麻倉怜士の大閻魔帳

第39回

「物理メディアは不要!?」麻倉怜士と考える、オーディオビジュアルのデジタル化

――今回はAV Watch創刊20周年の特別編。編集部から「閻魔帳でも2月に20年の振り返り企画をやってもらえませんか」という話をいただき、一思案しました。最初は20年分のオーディオ機器で、特に思い入れの深いものを語るという案もあったのですが、一昨年の「平成振り返り」前編後編で、ほぼ同様のことをやっているんですよね。

麻倉:AV Watchが2001年創刊、平成は1991年からですから、機材についてはちょうど10年分、多めの振り返りを既にやってしまっていますね。あれもなかなかに長大な回顧録でしたが、概ね好評を頂いたと聞いています。

――なので、今回は別の話が出来ないかと思って、AV Watch創刊当時の過去記事を探ってみたところ「創刊のごあいさつ」という文章が出てきたんですよ。ここには「CDは、あっという間にアナログレコード盤の市場を席巻」「カセットテープもMDにその座を奪われています」みたいなことが書いてあり、2001年の段階で「高品質な動画ですら、ネットワーク経由のデジタルデータによって配信されるのが当たり前になる日も、そう遠くないのかもしれません」という示唆もされています。

麻倉:AV Watchは元々パソコン周りの情報を取り扱うメディアが母体ですから、従来的なオーディオビジュアルの専門媒体とは少し違った、テクノロジーなんかを好む傾向にあるのでしょう。創刊のごあいさつを読んでも、そういうことが感じられます。

――あの文章の内容としては「オーディオビジュアルはアナログからデジタルに変遷して、デジタル時代に相応しい楽しみ方が次々と出てくるだろう。そんな時代のオーディオビジュアル情報を、ここでは多数発信していきますよ」といったものかと感じます。

そこで、今回はこの創刊のごあいさつを出発点にして、オーディオビジュアルの20年が辿ってきたデジタル化のあれこれを考えてみたいと思います。

より速く、より多く。デジタルが持つ自己改革性

麻倉:そもそも論ですが、2001年の段階では既にオーディオビジュアルのデジタル化はある程度進んでいた、という点は押さえておかないといけないでしょう。デジタル化と配信の問題についても、コンテンツ配信はリアリティこそ無かったものの「いつかは配信になるだろう」という事は皆思っていたはずです、少なくともこの業界に居る人達にとっては。

20世紀末に「IT」なる言葉が出てきて数年で、デジタル化はもう既に当たり前。我々のジャンルでも2000年にBSデジタルが、2003年に地デジがそれぞれ始まっているように、放送がこの時点でデジタルになっています。その意味で“デジタルになります!”みたいな結節は、放送のデジタル化が凄く大きいと言えるでしょう。マニアメディアのデジタル化は、言ってみればCDからの話。対して社会メディアと言うか、社会に必要なものがデジタルになったと言うのは、まさに2000年代初頭の出来事なのです。

2003年12月1日午前11時、地上デジタルテレビ放送の本放送が東京・名古屋・大阪の3大都市でスタート

麻倉:一方で配信について考えると、インターネットはだいたい1995年に発売されたWindows95を境に、爆発的に普及しました。最初こそ文字チャットのやり取りだったものの、次第に静止画のやり取りが始まり、その次は動画にという風に、マルチメディアのやり取りへと発展していきました。結局ネットの問題は通信速度・容量の問題なんです。2001年頃で言うと、まだ動画視聴サービスに対してのリアリティは無かったものの、ネットを通じてコンテンツを届けるというのは、ダウンロードかストリーミングかはともかく、かなり言われていたことでもあります。

その意味で「創刊のごあいさつ」は、当時業界で言われていた事を素直に書いたという趣きが強いですね。逆に言うと、当時からこの様な社会になるという事は考えられていた。そんな2001年からどう変わったかを、これから論じてみましょう。

――メディア配信における大きな転換点として、音楽配信で言うと、ファイル共有サービスで音楽ファイルが違法にやりとりされた「Napstar」などが出てきた事は重要でしょう。映像で言うと「YouTube」の存在がとても大きい。何れもメガバイトクラスのデータ送受信が現実的になったからこそのサービスですが、どちらも元々はアングラな存在だった点も見過ごせませんね。

NapsterはP2P技術を使った音楽共有サービスですが、そこでやり取りされていたのはほとんどが著作権無視の違法コンテンツです。YouTubeは今でこそ世界最大の動画サイトですが、ローンチ当初はやはりテレビ番組や映画などが著作権無視でガンガンアップロードされており、やはりこちらも問題視されていました。そうしたものへの対策を経て、現在に至るわけです。

テクノロジー的に言うと、この辺りが“物理メディアからの脱却”という方向を位置付けたと思います。「創刊のごあいさつ」では示唆こそされているもののまだそこまでのリーチは見せておらず、まず最初に“テープからCDへ”という事を言っています。

麻倉:テープから光学ディスクへの転換は、デジタル技術無しには考えられません。何かと言うと、デジタルは圧縮できるんです。

デジタルの良さというのは、まずCDで判るでしょう。「CDは音が悪いぞ!」みたいなことはさて置いて「デジタルだからすごく音が良い」としきりに言うその根源は、0と1に替えることにより伝送系でアナログ的な歪みが入らない、入ったとしても訂正出来るという点にあります。

アナログ的な歪みの例としては、竹屋の火事よろしくパチパチ言うクラックルノイズとか、左右の音の分離、セパレーションが良くないとか。あと低域方向に歪みがあり、特にレコードなどはあまりリニアリティが良くはなく、周波数特性やDレンジも狭い。こういった問題は何れもアナログ系でノイズが途中で混入し、最終的に加算されて出てくる不都合です。その意味でデジタルというのは、訂正が効くわけで、換言すると、信号をカプセル化して外部要因による変形から保護された状態で届けることが出来る、というメリットがあります。

最初にCDを聴いた時に感じたのは、例えば「針音が全くしない」。それから「フラットな特性で上までちゃんと伸びている」「低域もしっかり出る」「セパレーションも良好」などなど。レコードにあった欠点があらかた無くなっていると感じました。

これらと音質悪化はまた別の要因です。何故かと言うと、アナログと違いデジタルは一定の容積にクオリティやデータを押し込めないといけません。周波数特性もダイナミックレンジも一定とのところで切る必要があり、それがあるからこそ、後にハイレゾが出てくるのです。その意味でのデジタルの恩恵は凄い。

もう少し歴史を遡ると、中島平太郎さんやソニー/フィリップスの人達が、初めてオーディオの信号処理と信号伝達にデジタルを使いました。ですがその時に、これ程までにデジタルの社会が来る、デジタルそのものが社会を変え、社会の基盤になる、というところまではなかなか想像し得なかったと思います。でもよく考えると、元々は通信の伝達手段としてデジタルは昔から考えられていて、それを実用化したのがCDなのです。その意味で通信の発展の中でのデジタルの発達と言うのは、ある意味で必然と言えるでしょう。

今話に出ているのは、パッケージメディアがデジタル化することと、通信・放送を含めた伝達手段としてのデジタルが出てきたということ。当時はそれほど大きく見えていなかったでしょうが、その意味でCDの開発辺りから、今日の様な世界がいつか来るという事が解っていた人は、きっと居たのだと思います。

故中島平太郎氏((2002年11月6日撮影)

――AV Watch創刊はCD登場から20年弱、ですかね。

麻倉:デジタルの流れが20年で来たというのは、アナログ通信のスパンの長さと言うか何と言うか、そんなものの対比になっていると感じます。アナログ通信は低周波的に伸びていって波長が長いですが、デジタルは波長が短くて速い。この「発展が速い」というところも、デジタルの大きな特徴でしょう。例えばアナログレコードは全然変わっていませんが、対してデジタルは凄く変わってきています。基本原理は変わらないものの、帯域が広がり、スピードが上がっているのです。

携帯電話通信の「4Gだ5Gだ」みたいなことを考えると、スピードアップと帯域拡大が同時に来ているのです。アナログで通信していると「1つの規格で20年かな?」みたいなところですが、それがデジタルだと、ものの数年で次世代規格へと交代してゆく。デジタルに関連するあらゆるものが、このくらいの指数関数的な速さで進歩してパフォーマンスが上がるのです。

――インテルのゴードン・ムーア氏が「プロセッサに搭載されるトランジスタ数は2年で2倍になる」という、いわゆる「ムーアの法則」に、デジタルの全てが集約されるのかとも感じますね。

そんな事まで視野に入れると、そもそも論として“速いこと”と“大量なこと”に価値を求めてデジタル化するわけですから、高速化によるサービスや形態の進化そのものがデジタルの文化、あるいは宿命とも言えるでしょう。ある意味で大量生産・消費型文化の極北なのかもしれません。

麻倉:音楽配信だって最初はNapsterの貧弱なMP3の音だったのが、今やハイレゾで伝送できるようになっているわけです。その意味でデジタルというものは自己改革性を持っている、自分自身がどんどんアップグレードしていく性質を持ち合わせていると言えます。速くなればそこに新しいサービスが入り、新しい質を生んで、新しい社会を作ってゆく。そういう流れが元々あったのではと思いますし、だから今そういうカタチに社会がなっているのでしょう。

デジタルに市民権を与えた、情報圧縮技術

麻倉:デジタル化の恩恵を今の我々の世界で言うと、ひとつはCDにあるようなクオリティアップ、もう一つ大きいのが圧縮技術でしょう。これはやはり重要なポイントです。元々考えてみると、アナログ時代でも音声は圧縮していないけれど、映像は圧縮していたんですね。

そもそも我々が目で視る映像の世界に「フレームレート」なる概念など無いですが、カメラで撮った瞬間にこの概念が出てきます。加えてデジタルはある帯域の中でしか伝送出来ないという事を考えると、それも周波数的な圧縮をかけていることになるのです。今「HDR」とかいっているダイナミックレンジ的なところでも、アナログ的、自然対数的に落っこちる。人為的にやらなくてもフォーマットというもの自体が圧縮を生んでいるのです。

――HDRの基本は「人間の目でも目立つ範囲はリニアに出す、人間の目で微細な差が判別しにくいメチャクチャ明るい部分、ハイキーな部分は、対数的になだらかに出して、何とかして明るさを表現しよう」と言ったところでしょう。明るさの受容・出力に対して、カメラやディスプレイに物理的限界があるからこその、一定の範囲の中に入れないといけない故の、巧妙な圧縮技術です。

麻倉:こういった割り切りは時間軸表現でも同じです。現実の我々の世界にフレームレートなど無いですが、放送波に乗せて届けるために60Hzや30Hzで割ってフォーマット化して記録するのです。

更に言うと、放送など最初はモノクロで、情報だけは伝わってくるが情感は伝わりませんでした。それが70年代以降はカラー化し、情報量が非常に増えました。次第にワイドテレビになり横幅が広くなって、ハイビジョンになると解像度が上がりアスペクト比が変わって、なおかつ大画面にもなりました。つまり放送はアナログ時代から一貫して情報を圧縮していた訳ですが、その圧縮効率を更に引き上げたのがデジタル圧縮技術なのです。

90年代前半に始まったMUSE放送、つまりアナログハイビジョンも、当初はアナログ圧縮だったのが、最終的にはデジタル圧縮になりました。MUSEはNHKの二宮佑一さんという人が作った方式ですが、一方で米国のシリコンバレーから世界標準の「MPEG」が提唱され、「MPEG-1」が90年代前半に出てきたんですね。これはCDに何とか動画を入れようという試みで、ハーフSDくらいのちょっとボケっとした感じの映像です。それが「MPEG-2」になり、ハイビジョンまで出来る様になるわけです。するとハイビジョンをデジタルかアナログのどちらでやるのか、という論争が90年代中頃に起き、最終的にアナログはあるところまで言った段階でMUSE放送がダメになり、2000年12月に完全デジタルのBS放送が始まるのです。

ハイビジョン論争は最初こそアナログ派が強かったものの、次第にデジタル派が強くなっていきました。その要因はもう大幅な圧縮が、それほどクオリティダウンを伴わずに実現出来たからこそ、パッケージも出来たのです。光ディスクは情報を圧縮しないと、入れたいコンテンツは絶対に入れられない。これは凄く論理的な話で、実に巧妙なトリックを使ったテープの、更に巧妙な仕組みのVHSにしても、記録面積を考えるともの凄く広いんです。

VHSテープ

――1巻のテープカセットはとてつもなく長い距離を巻いているし、幅もそれなりにありますね。全部引き出すと6畳間なんて余裕で埋め尽くすでしょう。

麻倉:ところが12cmディスクはというと、たったの直径12cmしか無いんですよ。面積にして36平方センチメートルで、実際には中央に穴が開いているから記録面はコレより少ない。6畳間の何千分の1だという微々たる面積です。

光学系映像メディアの先輩に当たるLDは直径30cmで、非圧縮のアナログデータで記録されていました。それを12cmの円盤に入れる時にどうすれば良いか考えた時に、ちょうど93年頃からMPEG-2の規格が練られていて、この規格をCDサイズの円盤に使えば2時間くらい入りそう、というところから始まったんですね。

コーデックと並行して、次世代光学メディアの開発も進んでいましたが、フォーマットが出てくる時はやはりフォーマット戦争が必ず起きており、映像向け次世代光学メディアもご多分に漏れず2つの規格が検討されました。これは20世紀型のオーディオビジュアルの発展と言えるでしょう。古くはベータ VS VHSから始まり、小型版はVHS-C VS 8mmビデオが火花を散らしていました。ジャンルは違えど、フロッピーディスクでも3インチか3.5インチかで競り合っています。

後に世界標準となるDVDの場合も同様で、ソニーのMMCD(マルチメディアCD)と東芝・松下のSD(Super Density Disc)の規格合戦が勃発しました。これはSD側の勝利で終わり、名前をSDからDVDへと変更し、今に至るまで使われ続けています。余談ですが現在デジカメやスマホなんかで使われるSDカードは、DVD化で余った名前をメモリーカード規格に使ったものなんです(因みにカード側の正式名称はSuper Digital)。

――そう言えばSDカードのロゴでDの線が切れ切れになっていますっけ。あれって実は光学ディスクの盤面をイメージしたデザインを流用したもので、かつて光学メディアのロゴだった頃の名残なんですよね。

麻倉:そんなこんなで、MPEG-2圧縮を使えば12cmディスクにも映像が入れられるという目処が立ちました(詳細は拙書「DVD-12センチギガメディアの野望」オーム社、1996年)。

パッケージメディアの命は、クオリティではなく収録時間。クオリティは後から磨けばいい。これはBlu-rayまでずっと続く基本的価値観で、同種のメディアが複数で対立した時に、絶対的な真理は「長い方が勝つ」。これはもうありとあらゆる場面で言えることで、過去を振り返ってみるとVHSは2時間でベータは1時間でした。フロッピーにしてもやっぱり3.5インチが勝ちましたし、VHS-Cは20分なのに対して8mmは12時間でした。MMCDとSD(DVD)も、MMCDは1時間でSDは2時間だったため、選ばれたのはSDでした。

一番初めにこういう事をやった“ベータ VS VHS”で考えると、ベータは放送用メディア規格がベースで、放送の現場は20分くらい撮ったのを次々替えるのが常識だったんですね、「テープ替えるのでちょっと待って下さい」っていうアレです。だから家庭用のベータにしても「1時間でいいでしょ」という思想でした。

ところがVHSを作ったビクターは「Video Home System」の名前の通り、最初から家庭の利用現場を考えた設計思想。70年代前半の当時どんな番組が観られているかをリサーチしたところ、野球中継やスペシャル番組など、2時間もののプログラムが多かったそうで、「なら2時間収録できないとダメでしょう」というところが出発点です。画質性能的にはベータの方が上。VHSは画質面で劣るものの、それでも世間は長時間撮れる事を選んだのです。

MMCDとSD(DVD)にしても、やっぱり2時間のSDの方が勝ちました。何れにしても圧縮のテクノロジーは必要でしたが、この両者の違いは記録層の構造にありました。MMCDは保護層の厚みがCDと同じ0.6mmであるのに対し、SDは1.2mmなので、ソリに強い。つまりよりピッチを狭められ、よりたくさんのデータが収容できるというわけです。

先程から言っているように、デジタル化はクオリティを上げると同時に圧縮によるパッケージの小型化と、伝送難易度の引き下げ効果を狙っています。これが同時に来ているので、デジタル化の恩恵は非常に大きいんですね。アナログのLDは'83年に出ていて、デジタルのDVDは'96年に出ていますが、この比較でデジタル化の威力を実感した例を挙げましょう。当時麻倉シアターでバルコ「Data 800」を使い、フジテレビが制作した「シンジムラニタ」(谷村新司作品)でDVDでした。

LDとDVDを比較したんです。それまでは「DVDは圧縮しているからどうせボケボケだろう、非圧縮なLDの方が絶対良いに決まってる」なーんて思っていたのが、実際に観てみると小さな盤面のDVDの方が全然キレイだったんですよ。

LDの走査線数(垂直解像度)は当時400本と言っていました。対してDVDの解像度は垂直480なのでさほど変わらないですが、やはり帯域の広さやノイズの少なさに起因するリニアリティの良さなどが効いているんですね。細かいところを言うと、DVDは例えば波打ち際を動画で撮っちゃったりするとボケたりしていました。でも基本的にはしっかりした映像が得られて圧縮ができています。

これが色んな意味で、デジタルに市民権を与えたのです。パッケージが小さくなって最終的には通信で送れる様になったとしても、それがボケボケの絵とか音だったらつまらないですよね? でもたとえ圧縮したにしても、DVDは麻倉シアターの150インチでの鑑賞に耐える。この事実はクオリティのデジタル化と言うか、オーディオビジュアルのデジタル化というか、そういうのがここまで進んできてメイクセンスしてきたことに対する基本的な原理なのです。

放送と通信の役割分担が見えてきた

――ネットワークの伝送に関しては、先生の感触はどうでしたか?

麻倉:ネットワーク自身、最初は帯域も狭く速度も遅かったですよね。でもいつかは広く速くなる、そこに対してコンテンツには圧縮が入ってきます、基本的には先程述べた原理です。

デジタルというものには色んなメリットがあって、ひとつは届ける際に高いリニアリティを保つんです。圧縮は必要ですが、圧縮そのもののクオリティも上がっていきますし、帯域という土管が広くなれば、圧縮をキツくかけなくともよくなってゆきます。MPEGを見ても、1から始まって今はHEVCを経てVVCへ進化しており、圧縮率はそれぞれでだいたい2倍になっています。

と言った様に、圧縮テクノロジーでクオリティを担保する方向と、土管を拡げる方向との両面があるのです。ですので最初こそ音も絵もボケボケで、YouTubeだってボケボケだったのが、最近は8Kまで来ています。その意味で最先端テクノロジーの恩恵を一身に受けるのが通信なのです。

通信がもう一つ良いのは、フォーマットは関係無いというところでしょう。一口にフォーマットと言っても色々ですが、例えばメディアのカタチという面で言うと、映像パッケージではLDの30cmがDVDの12cmになり、それが今に至るまで続いています。でも通信ならそもそもカタチが無いから、そんな事関係無いんですね。

放送フォーマットで言うと、何が一番違うかと言うと「放送は1対n、通信はn対n」。両者の最大の違いは、通信はフォーマットに縛られないという事です。放送はフォーマットに対してもの凄く敬意を払い、途中で変える事はあまりありません。と言うよりも、変えてはならないのです。何故かと言うと「1対n」だから。このnというのは、国民のこと。全国民が最後の一人に至るまで更新しないと、フォーマットは変えられない。それが放送というメディアであり、それ故に地デジ化に10年近くもかかったのです。2003年に地デジが開始し、2011年にアナログ停波。震災の影響や難視聴地域対策のデジアナ変換も考えると、完全移行は2015年までかかった事になります。

でもよくよく考えると、地デジに使われているコーデックってMPEG-2なんですよ。94年から10年近くかけて実験電波を発射し、そこから更に10年以上かけて全員に行き届ける、そこからまた何十年も使い続ける。やはり放送というのは、1度始めると50年くらいは変えられないものなんですね。地上波だけでなくBSだってそうですよ。ただしこちらは途中からAVCが入ってきたりしているので、地デジと比べると若干緩いでしょうか。でも通信からすると非常に鈍重な動きですね。

――こうやって改めて言葉にすると、地デジの技術ってもはや骨董品くらいに感じます。だって56kbps通信が当たり前の94年に出た30年近くも前のコーデックを、10Gbps通信が一般人でも契約できる2021年の今でも現役として大事に使っているんでしょう? PCハードで例えるならば、クロック周波数が100MHzのPentiumプロセッサを搭載したWindows 95マシンを今でも現役で使っているようなものですからね。うーん、あり得ない……。

麻倉:その「あり得ない」という感覚こそが放送と通信との決定的な差であり、両者の性質の違いなんです。通信はごく一部が変えようと思えばいくらでも変えられるし、何ならばたった1人に向けてやったっていい。技術革新そのものが非常に取り入れやすいのが通信です。しかし放送の場合、相手がチューナーというハードウェアに固定化されます。チューナーがあるから、そのシステムと同じものを出さないといけないのです。

対して通信はPCやスマホといった汎用機器上にプラットフォームがあり、なおかつそこへ新しいアプリケーションやソフトウェアをどんどん入れられます。つまり送信環境が変われば受信環境も変わるし、それと同じ様なシステムで機材も変えられる。そうやってデジタル進展の恩恵を一手に受ける。その意味では通信の方が遥かにフレキシビリティがあり、新しい環境に対応しやすいんですよ。

という事で言うと、「創刊のごあいさつ」の2001年段階で将来展望を語っていますが、この当時に本文を読んだ人は「本当かよ?」なんて思っていたはずです。でも蓋を開けてみると、この20年の流れはもの凄く速い。この進化の根源にあるものは強烈な競争です。実際コンテンツ的には30年前と今とでそれほど変わってはいないんですよ。でもそれを届けるサービスプロバイダはAppleやらSpotifyやらNetflixやらが続々と出てきて、その間で猛烈な競争になっている。そんな所は凄く伸びるんです。

テレビ業界で例えると、プラズマテレビはプレーヤーが少なかったのに対して、液晶テレビは色んなところから参入がありました。なので液晶は最初こそもの凄く画質が悪かったのが、色んなところが頑張ってカタチになっていったんです。それと似たようなところがあり、競争が入ってくればまずコスト的なところに効果が出てきて、それが一段落すると今度はパフォーマンス的なところや、サービスのレイヤーで色んなバリエーションが出るのです。

それらを一手に引き受けてくるのが、通信のプラットフォームの成り立ちでしょう。その意味では20年経ってきて、いよいよ通信でのオーディオビジュアルの愉しみ方が本格化したとも言えます。デジタルの流れや通信の流れ、デジタルだからこそという点が凄く効いているんですね。

――今の話を聴いていると、通信と放送のキャラクターの違いが凄く鮮明に出ていて、それが20年経ってようやく鮮明になってきたのかなと感じます。と同時に、放送は公共の福祉であるべきだと感じました。だってほら、変わらないからこそ良いものは絶対的にあるでしょう?

麻倉:まさに仰る通りで、放送に出来ることは全部通信でも出来るんですよ。今「放送コンテンツをネットで届けましょう」なんてやっていますけど、あれはまったく当たり前で、ただの伝達手段の違いに過ぎない。

では放送と通信の違いは何かと言うと、通信は独り歩きしてガンガン先へ進むことが出来ること。対して放送は「先に進めないという良さ」があること。つまり全国民が全く同じサービス・メリットを享受できるのが放送の良さなんですよ。それが何に効くかと言うと、やっぱり災害時。台風の時に「放送の方式が違うから観られませんよ」では命に関わります。そういう意味で全国民の福祉を考え、等しくメリットが享受できるのが放送であり、だからこそいくら経っても失くならないんです。

――加えて公共の福祉という観点で言うと、文化の下支えという点においても放送は極めて重要なのだと感じます。日本全国津々浦々、どこに住んでいても義務教育は受けられるし、ある程度の医療は保証されるように、どんな環境に住んでいても、放送を通じて日本の文化を享受できる。NHKが映る限り、毎年の紅白歌合戦で日本の流行歌を知ることが出来る。これって日本の国力、特に“底力”を考える上で、もの凄く重要なことではないかと思います。

昨年末にEテレ売却案なんて話が出た時に、かなり多方面から「けしからん」という声が挙がりました。Twitterでは「#Eテレのために受信料払ってる」というハッシュタグも盛り上がりを見せたほどですが、それはEテレを通してNHKが放送で果たしてきた公共の福祉が、国民に広く行き届いている事の現れだと思うんです。どんな人でも文化・教育を受けられる、この面における格差是正の方向に極めて強く作用するツールが、放送という社会システムだと感じます。

麻倉:でも、何か“美味しいところ”と言うか、エンターテイメントやお金の流れも含めて、そういうところは通信の方が持っていくかな、というのが最近非常に顕著になってきましたね。特に最近では、閻魔帳でも報じた様に高品位なストリーミングサービスが次々と立ち上がっています。

通信であってもこれまではエクスキューズがあって、例えば帯域の狭さがボトルネックになっていたのですが、帯域が狭くともここまで普及するならば、そこに良い音・良い絵を届けることが技術発展と共に可能になってくるのです。通信が発達してきたことで、その中に入れるモノも例えばMQAの様に折りたたみで省データでも良い音が届けられる、みたいなのが開発されてきた。そういったものが複合の効果を持って、通信を介した音楽配信や収録モノの配信なんかが、昨年10月頃から急に出てきました。

WOWOWは昨年10月、MQAや、ヘッドフォンで3Dサウンドを実現するアコースティックフィールドの「HPL」技術など活用し、高品質な音声と映像を生配信する実験を東京・渋谷区のハクジュホールで実施した

物理メディアは不要なのか

――ここまでデジタルネットワークが発達すると、メディアはもう物理的な入れ物を必要としないのではという意見もあるかもしれません。ここからはフィジカルメディアに焦点を当てて話をしたいと思います。

確かに通信ドメインの進化は指数関数的に利便性が増してゆきますが、一方で一昨年2020年のアナログレコードの新譜は110万枚も出ており、3年連続で売上20億円を突破しているという調査結果も出ているんですよ。スマホを操作すればいくらでも音楽が楽しめる時代に、なんでやねんと感じる人も少なくないのではないでしょうか。

根強い人気のアナログレコード

麻倉:この手の話題で私が必ず言うのは「情報と情感」というふたつの観点です。データと人間が感じる皮膚感覚みたいなものがあり、コンテンツの需要におけるリスナー・ウォッチャーに対して、これはどちらも必要なんですね。例えば「解像度が高くなる」という分かりやすい例で言うと、SDが2Kに、4Kに、8Kになるというのは、ひとつはデータが増えるという事。解像度が増えてくると、今度はこの中から情緒を感じられるようになります。

解像度が低かったそれまでは「何をやっているのか」が判るだけ。そこのディテールや空気感などはなかなか伝わってきません。ですがやはり解像度が一定以上になり、なおかつ色数が増えてHDRみたいなものが入ってくると「そこで何が起こっているか」という事がより鮮明になる。その場に居るような感じで、皮膚感覚、肌感覚で出てくるのです。

その意味でいうと、最も肌感覚が盛んなのは、それを売り物にするのは、実はデジタルの対局にあるアナログレコードなんですよ。データ的に言っても情報をカットしていないので、アナログの方が本当は出るはずです。でも実際問題、データ的にハイレゾに匹敵するものを出そうとすると、アナログはもの凄くお金がかかります。そこまでいかないにしろ、やはりアナログの肌感覚というのは、物凄いデータ主義なデジタルよりも上を行きます。たとえ適当なレベルのプレイヤーで聴いたとしても、です。

麻倉:CDになる時に「アナログの欠点は無くなりました、だからCD凄いです」という話を、先程しましたよね? でも本質的な音楽性というところまで考えて、そういうところを届けられるかと言うと、話は変わってくる。音楽の伝達手段として、やはり初期のCDというものは「音は伝達しているけど、音楽的なところはどうかな?」というところがありました。

凄く最近面白かった話をひとつ。実は最近、松任谷正隆さんの話を書く機会がありました。3月3日に発売する雑誌『東京人』のCity Pop特集。スタジオマジックについて書いたものです。残念ながらインタビューする機会は逃してしまいましたが、それでも取材として彼の本を読んでみたら、やはりデジタルになった時に唖然としたという話が出てきました。制作現場で言うと、コンソールがアナログかデジタルかで全然違います。それでデジタルコンソールにした時、音が悪くなって正隆さんは愕然としたそうです。

それまでは凄く緻密な音が重なったカタチになっており、特に70年代後半から80年代前半にかけてはアナログの最終期にあたるので、機材としては脂が乗りきった集大成のものが揃っていたんです。それに比べて80年代初めのデジタルは、まだ始まったばかり。凄くスカスカで、何だか穴が空いた様な音だった、という風に書いてありました。

リスナーとしてはそこまで極端には感じなかったものの、私自身もやはり当時のCDには違和感があり、最初に聴いた時「何だかちょっとなあ……」と思ったものです。当時思ったのは「音が良いのはアナログLPのPCM録音」。70年代後半に当時のデンオン(現デノン)が世界初のPCMレコーダーを実用化して、特にチェコのレーベルであるスプラフォン系の四重奏団とかを、ヨーロッパで色々と録っていました。

世界初の業務用PCMレコーダー「DN-023R」

麻倉:これらはLPで聴いても凄く良くて、アナログLPをデジタル録音で作っていたんですね、なのでリニアリティはデジタルで来て、アナログらしい芳醇さはアナログで来る、そういう音になっていたんです。ではPCM録音をダイレクトにCDにしたものはどうかと言うと、これはもう全然ダメだった。82年の10月にCDが出る前に聴いた時、そういう記事を書いた覚えがあります。

そういう事からすると、アナログというものは単にデータをもってくるというだけでなく、そこに何か人間らしい情動に訴える音がする。ハイレゾまでいけばまた別のところがあるとは思いますが、今の通信はAACとか、良くてaptXくらいなものでしょう? もっと言うと、今の一般大衆の音はスマホからBluetoothでスピーカーとかイヤフォンに行って聴くわけです。その音と比べると、アナログは遥かに良い。これは二重の意味があって、まずは圧縮から非圧縮になり、次にデジタルからアナログになる。それはやはりアナログを聴いてみると、これはとても良い、気持ちが良い音だなというのがあるんです。

――AACとかの強めな非可逆圧縮をかけた音は、何と言うか、魂の抜けた音がする、というのが自分の感触です。音楽の何か決定的なものが抜け落ちた、音声データ。だからいつ聴いても、例外なく物足りなさを感じてしまいます。

麻倉:あともうひとつ、人間の本能的に、パッケージメディアに対する郷愁みたいなものがある。コレも非常に大事な要素です。

そもそもオーディオビジュアルというものは、最初から放送や通信があるわけではなく、エジソンの円筒型やベルリーナの円盤型が原初のオーディオですから、音楽を届ける手段は最初からパッケージなんですよ。あるパッケージの中に音楽が入っていて、パッケージにはジャケットというものがあり、ジャケットは表面がアートで、裏面は解説がある。この流れは実に1世紀以上続いているわけです。

それってやはり、音楽に対する人間の接し方というのが、単に音の信号が出てくるというだけではないという事を表している。目で観て、手で触って、持っていってというように、音楽というものはとても身体的なものではないか。私はそう捉えています。

音楽体験には色々ありますが、例えば生演奏があると、やはり演奏を目で観て、音で聴いて、プログラムを読んでというのが、トータルな生の音楽体験になるでしょう。あるいは再生音楽の体験の場合、レコードを買うという行為というのはなかなかに良いものです。今はAmazonで来るかもしれないですが、タワレコを始めとするレコ屋へ行って選んで聴く、というのが基本のスタイルです。それにAmazonにしても、購入手続があります。

タワレコで買った場合、家に帰るまでの時間があって、その場ではすぐには聴けません。Amazonにしたって、パッケージのメディアならば買った瞬間に来る訳ではありません。Prime Musicとは違い、パッケージは早くとも翌日まで到着を待つ。手で取ってジャケットを見て。この時間が音楽体験にとってとても重要なんですよ。

――それ、凄く解ります。僕が子供の頃、おもちゃ屋でゲームソフトを買ってもらった時の体験なんですけれど、家庭用ハード向けのゲームソフトの場合、家に帰るまでの数時間はプレイできないんですよね。手元にはやっと買ってもらった新作ソフトがあるのに、その時間がとてももどかしかった。ではその間指を咥えて帰宅を待っていたのかと言うとそうではなくて、パッケージのグラフィックを隅から隅まで見渡して、箱を開けて説明書を何度も読み返していたんです。

ゲームの説明書には操作方法などの説明といっしょに、ゲームのイントロダクションにあたる短いストーリー文章が添えられていたりします。そういうのを何度も何度も読んで、これからプレイするゲームに対する期待をどんどん膨らませるんですよ。そういう時間も含めて、とても楽しかった。今思えばあの時間があればこそ、当時のゲームが自分の中で「作品」としての輝きを放つのだと思います。現代のゲームは取説が電子化されているので、失われつつあるゲーム体験なのかもしれません。

麻倉:確かにそれはオーディオと同じ、素敵な作品体験ですね。そういう体験を大事にするならば「だからこそLPが良い」と言えます。何故なら単純にデカいから。いくらCDは良いぞと言ったってパッケージ的には小さいから、美的なところは物理的に劣るんです。こういうような一連の儀式性みたいなものは、音楽を聴くプレシャスさと言うか、貴重な時間と言うか、価値というものを、音楽+αで高めてくれる。それがパッケージの決定的な魅力です。だから昔はLPに審美性があり、ジャケットの魅力というものが凄くあって、それを壁に飾ったりしたものなんですよ。

――レコード時代のジャケットは、一流の写真家やイラストレーターが手掛けたものも少なくないですよね。かの有名なビートルズ「アビイ・ロード」などは、時代を超えて遺るアートとして、今でも彼等の象徴的なグラフィティとなっています。音楽だけでない、ジャケットやプレイリストを含めて、ひとつの作品。そういう価値観が、配信の時代にどれだけあるでしょうか。

麻倉:先日「美の壺」でアナログレコード特集をやっていたんですけれど、レコードは単にプレーヤーから音が出るというだけでなく、ジャケットを美術館のように飾る喫茶店なんかも紹介していました。ジャケットの持つ美的な意味は凄くある、だからここに来て意外なブームなのでしょう。

人間って一方方向まで行って便利を突き詰めると、不便を求める欲が出てくるものなんです。その不便があることで、バランスが取れるんですね。一昔前は「ポチッとしただけで“ダウンロード出来る”」だった。それが今ではダウンロードの必要さえ無くて、向こうから勝手にやってくるでしょう??

――そうですよね、今や「アレクサ、音楽かけて」で勝手に音楽がかかる時代ですもの。

麻倉:確かに凄く便利と言えば便利。なのだけれども、でもやはり音楽に対する価値観や、尊敬とか、愛着心なんかは、「アレクサ、音楽かけて」で流れてくる音楽からは得られません。今の気分に合ったものをアルゴリズムが勝手に選択してくれて、みたいな所は便利で良いかもしれないですが、それ以上が出る事は無いんです。

しかも相手が勝手に選んだものが本当に自分にフィットするかと言うと、そうとは限らない。結局はアルゴリズムで、ある種の決めつけとも言える範囲の中で選曲される訳で、そのアルゴリズムを作るために個人情報なんかも活用されたりする。でもそれはあくまで向こうが勝手に選んでいるだけ。それが全部良い訳ではないのです。

――これはYouTubeで特に問題になっている部分でもありますよね。レコメンド(オススメ)のアルゴリズムは再生数を伸ばすために作られている訳で、その際は得てして刺激の強い“味の濃い”コンテンツが選ばれがちです。

例えば社会問題なんかを取り扱う動画を一度でも再生すると、レコメンドにはより過激な内容の動画がズラリと並び、下手をするとそれが勝手に自動再生されてしまう。昨今の社会で陰謀論が跋扈(ばっこ)する一因には、このレコメンドアルゴリズムが確実に関係している。気づかぬ間に、自分が名前も知らない誰かに操られている、とさえ言えるでしょう。本当にそれで良いのか、その部分について僕は常々大きな疑問を抱いています。

麻倉:そういう事からすると、現状は少々行き過ぎた、という事も言えるかもしれませんね。ものすごく便利になったが故に、不便さの持つ魅力と言うか、不便さの持つ価値観と言うか、良さというもの同時に得る、というものが人間の中にあるのではないでしょうか。

それに、アナログに話を戻すと、配信とパッケージが同じ音ではつまらないでしょう? それだと単にジャケットがあるだけです。でも実際はそうではなくて、やはりアナログ自身の音の魅力って、もの凄くあるんですよ。いくらハイレゾが頑張ったとしても、それはハイレゾの中、デジタルの中での頑張りでしかない。同じ音源をアナログで聴くとぜんぜん違う、みたいなことはやっぱりあるんです。

ウチのレコード会社で言うと、情家さんの「Etrenne」の場合、アナログ系統は最初からアナログレコーディングで作りました。一方で小川さんの「Balluchon」はアナログメディアでもデジタルで録っています。PyramixのDXDからCDに、384kHz/24bitのハイレゾに、そしてアナログにという3系統ですが、やはり感動的なのはアナログLPで、しかも特別盤として作った78回転LPは凄く生々しい。当然CDよりハイレゾの方がちゃんと音が出るし、ハイレゾよりアナログの方がより出ます。

ビックリしたのは、78回転になった時のシンバルの音が全然違ってきたこと。ここまで本当は倍音があり、その領域まではハイレゾでもなかなか出なかったんです。ところがアナログの、しかも33回転でも出なかったのが、78回転にした時の突き抜ける様な空気感はぜんぜん違う。それがアナログの魅力です。

もう一つ言うと、デジタルはある範囲のものは良いけれど、それ以上突き抜ける事はありません。対してアナログとはヤル気の関数で、やればやる程突き抜けてくるんです。今のところ78回転が限界だけど、例えば倍くらいの156回転みたいなのを作ってみると、また凄いかもしれませんよ。規格が無いのでそんな物は絶対にあり得ないですけれどね。

これを鑑みるに、やはりデジタルにはあるところで平準化して、そこを突き抜ける事は無い。言うなれば規格そのものがガラスの天井です。対してアナログは作る人のこだわりが入って、なおかつ再生系のこだわりが入った時に、物凄い世界に化ける。もちろんこれはハイエンドの世界の話で、今流行っているのはエントリーの世界なんでしょうけれど。でもエントリーであっても、やはりデジタルに無いアナログの良さは凄く感じられます。

我々はアナログを懐古的に思って復活したと捉えますが、若い人にとってはアナログレコードなんて生まれた時に身近には無い訳で、新しいメディアとして出会うんですね。そんな新しいメディア、それもパッケージという魅力は、やはり抗いがたいものがあるのではないでしょうか。

――実際レコードを買う若い人の中には、ターンテーブルを持っていない人も少なくないそうですね。聴けなくても買うんですよ、現代のレコードって。

じゃあそんな人達が“聴けないハイレゾ音源”を買うかと問われると、多分買わないと思います。大好きなアーティストがDSD 22.4MHzの超絶高音質アルバムを1万円で配信したとしても、おそらくレコードのようには売れないんですよ。だって飾れないですもの、DSDのデジタルファイルのままだと。そういう意味でいうと、30cm四方の大きなジャケットというのはひとつ、音楽のカタチなのだと思います。だからアナログLPって、凄く特別な宝物として、もっといっぱい出てきていいと思いますよ。

あともうひとつ、デジタルの、特に配信の決定的な問題点として、業者間の契約の事情で、タイトルがいつの間にか勝手にライブラリから消える事があるでしょう? これは正直言って、ユーザー側からすると許し難いデジタル配信の欠点だと思うんです。

麻倉:確かに、それは凄くありますよね。ダウンロードでもそうですが、パッケージと言うのは「自分の物にする」、つまり“所有”という側面があるんです。言い換えるとそれは、ローカルで楽しめるという状況になること。それをより多面的に楽しめるのが物理メディアパッケージで、だからこそ先程の様なDSDとレコードの例え話みたいなことが考えられるのでしょう。

でもストリーミングになってくると、基本的には録音や録画は出来ません。その場でサーバーと接続して、ローカルとネットワークの関係になる。それってこちらの方が手元に持っていないから、相手が失くなるとどうしようもないという世界なんです。

これは現代だと割とよくある問題点ですよね。例えば写真のストレージサービスを契約していたら、あちらがサービス終了してしまってアルバムがまるっと消えてしまう、とか。今になって思う事ですが、この様な便利な時代だからこそ、大事なものは手元に持っておかないと、将来的な楽しみが同じ様なカタチで担保できるかは全て相手次第になってしまうんです。

今はプラットフォームの力が強くて、永続するように思うかもしれません。でも考えてみてください、インターネットが始まってから今までずっと続いているサービスなんていくつありますか? しかもインターネット上のサービスというのは、ライフサイクルが短いでしょう。短時間で勃興してから終演を迎える、生死まで起こる。今いくら相手が強いと言ったって、将来的にそれがそのままあるかと言うと、決してそうではないのです。

その意味で、今だからこそ手元に置いておく事は重要です。そこにはひとつダウンロードという方法もある。例えば楽しみの中の多様性、みたいなものもある。大昔にはレコードしかないから、ステレオの前に人間が来ないといけなかったけど、でもある時にウォークマンが出てきました。すると、レコードは家で聴くけれど、それをカセットに録音して外で聴く、という楽しみ方も現れました。同じ曲であっても、場所とパッケージを変えて楽しめる様になったのです。

今だってそう。ハイレゾのダウンロードで取っておいて、外に出る時は手軽なポータブルプレイヤーで聴けます。全てを持つ必要は無いにしても、何れにしろ手元に持つというのがやはり重要で、自分のかけがえのない作品は、ちゃんとパッケージで持つ、もしくは録画で、ダウンロードで取っておく。つまり、ストレージ的に手元に置いておくというのが、やはりネット時代の生き方として賢いのではないか。長年のオーディオビジュアル生活を通して、そう痛感しますね。

麻倉怜士

オーディオ・ビジュアル評論家/津田塾大学・早稲田大学エクステンションセンター講師(音楽)/UAレコード副代表

天野透