本田雅一のAVTrends

HDRが変えるコンテンツとメーカー、流通の関係。MIPCOMに見る放送・配信の変革

 年に2回、春(MIPTV)と秋(MIPCOM)に行なわれる放送コンテンツのトレードショウ「MIP」。10月17日から開催されたMIPCOM 2016は、39年に及ぶ歴史の中で初めてCountry of Honour(主賓国)として日本が指名され、基調講演に初めて日本人(ソニー・平井一夫社長兼CEO)が登壇。安倍晋三首相もメッセージを出すなど、日本づくしの演出が用意されていた。初日夜のレッドカーペットイベントでは、日本からNHKの「精霊の守り人」、WOWOWから「コールドケース」がそれぞれスクリーニング(上映)され、日本から招かれた監督や出演者が迎えられた。

 しかし、すべてが”演出”だったわけではない。

 昨年ぐらいから顕在化していた日本アニメの輸出増が顕著となり、ドラマの売り込みも可能性が見えてきた。三菱総研の伊藤洋介氏によるとアニメ輸出は「2012年に59億円だったのが、2014年には117億円にまで急増した」という。特に大幅に増加しているのが北米とアジア向けの輸出で、中国市場の伸長が大きい。

 理由はネットでの映像ストリーミング配信普及にある。電波による放送からネットストリーミングに、映像作品を愉しむ経路が変化した結果、日本のコンテンツが好まれるようになってきたのだ。

 これがコンテンツサイドでの大きな事業環境の変化で、韓国や中国におされていたドラマ輸出に再び注目が集まり始めたのも、ストリーミングの普及で少なめの話数に絞り、ストーリーテリングや映像表現が繊細な日本ドラマの良さが活きるようになったためだ。

 機会があれば、こうした映像コンテンツの輸出にもフォーカスを当てたレポートをお届けしたいと思うが、今回は「HDR(ハイダイナミックレンジ)」への対応に話を絞ってレポートを進めたい。

ソニーがHDRディスプレイで先行できた理由

 と書き始めたが、MIPとは異なる部分からコラムを進めたい。1年前のMIPCOMから、映像コンテンツ取引の中でもHDRに関する話題が語られ始めたのだが、当時は「HDRとはなんぞや? 」という、誰も共通のバックグラウンド、意識を持たない中で暗中模索していた。

 NHKも技術部門はHDRに注目していたが、HDRについて「やるべきでは」と話をしても、それ以前にどのぐらいのコストがかかるのか? そして、エンドユーザーにどの程度、ベネフィットがあるのか? 放送する際にはどうすればいいのか? など、基本的なところで再確認が必要な有様で、HLG(Hybrid Log-Gamma)などと言っても、それがどんなものか放送業界のひとたちは知らない人がほとんどだった。

 今年はそれが「HDRで撮影するのは当たり前」という意識に変化してきている。HDRに対する意識が変化してきたのだが、ハードウェアメーカーはそれよりも遙かに以前から取り組まなければ「良さそうだから対応しよう」といったところで、本当に良いものに仕上げるには数世代が必要になる。

 だからこそ、DVDからBlu-rayにかけての時代、映画会社の力は強く劇場公開+パッケージ販売でのプレミアムコンテンツ流通や映像トレンドをきちんとフォローアップしながら、より良い商品を開発することが、ライバルに勝つための近道だった。

 電機メーカーがBlu-rayなどのパッケージ規格に力を注いでいたのは、実際に販売する商品の魅力を高めるため、なるべく早い時期から次世代技術へと対応することが目的だった。しかし消費者による映像の楽しみ方が変化し始め、放送とパッケージソフトの時代から、ユーザー投稿型を含むネットストリーミング動画が、映像コンテンツ流通の中で多くを占めるようになってくると、Blu-ray Discの際にはBDA(Blu-ray Disc Association)としてまとまっていた家電メーカーの足並みも少しずつ乱れ始めた。

 たとえば、BDAの中からはたびたび「BDプレーヤー/レコーダーの中身はコンピュータなのだから、物理ディスクに閉じるのではなく、ネットストリーミングやダウンロード型コンテンツをセキュアに流通させるための規格・枠組みを作ろう」という動きがあると漏れ伝わってきていた。

 しかし、ディスクという物理メディアでの流通に対する信頼感や、既存ビジネスモデルを大きく変えたくない保守的な考えをするメーカーや映画会社も多く、BDAの中ではアイディアがまとまらなかった。その後、Netflixなどが急速に成長することになる。“いずれはそうなる”と思っても、なかなか前に進めないのが組織というものなのかもしれない。

 そんな中で、HDRというトレンドの取り込みを真っ先に検討し始めたのが、ソニー、フィリップス、ドルビーの3社で、これにワーナーおよびディズニーが賛同して、その可能性について評価を率先して始めていた。これが2012年。当時はBDAの枠組みの中だったが、パナソニックと20世紀フォックスはあまり乗り気ではなかったようだ。

 業界全体の合意の元でなければ、なかなか新フォーマットが普及しないのが物理フォーマットの特徴だ。規格を策定し、対応するプレーヤーなどの環境を整え、新フォーマットのパッケージを流通させねばならない。

 放送はもっと腰を落ち着けた取り組みが必要で、放送規格を策定・提案して承認してもらい。放送局側と受像機側の対応を同時に進めていく必要がある。明日からやろうと思ったところで、簡単にはいかない世界だ。

 しかし、ネット配信ならそれが可能。サービスを受けるためのアプリを更新すればいいだけだからだ。もちろん、テレビに組み込まれた再生機能は、簡単には入れ替えできないかもしれないが、タブレットやスマートフォン、パソコンへの対応は簡単だし、近年のスマートテレビなら対応しやすい。ゲーム機などを使う方法もあるし、小型のIP端末を配付するやり方もある。このあたりは、NetflixやAmazon Videoの普及をみれば説明不要だろう。

 BDAの中でネット配信フォーマットについて話が進まないことを感じたソニーは、早々にネット配信サービスが勃興すると予想し、4KだけでなくHDRを盛り込んで従来とは異なる枠組みで次世代映像技術を届ける手法を模索し始めた。

 関係者によると2013年には、HDR技術にコミットして製品開発を始めていたという。2016年末、価格的には高価ではあるが、BRAVIA Z9Dシリーズで他社を出し抜くHDR画質を実現し、プロジェクタでもVPL-VW5000ESというエポックメイキングな製品を発売した。確かにUHD Blu-ray Discプレーヤーでは出遅れているが、ソニーはストリーミング配信が今後の主流と見すえて、特定の国際規格にとらわれずにサービスを開始できる4K/HDRでより良い画質を実現することを優先した。

BRAVIA Z9Dシリーズ

 その後、翌年になるとUHD Allianceを通じて、ディスクメディアにとらわれない4K/HDRの業界標準が話し合われることになるが、製品開発までも含めてHDRにコミットメントしたのは1年以上早かった。

メーカーとコンテンツオーナーとの協業がもたらしたもの

 実はソニーの方針転換は、別の側面でも始まっていた。

 これまで新しい映像技術が立ち上がる時、そこにはハリウッドメジャーの影が色濃く存在していた。VHS/LD時代に立ち上がったパッケージ販売のビジネスは、DVDで電機メーカーと映画会社の密接な連携で急速に伸び、Blu-ray時代はハリウッドと電機メーカーが企画段階から共同で立ち上げを進めた。“パッケージ販売されるプレミアム作品=映画”という図式が、当時は成り立っていたからだ。

 映画は今ももちろん、重要なコンテンツではあるが、HDRとなればスポーツ中継、あるいは高品位に作品を残したいオペラなどの芸術作品、BBCのネイチャーヒストリーものに代表される大自然の記録など、作品に多様性が生まれてくる。映画は、あくまでも映画館で上映されることが基本のため、“劇場で愉しめる映像作品”が基本だ。HDRには放送や中継向けに適したHybrid Log-Gamma(HLG)などの規格もあり、必ずしも映画向け技術だけではトレンドを読めない。

 ソニーの中で次世代映像技術の立ち上げを担ってきたヴィジュアルエンターテインメントプロジェクト室が、MIPに対して投資を行ない、3D技術の体験やプロモートを始めたのが5年前のこと。その後、プロモートする技術は3Dから4Kへ、そしてHDRと変化してきたが、ハリウッドと電機メーカーが作り上げてきた映像トレンドとは異なる視点が、こうした新しい枠組みの中から生まれてきた。

 前述のHLGも、元はBBCから持ち込まれたアイディアで、それまでハリウッドと“ディレクターズインテント(監督の意図)”を最重要視して規格策定してきた中からは出てこない発想だった。

 HLGは、そのまま従来のディスプレイで表示しても、それなりに表示され、しかし対応ディスプレイで観るとHDRに見えるという特殊な記録特性(OETF)だ。ひとつの放送チャンネルで、通常ダイナミックレンジ(SDR)とHDRの両方のディスプレイをサポートできる。放送サイドの企業でなければ、生まれてこない発想だった。

 筆者自身、MIPの取材を通じてBBCやイタリア国営テレビなどと接し、また自然の記録やスポーツの記録など、さまざまな映像をエンターテインメントとして提供しようとする多様なコンテンツオーナーと話をする機会を得た。こうした機会がなければ、イタリアの国家プロジェクトとして、定期的に行なわれているオペラ公演を3Dや4K、あるいは4K/HDRで記録したり、文化遺産を高品位映像で残すプロジェクトが動いていることを知ることはなかったかもしれない。

 そして、ディスプレイだけでなく、映像制作サイドの機器を開発するメーカーとの交流は、映像コンテンツを制作するサイドにもプラスの影響を与えてきた。MIPで4K/HDRのシアターに集まり、コンテンツを披露しているひとたちは、交流の中で他のコンテンツオーナーと情報を交換し、次回にはより良い映像を持ち込んでくる。

コンテンツオーナーさえ驚く画質へ

 こうした相乗効果もあってか、HDRの使い方は筆者が前回取材した1年前に比べ圧倒的に進歩していた。中でも驚かされたのが、BBC制作の「PLANET EARTH 2」だ。前作も素晴らしい画質で驚かされたが、撮影だけで3年をかけたという新作は、全編が4K/HDRでマスタリングされている。今回のMIPCOMでは、その映像が初公開された。

 “街”をテーマにしたシーンでも、夜景などでHDRの良さを感じる事もあったが、草原の中で動物を追いかけたカットは、夕暮れの中にあって輝く草原を見事に再現。あまりの現実感に息を呑む映像だった。

 フッテージが公開された作品の中でも、群を抜いて素晴らしかったPLANET EARTH 2は、HDRを用いた記録映像としてひとつの基準となる作品になると共に、同じ場に集まった他の映像製作者にとっても刺激になったようだが、同時にBBCナチュラルヒストリー部門のクリエイティブディレクター、マイク・ガントン氏もHDRデバイスの進化に刺激されたと話していた。

 カンヌの4K/HDR試写室には、発売されたばかりのソニー「VPL-VW5000ES」が持ち込まれていたのだが「自分で編集、最後のグレーディングまで立ち会ったが、ここまで美しい映像として愉しめるとは驚いた(ガントン氏)」と繰り返し語り、HDRによる映像表現にまだまだ“奥行き”があることを感じたという。

 実は同様の現象はハリウッドでも起きている。

 VPL-VW5000ESの評価はまだこれからのようだが(それでも北米での販売台数はすでに200台を大きく超えているようだ)、BRAVIA Z9Dは特に75インチモデルなどが、HDRの評価用モニターやロケ先でHDRラッシュ映像をチェックする用途などで人気を集めている。

VPL-VW5000ES

 いずれ追いつかれるのかもしれないが、まずはいち早く先頭に立ったことで、来年以降により購入しやすい価格帯に対応製品が降りてくることも期待できるだろう。

課題は「HDRコンテンツの出し先」

 HDRでの制作は撮影時の記録方法さえ気をつけておけば、最終的に映像を仕上げる段階で、SDRとHDRの両方を吐き出せば良いため、対応そのものは難しくはない。

 MIPではWOWOWが制作した「コールドケース」の舞台裏を取材する機会もあったが、あらかじめHDR用のLUT(色変換テーブル)を練り込んでおき、撮影時に選択して利用するだけで、映像そのものの確認はSDRで行なっていたという。

WOWOW制作の日本版「コールドケース」キャストと波多野貴文監督

 HDRの特性を知った上で、映像表現の手法として活用する意識は必要だが、だからといってHDRでの撮影が特別難しいわけではない。経験を積んで、より良い表現手法を模索していけば……という意見が支配的だ。しかし、HDRで制作するのはいいが、それをどう顧客に届けるかというテーマは残る。

 日本でも4K/8Kの試験放送やスカパー!はHDRに対応しているが、それ以外の一般的な放送チャンネルではHDR放送する手段がない。ハイビジョンのままHDRで放送することは、HLGを使えば不可能ではないが、きちんと自動的に結果が反映される仕組みとならない。

 コールドケースも、HDRの試写を筆者は愉しむことができたが、放送はSDR版のみ。今のところUHD BDなどで4K/HDRのパッケージを販売する予定がない。まだ再生機の普及がこれからという事情もあるだろう。

 となると、HDRに対応したネットストリーミングが有力になってくるが、放送のアウトプットがないことは大きな悩みとして存在している。

 言い換えれば、放送でのHDR対応がもう少し進まなければ次のステップへと進みにくい段階にまでは進んできたとも言えるだろう。あとは放送やストリーミング配信のHDR対応が、いち早く進むことをエンドユーザーとしては望みたい。

 なお、NetflixのHDR対応プレーヤーソフトウェアは、HDRに対応したテレビにしかライセンスされていなかったが、現在は外付けプレーヤーでも利用可能になっている。たとえば、パナソニックのUHD BDプレーヤーやレコーダも、NetflixのHDRコンテンツが再生可能になっている。少しずつではあるが、状況は緩和されていくだろう。

本田 雅一

PCハードウェアのトレンドから企業向けネットワーク製品、アプリケーションソフトウェア、Web関連サービスなど、テクノロジ関連の取材記事・コラムを執筆するほか、デジタルカメラ関連のコラムやインタビュー、経済誌への市場分析記事などを担当している。  AV関係では次世代光ディスク関連の動向や映像圧縮技術、製品評論をインターネット、専門誌で展開。日本で発売されているテレビ、プロジェクタ、AVアンプ、レコーダなどの主要製品は、そのほとんどを試聴している。  仕事がら映像機器やソフトを解析的に見る事が多いが、本人曰く「根っからのオーディオ機器好き」。ディスプレイは映像エンターテイメントは投写型、情報系は直視型と使い分け、SACDやDVD-Audioを愛しつつも、ポピュラー系は携帯型デジタルオーディオで楽しむなど、その場に応じて幅広くAVコンテンツを楽しんでいる。  メルマガ「続・モバイル通信リターンズ」も配信中。