藤本健のDigital Audio Laboratory

第617回:“寺でピアノ弾き語り”など独自のDSD配信。OTOTOYによる制作の舞台裏

第617回:“寺でピアノ弾き語り”など独自のDSD配信。OTOTOYによる制作の舞台裏

 12月10日に早稲田大学の西早稲田キャンパス内の大会議室で行なわれた、「第10回1ビット研究会」。約5時間のプログラムの中で、学術的な成果発表から、メーカーの新製品・新技術の紹介、さらには1bitオーディオとΔΣ変調の基本原理解説など、多岐に渡る発表が行なわれたが、その中から面白いテーマということで、前回「1bit Digital Audio Workstation (DAW) Sonomaを活用したLPレコードの製作」について紹介した。今回は、もう一つ身近なテーマであった「日本で最初にDSD配信を始めた OTOTOY(オトトイ)がDSDでやって来たこと」というプログラムについて紹介していこう。

「第10回1ビット研究会」が行なわれた早稲田大学の西早稲田キャンパス

DSD配信用レコーディングのスタートは苦難の連続

 この発表に当たって登壇したのは、当連載でも何度か登場いただいたオーディオ評論家であり、音楽評論家であり、かつOTOTOYプロデューサでもある高橋健太郎氏。もう一人はOTOTOYの編集長である飯田仁一郎氏だ。ご存じのとおり、OTOTYはDSDデータの配信を行なっている数少ないサイトであり、かつオリジナルを含め、他では入手できないさまざまなDSDコンテンツを持っているのが特徴だ。iTunes Storeのようなサイトは、基本的にレコード会社から音楽データを仕入れて、それを販売しているだけなのに対し、OTOTOYはコンテンツ制作から積極的に関わっているケースが少なくない。だからこそOTOTOYだけの魅力的なコンテンツが数多く揃っているのだが、この中でDSDのオリジナルコンテンツがどのように制作されているのか、という点は非常に興味のあるところ。今回、この二人が、制作の裏舞台も含めて紹介してくれたのだ。

オーディオ評論家・音楽評論家でOTOTOYプロデューサでもある高橋健太郎氏(左)と、OTOTOYの編集長の飯田仁一郎氏(右)
1ビット研究会のプログラム
会場の模様
オリジナル作品を含め、ユニークなDSDコンテンツを配信している
最初のDSD配信コンテンツ「FELT」

 まずは、OTOTOYでのDSD配信に関する歴史について。OTOTOYは2010年8月からDSDの配信をスタートしている。最初のコンテンツは清水靖晃+渋谷慶一郎の「FELT」全8曲だった。これはOTOTOYがリットーミュージックの音楽専門誌「サウンド & レコーディング・マガジン」と共同で展開しているサンレコレーベルから出したものであり、まさに他ではない完全なオリジナルコンテンツ。この制作に関する経緯については以前の記事で詳しく紹介しているので、ここでは割愛するが、改めて振り返ってもDSD配信は苦難の連続だったという。

 考えてみれば、2010年当時といえば、PCでDSDを直接再生する手段自体がなかった。だからこそ、MP3データをバンドルさせるというユニークな方法をとっていたのだ。DSDデータを再生させるためには、コルグのレコーダであるMR-2かMR-1000、MR-2000Sなどに転送した上で、これらプレイバック機能で再生させるか、当時登場したばかりだったDSDディスクに焼いた上で、ソニーが2機種だけだしていたDSDディスクにも対応したSACDプレイヤーで再生させるか、PlayStation3で再生するくらいしか方法がなかった。この連載においても当時、こうした手段をいろいろ試したものだが、DSDをネイティブ再生できるUSB-DACが数多く登場し、対応プレイヤーソフトもいろいろある現在から振り返ると、ずいぶんと原始的な時代だったわけだ。

 そうした状況の中、サウンド&レコーディングマガジンの当時の編集長であった國崎晋氏から「DSDの配信をやってくれないか」と持ち掛けられたときは、「やめておきましょう! 」と高橋氏は断ったという。2009年に48kHz/24bitのハイレゾ配信はスタートしていたものの、それに比較してもデータ容量は莫大だし、そもそも再生環境がまともに用意できないデータを配信したって売れるはずもない、という当然の判断からの断ったのだという。それに対し、國崎氏からは「ぜひやりましょう! そうじゃないとDSDのフォーマット自体が滅んでしまう! 」という圧倒的な気迫で迫られたのに負けたのだとか……。

 またこのFELTはMR-1000を複数台でレコーディングしたけれど、MR-1000には同期機能がなかったため、まったく別々に録音されていた。それを一つにミックスするには、そのままでは不可能だったことから一度AudioGateの変換機能を用いて192kHz/24bitのPCMデータに変換した上でSteinbergのNUENDOを使って手動で合わせている。この辺の経緯も以前記事にしていたが、NUENDOの出力を再度アナログで出した上でDSDで録る手段をとっているのだ。「このようにPCM化したり、途中でアナログにしてもDSDの感触は残るものだな、と思った」と高橋氏は当時を振り返る。こうした経験はその後のOTOTOYのDSDコンテンツ制作のヒントにもなっており、「PCMも必要に応じて使い分けてもいいんだな」と指針ができたのだという。ただしサンレコレーベルのほうは、國崎氏のこだわりもあって、それ以降はPCM化はせず、すべてDSD処理もしくはアナログでのミックスとなっているそうだ。

 次に取り上げたエピソードは、2011年6月にOTOTOYレーベルでリリースした菊地成孔の「巨星ジーグフェルド 2011.02.20 Part.1」について。高橋氏自身もレコーディングエンジニアとして活動していることはよく知られているが「ライブをレコーディングするのはとっても大変だ」とのこと。というのも、ライブの主目的は、あくまでも当日やってくる観客にステージを見せることであり、レコーディングは二の次、三の次。プライオリティーが低く、どうしても後回しにされてしまうので、24トラック、48トラックの設備でレコーディングするのは気を使うし大変なのだとか。

菊地成孔「巨星ジーグフェルド 2011.02.20 Part.1」
高橋健太郎氏

 「菊地さんのライブもなんとかセッティングして48トラックを回していたのですが、それと並行してDSDでも録っていたのです」と高橋氏。DSDのレコーディングの構成自体はいたって単純で、PAからの2ミックスをもらうのと同時に、会場内にアンビエント用のマイクを2本立て同期させただけ。ところが、48トラックをミックスしたものと、DSDの4トラックのものを比較した結果、音の良さ、臨場感ということから最終的にDSDを採用したのだそうだ。「設営も簡単だし、その日の雰囲気がかなり再現できるという面で、この4トラックDSD録音は非常に有効的です。ときには一部の楽器だけをソロで録って6トラックで試すことなどもありますが、ライブレコーディングはこの方法が非常に効果的」だという。

 ただし、こうしたレコーディングにおいてもサンレコレーベルと違ってOTOTOYレーベルは一旦PCMを介在させている。というのもライブ録音においてPAからもらった音と、アンビエントマイクが拾う音には時間的なズレが生じてしまう。大きな会場で、アンビエントマイクの位置がステージから30m離れてたとすると、単純に計算しても約100msecものディレイが生じてしまうため、そのままミックスするわけにはいかないのだ。そこで、この時間差を合わせこむのに一旦PCMに変換してPro Tools上で作業を行なうのだそうだ。その後も、こうした手法が使われているそうだが、やはりPCMで録ってミックスした音とは違い、DSDっぽさが出るという。

築地本願寺の本堂の前でDSDライブ録音

南壽あさ子「南壽と築地と子守唄 ~南壽あさ子 at 築地本願寺~」

 そして、もう一つのトピックスとして挙げたのが今年5月にリリースされた南壽あさ子の「南壽と築地と子守唄 ~南壽あさ子 at 築地本願寺~」というアルバム。「DSDのライブ録音には大きな可能性は感じたけれど、キレイに録れるならPCMの32トラックでやったほうがいいのかもしれない。でもDSDの特徴を活かした方法はないだろうか…、と考えた中、特別の場所でレコーディングするのがいいのでは、というアイディアにたどり着きました」と飯田氏は語る。

 「レコーディングルームで録るのが一番いいことはわかっています。でも、お寺とか、洞窟、雪のかまくらの中で録ってみたら面白そうだし、お風呂や教会で録音するのもいいですね」と高橋氏。そうした考え方で生まれたのがOTOTOYのSpecial Place Recordingsシリーズだ。これまで実際に、かまくらの中でレコーディングしたり、運搬が不可能な大きな2,000万円もするピアノを、設置されている部屋でレコーディングしたり、教会で録ったりした作品がすでに発売されているが、シリーズ10として発表されたのが築地本願寺でピアノの弾き語りを録った作品なのだ。

飯田仁一郎氏
OTOTOYのSpecial Place Recordingsシリーズ
築地本願寺でピアノの弾き語りを録音

 「築地本願寺の本堂の前にグランドピアノを持ち込んでレコーディングしました。この本堂のリバーブはすごかったですよ。教会のリバーブとも明らかに違う雰囲気なんです。このリバーブを録るために、天井に2本のマイクを向けたセッティングをしています」と高橋氏。

 持ち込んだのはヤマハのC3だったが、このグランドピアノを持ち込むのにはかなり苦労したようだ。とういもも本堂の正面入り口には長い階段があってピアノを持って登れないし、エレベーターを使うと幅が足りないため、ピアノを分解して運び込んだのだとか。ここにTASCAMのDA-3000を3台設置して同期させ、マイク6本でレコーディングした結果、ほかでは絶対にないサウンドを録ることができたようだ。

 まさに「Special Place Recordings」はDSDが威力を発揮できる世界であり、従来のPCMを使ったマルチトラックレコーディングとは明らかに異なる作品作りといえそうだ。どんな場所で、どのように録音したかをチェックしながら作品を聴いてみるというのも楽しそうだ。個人的にはSpecial Place Recordings シリーズ7と8は、大倉山記念館というところで録音された作品だが、この大倉山記念館は筆者の家からも近く、何度となく演奏を聴きに行ったことのある場所。その場の雰囲気を思い描きながら聴いてみたところ、リバーブ感などが「まさに! 」と感じられて非常に楽しかった。

 10月1日には初の11.2MHzのDSD作品、丈青の「I See You While Playing The Piano」をリリースするなど、さらに先を進もうとしているOTOTOY。こんなデータを再生できる人は何人いるのだろうか……と心配になってしまうが、とにかくOTOTOYはチャレンジングなことを続けている。2015年はどんなことをしてくれるのか、楽しみに待っていたいと思う。

築地本願寺の本堂前にグランドピアノを持ち込み、TASCAMのDA-3000を3台設置して同期させ、マイク6本でレコーディング
初の11.2MHz DSD作品となる、丈青「I See You While Playing The Piano 」

藤本健

 リクルートに15年勤務した後、2004年に有限会社フラクタル・デザインを設立。リクルート在籍時代からMIDI、オーディオ、レコーディング関連の記事を中心に執筆している。以前にはシーケンスソフトの開発やMIDIインターフェイス、パソコン用音源の開発に携わったこともあるため、現在でも、システム周りの知識は深い。  著書に「コンプリートDTMガイドブック」(リットーミュージック)、「できる初音ミク&鏡音リン・レン 」(インプレスジャパン)、「MASTER OF SONAR」(BNN新社)などがある。またブログ型ニュースサイトDTMステーションを運営するほか、All AboutではDTM・デジタルレコーディング担当ガイドも務めている。EPUBマガジン「MAGon」で、「藤本健のDigital Audio Laboratory's Journal」を配信中。Twitterは@kenfujimoto