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第617回

元SIE・吉田修平氏が語る「ゲーム業界の30年」その1:PS3は転機だった

吉田修平氏

吉田修平氏が、今年1月にソニー・インタラクティブエンタテインメント(SIE)を退職した。

吉田氏はソニー・コンピュータエンタテインメント(SCE)時代、初代PlayStationの頃から関わり、在籍期間は30年を超える。

SCE・SIEが発売する、いわゆるファーストパーティー向けソフトの多くに関わり、2000年からはアメリカでの事業も手がけた。2008年からはゲーム開発部門であるワールドワイド・スタジオのプレジデント、2019年からはインディーゲームを担当する「インディーズイニシアチブ」の代表も務めた。

筆者も取材の中で長くおつきあいのある人物だが、このタイミングでロングインタビューをお願いした。

PlayStationの歴史を振り返るだけでなく、「日本のゲームはどう世界に拡がったのか」「海外のゲームはどう日本に受容されたのか」「ゲームとコストの問題はどう変化してきたのか」など、ゲーム開発とプロデュースの最前線で働き続けた方の視界から感じた発言は、非常に重要なものであると考えたからだ。

予想通り、インタビューでは非常に多くの貴重な証言を得られた。できるだけそのままお伝えすべく、2回に分けたロングインタビューの形で掲載する。

第一回は、吉田氏がPlayStationに関わり始めた頃から、PlayStation 3(PS3)世代の苦労、そして、日本と海外のゲームがどう受け入れられていったのかを語っていこう。

ソニーで「コンピュータを作る人々がSCEに結集

吉田氏は1986年にソニーに入社した。SCE(現SIE)に移ったのは1993年だったという。ソニーではその前からコンピュータ関連製品を作る部署に所属していた。

個人的には奇遇なことに、そこで吉田氏が手がけていたのは、筆者が大学時代、最初に購入したMacでもあった。

吉田氏(以下敬称略):最初は、アップルからPowerBook 100の設計、製造を請け負った部署にいました。そのあとアップルからの受注がなくなったのでデルのノートPCを作って、そこからVAIOにつながっていくことになります。

当時のソニーでは、都内のあるビルに色々な人が集まってコンピュータに関わるものを作っていたんですよ。

川西さんもそこにいたし、茶谷さんもいました。茶谷さん、Palmtop(1990年。初期のペンコンピュータ)の日本語手書き認識を開発した人でもあるんですよ。

筆者注:川西泉氏・茶谷公之氏は、ともに元ソニーのエンジニアで、SCEでCTOを務めた人物。川西氏は現在、ソニー・ホンダモビリティの代表取締役 社長 兼 COO。茶谷氏は楽天でAI担当役員を務めた後、現在は多数の企業のアドバイザー

吉田:実は、久夛良木さんには2回だけほめられたことがあるんです。

筆者注:久夛良木健氏。PlayStationとSCEの産みの親であり、現・近畿大学情報学部長

吉田:仲間うちだとこれ、「おまえスゴイね」って言われるんですよね。みんな久夛良木さんからしょっちゅう「おまえはクビだ」って言われるんですけど、私は一度も言われたことなくて。その上で「2回も」ほめられた、という(笑)

そのうち1つが、茶谷さんを連れてきたことです。

私が先に(SCEに)入っていて、茶谷さんから「そちらはどうですか?」と聞かれたんで、「めちゃくちゃ面白いですよ、来てくださいよ」って言って引っ張ったんですよ。

そうしたら久夛良木さんの大のお気に入りになって、最終的にはCTOになりましたが。久夛良木さんからは「おまえの会社に対する貢献は、茶谷を連れてきたことだけだ」ってほめられた(笑)。

2018年の東京ゲームショウでの写真より。同年発売された「プレイステーション クラシック」(左)と初代PlayStation(右)

PlayStation 2。国立科学博物館の令和6年度 重要科学技術史資料(愛称:未来技術遺産)にも登録されている

初代PlayStation・PlayStation 2(PS2)と、日本・海外で順調に数を伸ばしてきたSCEだが、次のPlayStation 3(PS3)では、強い「産みの苦しみ」に直面する。2度目の「久夛良木氏からほめられた」経験は、そこでのモノだったという。

吉田:2つ目は、PlayStation 3の時です。

当時、私はアメリカでゲームを作っていまして、PS3のゲームのデモを持ってきてほしいと言われたんです。

それで、アメリカで作っていた『WARHAWK』(2007年)のデモを持っていきました。

2007年に発売されたPS3向けオンラインゲーム『WARHAWK』
(C)Sony Computer Entertainment America Inc. All Rights Reserved.

SCEJ、PS3用新型コントローラを存分に活用した フライトアクションアドベンチャー「WARHAWK ~ウォーホーク~」

そうしたら、東京ゲームショウ(TGS)でプレイアブルが用意できたのは、私たちのチームだけだったんですよ。サードパーティーさんも含めてです。動画としては、小島監督の「メタルギア4」とか、すごいのがありましたけど。

プレイアブルのデモを用意しろ、と言われたのですが、うちが持っていった『WARHAWK』だけしか用意できなくて。1タイトルだけプレイアブルというのは変だという話になって、結局展示してもらえず、映像だけが出されました。

ただ、TGSの前に久夛良木さんがそれをプレイし、「吉田、いいじゃないか」と褒めてくださったんです。あの時は、もうモロに褒められましたね。私にとって、数少ない褒められたうちの2回目ですよ。

あの当時、PS3の開発は本当に大変だった時期で。私たちのチームが唯一プレイアブルなデモを用意できたというのは、後から考えると、PS3のローンチに向けての開発の難しさを示す象徴的な出来事だったのかもしれませんね。

実際に、2006年のE3でもファーストパーティーのゲームは持って行けたものの、サードパーティーさんのゲームがほとんどなくて。本当にびっくりしましたから。

先にXbox 360が出ていたので、マルチプラットフォームで開発するサードパーティーさんは、そちら向けの開発環境が整っていたんでしょう。結果として、PS3への移植は簡単ではないと思われたんでしょうね。

あの時は本当にやばいと思いましたよ。

PS3の「難産」という転機。アメリカのゲーム業界と日本の違いとは

前出のように、PS3は大きな期待を背にスタートしたものの、ゲーム開発は難航した。

ハイパワーな異種混載プロセッサーである「Cell Broadband Engine」(以下CELLプロセッサー)を搭載、ネットワークも標準で組み込まれており、ネットワーク家電の世界も見据えた野心的なプロジェクトだったが、ゲーム機以外の可能性は、結局花開かずに終わった。

他方で、そこで模索された可能性は、現在のデジタル家電やゲーム機であたりまえとなった要素の多くを内包している。

初代PlayStation 3。発売は2007年

吉田:PS3が発売された頃、まさにゲーム業界は大きな転換期を迎えていました。

久夛良木さんは、PS3でゲームビジネスを行なう傍ら、CELLプロセッサーを核とした全く新しいビジネスを創出しようとしていたんです。それは、単に高性能なゲーム機を作るだけでなく、その技術を様々な家電製品に応用し、家庭の中心となるような存在を目指すという盛大な話です。

当時、私も含め、多くの人が久夛良木さんの描く未来像を完全に理解できていたわけではありません。今振り返ってみると、久夛良木さんが当時語っていた「ネットワークが世界を繋ぐ」というビジョンや、PS3のコンセプトで描かれていた未来は、現実になっていますよね。

私はファーストパーティーの人間としてPlayStationに関わってきましたが、そこでやらなければいけない部分は当然あります。

それはプラットフォームをうまく使うこと、新しいハードウエアとしての役割や提案があれば、それを活用することです。

最近の例でいえば、PS5の『アストロボット』(2024年)。「ハプティクスはこう使うんだよ」というお手本のようなゲームですが、やっぱりああいう形のソフトを作ることが、ファーストパーティーの役割なんですよね。

ただ、相当厳しい・辛いものもありましたね。

2024年発売のPS5向けゲーム『アストロボット』。2024年のゲームシーンを席巻、多くのアワードを受賞している

PS3は高性能ではあるが、それだけにゲーム開発は難航した。そこでは特に、日本のゲームメーカーが苦しんだ部分が多い。吉田氏は「あの時期が転機であり、日本のゲーム業界に与えた影響は大きい」と説明する。

吉田:やっぱりPS3が作りにくい部分があったというのは、日本のゲーム業界に与えた影響が大きかったとは思います。

海外は、プログラミングであるとか、ゲーム開発のノウハウ共有とかすごかったですから。

私は2000年にアメリカ行きましたけど、みんな積極的に、高度な内容をプレゼンしているんですよね。

それはもう自己アピールであり、ネットワーキング。「自分はこのゲームでこんなすごいことをやったんです」ってプレゼンすると、業界内で友達ができたりとか、どっかの企業から引っ張ってくれたりとか、そういうのがある。人の流動性も高いので、自分が得たノウハウを持ってどんどん動く。

結果としてゲーム業界全体のレベルが上がっていく……といったことが、当時の日本のゲーム業界と比べて、すごい勢いで動いているんだな、と、驚かされたんです。

私がアメリカに行った2000年は、PS2が始まる頃です。それからの6年、PS2世代の間に、あっという間に海外勢に抜かれたな……と思いました。

2000年にアメリカに移動する時には、「日本のゲーム開発の良さをアメリカにも伝えるんだ」みたいな、変な気構えがあったんです。

でも、もうね。2、3年経ったら、もうそんなこと全く考えなくなって。

PS2世代の後半には、ゲーム開発者としては、日本のゲームを参考にしなくなりました。最先端はやはり海外になっていましたから。

このことには、日本のゲーム業界とアメリカのゲーム業界の「構造の違い」も影響していた。今では大きく風景も異なっているが、2000年代は、その「違い」がもっとも強く影響した時代でもあった。

吉田:当時、日本でPCゲームはさほど重視されていませんでしたが、海外にはPCゲーム市場はちゃんとあった。同じパブリシャーの中でPC版も出していたわけです。

PS1からPS2の頃は、コンソール発売初期は、価格も安くて性能的にもPCの上を行く、という部分がありました。ですがPCのスペック上がると、コンソールの上を行く。

コンソールの新型が出るとまた抜くんですが、PCがすぐに追いつく。

もう、新しいコンソールが出る時にもPC側で「その世代に向けた開発の準備ができています」という状況になるわけですよね。

これが海外のゲーム業界の状況でした。

当時日本のゲーム業界は、「新しいコンソールが出たらその段階から学ぶ」という体勢でしたから、そのギャップで非常に苦労した……という部分もあったんだと思います。

(2010年頃まで)日本のゲーム業界は、アーケードと家庭用しかなかったじゃないですか。だから、結果的にですが、プラットフォームの変化についていけなかった時期があったのかな、と思いますね。

ゲーム機がネットワークに対応。そしてPSNが生まれる

SCEは当時、ゲーム機の高性能化に加え、別の方向性も模索していた。それが「ネットワーク対応」だ。

初代PlayStationではNTTドコモと提携、iモードのパケット通信網と接続する試みが行なわれていた。そして、PS2では別売の「PlayStation BB Unit」という、ハードディスクを搭載したネットワークアダプタも提供された。

技術的に見れば「ネットワーク対応」は必然であり、各社が同様に模索していたものではあった。吉田氏はファーストパーティーの立場で、各サービスを活かしたソフトの開発に取り組んでいたという。

そこでは、当時は無視できなかった「店頭流通」との関係や、未来に向けたネットワーク活用の施策も関係していた。

吉田:ネットワーク関連については、PS2の「PlayStation BB」もありましたし、PS1の時のiモード連携もありましたよね。ファーストパーティーとして、回線速度が遅いながらも、いろいろやっていました。iモード連携では、毎日少しずつニュースがダウンロードされるものとか。

とはいえ、ネットワークによるデジタルディストリビューションが、将来絶対に大きくなることもわかっていました。

そこで「PlayStation Network(PSN)」が生まれたときには、どうやってストアに来てもらうかを考えました。

当時はリテーラー(店頭でのパッケージ流通)さんが強かったので、フルプライスのゲームはデジタル販売しない、という話でした。これはファーストパーティーもそうですし、サードパーティーもそうでした。

そこで「じゃあ、PSNのストアでしか、デジタルでしか生まれないような、面白いゲームを作ろう」と考えて動き始めて。

これはね、もう、めちゃくちゃ楽しかった。今のインディーにもつながるものですね。「デジタルのみで」「少ない予算で」「大手が絶対やらないような」コンセプトのゲーム作ろうぜ……みたいな。

もう本当にね、楽しかった。

そこから産まれたゲームの1つが『風ノ旅ビト』(2012年)です。

PS1の頃のように、いろんなアイディアや新しいクリエイターが入ってきて、それまでになかったようなジャンルが生まれるのが、ずっと好きだったんですよ。

それ以降、ファーストパーティーとしてAAAのビッグタイトルを作りながら、デジタルのちっちゃいゲームを作るのがすごく好きで。両方やっていました。

2012年に発売された『風ノ旅ビト』。開発元はThatgamecompany。コンパクトながら叙情あふれるアドベンチャーとして高く評価され、その後、PCやスマートフォンなど多数のプラットフォームで展開
©2021 Sony Interactive Entertainment Inc. All Rights Reserved.

見知らぬプレーヤーと言葉を使わず共に旅する「風ノ旅ビト」は発売10周年

「NieRショック」が日本のゲームを変えた

世界市場で日本のゲームが苦戦していた、といっても、20代までの若い人にはピンと来ないかもしれない。特にここ数年は、日本のゲーム開発者による作品が世界でも高く評価されるようになり、大きな影響力を持つようになっている。

だが、2000年代後半から2010年代半ばまでは、日本のゲームは、他国になかなか拡がらなかった。

その状況を変えたのは「ある作品だったのではないか」と吉田氏は言う。

吉田:ゲームがリアルになり、ハリウッド的な作品が出てくるようになって、一時、PS3の時代に、日本のクリエイターが「海外でウケるものを作らなきゃいけない。ちょっと海外的なテイストのものを作ろう」とした時期があったじゃないですか。

でも結局、そこにオリジナルの文脈がないので、(海外市場から見れば)「なにこれ」という感じになって、うまくいかなかった。

そこで一気に状況を変えたのは、PS4時代になって出た『NieR:Automata』(2017年)だと思っているんです。

2017年発売の『NieR:Automata』。世界中で大ヒットし、多くのプラットフォームで展開
©2017 SQUARE ENIX CO., LTD. All Rights Reserved.

プレイすることで意味が生まれる、「NieR: Automata」開発者インタビュー

ヨコオ(タロウ)さんはもう、海外で売れる、売ることなんか全く考えずに作ったと思うんです。ところが、それがもう海外ですごいウケましたよね。

そこから、日本のクリエイターが「日本的なもの」を作って、それが海外でも売れる……ということが実績として出るようになった。

『NieR』でみんなそれに気づいた。

「それでいいんだ」ということだけじゃなく、「そうしないとダメなんだ、俺たちは」と。

だから、日本のクリエイターが「もう海外を真似するのはやめよう」「自分たちの文化、自分たちがわかっているものを作ったら海外でわかってくれる」という方向性になったんです。

私は『NieR』以前・『NieR』以後って言っていいくらい、『NieR』以降に日本のゲーム業界、復活したと思っています。単純化していえば、「日本的なものを作ろう」と気付かせてくれたのが『NieR』というタイトルだったんじゃないかと。

そこにはデジタルディストリビューション発展の影響も大きいです。

特にデジタルディストリビューションであれば、ある程度ニッチなテーマであっても成立する。日本の文化は海外に浸透してきましたが、その上で、いろんなところに散らばっている人を集めれば結構な規模になるわけです。

「デジタルディストリビューションが日本のゲームに大きな影響を与えた」という吉田氏の意見には、筆者も同意する。

世界中にいる日本コンテンツへのファンに届くことが市場を大きなものとし、さらにコンテンツの浸透を広げる……という構図は、ゲームのみならず、アニメやコミック、音楽などにも拡大している。

2010年代後半からのビジネス環境の変化が、世界中のコンテンツビジネスに与えた影響は、あらためて認識しておく必要がある。

変化した「ファーストパーティー」の役割

吉田氏は、SCE(SIE)傘下でゲームをパブリッシュする「ファーストパーティー」を担当していた。家庭用ゲーム機のプラットフォーマーでは、自社プラットフォームで独占的に供給される、ファーストパーティーのゲームの重要性が大きい。

吉田氏はその役割を次のように語る。

吉田:私はファーストパーティーを統括する立場だったので、「とにかくハードを売るぐらいパワーのあるゲーム」を求められたんです。そういうものを作ると、やっぱり会社もすごくプッシュしてくれる。

そういうものを会社から求められていたし、作らなきゃいけない中で、開発規模も、求められる売上もどんどん大きくなる。

そうなると、日本の開発体制でそれをやるのは厳しい時期がありましたね。

日本のクリエイターはすごくクリエイティブで面白いものを考え出すんですけど、どうしても「AAサイズ」になってしまって。

私がワールドワイド・スタジオのプレジデントを離れたあと、JAPANスタジオがなくなってしまったのもそこに理由があります。

当時のJAPANスタジオは「AAを作るのがうまいチーム」であり、スタジオだったんです。

そうなると、会社・ファーストパーティーとしての求めているものと合わなくなったのでしょう。

やっぱり、会社がグローバル化していった影響はあったと思います。

それで、なかなか「日本的な面白いゲーム」を作っても会社がなかなかプッシュしてくれず、回収に苦しんでいた時期があります。

それが、PS3からPS4の時期ですね。私がプレジデントをやっていたのはPS5の前まで、まだ苦しい時期です。

吉田氏のいう「AA」とは、ゲームの開発規模・販売規模を指す言葉だ。

ゲーム業界では、特に大きな規模で作られるタイトルのことを「AAA」と呼ぶ。日本でいえば『ファイナルファンタジー』シリーズ、海外でいえば『ウィッチャー』シリーズや『グランセフト・オート』シリーズ、『Call of Duty』シリーズなど、大型シリーズとして思い浮かぶものがAAAタイトルだ。

詳しくは次回のインタビューで述べるが、AAAタイトルは数百万本を超える販売が見込める一方で、開発には数億ドルの予算が必要となる。

AAとは、それよりも規模が小さいもの。開発コストも小さくなるが、一方で販売数量も小さな物になり、ある意味ニッチだ。

売上としては重要なものだが、ゲーム・プラットフォーム自体の人気を牽引する力は、AAAタイトルに比べると弱い。

一方で、SCE/SIEが世界市場を見据えて海外で開発する「AAA作品」が、日本で広く支持されるようになったのはごく最近のこと。

吉田氏はそのギャップにも苦しんだという。

吉田:これは、ものすごく大きかったですね。

私は2000年から2008年までアメリカでゲーム開発をやっていました。その時に、なんとか自分たちが作ったゲームが日本でも売れてほしい……と思うじゃないですか。

海外では『ゴッド・オブ・ウォー』(2005年~)シリーズなど大ヒットして、「ゲーム・オブ・ザ・イヤー」などの賞もいただきました。『アンチャーテッド』(2007年~)のように、評価も売り上げもいいようなシリーズもあります。

ただ、日本では苦戦しました。

当時、グローバルにおけるPlayStationのインストールベースのうち、10%が日本だったとしましょう。この数字はあくまで、わかりやすくするための、仮のものですが。

その時、私たちが作ったアメリカのゲーム、もしくはヨーロッパのゲームもそうですけど、日本に持って行った時の売り上げは、全世界の売り上げの、3%とか5%しかないんですよね。インストールベース(日本で売れるであろう最大の数)に届くゲームっていうのは、ほとんどなかったんですよ。

例外的なヒットが『デトロイト ビカム ヒューマン』(2018年)。あれはね、グローバルに対する日本の売り上げが、インストールベースに近かったんですよ。

2018年発売の『デトロイト ビカム ヒューマン』。Quantic Dream開発のアドベンチャーゲームで、アンドロイドが普及した社会を舞台とするアドベンチャーゲーム
©2017 SQUARE ENIX CO., LTD. All Rights Reserved.

最高のゲーム作家デヴィッド・ケイジ氏に聞く、物語への哲学。「Detroit: Become Human」は、彼に何をもたらし、その先に何を見るのか?

ただあれは例外で。海外のうちのヒットタイトルを、日本でもっと売れるようにするにはどうしたらいいか……ということには常に頭を悩ましていました。

当時、日本国内向けのローカライズチームとは本当に仲が良くて。素晴らしく高いクオリティでローカライズを実現してくれていました。

彼女たちには、「今は辛いと思うけど、将来君たちの時代が来るから」って、励ましながらやっていたんです。

そして、それからずっと時間が経って……『Ghost of Tsushima』(2020年)ですよ。

あれが(日本国内で)100万本売れました。

2020年発売の『Ghost of Tsushima』。現在、映画版とアニメ版の開発が進んでいる
(C)2021 Sony Interactive Entertainment Inc

ファーストパーティーの海外製ゲームが100万本売れたのは、『クラッシュ・バンディクー3 ブッとび!世界一周』(1998年)以来です。

その間にあった『Horizon Zero Dawn』(2017年)とかは70万本ぐらいまでいったのかな。海外のゲームも徐々に徐々に評価されるようになってきたんですけど、大台には達しなかった。

それがようやく状況が変わってきました。

サードパーティーでも、海外製ソフトの売り上げは上がってきたと思うんです。インターネットの時代になって、世界中の情報がみんな見られるようになって、文化の違い・カルチャーによる忌諱感が、徐々に減ってきているんじゃないかと。

それに合わせて、例えばCEROなどのレーティングルールも、ちょっとずつ、海外のものに対する規制を弱めていると感じますね。

PS2・PS3の時代は、日本で受けるものと海外で受けるものがまったく違っていたわけですが、今はもう、ほんとに差がなくなってきていると思います。

しかも、新興勢力も強い。最近だと『黒神話:悟空』(2024年)のように、中国のゲームのクオリティも上がっている。

中国人なら誰でも知っているお話が、世界でも評価される時代です。これだけたくさんのゲームが世界中で作られている中で、その土地の文化や音楽、神話など、その土地のクリエイターでしかできないものから、オーセンティック(本物)なものを作ると世界中で評価されるんだな……という。

そういう時代になってきたと思います。

そんな中、SIEはファーストパーティーの役割を変えてきた。ハードウエアを活かすソフト、ハードウエアを目立たせるソフトを売る立場からは変わってきたのだ。

吉田:ただそのあとを見ると、「これはまた変わったな」とは思うんですよ。

過去、ファーストパーティーのミッションは「プラットフォームを成功させること」でした。マーケティングについてもそうです。

しかし去年役割が分かれて、「ファーストパーティーとしてどんどん成長しなさい」ということになりました。

今はPC版も出ますが、私の時期は、PCで出すのは禁止されていました。規模の小さなデジタル版は大丈夫ですけど、AAAタイトルは「PlayStationでしか出してはいけない」という形だったんです。

しかし、ファーストパーティーを単体のビジネスとして考えた時には、「もうPCで出してもいいよ」と。

オンラインゲームはユーザー数が必要なのでPCと同時に出してもいいし、そうじゃないシングルプレイヤーのゲームの場合でも、1年なり2年なりが経過した後なら、PCでも出してさらに稼いだりしてもいい。

例えば中国のように、コンソールよりもPCが普及している地域のユーザーに対しては、コンソールというハードはすぐには買ってもらえなくても、まずゲームIPに親しんでもらって、「そのIPの新作が遊べるのはPlayStationですよ」と、コンソールの将来につなげる。

完全に戦略が変わりましたよね。

ファーストパーティーの役割、求められるものも変わってきたので、いまであれば、AAのような小さな規模のゲームにも、役割があるのかな、という気はしています。

とはいえ、コンソールの良さは「全てのユーザーが同じ環境である」ことを前提に、完全にチューニングができることです。PCが普及したからといって、コンソールの役割がなくなることはないと思います。

ここまでは、PlayStationの歴史からソフトの売れ方の変化を語ってきた。次回は、ゲームハードの作られ方の変化とソフトウエア規模、インディーゲームの意義などについて語っていく。

西田 宗千佳

1971年福井県生まれ。フリージャーナリスト。得意ジャンルは、パソコン・デジタルAV・家電、そしてネットワーク関連など「電気かデータが流れるもの全般」。主に、取材記事と個人向け解説記事を担当。朝日新聞、読売新聞、日本経済新聞、AERA、週刊東洋経済、週刊現代、GetNavi、モノマガジンなどに寄稿する他、テレビ番組・雑誌などの監修も手がける。 近著に、「生成AIの核心」 (NHK出版新書)、「メタバース×ビジネス革命」( SBクリエイティブ)、「デジタルトランスフォーメーションで何が起きるのか」(講談社)などがある。
 メールマガジン「小寺・西田の『マンデーランチビュッフェ』」を小寺信良氏と共同で配信中。 Xは@mnishi41