藤本健のDigital Audio Laboratory

第918回

まるで客席のサウンド!? バイノーラルライブ配信する「LURU HALL」の挑戦

fox capture plan

コロナ禍において、音楽のライブ配信が大きく広まったが、それより遥か昔、Ustream時代から1,000回を超える配信を続け、2020年3月からは全公演で有料でのバイノーラルライブ配信「Binaural LIVE!」を行なっているユニークなホールがある。それが和歌山県にある「LURU HALL」だ。

和歌山県にある「LURU HALL」 写真=井上嘉和

ここでは著名なアーティストらが、次々とバイノーラル配信に取り組んでおり、「多重バイノーラル録音による多次元同時体験」というコンセプトの元、ほかにはないユニークな手法で配信を行なっている。今回、3人組のジャズバンド「fox capture plan」のライブ現場を取材したので、実際どんなことを行っているのかをレポートしてみよう。

“越境する時空”を目指し、バイノーラルライブ配信を行なう

先日知人から、「和歌山でバイノーラルマイクを使ったライブ配信をしている面白いホールがあるんだけど、行ってみませんか?」という誘いを受けた。

実は和歌山県は一度も行ったことがなく、また日程的にも空いていたので、詳しい状況も把握しないまま、ツアーに参加してみることに。頭の中では、人里離れたところにある小さなホールというものを勝手に想像していたのだが、到着してみるとだいぶイメージとは違っていて、和歌山市内の幹線道路沿い、回転ずし店や中華料理店、カフェなどが並ぶ敷地の一角にそれはあった。

建物正面にLURU HALLと掲げられたロゴからも雰囲気が漂うが、ドアを開けて入ると、小ぶりなものの「なるほどホールだ」と感じられる空間で、一般的なライブハウスとはかなりニュアンスは異なる。

木製の壁に囲まれ、木のテーブルが置かれたLURU HALLの客席はすべて着席タイプで計33席。ステージ上にはスタインウェイのグランドピアノが設置されているが、誰もいない、演奏されていない状態でも、いい音響状態に整えられているのはすぐにわかる。

客席

LURU HALLではほぼ毎日、さまざまなアーティストが訪れてライブを開催しているという。和歌山という立地ながら、関西圏だけでなく、首都圏のアーティストも来訪が多いのは、ここが「多重バイノーラル録音による多次元同時体験」を目指した配信場所だからである。

取材をした11月7日にライブを行なっていたのは、3人組のジャズバンド「fox capture plan」。

ライブの模様は、12月31日までZAIKOのライブ配信で見ることができるが、そのハイライトを切り取ったビデオを特別にYouTubeで無料公開してもらったので、実際どんな配信なのか、まずは以下の映像をヘッドフォンで聴いてみてほしい。

いかがだろう。まるで会場にいるかのような、リアルな雰囲気を感じられたのではないだろうか。よく注意して聴いてみると、すぐにわかるのが冒頭のピアノソロ部分。まるでピアノを弾いているかのように、高い音が右側から、低い音が左側から聴こえてくる。そして、ドラム、ベースが入ってくると、ふわっと音の聴こえ方が変化するのだ。

写真=井上嘉和
写真=井上嘉和

ピアノは左側に定位し、ドラムが右側、ベースはセンターから聴こえるようになる。その音は、まさに小さなホールの観客席で聴いているかのようで、とてもリアルな感じだ。これがバイノーラルマイクで捉えたサウンドなのだ。

実は、このホールに入ると、かなり木材に囲まれた温かい雰囲気がある一方で、かなりシュールな光景が目に飛び込んでくる。そう天井から生首ならぬ黒いマネキンの頭のようなものがぶら下がっていると同時に、同様の黒い頭がグランドピアノの中を覗き込んでいるのである。

これらの機材が、先ほどのビデオのリアルな音を実現している仕掛け。ここにはLURU HALLならではの技がいろいろ隠されているようだ。

このユニークなLURU HALLを取り仕切っているのが、支配人であり、バイノーラルアート・ディレクターで、ANIMA Productsという個人オーディオメーカーの社長で開発者でもある田口雄基氏だ。田口氏はライブをするアーティストをブッキングしつつ、レコーディング&配信エンジニアとしてバイノーラルでのライブ配信を行なっているわけだ。

田口雄基氏

「私がLURU HALLの支配人として着任したのが2020年1月。以前は東京でSEをしていたのですが、趣味でヘッドフォンアンプやケーブルの自作などをしていました。その趣味が高じて、2012年に開業届を出すとともに個人メーカーとして販売も手掛けるようになったのです。あくまでも副業という位置づけでしたが、口コミで広がり、それなりに売り上げも上がるように。そんな中、勤めていた会社で異動がありまして。オーディオ機器づくりにも熱が入ってきた時期でもあったので、退職を決意したのです」と田口氏。

退職後、実家のある岐阜に戻った田口氏は、バイノーラルマイクに出会い、その面白さにのめりこんでいったのだとか。

「きっかけは、オーディオ雑誌に付いていたバイノーラルマイク収録の自然音源を聴いたことです。この音を聴いて驚き、これで音楽を録ったらすごいのではないかと思ったのです。ただ、バイノーラルマイクで代表的なノイマンKU-100は100万円程度と非常に高価だったため、導入を断念。しかし、国内にもメーカーがあることを知り、2014年にサザン音響のダミーヘッド型バイノーラルマイク、およびSAMREC 2700 Proを1週間ほど借りて試した後、購入しました」。

国内の機材も定価54万円と高価だが、購入をきっかけにコンテンツ制作へと踏み入れていったという。

「保育園のころから篠笛と和太鼓はずっと続けていて、地元岐阜で中学生の指導も行なっていましたが、レコーディングの世界はまったくの素人。知り合いのシンガーソングライターにも協力してもらいアルバムを作ってみたり、教会を貸し切ってDSD 5.6MHzでの一発録りにチャレンジしてみたり、少しずつ経験値を積み上げていきました」。

開演に際しての挨拶に立つ田口氏

その後、数多くのミュージシャンたちと関わりながら、さまざまなチャレンジを繰り返してきた田口氏。詳細は割愛するが、2020年1月、LURU HALLのオーナーに着任。世の中がコロナ禍に突入する2020年3月からバイノーラルマイクを使った配信を続けてきている。

「このホールは、前のオーナーが『スタジオレコーディングのようなライブ配信ができる場所を』ということで作り、オーナー自らUstrema時代から、1,000回近くライブ配信を行なってきたところなのです。もともと雇われるつもりはなかったんですが、初めてこのホールに来た時、『ここならバイノーラルの特性を生かした音楽作品が作れる』と確信し、引っ越してきました」。

確かに、音響特性は優れているし、広すぎない適度な空間だからバイノーラルレコーディングにはピッタリだ。また高品位なPA機器もそろっているし、スタインウェイのグランドピアノなど、個人では簡単には揃えられない機材があるのだから、田口氏にとってはうってつけの場所だったのだ。

バイノーラルライブ配信の構成システムとは

では、どのようなシステムで配信を行なっているのか。

「会場をご覧いただくと分かる通り、2つのバイノーラルマイクを設置していて、一つがピアノに頭を突っ込む形、もう一つは天井から吊り下げて、お客さんが席で聴いているようにしています。昨年はマイク1つで運用していましたが、今年はマイク2つ体制にしました」。

コロナ禍においては、どこのライブハウスも観客を入れることができない厳しい状況にあったが、それはLURU HALLも同様で、とくに今年4月・5月は観客ゼロで配信だけで運営するという過酷な状況だったという。

「物理的な時空の隔たりがある状況をもっとポジティブにできないか。生の耳で聴くよりも面白いことができないか。という発想から、この2つのバイノーラルマイクを設置する多重バイノーラルというアイディアに行き着きました。『越境する時空』というキャッチコピーをつけているのですが、カメラだけでなく音も複数の視点から音を聴いて、それを届ける“幽体離脱”のようなことを実現させているのです」。

それが、先ほどのfox caputure planのライブビデオにあった、不思議な音の遷移の正体だ。現場で田口氏がマイク入力のフェーダーを操作するとともに、4つあるカメラの切り替え操作も行なっていたが、これを利用しながら“幽体離脱”を実現していたのだ。

配信に使うマイクは、2つのバイノーラルマイクだけ。ピアノおよびドラムにはマイクがセッティングされているが、こららはあくまでもPAを鳴らすためのマイクであり、これを直接配信には用いていない。

配信に使うバイノーラルマイク

ベースはヤマハのサイレンベースを用いているが、これもエフェクトを通した上で、ラインでステージ上のアンプに接続して鳴らしていて、配信には直接つながってはない。あくまでもPAから出てきた音をバイノーラルマイクで捉える構成なのだ。田口氏からの話を元に、現場の機材の接続を簡単な図にしてみたのが下図になる。

2つのバイノーラルマイクをSSLのミキサーコンソールであるSiXに入れ、フェーダー操作で入力を選択している。SiXはマイクプリが2つしかないため、ピアノに頭を突っ込んでいるマイクからの音は事前にsculpter 500というマイクプリを挟んでいる格好だ。ちなみに天井のマイクは逆さに吊り下げられているし、ピアノのマイクはピアニストと反対側に取り付けられているので、LR信号を入力時に反転させている。

ミキサーコンソール
黒いDC電源の上にあるのがマイクプリ

そしてSiXからの音にEQ、コンプをリミッターを通した上で、ADにはRMEのADI-2 Proを使い、PCへと音を送っている。本来であればEQ、リミッターの順番だが、EQのヘッドルームが小さいために順番を逆にしているとのこと。

ADI-2 Proからの音とATEM mini Proを経由したカメラの映像信号をOBSでまとめた上で配信を行っていた。

ATEM mini Pro

マイクや電源など、オーディオ機器メーカーならではこだわり

上述の図では単純な接続になっているが、自らオーディオ機器メーカーの設計者である田口氏なので、さまざまなところに徹底的なこだわりがある。

その最たるものがバイノーラルマイクだ。ピアノのマイクは2014年に購入したサザン音響のSAMREC 2700Proなのだが、標準のままでは当然ない。内部配線を改良するとともに内部基板のコンデンサをいじるなど、納得のいく音になるような調整を施しているという。

一方、天井から吊り下げられているマイクのほうも見た目はSAMREC 2700Proだが、中身はまったくの別もの。マイクカプセルにペアで54万円したというSCHOEPSのCMC 1Lという無指向性のカプセルを入れるとともに、頭の中にある綿の吸音材の代わりに生体に近いという医療用の特殊ジェルを充填しているのだとか。天井から下した頭を持たせてもらったが、なるほど重たい。実際の頭部の重さと同等になっているという。

「KU100は前方定位しやすいのですが、その原因の一つが内部の共振周波数の影響ではないかと考えています。そこで、中身を生身の人間に近づけることで、その問題が改善できるのではと試行錯誤した結果、非常に自然でリアルな音になりました。またこのジェルはある種、インシュレータのような役割もしてくれるためか、音像定位がシャープになり、解像度もあがり、音の濁りが減るという効果も出せていると感じています」。

もう1点、ダミーヘッド型のバイノーラルマイクならではの設定が、ADI-2 ProでEQ補正を行なっているという点だ。

RME「ADI-2 Pro」

鼓膜に相当するマイクカプセルまでに音が届くのに、外耳道に相当する管を通って収音するために、5kHzあたりに盛り上がりがくる。SAMREC 2700 Proは内部に補正のためのEQがあるが、田口氏自作のマイクにはそれがないので、ADI-2 Proの補正を活用しているのだ。

「SCHOEPSのカプセル径が大きいためだと思うのですが、SAMRECにはなかった750Hzあたりのピークがあったので、双方を補正するにはアナログ回路を使うより、パラメトリックEQを使うほうが効率的でした。EQの幅もシビアなので、ソフトEQのほうが便利ですね。両方をこのEQに通すため、SAMRECの内部EQはオフにするとともに、SCHOEPSと同じ特性になるようにマイクプリ部分にあるEQで調整しています」と田口氏は話す。

ここまでバイノーラルマイクにこだわっているレコーディングエンジニアは世界中探しても、そうそういないのではないだろうか? またマイクからコンソールへの配線は、田口氏が社長を務めるANIMAの製品として販売している直径25ミクロンという極細単線のハイレゾケーブルを用いているとのこと。

ハイレゾケーブル

また、ADI-2 Proもデバイスの要としてとらえており、そこへの電源供給はACアダプタを使わず、RATOCのRAL-PS0514という電源ユニットとモバイルバッテリーを使うなど、徹底している。そして環境音についてもこだわりが見られた。

「会場にいるとあまり気にならないのですが、マイクを通して配信するとモーター音などは異音として非常に気になります。そのため、ライブがスタートするタイミングでドリンクマシンなどの電源はすべてオフにしています。本来であれば空調も切りたいところですが、今の時節柄、換気はしっかりしたいし、ミュージシャンが気持ちよく演奏でき、観客のみなさんも気持ちよく聴くことができるよう、騒音の小さいエアコンを採用し、本番中も稼働させています」と説明する。

実際、現場でリハをしている際に試し録画をしたものを、fox capture planの3人にもチェックしてもらったが、3人とも納得がいっている様子。

ピアノを担当する岸本氏は、「バイノーラルマイクで録音したもの、初めて聴きましたが、とってもリアルでまさに会場にいるような音ですね。バイノーラルマイクでの配信だと聞いていたので、アコースティックな生音だけでいけるセットリストにしてみましたが、ここの会場の相性は抜群ですね」と話す。

ピアノ:岸本亮氏 写真=井上嘉和

ドラムの井上氏は「普段のライブ録音とはかなり違う感じで、生っぽいですね。まるで目の前で演奏しているようなリアルなサウンド。マイク録音だと低音のバランスってなかなか難しいところがありますが、そのバランスもよく、すごく気持ちよく聴けますね」。

ドラム:井上司氏 写真=井上嘉和

そして、ベースのカワイ氏は「クリアな音というか、すごくパキっとした音で気持ちいいです。部屋鳴りがすごくうまく拾えていて普通のマイクでの録音とは大きく違うという感じです。この生っぽい音、ステレオ感がすごくいいです」。

ベース:カワイヒデヒロ氏 写真=井上嘉和

……と、絶賛していた。

ただ、ちょっと残念なのは現状における有料配信のオーディオスペックだ。ここまでこだわっているのだから、192kHz/24bitやDSDで配信したいところだが、そうはなっていない。

ZAIKOのライブ配信システムを使っている関係で、送り先がVIMEOになっているのだ。VIMEOの場合映像が最大で5,000kbps、音声は256kbpsのAACという制限がある。そのため、ADI-2 Proでは48kHz/24bitで取り込んだ上で、256kbpsのAACで配信しているのである。もちろん現場ではリニアPCMの状態での録音もしている。

「YouTubeだと4K映像+PCM 96kHz/24bitがエンベデッドできるのですが、無料であることが前提となってしまいます。コルグさんが展開しているLive ExtremeだとPCM 384kHz/24bitやDSD 5.6MHzにも対応しているようですので、いま非常に興味を持っているところです。システム的にウチのもので行けるのか、コスト的に見合うのか、お客さんにとって聴きやすいのかといった点も検討しながら、配信環境についても模索していきたいと思っています」と田口氏は話す。

田口氏および、fox capture planから、もう1曲、YouTubeで公開してもらったので、こちらもぜひご覧いただきたい。

バイノーラルマイクは、Dolby Atmosや360 Reality Audioのようなイマーシブオーディオの世界と比較すると、よりシンプルなシステムではあるが、工夫次第で音質も立体感も向上するし、何より複数のバイノーラルマイクを使うというアイディアによって、ほかにはない面白いコンテンツが作り出せることを実感することができた。こんなバイノーラル配信がもっと広がってもいいように思う。

藤本健

 リクルートに15年勤務した後、2004年に有限会社フラクタル・デザインを設立。リクルート在籍時代からMIDI、オーディオ、レコーディング関連の記事を中心に執筆している。以前にはシーケンスソフトの開発やMIDIインターフェイス、パソコン用音源の開発に携わったこともあるため、現在でも、システム周りの知識は深い。  著書に「コンプリートDTMガイドブック」(リットーミュージック)、「できる初音ミク&鏡音リン・レン 」(インプレスジャパン)、「MASTER OF SONAR」(BNN新社)などがある。またブログ型ニュースサイトDTMステーションを運営するほか、All AboutではDTM・デジタルレコーディング担当ガイドも務めている。Twitterは@kenfujimoto