藤本健のDigital Audio Laboratory

第631回

コンサートのDSDライブストリーミング配信の舞台裏

現場ともオーディオとも違う、新しい聴取体験?

 先日の記事でもお伝えした通り、4月5日に東京・上野で、4月12日にはドイツ・ベルリンで行なわれたコンサートを、そのままリアルタイムにDSDでストリーミング配信するという公開実験が行なわれた。

 実験ということもあって、これを聴くにはコルグかソニーのDSD対応USB DACが必要という条件は付いていたが、かなり多くの人が、この公開実験に参加したようだった。筆者も、それぞれのストリーミングを自宅で聴くとともに、上野で行なわれた「東京・春・音楽祭」にも足を運び、DSDストリーミングの舞台裏を見てみたので、どんなことが行なわれていたかを紹介してみよう。

会場の東京文化会館

出かける前にDSDライブストリーミングを試す

 4月5日にDSDでライブストリーミングされた公開実験は、ソニーとインターネットイニシアティブ(
IIJ)、コルグ、サイデラ・パラディソの4社が共同で行なわれたもの。取材を申し込んでいたところ、IIJの事務局から「14:40に、東京・上野にある東京文化会館に来るように」という案内が来ていた。ただ、出かけるまでには、まだ少し時間があったため、事前に動作チェックを終えていた無料配布のソフトウェア、コルグのPrimeSeatを起動し、メニューから「[Live]Tokyo-HARUSAI Marathon Concert(DSD 5.6MHz)」を選んでみたところ、あっけないほど簡単に音を鳴らすことができた。

コルグ「PrimeSeat」で、メニューから「[Live]Tokyo-HARUSAI Marathon Concert(DSD 5.6MHz)」を選択

 聴こえてきたのは、驚くほどに生々しい音だった。当たり前ではあるが、普段よく見ているUstreamやニコニコ生放送などのライブストリーミングとは次元の異なるものだ。モニタースピーカーで鳴らしてみたところ、いわゆるハイレゾ音源よりも、さらに生っぽい音だったのだ。

 ただ聴いていてちょっと気になったことがあった。「ピチッ」、「プチッ」といったノイズがときたま入るのだ……。とはいえ、このノイズ、デジタル的なクリップノイズとは明らかに違うし、電気的ノイズというわけでもなさそう。何かの異音を拾っているっぽいのだ。その正体は後ほど、会場でオノセイゲン氏の説明を聞いて明らかになるのだが、そのノイズは差し置いても、こんなリアルなサウンドを自宅で聴いたことがない……といっても過言ではないほどものだった。

 東京・春・音楽祭(以下、春祭)のストリーミング放送は、DSDによるものだけだとばかり思っていたが、それとはまったく別系統でのストリーミング放送も行なわれていた。そのことは、当日、FacebookやTwitterのタイムラインを見ていて気づいたのだが、春祭の公式ページにおいて「ステレオ」、「サラウンド」、「バイノーラル」の3方式での映像付の放送も行なわれていたのだ。

 こちらは昨年も同様のものが放送されていたそうだが、そもそも春祭が2005年に「東京のオペラの森」として始まったもので、IIJ会長の鈴木幸一氏が私費で立ち上げたクラシック音楽の祭典であるということとも大きく関係しているようだ。

 そうした背景はともかく、自宅でDSDライブストリーミングと同時に映像付のステレオ放送にアクセスしてみたところ、両方ともまったく途切れることもなく、スムーズに再生することができたが、この2つの放送の間には結構なタイムラグがあった。ちょうど曲の切れ目で、どのくらいの時間差なのかを計測してみたところ、ちょうど45秒、映像+ステレオのほうが進んでいることが分かった。音も、普通のライブストリーミング放送として捉えれば十分にキレイなサウンドではあったが、やはりDSDによる音と比較すると荒も目立ってしまう印象。とはいえ、映像もあるという魅力はそれなりに大きいものであった。

極めてシンプルなDSD配信システム

会場の東京文化会館

 そうした下チェックを済ませた上で、上野へ向かい、雨の中、会場へ到着受付に行くと「もう一方いらっしゃるので、少しお待ちください」とのこと。

 大勢でのプレス取材だと思っていたら、たった二人で案内してくれるようなのだ。それから5分もせずにいらしゃったのはAV評論家の麻倉怜士氏。麻倉氏と二人で見学できるとは、なかなか贅沢な取材である。そこに迎えに来てくれたのは、今回のDSDライブストリーミングの公開実験における中心人物であるサイデラパラディソのオノセイゲン氏。オノ氏の案内の元、その舞台裏をいろいろと見せてもらったのだ。

オノセイゲン氏(中央)の案内の元、麻倉怜士氏(右)と取材

 まず最初に案内されたのは、舞台裏ではなくて、舞台そのものである東京文化会館小ホール。ちょうど休憩時間であったために入れたのだが、ステージ上にはマイクのセッティングがない。頭上を見上げると、天井の高さ11mというホールにおいて、下から5.7mの位置にマイクがセッティングされていた。

東京文化会館小ホール

 オノ氏によると、これはB&K(現DPA)の4006という無指向性のマイク。ここのヘッド部分に若干の指向性を付けるための丸いカバーがしてあるという構造だ。これを見ると、同じマイクが3本あるが、DSDライブストリーミングで使っているのは、左右に向いた2本だけ。本当にこれだけを配信していたのだ。

下から5.7mの位置にマイクをセッティング
無指向性のマイクのB&K 4006。ここのヘッド部分に若干の指向性を付けるための丸いカバーがしてあるという構造
サラウンド用のリアマイクを天吊り

 一方、中央にあるカバーのされていないマイクは、前述のサラウンド配信のためのセンターマイク。さらに、この3つのマイクの後ろ側にも、同じ4006のマイクが少し方向を変えた形でセッティングされていた。これがサラウンド用のリアの2つとなっているのだ。いずれにせよ、春祭のライブストリーミングに用いられた集音用のマイクは、この天井から吊るしてある5本のマイクがすべて。極めてシンプルな構成なのだ。

 そのマイクからの信号は、オノ氏が詰めるコントロールルームへと送られ、5本ともすべてがGRACEのm801というマイクプリアンプへと入ってくる。そのうちのフロントのLとRの2本だけが小さなフェーダーへと送られ、その先にDSD用のオーディオインターフェイスであるコルグ MR-0808Uへと入っていくのだ。よく見ると、MR-0808Uが2台設置されていたが片方が2.8MHzのDSD用、もう一つが5.6MHzのDSD用。そして、そこに入力された音がそのまま配信されていくという、何ともシンプルな構成になっているのだ。

 ここにはコンソールも何もなく、音の調整要素はまったくなし。マイクからの音が、本当にそのまま配信されていたわけなのだ。休憩中もストリーミングは流れ続けていたものの、無音であったのは、このフェーダーが落としてあったからなのだ。

5本の信号は全てマイクプリアンプのGRACE「m801」に入力
フロントL/Rだけをフェーダーへ
コルグ「MR-0808U」
LimeLightというソフトでエンコードされて配信

 システム構成図を見ると分かる通り、MR-0808UからUSB経由で入ったDSDの信号はコルグ開発によるLimeLightというソフトでエンコードされた後、ソニー開発のDSD暗号化ソフトを通過。それがFTP経由でサーバーへとアップロードされ、世界中へと配信されていったのだ。

システム構成図

コンサートともオーディオリスニングとも違う、新しい体験

 こうした一連の説明を受けた上で通されたのが試聴ルーム。何とも妙な感じではあるが、下のホールで今演奏されている音を、この部屋で聴いてみようというわけなのだ。

 前述の通り、筆者も自宅では音を聴いてみたものの、ここは仮設ながらもオノ氏などによって調整された高品位なサウンドが楽しめる部屋。DSD対応のUSB DACとしてコルグ「DSD-DAC-100」、ソニーの「UDA-1」、「PHA-3」がセッティングされ、これらを切り替えながらDSDライブストリーミングの再生ソフトであるPrimeSeatで聴いていこうというものだ。

 アンプとしてはソニー「TA-A1ES」、スピーカーにはソニー「SS-AR1」という構成でプレイが始まり、麻倉氏とともにその音を聴いてみたのだ。

試聴ルーム
コルグ「DSD-DAC-100」
ソニー「UDA-1」
ソニー「PHA-3」
オノセイゲン氏

「コンサートでもオーディオリスニングでもない、まったく新しい体験、新しいエンターテインメントだ」と麻倉氏が言っていたが、まさにそんな感じの試聴であった。ここで聴いているのは、オーディオ機器を通じてスピーカーから鳴っている音ではあるけれど明らかにCDやハイレゾデータを聴いているのとは雰囲気が違い、すごくリアルな感じがするのだ。それは、DSDの音楽配信データを聴いているものとも違うのだ。

 その理由についてオノ氏は「CDはもちろん、配信用のデータであっても、普通は音量、音圧を調整したり、EQで音をいじったりと、どうしても手を加えてしまいますが、ここで流れているのは、本当にマイクから入った音をそのまま流しているだけのシンプルなもの。だからこそのリアルさがこうやって現れているのです」と解説してくれた。

 また、先ほどの家で聴いたノイズも、やはりここでも確認できる。これについてオノ氏に聞いてみた。

「これは会場のノイズを拾ってしまっているんですよ。ある程度の指向性はつけているものの、基本的に4006というマイクは無指向性のマイクであるため、パンフレットをいじる音、カバンを触る音など、観客席の音も拾ってしまっているのです。それが楽器と同じく前のスピーカーから聴こえてくるので、少し違和感を持ってしまうのかもしれませんね」とのこと。なるほど、リアルすぎる音のために、ノイズが目立って聴こえてしまったということのようだ。

コルグの大石 技術開発部部長

「このコンサート会場にいるような音を、家でのんびり楽しめるという意味で、PrimeSeatなんですよ」と言うのはプレイヤーソフトであるPrimeSeat、そして配信側のソフトであるLimeLightを開発したコルグの技術開発部部長である大石耕史氏。

「KORGではDSDのDAWであるClarityというものを作っていますが、これに使われているオーディオインターフェイスであるMR-0808Uを活用しています。もっとも、システム自体はそれほど難しいものではなく、MR-0808Uの2IN/2OUTだけを持ってきて、エンコードして配信するというシステムです。一方のPrimeSeatはAudioGate 3.0をベースにストリーミングを受けられるように改良したものなんです。面白いのはコルグのエンジンが初めて公式にソニーのDACと接続できるようにしたところですね。両社の技術を持ち寄ることで、とても有意義な実験をすることができました」と大石氏は話す。

 ところで、こうしたDSDでのライブストリーミングというのは、本当に、これが初めてのことなのだろうか? その質問に対し答えてくれたのは、SACD誕生前からDSDに携わってこられ、今回のライブストリーミングにおいても技術支援を行なってきたソニーの情報技術開発部門 オーディオ技術開発部8課シニアシステムエンジニアの西尾文孝氏だ。

ソニー 情報技術開発部門 オーディオ技術開発部8課シニアシステムエンジニア 西尾文孝氏

「実はDSDのライブストリーミングは、2008年のAESのサンフランシスコで行なったことがあります。モントリオールにあるマギル大学がシカゴ経由で専用線をつなぎ、UDPで接続して2.8MHzのDSDを伝送するという実験をしているのです。その際は途切れ途切れだったし、もちろん1:1というものでした。それに対し、今回はhttpを用いて1:多での配信であり、2.8MHzのみならず5.6MHzにも対応。そういう意味でいえば、今回が世界初といって間違いありません」(西尾氏)

 7年の開きがあるが、その間に技術も伝送速度も大きく向上したということなのだろう。その伝送技術を支えているのがIIJなわけだが、国内ならともかく、なぜ海外、とくにヨーロッパから5.6Mbpsを超えるストリームデータを途切れることなく送れるのだろうか? これにこたえてくれたのはIIJのサービスオペレーション本部サービス企画推進室長の冨米野孝徳氏だ。

IIJ サービスオペレーション本部サービス企画推進室長の冨米野孝徳氏

「今回、ドイツのベルリンからライブストリーミングを行なうわけですが、これに合わせてロンドンにサーバーを立てるとともにベルリンからロンドンまでの高速な回線を確保しました。一方、ロンドンから日本へはIIJの回線があるので、ここは高速に伝送できるようになっているのです」と冨米野氏は話す。そうはいっても、回線状態によっては、一時的にスピードが落ちることもあるので、バッファを大きくとっているのだ。

「バッファは1分間分とっているので、仮に伝送が途切れても1分間は大丈夫です。反対にみれば、音が出るまでは1分間分のデータを貯めなくてはならないため、最初は少し待たなくてはならないのです」と大石氏は語る。冒頭でも述べたとおり、圧縮オーディオではあるが映像付で配信しているものと45秒の時差があったのは、このバッファのせいであるとのこと。おそらく映像付のほうは15秒程度バッファリングしていたということなのだろう。

 ちなみに筆者の自宅で聴いていた際には、10秒を待つことなく、音が鳴り始めたが、この試聴ルームにおいては、DACを入れ替えた際などにリロードすると、1分間近く待たされた。どうやら、この部屋のNTTの回線があまり速くなかったようで、時間がかかってしまっていたようなのだ。事務局によると、とくに音が途切れるというような指摘は受けていないので、おそらく誰もがほとんど問題なく聴けているのだろう、とのことだった。

マリモレコーズ 江夏正晃氏

 ところで、その映像付の配信のほうはどうなっているのだろうか? これを担当していたのはマリモレコーズの代表取締役でレコーディングエンジニアでもある江夏正晃氏だった。江夏氏によると「セイゲンさんのところのマイクプリ、m801に入った5chの信号を分配してもらい、こちらの部屋に持ってきています。ここにある非常に小さなサラウンド環境でバランスを確認した上で、Dolby ProLogic2のエンコードを行なって配信しているのです。Dolby ProLogic2は普通のステレオ信号に乗せる形でサラウンド信号を記録させているので、実際にはステレオ放送とサラウンド放送はまったく同じものです。この信号を普通に聴けばステレオだし、Dolby ProLogic2のデコーダーを介せばサラウンドになるわけです」と解説してくれた。それとは別にダミーヘッドによるバイノーラルの信号も別途配信していたわけだ。

 こうした見学を終えた後、筆者は麻倉氏とともに17時からの演奏「Ⅳ ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン」を会場で生で聴かせてもらうことができた。この演奏は1週間アーカイブされてオンデマンドで聴くことができるというので、どう違うのかを実感するために、真剣に聴いていたのだ。耳を澄ませながら聴いていると、確かに会場でのノイズがあることに気付く。ただ、立体的に聴いているので、演奏者とは違う方向から聴こえているため、まったく気にならないのだが、これがステレオになるとやはり目立ってしまうのだろう。また、ステージと観客席が結構近いためなのか、演奏者の息遣いも聴こえてくる。

 こうした音も聴こえるものなのか、翌日になってオンデマンド放送が始まってから、改めて聴いてみたのだ。すると、かなり記憶通りの音が聴こえてきて、情景が目に浮かぶようだった。ただ、観客席で聴くのとはちょっぴり違い、ステージを見下ろすような感じで聴こえたのは、マイクの位置を見てきたからなのだろうか…。マイクのポジション的には筆者が座っていた場所よりも、明らかにいい音で捉えているように思えた。また、二人のフルート奏者が吹きながら、ステージ上で左右交代するというシーンがあったが、聴いていても、気配を感じるほどハッキリと「あ、ここだ!」と分かったのも面白かったところだ。

ベルリン・フィルのDSDストリーミングも

 そして、11日の夜遅く、正確には12日の午前2時からドイツ・ベルリンからベルリン・フィルハーモニー管弦楽団の演奏が行なわれた。

12日の午前2時からはベルリン・フィルのDSDライブストリーミングも

 深夜だったので、リアルタイムに聴いていられたのは1時間程度だったが、まるでドイツの現地にいるようにオーケストラの迫力を存分に味わうことができる素晴らしいサウンドだった。システム的には、基本的に春祭で使ったものがそのまま利用されていた。

日本からベルリンDSD配信を楽しむ

 なお、4月13日現在、そのドイツ・ベルリンでの演奏がオンデマンドで聴けるようになった一方で、春祭のオンデマンド放送は終了。ベルリンのオンデマンドも1週間で消えるとのことなので、聴いてみたい人はぜひ急いでチェックしてみて欲しい。

 これを聴くためにはコルグまたはソニーのDSD対応USB DACが必要になるが、このオンデマンド放送を聴くだけのために購入しても損はない素晴らしい内容だったと思う。

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コルグ DS-DAC-100ソニー UDA-1ソニー PHA-3



藤本健

 リクルートに15年勤務した後、2004年に有限会社フラクタル・デザインを設立。リクルート在籍時代からMIDI、オーディオ、レコーディング関連の記事を中心に執筆している。以前にはシーケンスソフトの開発やMIDIインターフェイス、パソコン用音源の開発に携わったこともあるため、現在でも、システム周りの知識は深い。  著書に「コンプリートDTMガイドブック」(リットーミュージック)、「できる初音ミク&鏡音リン・レン 」(インプレスジャパン)、「MASTER OF SONAR」(BNN新社)などがある。またブログ型ニュースサイトDTMステーションを運営するほか、All AboutではDTM・デジタルレコーディング担当ガイドも務めている。EPUBマガジン「MAGon」で、「藤本健のDigital Audio Laboratory's Journal」を配信中。Twitterは@kenfujimoto