藤本健のDigital Audio Laboratory
第835回
超高性能オーディオ処理システム「NCP-D」登場。ヘッドフォンのVRや、スピーカー名機の音も再現!?
2020年1月20日 11:45
プロのPA現場からハイスペックなホームオーディオの世界まで、さまざまなところで活用できるという超高性能なオーディオ処理システム「NCP-D」という製品が、74万円で販売開始された。これを開発したのは、元ソニーのエンジニアであるS&K Audioの小森眞一氏だ。
NCP-Dは、高速多チャンネルのコンボリューション技術を用いてオーディオ処理をするというシステムで、Danteを介して入出力を行なっている。開発をした小森氏に話をうかがったので、これがどんなものなのか紹介しよう。
放送技術の開発者が作った、多用途な業務用製品
筆者が小森氏に初めて会ったのは5年前。ソニーで放送技術などの研究開発をしていた小森氏が希望退職した後、ひとりでデジタルオーディオ機器の開発などをしていたとき、とあるオーディオ雑誌の取材の時だった。
今ではホールや大きな会場、放送現場、PAの現場などで幅広く使われているGigabit Ether上でデジタルオーディオ伝送を行なうシステムであるDante。これをホームオーディオ、PCオーディオで利用した「VT-Etシリーズ」というシステムを開発したということで、当時話を聞いたのだ。5年前も現在もPCオーディオというと、USBを用いるのが一般的だが、USB伝送よりも安定したオーディオ伝送が行なえる、ということからDanteを採用したという話だった。
その小森氏から先日「業務用の多チャンネルのコンボルバーを開発したので見てほしい」という連絡をいただいた。そのメッセージからは、それがどんなものなのか、まったく想像もついていなかったが、実際にお会いして話をうかがってみると、非常にユニークなシステムだったのだ。NCP-Dとは「Network Convolution Processor - Dante」の略とのこと。とても簡単に説明すると、それはオーディオ信号に対して畳み込み演算=コンボリューション処理をリアルタイムに行なうシステムで、モノラルの1chとかステレオの2chといったレベルではなく、同時に128chも一気に処理できるというものだ。
専用のハードウェアを用いたシステムではあるが、実際にはPCにDanteカードを入れたハードウェアであり、Windowsサーバーをチューニングするともに、コンボリューション処理を行なうソフトウェアをセットにしたもの。
用途はいくらでも考えられそうだが、業務用としてみればPA現場でチャンネルディバイダーとして活用したり、エフェクトとして使うのもあり。またレコーディングスタジオなどでのスピーカーの特性を調整するのにも使えるだろうし、マルチチャンネルのサウンドをバイノーラルに畳み込むといった使い方もできるだろう。さらにちょっとマニアックな用途とはなるかもしれないが、ホームオーディオにおいてイマーシブ環境を実現させるのに、マルチチャンネルのコンボリューション演算をしていくというのもありだろう。
どういうキッカケでNCP-Dを開発し、これがどんな仕組みで、どのように利用できるものなのか、聞いてみた。
エンジニアの要望を受けて開発。ヘッドフォンのVR実現にも
――今回のNCP-Dは、すごそうな機材ですが、これはどのような経緯で開発することになったのですか?
小森氏(以下敬称略):もともと民生用のシステムとして、MPP.DSPというものを出していました。これはWindows PCをオーディオ信号処理のプロセッサとして活用するためのソフトウェアで、Dante Network対応のオーディオインターフェイスとセットにして出していたものです。このMPP.DSPでは8ウェイのチャンネルディバイダーやスイートスポットでの音響特性を補正するためのシステム、またデジタルフォノイコライザーを実現するためのものとして出しており、オーディオファンの方々に使っていただいていました。しかし、レコーディングエンジニアやPAエンジニアと話をすると、多チャンネルのコンボリューションを実現させたいという声があったほか、最近ニーズが高くなっているヘッドフォンを用いたVRを実現するのにも大いに役立つはずと考え、取り組んでみたのです。
――以前にお話しをうかがった際も、今回のNCP-DもDanteを使ったシステムになっていますが、小森さんがDanteを使う理由はどこにあるのですか?
小森:私も当初はUSBのオーディオインターフェイスを信号処理などに使っていましたが、やはり製品として考えたときオーディオインターフェイスのドライバの性能や相性などの問題もあり、なかなか信頼性を担保することができませんでした。その時点で、オーディオ伝送するならEtherを使うべきだという結論が私の中で出ており、いつかの方式を検討していました。
6~7年前の時点で192kHzまで扱えるのはDanteしかなかったので、Danteを使おうと思いました。ただ、DanteはオーストラリアのAudinateという会社が考案したシステムで、Danteを使うためには同社にライセンスしてもらう必要があります。そこで、「PCオーディオ用に安くライセンスしてもらえないか? 」とオーストラリアにメールを出して交渉し、入手したんですよ。
具体的にはBrooklyn IIというAudinateのチップを入手し、これを組み込んだシステムを作っていったのです。USBオーディオほど汎用的なシステムではないかもしれませんが、確実に高速なオーディオ伝送ができるシステムをこれで構築することができたのです。こうしたハードウェアとソフトウェアを民生機用に出すとともに、オーディオマニア向けのコンサルティングなどを行なってきましたが、さらに一歩踏み込んで業務用に出たというわけです。
昔のスピーカー&アンプ名機再現も
――畳み込み演算、コンボリューションというと、ホールの音響などを再現するためのリバーブなどをイメージしてしまうのですが、コンボリューションを使うことで、どんなことができるのですか?
小森:もちろんリバーブもできますが、コンボリューションは自分の思った特性、求めている特性に信号を変化させるためのものです。例えば昔の名機といわれるスピーカーやアンプなどを再現するとか、オーディオを再生する部屋にマッチさせたフラットな音に変化させるとか、HRTF(頭部伝達関数)を利用して立体的なサウンドを作るとか、自由な特性の音を計算によって作り出すことができるのがコンボリューションです。またコンボリューションは複数のフィルターを重ねて畳み込んでいくこともできるので、さまざまな処理を同時に行なえるのも大きな特徴です。
――そのコンボリューション処理を、NCP-Dのハードウェアが行なうわけですよね。これはDSPなどを使っているわけではなく、CPUベースで動かしているという理解でいいのですか?
小森:その通りです。NCP-DのハードウェアはWindows Server 2019をOSとするPCで、インテル製の最高スペックのメインストリームCPU Core i9 9900Kを採用したものです。これにより多チャンネルのコンボリューションや大きなサイズのFIR係数のコンボリューションを、低いレーテンシーで処理します。またDante Network用のPCIeカードが搭載されており、最高で128チャンネルというオーディオストリームを取り扱うことが可能です。
――NCP-Dのソフトウェア側はどのようになっているのですか?
小森:Windows上で稼働するMPPProというソフトウェアで、これはコンボリューションを実行する「MPP_CNV」とコンボリューションに必要な係数の前処理を行なう「MPP_BAT」という2つのアプリケーションで構成されています。
このうちNPP_CNVのほうはプロファイルと呼ぶテキストベースのスクリプトを読み込み、その処理手順を構築します。この図(下に掲載)はMPP_CNVのデータパスを示すものです。Danteを介して入力されたデータはコンボルバーに分配されます。この際、同じデータを複数のコンボルバーに分配することも可能です。各コンボルバーの出力は任意の組み合わせで加算され一つのデータとして、またDanteを経由して出力されます。この結果、プロファイルの記述次第で、シンプルなコンボルバーのアレイやチャンネルディバイダー、HRTFマトリックス処理、MxNの波面合成マトリックスなど様々な処理形態を実現できるのです。
――もう一つのMPP_BATのほうはどういうソフトウェアなのでしょうか?
小森:MPP_BATは、MPP_CNVで必要となるWAV形式のFIR係数の前処理を行なうソフトウェアです。前処理とは、複数のFIR係数を1つにまとめたり、結果として長くなったFIR係数を切り出したりする処理のことを言います。たとえば、チャンネルディバイダー用のフィルターのFIR係数とスピーカー補正用のFIR係数を一つにまとめるといった用途に使用します。これ以外にも、デルタ関数にあたるFIR係数を生成したり、直線位相フィルター用のFIR係数を生成したりする機能などもあります。これらの機能は、テキスト形式のスクリプトとして記述することでバッチ処理的に実行されます。
――実際、このNCP-Dのユーザーとしては、どんな人たちを想定されているのでしょうか? また業務用とはいえ、74万円のシステムをいきなり導入というのは、結構ハードルが高いようにも思うのですが、試しに使ってみるといったことは可能なのでしょうか?
小森:NCP-Dのターゲットとしては新しいイベントをやってみたいというサウンドエンジニアや、音響関係の研究をしている研究機関や学校などを想定しています。とはいえ、これがどんなところで活用できるのか、私自身もいろいろと検証してみたいと思っているので、興味のある方々への貸し出しを行なっていきたいとおもっています。いいプロジェクト、イベントがあれば貸し出すとともに、お手伝いもしていきたいと考えています。なので、まずはその募集をしていきたいですね。そのうえで、どんなケースでつかえるのか、ユーザーのみなさんとともに検証していければと思っています。