第497回:「Mastered for iTunes」の音の良さとは?

~“配信専用マスタリング”のファイルを検証 ~


Mastered for iTunesのロゴ

 既報のとおり、2月22日アップルはiTunesに新機能を追加した。3Gネットワークでの楽曲ダウンロードを可能にしたり、AAC 256kbpsでDRMフリーのiTunes Plusを標準にし、iTunes in the Cloudを音楽にも対応させ、より高音質なMastered for iTunesというサービスもスタートさせている。

 どれもiTunesやiPad/iPhone/iPodユーザーにとっては嬉しい話ばかりだが、記事や発表内容を読んだだけではピンと来ないのがMastered for iTunesというものだ。これがどんなものなのか、ちょっとした実験をしてみたので紹介してみよう。



■ CD用のマスタリングと、配信用のマスタリング

Mastered for iTunesの楽曲販売ページ

 Mastered for iTunes。カッコよさそうなネーミングであるが、簡単にいえば「iTunes専用に行なったマスタリング」ということのようで、従来のデータよりも高音質で楽しむことができるようなのだ。すでにiTunes Store上には、Mastered for iTunesの特設ページが設けられており、ロック、ジャズ、クラシックまで、Masterd for iTunesで作られたさまざまなアルバムがダウンロード購入できるようになっている。もちろん、これらのアルバムはすべてiTunes Plus、つまりAAC 256kbpsのDRMフリーというフォーマットになっているが、ほかのiTunes Plusよりも音がいい、とされている。

 まあ、Mastered for iTunesという名称はともかくとして、音楽配信専用のマスタリングという話は10年近く前からいろいろなところで議論されてきたテーマだ。実際、CDのマスタリングとは別にiTunes Storeでの配信専用にマスタリングを行なっているというアーティストやエンジニアも結構いる。一般リスナーからすると、いずれにせよブラックボックス内の話で、なかなか状況が見えにくいのだが、そのブラックボックスの中がどうなっているのかについて少し解説してみよう。

 まず、一般的なCD制作の流れを考えてみよう。通常、Pro ToolsなどのDAWを使ってマルチトラックでレコーディングが行なわれる。この際、現在は24bit/48kHzや24bit/96kHzでのレコーディングが一般的だ。それをDAW上で2chにミックスダウンし、曲の原型となるものが作られる。ここまでの作業は通常レコーディングエンジニアと呼ばれる人が行なっていく。ただ、このミックスダウンされたものをそのままリスナーが聴くということはほとんどない。その後、マスタリングという工程があるからだ。

 マスタリングはマスタリングエンジニアと呼ばれる専門の人によって行なわれる作業で、微妙なEQや音圧調整を行ない、聴き心地のいいサウンドに仕上げていく最終作業なのだ。まあ、マスタリングエンジニアとという名称にはなっているが、技術=テクノロジーを駆使する人というよりも、耳が非常にいい音の職人であると考えたほうが分かりやすそうだ。

 ただ、ここでターゲットとされているのはCDのマスタリングであり、音楽配信は主目的ではないということ。まあ、最近はiPod等で聴くユーザーが多いので、マスタリング結果をCDを介してiPodに転送して音のチェックを行なっているようだが、やはりサブ的な扱いになっている点は否めない。

CDを介した配信楽曲制作の流れ

 では、実際にiTunesで配信されてきた楽曲はどのように作られているのだろうか? これはレコード会社/レーベルによって、またアップルとの間に入る会社によって多少違いはあるようだが、基本的にはCDを元にして128kbpsのAACのファイルが生成され、それにDRMが付加された形で配信が行なわれている。それが256kbpsでDRMフリーのiTunes Plusになっても基本的な構造は変わらない。これをチャートで表すと図のような形になる。

 場合によっては、マスタリング前に16bit/44.1kHzに変換されているケースもあるし、マスタリングまでレコーディングエンジニアが一括して行なってしまうケースもあるので、これが絶対ではないが、だいたいの流れは分かるだろう。

 それでは、これのどこが問題なのか? そもそもAACなどの非可逆圧縮ファイルに変換することで音質は絶対に低下するというか、変化してしまう。どんな変化かは、変換するフォーマットがAACなのかWMAなのかMP3なのかなど、フォーマットによって異なるし、ビットレートによってもいろいろ違うが、多くの場合、高域が欠けるなどの現象によって、特定の楽器の音色が変化したり、微妙にニュアンスの異なる音になってしまう、ということが起こる。ビットレートを大きく下げると、キュルキュルというような妙な音になってしまうが、128kbps以上、とくに256kbpsともなると、そうした極度な変化はなくなるが、細かな音色の変化ばかりは、どうしようもない。

 だったら、その変化することを前提として、最終的な音がいい音になるように、エンコード前のデータを作ればいい、というのが配信用マスタリングの基本的考えだ。CDをリマスタリングするという手法を使ったが、同じ考えでMP3を生成する実験をDigital Audio Laboratoryでも2005年に「iPodに最適なMP3を作る」というタイトルで何度か行なったことがあった。

 また、少しでもいい音に、ということを実現するのに16bit/44.1kHzのフォーマットを介さずに直接24bit/48kHzや24bit/96kHzからMP3やWMAにエンコードするという試みをしてきた人も多い。彼らに話を聞くと、そのほうが最終的な音質がよくなる、というのだ。ただ、iTunesで使えるAACデータを直接出力できるDAWがほとんどなかったため、一旦WAVやAIFFで書き出した後に、アップルが提供するコマンドラインで使うツールafconvertで変換するなど、みなさん苦労されていたようだ。

 さて、そこで登場してきたのが、今回のMastered for iTunesだ。実はこれ、われわれ一般ユーザーも完成した作品をダウンロード購入するというだけでなく、Mastered for iTunesのツールを自由に使えるようになっているのだ。アップルのサイトに行くと、「Apple Audio Mastering Tools」というものが配布されており、フリーでダウンロードできるようになっている。さすがにWindows用はなく、Macでないと動作しないが、誰でも簡単に使えてしまうのが面白いところだ。ここには、下記の4つのツールが入っている。

 


  • Master for iTunes Droplet:作成されたマスターを迅速かつ簡単にiTunes Plusフォーマットへとエンコードする、シンプルなスタンドアローンのドラッグ&ドロップツール
  • afconvert:マスターをiTunes Plusフォーマットにエンコードするコマンドライン・ユーティリティ
  • afclip:あらゆるオーディオファイルのクリッピングをチェックするコマンドライン・ユーティリティ
  • AURoundTripAAC Audio Unit:iTunes Plusファイルとオリジナルファイルを比較してクリッピングをチェックするツール

 

Apple Audio Mastering Toolsインストール画面

 


24bit/96kHzマスターからMastered for iTunesで直接AACの配信データに変換

 このうちafconvertは以前からあったもので、iOS用のオーディオデータに変換するツールなどとしてよく使われていたが、今回何か機能強化されているのかもしれない。

 この4つの中で中心的な存在がMaster for iTunes Dropletだ。これはafconvertでの作業を自動的に一括処理できるというもので、24bit/96kHzや24bit/48kHzのWAVファイル、AIFFファイルをドラッグ&ドロップで持っていくとすぐにiTunes Plusに適合したファイルに変換される。アップルの説明を見ると「理想的なマスターは24-bit 96kHzです。この仕様ではファイルにより詳細なデータが含まれるため、エンコーダはマスターを忠実に変換できます。これ以外にも、16-bit 44.1kHz以上(48kHz、88.2kHz、96kHz、192kHz)のサンプルレートであれば、Appleのエンコーディングプロセスに対応できます」とある。ちょっと期待できそうだ。これを使えば、24bit/96kHzでミックスダウンされたデータを、一旦CDを介すことなく直接AACに変換できるため、その流れも図のように変わるわけだ。



■ 他の変換ツールを使った場合と波形を比較

 さっそくMaster for iTunes Dropletで、24bit/96kHzの音をエンコードしてみることにした。素材は、リニアPCMレコーダ、R-05で録音したピアノの音。Master for iTunes Dropletを起動し、出てくる画面にドラッグしていたが、何度試してもうまくいかない。実はこれは操作法が誤っていた。正しくは起動させずに、Master for iTunes DropletのアイコンにWAVやAIFFファイルを重ね合わせるようにドラッグすればよかったのだ。すると、ダイアログが表示されて確認を行なった後、元のファイルがあったフォルダに同じファイル名のAACファイルが生成される。

起動したMaster for iTunes Dropletにファイルをドラッグしても変換できなかった起動前にアイコンへファイルを重ねると、正常なダイアログが出て変換できた元のフォルダに同名のAACファイルが生成された
iTunesのAACエンコーダで変換

 さっそくチェックしてみると、微妙に違いがあるようにも思うが、ピアノ音を比較しただけだと、ほとんど違和感はない。とはいえ、これが通常のAACエンコードと違いがあるのかも分からない。そこで、ためしにiTunesを使っての普通のエンコードも行なってみた。方法としては、オリジナルの24bit/96kHzのWAVファイルをiTunesに読み込ませた上で、AACへ変換したのだ。

 ついでにもうひとつ行なったのは、この24bit/96kHzのデータを波形編集ソフトであるSONY Creative SoftwareのSound Forge 10を使って予め16bit/44.1kHzに変換してからiTunesでAAC 256kbpsに変換するというもの。せっかくなのでSound Forgeの標準変換ではなく、iZotopeのサンプリングレートコンバータおよびビット深度コンバータである「MBIT+ディザ」を使って変換している。


iZotopeの「MBIT+ディザ」を使って変換
オリジナルの24bit/96kHzファイル

 このようにしてエンコードした3種類を聴き比べてみたが、まあ、似たり寄ったりという感じで、ハッキリとした違いまでは分からない。きっと耳のいい方であれば、いろいろな違いが見えてくるのだろうが、ピアノ音だけを耳で比較するのは、なかなか難しいことを改めて実感した次第だ。

 そこで、ここはやはり周波数分析で視覚的にチェックしてみたいと思う。いつものようにフリーウェアのWaveSpectraを使って、オリジナルとAACの3つを比較してみた結果を掲載する。。


Mastered for iTunesiZotopeiTunes標準

 オリジナルとの違いは一目瞭然。オリジナルは24bit/96kHzでのサンプリングを行なっているだけに48kHzまでしっかりと音を捉えている。それに対し、Master for iTunes Dropletでエンコードしたものも、iTunesでエンコードしたものも、そしてiZotopeで一旦16bit/44.1kHzに変換したものも、いずれも44.1kHzのAACになるため、20kHz前後までしか出ていない。これを見る限りソースを96kHzのサンプリングにしたところで、44.1kHzのCDの場合と劇的な差は出ないようで、ちょっと期待外れ、というのが正直なところだ。

 一方で、AACに変換した3種類とも、波形上はいろいろ違いがあることも見えてくる。24bit/96kHzのデータをiTunesで直接256kbpsにしたものは18kHzあたりまでしか出ていないのに対しMaster for iTunes DropletおよびiZotopeを使ったものは22kHzまで出ていることが確認できる。

 ただし、この赤い線は最大どこまでの音が出たかを示すピーク値。その一方、リアルタイムに波形を見ていくと別の側面も見えてくる。iTunesで直接変換したものとiZotope経由のものは、ピーク値と近い周波数成分がずっと続いているのだが、Master for iTunes Dropletで変換したものは、時間経過とともに波形が結構変わり、18kHz程度までしか音が出ていないというところも結構あるのだ。この辺にノウハウが詰まっていそうだが、具体的なアルゴリズムなどは公開されていない。

 ところで、先ほどMaster for iTunes DropletでAACファイルを生成する際、画面を見ていたら変換途中にWAVファイルのあったフォルダに拡張子.cafというファイルが現れた。そしてそのファイルはAACファイルが生成されると同時に消えていたのだ。気になったのでマニュアルを読んでみると、「ソースファイルからCAF(Core Audio File)をレンダリングし、iTunes Sound Checkプロフィールをファイルに添付することでAACファイルを作成します。ソースファイルのサンプルレートが44.1kHz以上である場合、Appleのマスタリング品質SRCにより44.1kHzにダウンサンプリングされます。次に、レンダリングされたCAFを用いて高音質のAACファイルを作成します。AACファイルが作成されると、中間段階のCAFは削除されます」と書かれていたのだ。

Master for iTunes Dropletで変換したものは、時間経過とともに波形がけっこう変わっている変換途中に、フォルダ内に拡張子.cafといファイルが

 なるほど、これを見ると状況は納得できる。当初24bit/96kHzからの直接変換を推奨ということで、もしかするとCDよりもいい音のAACファイルができるのでは……というような淡い期待をしていたのだが、それはないようだ。CAFファイル生成の過程で一旦CDと同じ44.1kHzに変換された後にAACファイルを生成しているのだから、劇的な変化がないのも当然だろう。あとは、マスタリングをCD用として16bit/44.1kHzに向けて行なうのか、24bit/96kHz上で行なっているのかという、違いということになる。



■ ツールの違いで細かい変化も

 そしてもうひとつ大きな違いがサンプリングレートコンバートとビット変換をどのツールで行なうかという点。Master for iTunes Dropletを使った場合は、このツール自身で双方の変換を行なうのに対し、CDを経由する場合は、外部ツールを利用することになる。ここではiZotopeのものを使ったが、たとえばAPOGEE UV22HRやPOW-rといったプロ仕様のものがあるので、こちらを使ったほうがいいのでは……というような疑問も感じるところだ。

 ここで改めて、アップルの説明を読むと、24bitを16bit化する際には量子化歪が生じるためディザ処理をする必要があるが、このときディザリングノイズが加わるため音質劣化が起こるので、この処理を必要としないMastered for iTunesがいい、といった趣旨のことが書かれている。またダイナミックレンジにおいても優位性があるというのだ。たしかに、そのノイズを加えるのが前述のiZotpeやUV22HRだし、24bitの分解能をある程度維持したままAACに変換できるとすると大きなメリットとなりそうだ。残念ながらダイナミックレンジは、このグラフからは見えにくいわけだが、この辺はもう少し研究の余地はありそうだ。

 なお、今回はほとんど触れなかったが、Apple Audio Mastering Toolsに入っている、afclipはクリップを見つけるツールであり、クリップがある場合、どこにあるかを時間で表示してくれるもの。とはいえ、レコーディング、ミキシングする上でクリッピングさせないというのは、基本中の基本。DAWを使っていれば当然チェックできるものなので、ここであえて行なうこともないように思える。

 また、AURoundTripAACはAudioUnitsのプラグインであり、Logicなどに組み込んでリアルタイムエンコードしながら音を比較できるというもの。ただ、実際にはリアルタイムエンコードではなく、非リアルタイム処理のMaster for iTunes Dropletのようなツールを使うわけなので、ちょっとした参考ツールと考えたほうがいいように感じた。

afclipAURoundTripAAC

 以上、今回はアップルのMastered for iTunesについて実験を交えて見てみた。このツール自体よさそうではあるが、これが絶対というわけでもないように思えた。ただ、どの方法をとるかによって、確かに微妙な違いが出ているので、それぞれを試した上で、比較して一番いいものを選択するのがいいのかもしれない。


(2012年 3月 5日)

= 藤本健 = リクルートに15年勤務した後、2004年に有限会社フラクタル・デザインを設立。リクルート在籍時代からMIDI、オーディオ、レコーディング関連の記事を中心に執筆している。以前にはシーケンスソフトの開発やMIDIインターフェイス、パソコン用音源の開発に携わったこともあるため、現在でも、システム周りの知識は深い。
 著書に「コンプリートDTMガイドブック」(リットーミュージック)、「できる初音ミク&鏡音リン・レン 」(インプレスジャパン)、「MASTER OF SONAR」(BNN新社)などがある。またブログ型ニュースサイトDTMステーションを運営するほか、All AboutではDTM・デジタルレコーディング担当ガイドも務めている。Twitterは@kenfujimoto

[Text by藤本健]