トピック

これが究極のマルチ画面だ。8面×35mmフィルム上映「日本館」の挑戦

日本万国博覧会(Expo'70)「日本館」と『日本と日本人』

デジタル復元された『日本と日本人』
画像提供:東宝

現在、2025年4月からの開催が予定されている「Expo 2025 大阪・関西万博」が(色んな意味で)話題になっている。そこで、過去の博覧会においてどんなパビリオンが造られていたかを、特に映像展示に注目して語って行きたい。

先日、つくば万博および花の万博で展示された「富士通パビリオン」を記したが、今回は前編と後編に分けて日本万国博覧会(Expo'70)の「日本館」を取り上げる。

同館のメイン展示は、8面マルチスクリーン作品『日本と日本人』の上映だった。金田一耕助シリーズで有名な日本映画の巨匠・市川崑監督が手掛けているにも関わらず、初公開以来、完全な形で再上映される機会がなかった。しかもこの作品は、今現在も世界最大級のスクリーンサイズ(※1)を誇っている。

※1
もちろん屋外の建造物などに、複数のデジタルプロジェクターで投影するプロジェクション・マッピングでは、さらに巨大な映像は存在しているが、単一のシアターで上映される作品では『日本と日本人』が最大級だ。

1:巨大スクリーン・システムが決定するまで

当時の通商産業省は、政府出展となる最大級のパビリオン「日本館」の構想を開始し、館のテーマを「日本と日本人」と決定した。そして、日本国土の約1,000万分の1に当たる敷地面積3万7,791m2に、日本万国博のシンボルマークを意識して、直径58m、高さ27mの円筒形の建物が5つ、桜の花弁のように並んだパビリオンがデザインされた。

日本館の外観。昼間は石油タンクを連想させるシンプルな見た目だが、夜間は5色にライトアップされた
「日本万国博覧会 公式記録 第1巻」日本万国博覧会記念協会(1972) より掲載
日本館の構成
「日本万国博覧会『日本館』」通商産業省企業局万国博準備室 より掲載

次に、メイン展示となる5号館の大ホールで上映する映画を、マルチスクリーン方式に決定する。この時期の博展映像はマルチが基本で、特にモントリオール万国博覧会(Expo'67)における成功が、企画に大きく影響した。

日本館・大ホールの構造
「日本館」通商産業省 より掲載

そして通商産業省は1968年3月、プロデューサー組織を通し、学識経験者に「日本万国博覧会政府館大ホール映像内容調査」を行なって基本計画の作成に当たり、同時に「多面スクリーン映像システムの光学的工学的基本調査」がナック(現ナックイメージテクノロジー)(※2)に委嘱される。提示された日本館・大ホールの初期の空間的条件は、「直径40m、高さ20mの室内で1,000人以上(最終的に1,100席)の観客を収容する」というものだった。

まだパビリオンの詳細な設計は固まっていなかったが、とりあえず観客の視野を水平130度、垂直60度とすることで、幅55m×高さ26mという前例のない巨大スクリーンが想定された。

そして、この画面に必要なフィルムサイズとスクリーンの分割数が、35mm 4パーフォレーション(以下P)(※3)なら24面、35mm 8Pなら12面、70mm 5Pなら8面、70mm 10Pなら4面と求められた。しかしこの時点では、65/70mm映画制作のノウハウや機材が国内になく、70mmの5Pと10Pは断念せざるを得なかった。(※4)

そして数十種にもなる組み合わせを、繰返し模型で検討した結果、視覚的効果、演出的自由度、撮影時の操作性、撮影機構の技術的問題、編集および処理上の問題、映写機構の問題、映写の画質、映写運用上の容易さ、日程、経済的要素などから、マルチは最大10面程度までが許容範囲と判断された。

1968年7月には、撮影ならびに上映の双方において35mmダブルフレーム(※5)×8面(※6)の採用が決定し、ナックはジェトロ(日本貿易振興会、現・日本貿易振興機構)と正式契約する。

決定した総スクリーンサイズは、幅48m×高さ16m、768m2。画面構成は、幅12m×高さ8m、96m2のスクリーンに各45~60cmの隙間(ブラックゾーンと呼ばれた)を空けて、縦2段、横4列に配置させ、上段のみ10度前傾させる。さらに水平方向も曲率R25mで曲げ、両端のスクリーンはやや台形にすることで歪みに対処するというものだった。(各数値は「日本万国博覧会政府館における『多面スクリーン映像システム』の光学的工学的基本調査報告書」ナック(1968) に基づく)

日本館・大ホールの内部
「日本万国博覧会 日本館運営報告書」日本貿易振興会(1971) より掲載
日本館・大ホールの断面図。この図面では、ブラックゾーンの幅が20cmとなっているが、実際の館内の写真(上)を見る限りではもっと広い
提供:ナックイメージテクノロジー
大ホールにおける上映風景
「日本万国博覧会 日本館運営報告書」日本貿易振興会(1971) より掲載
大ホールにおける上映風景
写真提供:ナックイメージテクノロジー

※2
ナックは、1958年にシネカメラを販売するナック・カメラサービス(1965年より社名をナックに変更)として創業した会社で、この時期すでに撮影用アナモフィックレンズの製造販売を始めている。当時は邦画各社が「○○スコープ」と銘打った独自のワイドスクリーン方式を次々と導入していたころで、この開発によりナックの名前が映画業界に知られるようになる。

1964年には、市川監督の記録映画『東京オリンピック』(1965)の撮影に参加し、すべてのカメラの供給と修理、メンテナンスを24時間体制で務めた。こういったことから信用を得た同社は、日本万国博全体で合計18館ものパビリオンの映像展示設計、映像音響システム製作、運営、保守などを受注している。

また同社におけるマルチスクリーンの経験は、科学技術館「サーキノ」(1964)の11面サークルスクリーン・システムを開発製造したことから始まった。その後、同じ撮影システムが、北海道大博覧会「サーキノ館」(1968)、びわこ大博覧会「サーキノ館」(1968)、佐賀博覧会「西日本新聞社館」(1969)といった施設などにも使用されている。

※3
映画がフィルムで制作されていた時代、基準となったのが幅35mmで、パーフォレーション(P:フィルムの送り穴のこと)が4つのサイズである。いわゆる70mm映画は5Pであるが、IMAXは15Pとなる。ネガは65mm幅で、プリント時にサウンドトラック分増えて70mm幅になる。

※4
1961年には、大映で日本初の70mm映画『釈迦』が制作されているが、これにはテクニカラー社が開発したスーパーテクニラマ70方式が使用された。

大映が『地獄花』(1957)の時に購入したビスタビジョン・カメラが用いられ、35mm 8Pフィルムに1.5:1のアナモフィックレンズを付けて撮影。ネガを英テクニカラー現像所に送って、70mm 5P、アスペクト比2.05:1のプリントを作っている。したがって1968年の時点では、国内に65/70mmの技術が育っていなかった。また65/70mmの現像設備が日本で初めて東京現像所に導入されるのは、1969年7月になってからである。

※5
現在35mm 8Pのフォーマットはビスタビジョン(VistaVision)と称されることが一般的で、通常の倍の面積を用い、フィルムを水平駆動させて撮影する方式を言う。

ビスタビジョンを1954年に発表したパラマウント・ピクチャーズは、この方式の上映に関して3種類の方法を用意した。まずカメラと同様に、35mm 8Pフィルムを水平駆動させる方式で、アスペクト比は1.66:1、1.85:1、2:1などが選択可能であった。しかし専用映写機を必要とするため、実際に劇場で上映されることは、ほとんどなかった。

2つめは、35mm 4Pフィルムに非圧縮で縮小プリントする方法である。やはり1.66:1、1.85:1、2:1などのアスペクト比が選べ、フィルムの上下をクロップして映写する。現在、劇映画の主流であるビスタサイズ(アメリカンビスタ、ヨーロッパビスタ)の語源は、この時の名残だと考えられる。

3つめは、35mm 4PフィルムにSuperscopeのアナモフィックレンズで圧縮し、2.35:1ないし、2:1で上映する方法で、'50年代の多くの劇場がこの方式を採用したと思われる。だが、“VistaVision”はパラマウントの登録商標であるため、『日本と日本人』の映像に関しては“ダブルフレーム”の呼称が用いられている。

※6
これは当初想定の35mm 8P×12面より少なくなったように感じるが、その時点において1画面のフィルム面積を持つ映画(マルチスライドは除く)としては世界最大だった。実際、過去に大きなフィルムを使用した例としては、「スイス博覧会」(Expo'64)の「防衛スイス館」にシネラマ社が70mm 5P×3面、総スクリーンサイズ幅54.5m×高さ8.26m、450平方メートルというシステムを発表している。

また、「ヘミスフェア'68」(HEMISFAIR'68)の「アメリカ合衆国館」にも70mm 5P(35mm 4Pからのブローアップ)×3面、総スクリーンサイズ幅41.15m×高さ11.58m、476.5平方メートルのシアターが設けられた。このスクリーン面積がそれまでの最大記録だが、『日本と日本人』の62%にすぎない。

なお日本万国博の「富士グループ・パビリオン」には、世界初のIMAXが登場している。ただ70mm 15Pフィルムの面積は、35mm 4P(フルフレーム)の10倍程度しかなく、『日本と日本人』はさらにその1.6倍ほどになる。ちなみに富士グループ・パビリオンのスクリーンサイズは、幅19m×高さ13m、247平方メートルだった。ちなみに「109シネマズ大阪エキスポシティ」のIMAXレーザー/GTテクノロジーのスクリーンは幅26m×高さ18m、468平方メートルであり、『日本と日本人』の60%ほどということになる。

2:専用カメラの開発

1969年2月から3月にかけて、予備機を加えた9台のダブルフレーム・カメラ「MC-358」が完成し、ジェトロを通じて映像制作を担当する東宝に貸し出された。もっとも課題となったのは、通常の倍速となる8P撮影によるフィルムの破断である。普通の映画では、フィルムは24fpsで駆動しているが、ダブルフレームでは4P換算で48fpsに相当してしまうからだ。

MC-358の構造図
「日本万国博覧会政府館における『多面スクリーン映像システム』の光学的工学的基本調査報告書」ナック(1968) より掲載
唯一現存しているMC-358の7号機。手前にシャッター開角度レバーが見られる。開角度は0度~160度(10度間隔ステップ式)。フィルムマガジンは1,000ft用
撮影協力:ナックイメージテクノロジー
MC-358のムーブメント。左上に回転数計とフレームカウンターが見られる
撮影協力:ナックイメージテクノロジー

そこでパーフォレーションに掛かる力を分散するため、クロー(フィルムの掻き落し爪)の数が片側2本ずつの両側4本にされた。このクローと、フィルムを固定させるレジストレーションピンは、その最適なピッチや形状を探るための実験が繰り返され、0.005mmまでの加工精度で仕上げられた(それでも当時のフィルム強度の問題で、破断は頻繁に生じた)。

また8台が正確に同期する必要があるため、1つのDC28Vのバリアブルスピードモーターを用い、ギア、シンクロベルト、プーリー、ユニバーサルジョイントなどで全カメラを駆動させる、メカニカルカップリング方式が採用された。単体で回す場合は、ボディ底部にモーターを取り付ける構造になっている。

撮影速度は、まだクリスタルロックがない時代だったため、タコジェネレーターでモーターの回転数を検出し、コントロールボックスのフィードバック回路でコマ数を制御することで、8~24fpsのフレームレートで±0.5fpsの精度を保った。

さらにマルチ撮影ではカチンコが使えないことから、カメラが始動すると約0.5秒間ランプが点灯し、パーフォレーションの外側にマーキングする機構も組み込まれた。またフィルムがなくなった時や、装填に不備があった時、自動的に駆動系を停止させるランアウト・スイッチも取り付けられた。そして故障時は、異常があるカメラの番号を示すパイロットランプがコントロールボックスに点灯されるようになっていた。

また、各カメラの厳密な位置決めが重視されるため、レフレックス式ファインダーは必須条件となる。

最初は回転ミラー式が検討されたが、フランジバック(レンズのマウント面からフィルム面までの距離)が長くなり使用レンズが限定されることと、コンパクト化のために円板シャッターの半径を64mmまで小さくしたことから、半透過プリズム式(※7)が採用された。このプリズムのフィルム面への透過率は83%である。

MC-358のレンズマウント。中に半透過プリズムが確認できる
撮影協力:ナックイメージテクノロジー

アイピース(接眼レンズ)には自動復帰式遮光蓋が付けられており、目を離すと自動的に閉る。これは光線の逆行を防止すると同時に、マルチ撮影時に複数のスタッフが覗く場合の安全性を考慮した設計だった。

さらに、8面全体の撮影範囲を捉えるビューファインダーも必要となり、多種の画面構成と使用レンズに合わせたものが用意された。さらに、監督用の8面アングルファインダーも、東宝の松田俊之氏により作られている。

東宝の松田俊之氏が制作した8面用アングルファインダー。松田氏は、カット尻をスライドで見るための縮尺版8面スクリーンを用意したり、日本館会場の完成を待ってスクリーンを再撮影し、ダビング用ポジを作るなど、様々なサポートを担当していた
撮影協力:崑プロ

レンズはニッコールの20mmから2,000mmまでが用意され、ズームはアンジェニューの40~400mmが装着できた。カメラのサイズは、マルチ撮影時に横幅が問題となる。そこで、ボディと同じ幅の特殊な400ftマガジンが用意され、異様に縦長の形状になっている。

ボディの材質にはマグネシウム軽合金を採用することで、従来のアルミニウム製に比べて重量を約40%軽減させ、カメラ本体、レンズ、モーター、400ftマガジンによる単体1セットで、13kgまで抑えられた。他に、フィルム交換が困難な空撮に対応させるため、従来の1,000ftマガジンも取付けられるようにされた。

400ftマガジンを装着した状態
写真提供:ナックイメージテクノロジー

※7
1989年の「横浜博覧会」に合わせ、数台が回転ミラー式に改造されている。ただし現存する1台はオリジナルの半透過プリズム式のままだ。

3:リグの設計

カメラMC-358の設計と同時に、これらを設置するリグのデザインも始まった。だが、この時点では制作スタッフが決定しておらず、実際の演出を予想しての作業である。とりあえず全8面を連続した画面で撮るために、下図のAが作られている。

リグの構成
「日本万国博覧会政府出展報告」通商産業省(1971) より掲載

だがこのタイプは、政府側プロデューサーの予想では、「大ロングのみの補助的なものになるだろう」と想定されていた。そこで水平画角108度、垂直36.4度をカバーするよう、85mmレンズ専用で、光軸は無限遠固定で設計される。カメラやレンズ、モーター、フィルムを含むこのリグの総重量は200kg(バッテリーなど付属品も含めると380kg)に達した。

全8面リグにセットされたMC-358と市川崑監督
写真提供:崑プロ

一方、メインに用いられるだろうと予想されたのが、2面、4面を1ユニットとする画面構成である。そこでクローズアップが行なえるように、水平および垂直の光軸調整と、4台をセットしたまま俯仰角調整を可能にした、田型4面のC(総重量120kg)が作られた。

他に、映写時に上段と下段のいずれにも配置できる横1列4面(水平光軸調整可)のB(120kg)や、機動性を重視した横1列2面のE(水平光軸調整可、70kg)、縦1列2面のD(垂直光軸調整可、70kg)などが作られている。

これらは85mm、105mm、135mm、400mmレンズの使用を可能としていた。さらに単独使用時は、広角から望遠、10倍ズームまで使え、これでどんな演出にも対応できると考えられた。

4:市川組の始動

カメラとリグが完成間近となった1968年12月。日本館の顧問だった作家で初代文化庁長官の今日出海氏が、ジェトロを通じ東宝へ映像制作を委嘱する。東宝の藤本真澄プロデューサーは、国家の威信をかけたプロジェクトとして、誰が監督に相応しいか悩んだ。

その結果、記録映画『東京オリンピック』(1965)での実績や、実験精神などが考慮され、市川崑氏(※8)が監督に選ばれる。こうして市川氏は、『東北の神武たち』(1957)以来、久しぶりに東宝で演出することになった。

そして市川監督と詩人の谷川俊太郎氏が共同で、上映時間約20分となるシナリオをまとめた。題材は、富士山とその麓に暮らす人たちの生活をスケッチするというもので、制作時は『富士』(※9)という仮題が付けられていた。

※8
海外の国際映画祭で数々の受賞歴を誇る一方、『娘道成寺』(1945)や、『トッポ・ジージョのボタン戦争』(1967)、Expo'70「住友童話館」の『パピプッペ劇場』(1970)、『新選組』(2000)では人形劇、『弱虫珍選組』(1935)、『新説カチカチ山』(1936)、『火の鳥』(1978)ではアニメーション、『竹取物語』(1987)ではミニチュア特撮に取り組むなど、幅の広い技法にチャレンジしている。

また色彩表現でも古くから実験を行なっており、セットを灰色で塗装してイーストマンカラーの俳優を浮き立たせた『日本橋』(1956)や、世界初の銀残し現像(ブリーチバイパス)を成功させた『おとうと』(1960)などがある。劇映画以外にも挑戦しており、アートフィルムの『京』(1968)や、サントリー・レッドなどのCM、舞台『弥次喜多・東海道中膝栗毛』(1968)、テレビシリーズの『木枯し紋次郎』(1972~73)など、多方面で活躍してきた。つまり非常に柔らかい発想の持主であり、人がやりたがらないような難しいプロジェクトにも、積極的に挑戦する監督だった。

※9
最終的に、「日本館」自体のテーマである「日本と日本人」が正式タイトルとされた。しかし作品の内容は、明らかに富士山とその周辺で生活する人々に焦点が当てられている。

5:『日本と日本人』のプロット

通商産業省の「日本万国博覧会政府出展報告」(1971)によれば、『日本と日本人』のプロットは以下のようなものだった。

はじめに富士の生成と歴史。象徴的な溶岩流のなかにあらわれる古い絵図。それは恐ろしい火山として、また尊い信仰の対象として、古人のなかに生きていた富士。そして今日もなお、富士は日本人の心のなかに、さまざまな姿で生きている。

その山麓にやせた火山灰土を耕す農婦、真夏である。農婦の家にはマンガ本を読む娘がひとり。ひどく傷んではいるが、それでも昔はかなりの暮しだったに違いない広い土間、テレビが聞き手のない部屋のなかにコマーシャルを流している。

だが、夏の富士はまた若者たちの世界でもある。自動車専用道路を疾走する色とりどりの車の群れ、耳を聾する排気音、5合目の駐車場はたちまち車で埋まり、登山道も山頂もお祭りのような雑踏。かつてその高さの故に信仰の対象となっていた富士の姿は、もうここにはない。富士は若者たちにとって余りに近くなってしまったのである。山麓のレジャーセンター、若者たちがここには溢れている。ジェットコースター、水上スキー。やがて8月も終わり近く、吉田の街に火祭りが訪れるころ、富士の夏もようやく終わる。

秋を迎えた富士五湖。母娘の家では牛の搾乳が行なわれている。白く光るススキの穂に立つ富士。その山腹の意外な荒地にひとにぎりの墓がある。それは富士の人間の営みの証し。裾野を襲った嵐はしばしば山津波を起こし、山麓の人びとの生命を奪った。よく晴れた秋の日に富士はとりわけ美しく映える。

新幹線の流れるような車体の上に、太平洋のうねりの上に、大東京のビルの屋並みの上に、初雪をいただいた富士山。その山麓にはもう1つの日本がひろがっている。それは造船所、電子機器、自動車、楽器などに代表される近代工場群。そしてそこに働く勤勉な日本人。それは山麓の自然を相手として生きる、あの母娘とは一見無縁のようにもみえる。だが日本という国土に生きる同じ日本人として決して無縁ではない。その母娘はいま、懸命に裾野の枯草を焼いている。野焼き。その灰がより豊かな大地をつくるのである。

冬がくる。枯野に舞いはじめた大雪がまたたく間に山麓一帯を埋め尽してしまう。母娘のくらしは一段ときびしさを増す。雪の中を子供たちが元気に学校へ通う。その子供たちがみんなの合作で富士山麓の未来図を描く。途方もない希望が大パノラマをほほえましく仕上げていく。五湖は運河でつながれ、それが太平洋までのびて、外国のヨットが遊びにきている。山麓には学校都市が並び、巨大な地熱発電所が無料の電気を供給している。山頂からの長いすべり台もあり、火口を地底へとおりてゆく長いエレベーター、火山博物館もある。

春になると、山麓は一面の花で蔽われる。母娘の家には仔牛も生まれる。娘の通う学校では卒業式も行なわれる。未来の日本人がこの山麓から巣立つのである。咲きほこる山麓の桜。そして絶えず土砂を押し流す大沢崩れ。その現実の中になお毅然として富士はそびえている。山頂を流れる雄大な雲、子供たちの合唱「富士山」がつづく。「あす」を創るもの、それは私たちひとりひとりの「いま」である。

6:過酷を極めたマルチ撮影

監督自身が使用していた、シナリオ「『富士』日本万国博覧会政府館大ホール映像、マルチスクリーンのためのスクリプト」の表紙と裏表紙。ただしこれは決定稿であり、文中で述べている第一稿ではない
撮影協力:崑プロ

シナリオの第一稿には、冒頭でマルチスクリーンに対する考え方として、「8分割スクリーンを基本的には巨大な1面と考えるところに、発想の中心を置きたい。これはマルチスクリーンを拒否することを意味しない。8面がそれぞれ別の映像であるというシーンもあり得るし、1面1面をさらにオプチカル処理により分割し、8の何倍かのマルチスクリーンとすることも考えられる。だが、マルチスクリーンのおちいりやすい、〈あれもこれも〉的発想、総花的発想は避けたい。この映画のめざすものは、現実の諸相のまんべんない映像的報告ではないからである」と書かれている。

この「8分割スクリーンを基本的には巨大な1面と考える」という言葉は、具体的に絵コンテで「8面一杯の顔のクローズアップ」として示された。

「8面一杯の顔のクローズアップ」を指定する市川監督の絵コンテ
撮影協力:崑プロ
上の絵コンテに続く場面。丸尾(まるび:溶岩流によってつくられた地形)の上に土を乗せた畠を直す農婦のコンテ
撮影協力:崑プロ

マルチ撮影における理想は、各カメラのノーダルポイント(視差が発生しない支点)を1点に集めることだが、今回のリグでは不可能であり、隣接するカメラの撮影視野間に死角ができてしまう。

その幅の値によっては、顔の大部分がなくなってしまうことが考えられ、光軸の角度を調整可能な400mm用全8面リグが急遽追加されることになった。それでも人物のクローズアップ撮影には調整に苦労し、1カットに丸一日が費やされている。

光軸の角度を調整可能な8面リグ
写真提供:ナックイメージテクノロジー
光軸の角度を調整可能な8面リグ
写真提供:ナックイメージテクノロジー
上に掲載した「農婦のコンテ」の撮影風景
写真提供:ナックイメージテクノロジー

完成した8面用リグは総重量380kgにもなり、西垣六郎氏を撮影監督とする撮影スタッフは悩まされた。担いで移動させるだけでも重労働で、特に真夏の富士山頂に8面用リグとカメラ、フィルム、バッテリーなどを担いでの登山は、スタッフの半数が重労働と高山病で倒れたそうである。

そしてやっとの思いで運び上げても、場所によってリグの大きさや重量の問題から、設置を諦めざるを得ない場合もあった。こうしてようやくベストアングルが決まるが、そこからまた設置作業や、慎重な位置合わせが続き、絶好のシャッターチャンスを逃してしまうケースも少なくなかった。

富士スバルラインにおける主観移動撮影は、カウンターウェイトを積んだトラックの鼻先に、8面用リグを取り付けて行なわれている。

カウンターウェイトを積んだトラックの鼻先に、8面用リグを取り付けて行われた、富士スバルラインにおける主観移動撮影
「万国博映像 撮影報告 特集: 『富士山』‐日本政府館大ホールのマルチ・スクリーン映画‐」映画撮影, No.38 (1970.10) より掲載

そして空撮は、主として陸上自衛隊に支援を依頼し、多用途ヘリコプターUH-1に横1列2面のEリグを搭載して行なわれた。撮影されたフィルムは、東洋現像所(現IMAGICA Lab.)によるオプチカル作業で、4倍にブローアップして使用されている。

この他にカメラ単体では、朝日ヘリコプター所有の川崎/ベルKH-4も使用されているが、防振撮影装置が使えなかったため、ロープで固定するという方法が採られた。富士山頂の空撮は夏と冬に何度か試みられたが、希望する高度と位置に辿り着けたのはわずか一度だけで、乱気流に流されてホバリングは不可能だったそうである。

だがこのように苦労を重ねて8面撮影を試みても、画面ごとのカメラの位置の差や、レンズの個性によって、微妙に色や露出に違いが生じてしまう。

そこで、当時はまだ撮影助手で画角調整担当だった木村大作氏(※10)が、カメラ1台だけを用いて同一支点で上下左右に振って、8画面を撮影するという提案をした。“単体8面撮影”と名付けられたこの手法は、最初は動きのない場面だけに使用されたが、やがて動いている被写体でも編集でフレームを抜いたり、スタート位置をズラすことで多くのシーンに使えることが分かる。

カメラ単体による撮影風景
「日本万国博覧会政府出展報告」ナック より掲載

他にも、一部だけ別の時期に撮り直したり、全く別の場所で撮影した映像を組み合わせるといった方法も用いられた。これは東洋現像所による慎重な補正で、各面の色が合わせられたこと、そしてブラックゾーン(スクリーン間の隙間)の存在によって、気付く観客はほとんどいなかったという。

(後編につづく)

※10
撮影を担当した『八甲田山』(1977)や『復活の日』(1980)、監督とカメラを兼任した『劒岳 点の記』(2009)など、過酷な環境でのロケに定評のある、日本を代表する映画カメラマン。

大口孝之

1982年に日本初のCGプロダクションJCGLのディレクター。EXPO'90富士通パビリオンのIMAXドーム3D映像『ユニバース2~太陽の響~』のヘッドデザイナーなどを経てフリーの映像クリエーター。VFX、CG、3D映画、アートアニメ、展示映像などを専門とする映像ジャーナリストでもあり、機関誌「映画テレビ技術」、WEBマガジン「CINEMORE」、劇場パンフなどに寄稿。デジタルハリウッド大学客員教授の他、女子美術大学専攻科、東京藝大大学院アニメーション専攻、日本電子専門学校などで非常勤講師。