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「タイタニック」の海は国防省向け物理シミュレータで!? CGスタッフが明かす秘話
2023年2月23日 08:00
ジェームズ・キャメロン監督の映画『タイタニック』(1997)が、公開25周年を記念し、2月23日まで『タイタニック:ジェームズ・キャメロン25周年3Dリマスター』として劇場公開されている。
後編となる今回は、オリジナル版のVFXについて、日本人CGスタッフの1人だった塩沢敏明氏に、制作当時の状況を聞いてみた。
『タイタニック』のメインVFXを担当したデジタル・ドメイン
『タイタニック』のVFX作業は、27もの会社が関わっている。中でもメインで活動していたのが、デジタル・ドメイン社だった。同社の設立には、ジェームズ・キャメロン監督自身が深く関わっている。
彼の監督作品である『アビス』(1989)では、“知性を持った海水の触手”の表現をどうするかが問題となった。キャメロンは当初、粘土アニメーションを検討していたが、VFXを担当したILMは、当時のハリウッドでは時期尚早と思われていたCGで解決させた。
この成功でキャメロンは、次の『ターミネーター2』(1991)において、CG技術を全面的に打ち出した液体金属のキャラクター「T-1000」を登場させる。
この時、T-800の特殊メイクやメカニカルパペットを担当していたのが、スタン・ウィンストンだった。彼もこの作品で、CGの必要性を強く意識するようになる。さらにアニマトロニクス制作で参加した『ジュラシック・パーク』(1993)において、その思いは決定的となった。
そこでキャメロンとウィンストンは、共同でVFXプロダクションを作ることにし、仲間として、ILM内のCG部門設立を指揮したルーカスフィルム・エンターテインメント・グループ副社長だったスコット・ロスを招き入れた。
こうして1993年2月に誕生したのが、デジタル・ドメインだ。社長に就任したのはロスである。キャメロンは、自身の会社ライトストーム・エンターテインメントを持っていたし、ウィンストンは自身の工房であるスタン・ウィンストン・スタジオを活動拠点にしていたことから、それぞれ会長、副会長という立場で運営委員会を組織した。
これだけのビッグネームの集まりであるから、当然多くの企業が注目し、特にIBMは50%(2,000万ドル)の出資をした。オフィスはカリフォルニア州のベニスにあるビン工場の倉庫を改造した建物で、以前は広告代理店が使用していた。この中にモデルショップ、デジタル棟、撮影スタジオ、そして。フランク・ゲーリー設計のミーティングスペースと経理・庶務などがある一般棟が建つ。
設立当初は“ミニチュア”がメインだった
当初は、CGを中心に設備が整えられた。しかし、デジタル・ドメインの第1作であるキャメロン監督作品『トゥルー・ライズ』(1994)において、垂直上昇機ハリアーのミニチュア撮影に、どうしてもモーションコントロールカメラ(※1)が必要になった。
当時の3DCGで表現されるメカは、まだ質感が安っぽくて劇場映画に耐えるものではなかったからだ。そこで、仕方なく複数のスタジオから借りて急場を凌いだが、この経験から9システムのモーションコントロールカメラが導入された。
『トゥルー・ライズ』の成功で大作映画のVFXの依頼が急増し、『アポロ13』(1995)、『フィフス・エレメント』(1997)、『ダンテズ・ピーク』(1997)などを受注する。やはりミニチュアを用いたVFXがメインで、例えば『アポロ13』ではサターンVロケットやアポロ宇宙船も模型で表現されていた。CGは、打ち上げ時に舞い上がる白い煙や、ロケットの表面から落下する氷などに使用されている。
※1:カメラを支えるジンバルやクレーン、ドリーなどにステッピングモーターを取り付け、その動きをコンピューターで正確に反復できるようにした撮影システムのこと。これにより、照明条件などを変えた撮影(パスと呼ばれる)を繰り返し、最終的にコンポジット(合成処理)で一体化する。
『タイタニック』のCG制作に参加した日本人スタッフ
こうしてデジタル・ドメインが世界最先端のVFXスタジオとして成長し、いよいよキャメロン待望の『タイタニック』プロジェクトが始動する。そしてかつてない規模だったため、世界中からスタッフが集められ、その中には3名の日本人も含まれていた。
今回取材したのは、塩沢敏明氏だ。実は筆者と2つの会社(JCGLと富士通)で同僚だった人物で、しかもユニークなのは、キャメロンの『タイタニック』と『アバター』(2009)の両方に参加したという貴重な経験を持っている。そこで彼のインタビューをベースにして、『タイタニック』制作当時の雰囲気を探って行きたい。
――塩沢さんが、CGプログラマーになろうと思ったきっかけは何でしたか?
塩沢氏(以下敬称略):東京電機大学の電子工学系で電子回路などを学んでいましたが、選択でコンピューターの講義が取れたのです。理系の大学ですから、数値計算など正確な答えが求められる分野をやっていたんですね。
でもCGって、答えがないじゃないですか。で、興味を持つようになりました。そんな時、友人が「JCGL(※2)っていう会社があるよ」と教えてくれて、それで訪ねて行ってそのまま入社した感じです。社内ではシステム周りを担当していましたね。JCGLは1988年に解散するのですが、最後の頃は物理シミュレーションのプログラムなどを書いていました。
――その後は、僕といっしょに富士通に入社し、「国際花と緑の博覧会(Expo90)」に出展する「富士通パビリオン」の3D映像『ユニバース2~太陽の響~』(1990)の制作に参加したわけだよね。
塩沢:後は、岡野秀樹君(現・DNEG)もいましたよね。他の皆はナムコ(現・バンダイナムコグループ)に行きましたが。そう言えば、『ユニバース2~太陽の響~』に使用されたIMAX SOLIDO(※3)という全天周3D上映システムは、その後見かけませんね。
――ラスベガスのシーザーズパレスにあった、『Race for Atlantis』(1998)というライド系アトラクションには使用されてましたが、2004年に終了しました。ちょっとシステムの規模が大き過ぎるから、予算的に手を出せる所がなかなか現れなかったのでしょう。
富士通ではExpo90の後、しばらく小規模な博覧会やNHKスペシャルのCG制作を請け負って、その後メンバーはそれぞれ散って行きました。塩沢さんはイマージュ(※4)でしたか?
塩沢:そうですね。まだ会社が立ち上がったばかりのころです。
※2:1981年に設立した日本初のCGプロダクション。筆者はここでディレクターを務めていた。社名は、よく「ジャパン・コンピュータ・グラフィックス・ラボ」と表記されているが、正しくは「コンピュータ・グラフィック・ラボ」である。略称がJCGLとなっているのは、設立当初のシステムを設計した、ニューヨーク工科大学(NYIT)のCGLと区別するため。
※3:1台のプロジェクターに、2本のIMAXフィルム(70mm/15パーフォレーション)を装填し、2つの魚眼レンズで直径24mのドームに3D映像を投影するシステム。ドームスクリーンでは偏光情報が失われてしまうため、鑑賞には液晶シャッター眼鏡を使用し、ダブルフラッシュでフリッカーを防ぐ仕組みだった。観客は、映像空間の中に自分が入ってしまったような、独特の体験が味わえた。
※4:1990年に設立されたCGプロダクション
“超巨大プロジェクト”の噂を聞き、デジタル・ドメインへ
――デジタル・ドメインへ行くきっかけは何だったのでしょう?
塩沢:富士通時代は、毎年のようにSIGGRAPH(※5)に参加していました。会社がお金を出してくれましたからね(笑)。そこでアメリカ人の友人ができて、イマージュに入ってからも密にSIGGRAPHで会っていたのです。
そうしたら、ロサンゼルスの方で超巨大プロジェクトがあって、世界中から人を集めていると教えてくれたんですね。それで参加してみようと思い、デジタル・ドメインの主催するパーティーに行きました。
――時期的には、『アポロ13』の仕事が終わったくらいですか?
塩沢:僕がデジタル・ドメインのオフィスに行った時は、「『アポロ13』が終わりました」って言ってましたね。『フィフス・エレメント』の作業が最後のころで、『ダンテズ・ピーク』はその後に始まったプロジェクトです。
――社内で使っていたCGのソフトウェアは何でしたか? 当時の私の取材メモには、Prisms、Alias PowerAnimatorとDynamation、Softimage 3D、Mental Ray、RenderManなどと、NUKE(後述)でコンポジットを行なっていると書いていますが。
塩沢:そうです。一世代前ですよね。まだHoudiniもMayaもなかった頃ですね。
※5:Special Interest Group on Computer GRAPHicsの略。米国コンピューター学会(The Association for Computing Machinery)の分科会の1つで、論文発表、国際会議、展示会、CGアートの展覧会、シアターなど、その内容は多岐に渡る。また、国際交流を目的としたパーティーがいくつも行われ、リクルート活動にも活用されている。近年は、夏に開催される北米大会と、冬に開催されるアジア大会がある。
「タイタニック」のリアルな海は、国防省向けの物理シミュレータがベース
――「タイタニック」では、塩沢さんの担当は“海”でしたよね?
塩沢:はい、オーシャンチームに入っていました。海面に関することは全て担当するチームですね。
――海面描写のツールは、アレテ・イメージ・ソフトウェア社のDigital Nature Toolsですよね?
塩沢:そうです。すごく真面目な物理シミュレーターで、元々アメリカ国防省の衛星探査のために開発されたものだったようです。それを、プロダクションワークに使えるように改良した特別バージョンになっていて、実際のタイタニックの航海日誌に基づいた数値を使い、大気の状態、風や天候、地球の湾曲、緯度・経度、太陽の位置などを全部設定する仕組みでした。するときちんとシミュレートしてくれるわけです。
――一般的にあの時代のCGの海は、フラクタルノイズ等を使ってごまかしているものが大半でしたよね。
塩沢:はい。“ニセモノくさかった”わけです。ですからキャメロンは、物理的な正確さを求めていたのだと思います。
――白波はどのように表現したのですか?
塩沢:アレテで白波が発生するようになってました。
――本物の船からクレーンを突き出して白波を撮影し、それをテクスチャーマッピングしていたと記憶してますが?
塩沢:船尾から流れる航跡は、たしかにテクスチャーマッピングです。あと、船のサイドに広がる白波も全てテクスチャーマッピングですね。パーティクルは、船体と接触するキワの部分ぐらいしか使っていません。当時はPrisms(※6)のパーティクルでしたが。
――船首の波しぶきもですか?
塩沢:あれはほぼ実写ですね。ですから、おのずとアングルは限られてしまいます。少しはパーティクルを足しましたけど、当時はコンピューターのパワーもそれほど無いので、そんなに数多く飛ばせないのです。何百万個となると、コンピューターが動きませんから。
あの映画がうまくいった理由には、まずタイタニック号の船体が大きく、カメラがそれほど寄って行かないということがあったと思います。また当時の航海日誌によると、「概ね海が凪いでいる」と記録されているのです。そのため荒れる海を作らなくて良いから、行けると判断したようですね。
――実際の海の観察はしましたか?
塩沢:デジタル・ドメインのスタジオは、ベニスビーチまで5分で行ける所にありました。ですから、昼食が終わると「海の研究に行く」とか言って、3~4時間帰ってこなかったりして、それが後々問題になるんです。カリフォルニアってヒッピー文化が残っている影響なのか、わりと緩いんですよね(笑)。
そうすると明らかに、締め切りが守れそうになくなってくる。もうポスターとかも「夏公開」って書いて貼り出してあったのに、絶対無理だろうとなってきました。それで公開は年末に遅らせて、マネージメントの部署は社員を外に出さないという方針に変わりました。「朝食も昼食も全部出すから、絶対外食しないで」というお達しが出されて、それからはずっとカンヅメで作業してましたね。
――その一方で『ダンテズ・ピーク』は、『ボルケーノ』(1997)より先に封切ることになったため、急遽作業が前倒しになったと聞きました。
塩沢:その影響はほとんどなかったと思います。『ダンテズ・ピーク』はミニチュアがメインでしたし、溶岩をCGで作るチームが10人ほどいた程度。一方『タイタニック』は、1,000人規模でしたから。
※6:カナダ・トロントのSide Effects Software社によって開発・販売されていた3DCGソフトウェア。現在はHoudiniに引き継がれている。
映画で使用されたミニチュアたち。撮影後は屋外へ……
――ジャック(レオナルド・ディカプリオ)が「俺は世界の王だ!」と言って、ずっと船全体を回り込む、有名なショットがありますよね。
塩沢:はい。“ヒーローショット”と呼んでいて、半年ぐらいかけて作業しました。
――あの場面の船体はミニチュア(※7)ですよね。他の映画でもそうですが、デジタル・ドメインはミニチュアのモーションコントロール撮影がメインで、CGはあくまで補助でしたよね?
印象としては水や煙、あるいは『ダンテズ・ピーク』の流れる溶岩のように、ミニチュアでは表現出来ないものをCGで補うような位置付けだったと思うのですが。
塩沢:そこは、会社の成り立ちと関係しているのだと思います。当時はCGが主体になる前の過渡期でしたから。
――僕が1997年にデジタル・ドメインを訪問した時、ミーティングスペースに、『トゥルー・ライズ』のハリアーや『アポロ13』のカプセル、タイタニック撮影検討用の小型モデル(35分の1)などが置かれてましたね。
塩沢:ああいうのは、来客用としてね。『フィフス・エレメント』の車とか、ビルなんかの見栄えの良いものは社内に飾ってありましたね。
――深海底に沈んでいる模型(20分の1)と、沈む前の模型(20分の1)もありましたが、映画公開後の2回目に訪問した時はスタジオの外に打ち捨てられていました。
塩沢:たしかにモデルショップを出た所に、無造作に置いてありましたね。あと、『ダンテズ・ピーク』に出て来た鉄橋とかも雨ざらしになっていて、日々朽ち果てて行く所を見ていました(笑)。
あと、社員が使う駐車スペースでミニチュアの爆発シーンを撮影するので、「皆、車をどけて下さい」みたいなアナウンスがされることもありましたね。
※7:『タイタニック』に使用されたミニチュアは、全部で5種類が作られている。なお海底のタイタニック号は、モーションコントロールカメラのレールが引きやすいようにスタジオの天井に上下逆に取り付けられて撮影された。
当時のモーション・キャプチャーは使い物にならなかった
デジタル・ドメインのCGスタッフには、塩沢氏の他に2名の日本人がCGで人間を作るデジタルピープル・チームにいた。
その1人は曽利文彦氏で、当時はTBS開発局マルチメディアセンターに所属しており、南カリフォルニア大学とTBSの交換留学生として渡米し、デジタル・ドメインに参加した。現在は帰国して映画監督となり、『ピンポン』(2002)、『あしたのジョー』(2011)、『鋼の錬金術師』(2017)などを手掛けた。
もう1人は山口圭二氏で、80年代初頭に設立された日本を代表するCGプロダクションの1社であるトーヨーリンクスでCG制作を開始し、『タイタニック』をきっかけとして渡米した。その後はILMに移籍し、クリーチャー・デベロッパーとして『トランスフォーマー』シリーズや、マーベル・シネマティック・ユニバースなどを手掛けている。
――塩沢さんの担当ではなかったと思うのですが、モーション・キャプチャーの使用も黎明期でしたよね。でもキャプチャーしたデータが、ほとんど使い物にならなかったとか。
塩沢:そうです、山口君や曽利さんがすごく苦労していました。マネージメントの部署は、「どんどん使え」と言って来るんだけど、すべてのショットにエディットが必要なので、結局アニメーターが非常に苦労するわけです。
まだ当時のキャプチャーデータはノイズだらけで、そのままでは使い物にならなかった。それで、キーフレームだけ摘まみ、その間を手で補間するという方法を採っていたようです。
――僕がデジタルピープル・チームに取材した時は、ロトスコープとキャプチャーを組み合わせた用語として、“ロトキャップ”(※8)と呼んでいました。
塩沢:それは知らなかった。とにかく手作業の範囲が多くて、苦労していたようです。最初にタイタニックが外海に出て行って、マードック副船長(ユアン・スチュワート)が「フルスロットル」と言う場面があるんですけど、ちょっと引きで空撮っぽいショットを曽利さんが全部CGで作ったんですね。歩いて来るだけの5秒程度のショットなんですけど、NGが何度も出て、3カ月ほどそれだけやってましたね。
――アニメートの作業だけで?
塩沢:一応、キャプチャーデータはあったのですが、「もっと威厳のある歩き方にしろ」とか「もっと自信を持った歩き方にしろ」とか、そういう演出指示をずっと出されていて、「なかなか大変だ」と言ってましたね。
――こういう所が、日本映画との大きな違いですね。
塩沢:それから、ヒーローショットでは、甲板にいる人物を全てCGで作っているんですが、その中で1人にだけ、デジタル・ドメインのTシャツを着ている人がいます。「きっとバレないよね」って言ってて、そのまま本編に採用されてます(笑)。このヒーローショットでは、船体こそミニチュアですが、他の要素(海面、空、甲板の人物、煙突の煙、旗、鳥など)はCGだし、かなり大勢の人が関わって、すごく複雑なコンポジットを行なっています。
――ツールとしてはNUKE(※9)を用いましたか?
塩沢:そうですね。まだ発展途上でしたけど。元々NUKEってなんだったかと言うと、ムービープレーヤーだったんですよ。連番ファイルを読み込んで、動画で見るというツールです。画期的だったのは、2つのムービーを同時にロードして、ABの切り替えで違いを見るのにすごく便利だったんですね。それが元になって、コンポジットの機能がどんどん足されていったのです。
でもエレメントが100個ぐらいになると、サーバーからエディターにロードするのに1時間ぐらい掛かる。ですから、コンポジターの人は、プログラム立ち上げて、一度食事に行ってから、帰ってきて開けて見るみたいなことをやっていました。
※8:モーションキャプチャーデータからのアニメーション制作は、1名の人物を作るのに5週間が費やされ、これではいくらスタッフが多くても完成にはほど遠い。そこで1997年に入り、この手法を捨て去る決定がなされ、その代わりに考案された手法がロトキャップだった。これはキャプチャーデータをあくまで参考程度にとどめ、Softimage 3Dのモデルを使って通常のキーフレーム・アニメーションを行うという折衷案である。これにより、1名のアニメートに1日という、大幅な作業の効率化が実現できた。結局80%のCG俳優がこの手法で作られている。
※9:ビル・スピッツァークが1993年から開発していたインハウスツール。現在は代表的なノード・ベースのコンポジットツールとして、The Foundry社から市販されている。
レプリカは制作費を抑えるために右側半分しか造られていなかった
『タイタニック』の実写撮影は、メキシコのロザリト・ビーチにこの映画のために新しく建設されたスタジオで行なわれている。24,000m2の広さを持つタンクに海水を投入し、ここに全長236m、幅28mという実物の90%の大きさを持つタイタニック号のレプリカが造られた。
事前にこの土地における季節風の情報を調査し、ちょうど向かい風になるような方向にレプリカを建て、俳優に当たる自然の風で走行感を表現した。また、本物の海面とタンクの水が繋がって見えるよう、海岸線まで700フィートの位置に造られている。これにより、270度の視界が確保されている。
とは言え、このレプリカは制作費を抑えるために右側半分しか造られていなかった。なぜなら左側をきちんと造っても、背景がメキシコの山になってしまい、絶対に一発撮りは不可能だからだ。そのため左側のデッキも右側で撮影し、後でフィルムを左右反転している。
ただし『ファーストクラスはこちら』というような看板が付いていると、その文字も逆になってしまうため、普通の看板と鏡文字の看板の2つが用意された。他に俳優の頭髪も分け目を変え、衣装の合わせ方も逆にされた。当然文字の入った衣装は2着必要になった。
塩沢:最初のサウサンプトン港から出港する場面は、本当は船の左側になるはずなんだけど、それだと撮れないので、全部裏返しているんです。同様の問題は、CGシーンでもいくつかあって、氷山がぶつかるシーンとか実際と逆側で撮られているので、「ここは裏!」とか、指示に書かれてましたね。
――ややこしいですよね。
塩沢:あのロザリト・ビーチのタンクの周辺って、車とかが駐車してあるんですよ。それをオーシャンチームがCGの海で埋めているわけです。映画の中に占めるピクセルの面積で言うと、我々のチームが一番貢献していたことになります(笑)。
――LightWave 3Dのチームとは交流しましたか?
塩沢:ほとんどないですね。あのチームの仕事は、『タイタニック』の冒頭近くに登場する沈没のシミュレーション映像ぐらいじゃないかと。
――彼らに直接インタビューしたのですが、実力が認められてシップ・エクステンションの作業を任せられたそうです。つまり、タイタニック号のレプリカの欠けている部分(左側外壁や甲板の一部、喫水線から下、船首、救命ボートなど)をCGで補う作業だったそうです。また、タイタニック号のスクリューを海中から捉えたシーンも作ったそうです。
それから、スタン・ウィンストンには会いましたか?
塩沢:一度もなかったですね。
――僕が訪問した時は、ウィンストンが監督したマイケル・ジャクソンのミュージックビデオ『ゴースト』(1997)に使ったという、骸骨の人形が飾ってありました。でもウィンストンにしてみると、デジタル・ドメインの仕事にはキャラクターものがほとんどなくて、「自分の出る幕がなかった」と、インタビューした時にぼやいていました。
塩沢:そうですね。実際、『タイタニック』が終わった時にキャメロンも離れていきましたからね。彼も同時期に辞めていると思います。
Wetaからオフィスまで、キャメロン専用海底ケーブルがあった!?
――『タイタニック』の後は、デジタル・ドメインでは何を担当しましたか?
塩沢:『奇蹟の輝き』(1998)や『ファイト・クラブ』(1999)などですね。それから、今はなくなってしまいましたが、『ストームライダー』(2001)(※10)という東京ディズニーシーのアトラクションの制作に参加しています。
デジタル・ドメインを辞めた後は、ジム・ヘンソン・クリチャーショップから話があって、「ロンドン良いじゃん」と思って、2003年に渡英しました。
――たしか、僕が実写版『サンダーバード』(2004)の取材でロンドンのフレームストア社に行った時、VFXプロダクションが集まっているSOHO地区でバッタリ会いましたね。
塩沢:あの時はシネサイト社にいて、『キング・アーサー』(2004)や『ハリー・ポッターとアズカバンの囚人』(2004)などを担当していました。でもロンドンは、物価は高いし、労働条件も悪くて。ジム・ヘンソンで知り合った人の紹介で『Happily N'Ever After』(2006:日本未公開)というフルCGアニメを作っている、ベルリンのBFCという会社に移ります。ロンドンを出る時は、200ポンドしか持ってなかったですね。
その後は、カナダのトロントにあるスピンという会社に行って、『アウトランダー』(2008)という映画を手掛けました。
――その後は、オーストラリアでしたっけ?
塩沢:そうです。スピンの後、英語で仕事ができる国はどこだろうと考え、LinkedInで探して、オーストラリアのライジングサン・ピクチャーズにしました。『オーストラリア』(2008)や『ウルヴァリン: X-MEN ZERO』(2009)などを担当しましたね。
――ライジングサンというと、オーストラリアでも大きな会社ですよね?
塩沢:アニマルロジック社の次ぐらいの規模でしょうか。すごく民主的な所で、プロジェクトの状況とか会社の財務状態とかを、細かく全体ミーティングで公開してくれる、透明性の高い会社でしたね。
――で、いよいよニュージーランドのWetaデジタル(現Wētā FX)社で『アバター』に参加するわけだよね。
塩沢:キャメロンが『アバター』を作ると聞いて、ライトスト-ムのプロデューサーに連絡を取ったら、「シドニーにいるなら、すぐだね。じゃあ来れば」と言われて、参加が決まりました。『タイタニック』で同僚だったダン・レモンにも再会して、「やあ、久しぶり」とか挨拶しました。
基本的にVFXプロダクションでは、コアなメンバーしか雇わない。それで、「今回の映画に必要なスタッフがこれぐらいである」と言うような噂を聞きつけると、海外から人が集まってくるわけです。そういった人々、例えば『タイタニック』ではデジタル・ドメインだけで最大1,200人ほどいたんだけども、契約が切れるとまた世界中に拡散することになる。でもアメリカ映画以外では、海外から人を呼べるような予算規模のプロジェクトは、それほどありませんね。
――『アバター』の仕事としては、シェーダー開発ですか?
塩沢:当時はまだRenderManベースで、グローバル・イルミネーションもカスタムシェーダーで実現させてましたね。
キャメロンは普段、ロサンゼルスにいるんですね。で、時々ニュージーランドのウェリントンにも来るんだけど、そんなに頻繁には来れないので、データをLAのオフィスに送るわけです。ニュージーランドのネット環境に関しては、一度日本を経由して、さらにオーストラリアから分岐した海底ケーブルを1本もらっているんだけど、南半球に来ている時点でそんなに速くないんですね。今の状況は分かりませんが。
――なるほど。
塩沢:でもキャメロンは、自分専用の海底ケーブルをWetaから自分のオフィスまで直接引いているんだそうです。だからニュージーランドでは、国民全体の誰よりも速い回線を持っているわけです(笑)。
――ハハハ(笑)。
塩沢:あとWetaって、コンピューターパワーで言うと南半球最大で、体育館みたいな部屋にサーバーとディスクサーバーがズラリと並んでましたよね。最初の『アバター』の時で、ディスク容量が9ペタバイトの2ラインあるって言ってました。CPU数も数万個のオーダーなので、すごかったですね。
こうして塩沢氏はWetaデジタルでの仕事を終え、2014年に帰国。以後はヴォクセル株式会社の技術顧問を務め、さらにNHKアートでソフトウェアやシステムの開発に携わっている。
※10:東京ディズニーシーで2001~2016年に稼働していたシミュレーション・ライド。この中に用いられる雲のCG表現には、デジタル・ドメインのアラン・カプラーがHoudiniをカスタマイズしたボリューム・レンダラー「Voxel Bitch」が使われている。なお、少々下品なその名称は、Voxel Bを経てStormに改められた。