・マギカ』の公演を行なっており、今やバレエやオペラ、人形劇と並ぶ、チェコを代表する舞台芸術として定着している。
特に1977年4月15日に初演された『ワンダフルサーカス(Kouzelný cirkus)』(作: エヴァルド・ショルム、エミール・シロテック、イジー・シュルネツ、ヨゼフ・スヴォボダ、ヤン・シュヴァンクマイエル、カレル・ヴルティシュカ)は、最も長く親しまれた演目だったが、2022年9月28日に終演となった(現在はオンライン視聴のみ)。