プレイバック2020
デジタル信号処理が、人の感性を超え始めた年 by 本田雅一
2020年12月29日 08:15
誤解を恐れずにいうならば、デジタルでの信号処理は“情報を失わせる”、結果的には“質が低下する”もので、可能な限り行なわない方がいい。これが20年前に感じたことだった。
20年前。そう2000年というと、AV業界ではBSデジタル放送が始まった年だ。この頃、世の中はアナログのブラウン管から液晶パネルへと移り変わろうとしていた。主流はブラウン管だが、あっという間に液晶へと切り替わることが誰の目にも明らか。そんな時期である。
ところが、液晶テレビへの切り替わりが進み始めると、信号処理の粗さが一部の製品で目立った。アナログの世界では波形の形状が変化したとしても、階調性が大きく損なわれることは(誤った回路を組んでいなければ)ほとんどない。
しかしデジタルでの信号処理となると、どんなに正しい手法で扱ったとしても誤差が必ず出てしまう。テレビの世界でいえば、それは階調が損なわれたり、コントラスト比が十分に取れないといった事態を引き起こしていた。
と、ずいぶん堅い書き出しになったが、かなり前に演算能力の向上でデジタル信号処理はアナログを上回るようになった。音量調整デバイスなどはその最たる例だろう。デジタルボリュームなんて、高音質を求めるなら使うべきじゃない、なんて話は遠い昔のこと。音場の補正やスピーカーユニットの個体差の吸収なんてテーマも、きっちりと計測した上でデジタルの補正フィルターを通して解決した方が結果は良くなる。
映像にしろ、音声にしろ、デジタル化してなんらかの処理を行なうと品質が下がると思うものだが、十分な品質で信号処理を行なえば、むしろ良い結果を得られる。それはハイエンドオーディオの世界では知られるようになっていたが、今年はもっとカジュアルな製品にまで影響が及んでいる。
と言いながら高価な製品になってしまうが、テクニクス(Technics)の「SU-R1000」は、そうした技術革新が顕在化した最たる例だと思う。SU-R1000はまだ製品版が完成していないが、アンプとしての良し悪しの前に、デジタル化されたフォノイコライザーの優秀さに驚かされたのだ。
フォノイコライザーのデジタル化はLINNも行なっており、極めて良好な結果を得ているが、SU-R1000のフォノイコライザーが驚くべきはチャンネルセパレーションが大幅に、それこそ一聴してわかるほどに改善することだ。
仕組みは単純で、付属のアナログディスクに収録されているテスト信号を再生することで、左右チャンネルのクロストークを検出。デジタル領域の信号処理で、クロストークを大幅低減させる。アナログだからこその良さをさらに引き出すために、デジタル信号処理が活躍というのも皮肉な話に見えるだろうが、予断を持たずに評価すると、その先には驚きがある。
もともと濃密で音場をジワッとした空気感が埋め尽くす情報量たっぷりディスクが、その音場の濃さをそのままに、極めて透明感のある、しかし中身はギッシリ詰まった密度の高い音を感じる。
アナログディスクのチャンネルセパレーションは、あまり多くを期待できないというのが常識だったが、まさかのアナログディスクにテスト信号を入れるという解決方法で、更なる音質追求の先が見えたというと大袈裟だろうか。
これもデジタルアンプの前段に入れたデジタルフォノイコライザーの演算制度が極めて高いから問いのはわかる。しかし、願わくはSU-R1000ユーザーではなくとも体験できるよう、フォノイコライザーのみの単体発売を望みたいところだ。
さて、もう一つ話題にしておかねばならないのが“アップル”だ。
アップルはiPhoneの音質を、限られた中でも少しでも高めようと改良を繰り返してきたが、今年はそこで培った信号処理技術をより幅広く使いこなしている。端的な例は「HomePod mini」だろう。
リンゴ1個分のサイズだが、それなりの音質で楽しめる……というのは当たり前として、音量を上げていっても破綻せず、歪感が増してこない。細かな解説は省くが、その理由を取材して(単純な話ではないものの)なるほどと感じた。
小型スピーカーユニットでも破綻しないよう、Apple Musicに収蔵されている数多くの楽曲を分析。波形の特徴ごとにリアルタイムで周波数特性やダイナミックレンジの調整を適応的に行なっているとか。
具体的にどんな指標で、どのような制御を行なっているかは例によってアナウンスされていない。しかし、小型ながらも破綻のない音は、原音忠実再生の世界とは別に、心地よい音で部屋を充満させるという異なる方向を指し示した。
もちろん、そうしたアプローチだけでは成功はしなかっただろうが、演算能力をいかに生かすか? という考え方が、HomePod miniの商品性を高めた。この手法は、実はMacBook Air/Proの音質を高めたり、iPadシリーズの音質改善といったところでも活躍しているのだが、ひとまとめでいうならば、これまでアナログ領域での調整を試行錯誤で行なっていことを、演算能力で問題解決を行なう“コンピュテーテショナルオーディオ”に置き換えることで常識が変化するという話になる。
このアプローチは、アップルの「AirPods Max」の場合、技術を音楽の表情を最大限に活かす上で活用している。多くの音質に対する信号処理アプローチは、既存のiPhone/iPadシリーズでも実行できる。そのハードルは高くはない。
AirPods Maxの音は実に生真面目で、そのレポートは筆者の次回コラムでお伝えする予定だが「ワイヤレスヘッドフォンの音質なんて(失笑)」という揶揄はされない程度に、高い品質を備えている。
背景にあるのは、アップルが独自に開発しているシステムチップで、この中にある10コアの信号処理プロセッサが音関係の主役だ。これはAirPods MaxのH1チップとして内蔵されている。明らかに信号処理を通した方が音が良く、その体験がひろがければ、また異なるアプローチの製品が生まれるかもしれない。
そんなことを期待しつつ、コンピュテーショナルオーディオという概念が、真っ直ぐに成長していくことを期待したい。あるいは来年以降は、コンピュテーショナル○○がさらに増えているかも。今年はその端緒となる年だったのかもしれない。