麻倉怜士の大閻魔帳

第15回

君は覚えているか!? LDにD-VHS…麻倉怜士が振り返る“平成のオーディオビジュアル”

平成31年4月1日、御代替わりに伴う新元号“令和”が発表された。令和の公布により、“いよいよ新しい時代がやってくる”という実感が湧いてきたという人も多いだろう。麻倉怜士の大閻魔帳、今回はこの節目に、30年続いた“平成のオーディオビジュアル業界”を、麻倉氏が特に印象深く感じた機材を取り上げながら振り返る。バブルの狂乱真っ只中に始まった平成は、大災害や世界恐慌といった苦難を乗り越えながら、それでも音と映像の文化を紡ぎ続けてきた。急激な情報化をも高画質・高音質技術として取り込んできた業界の足跡を顧みて、新時代を迎える準備としたい。

――平成も残り1カ月を切り、いよいよ時代が新しくなる実感が湧いてきました。

麻倉:時代とともに変わるもの、本質として変わらないものは様々でしょう。デジタル化・IT化によってオーディオビジュアルも大きく様変わりしました。

今回は新元号“令和”の選定精神に則り、平成のオーディオビジュアル史を名機の数々とともに振り返りたいと思います。

画質文化を生んだLDの“リファレンス・オブ・リファレンス”パイオニア LDプレーヤー「HLD-X0」

パイオニア LDプレーヤー「HLD-X0」

麻倉:まずは映像ディスクの分野から。アナログとデジタルの狭間に位置するメディア、レーザーディスク(LD)プレーヤーの名機として、平成7(1995)年にパイオニアが発売した「HLD-X0」が思い出されます。

当時の私が受けた印象は「21世紀までサバイバルするリファレンスモデル」。それもそのはず、HLD-X0は従来のリファレンスモデル「LD-X1」から5年の歳月を経て登場したプレーヤーであり、パイオニアにおけるLDの模範たるにふさわしいこと、そしてAV全体における今後のリファレンスモデルたらんという崇高な目標を掲げ、総力を挙げて開発された“リファレンス・オブ・リファレンス”だったのです。

――パイオニアにおけるビジュアルプレーヤーの伝統は今でも続いていますね。昨年にはUHD-BDプレーヤーのフラッグシップモデル「UDP-LX800」が発売され、リファレンスモデルにふさわしい重厚なつくりで話題を呼びました。

麻倉:パイオニアはスピーカーに端を発するブランドですが、映像にも深いこだわりを持っていることで知られていますね。そんなこだわりが詰まったプレーヤーがHLD-X0なのですが、LDという規格はパイオニアにとって、それ以上にAV文化にとって、極めて重要なものなのです。

日本のAV文化は、昭和55(1980)年にソニーが発売したテレビ「PROFEEL(プロフィール)」に端を発し、これ以降にパイオニア「SEED」や、三菱の37型“大画面”テレビなどの登場で、“映像鑑賞向けのハイエンドテレビ”という分野が確立します。

映像の鑑賞には放送波だけでなく、録画機が必要ですが、最初のメディアはビデオテープでした。昭和50(1975)年にソニーがベータマックスを、翌51(1976)年に日本ビクターがVHSを製品化、これによりいわゆる「ビデオ戦争」が勃発します(LD対VHD、BD対HD DVDなどなど、規格対立による産業戦争はこれ以降のオーディオビジュアル業界で何度も繰り返されますが、それはまた別のお話)。

でもアナログ記録のテープでは絵が粗く安定しませんでした。画面サイズが20型以下の小さい時代はさして気になりませんでしたが、大画面化するにつれて粗が目立つようになってきます。AV業界における“画質”という概念は、こうして生まれたのです。

――時代の前進、技術革新による新たな問題の発生は、どんな世界のどんな時代でもつきまとうのですね……

麻倉:世界を席巻していた日本のエレキ業界に出てきた画質という新要素、これを洗練させた重要なコンポーネントがLDでした。当時の映像規格はNTSC。今とは比較にならないほど情報量が少ないですが、それでも画質の優劣は出てきます。VHDと比較して安定した映像が得られたため、LDは他の映像機器の品質をも底上げする原動力となりました。オーディオビジュアルという文化を考えた時、LDという規格の最も重要なポイントは映像業界全体に与えた影響です。中でも最も大きく影響を受けたのはS-VHSの画質クオリティでしょう。

絵作りの現場においては、画質をとことんまで追い込む技術と感性の橋渡し作業がなされており、そのためには目標・理想となる見本、つまりリファレンスが必要です。ところが当時の映像メディアはというと、リアルタイムのテレビ放送はすぐ消える、VHSの録画は絵が歪むことが多いといった具合で、高品質で再現性の高いリファレンスメディアはありませんでした。

そこへ来てLDは再現性が高く、いつでも安定して映像を出すことができます。そのため映像機器の開発現場でもリファレンスとして大変重宝されたのです。当時はパイオニアが作ったデモディスクがほぼ業界標準のリファレンス。この映像を一時停止して静止画にし、元のLD映像にいかに近づけるか、という事が当時のビデオメーカーでなされていたのです。これはテレビも同じで、三菱が37型を作った時のボケ撲滅には、実際にLD映像が画質検証ソースとして使われています。

このようにLDは80年代の一般ユーザーに向けたシアター文化牽引だけでなく、映像製品の開発におけるリファレンスとなって環境そのものを底上げしました。この事から、趣味・文化としてのオーディオビジュアルはLDが創ったと言っても過言ではないでしょう。

――特定シーンの一時停止なんて、デジタルメディアの時代となった現代ではあたりまえの操作ですが、そういう事が難しかった時代に“現代の当たり前”を作ったのがLDだったのですね。

麻倉:今でもそうですが、テレビ周辺機器は常にテレビフォーマットの進展に影響されます。この頃にはアナログのMUSE方式ハイビジョンが出てきて、放送でも高品質な映像を提供する環境が整いつつありました。LDでもやはりMUSE方式のものが開発されていて、その最高峰がHLD-X0だったのです。ちなみに当時の価格は80万円でした。

そんなHLD-X0の画質を端的に言い表すと「重厚」。映像の下地として輝度信号のふるまいが正確に再現されており、大地のように安定した黒のペデスタルを基盤として、中間階調部分は緻密、白は正確に伸びていました。これは音質表現で言うところの「ピラミッドのような安定感」。黒側だけでなく白側も強靭なため、小さなオブジェクトが点在する遠景などでは、奥行き方向への豊富なグラデーションとゴージャスな色が画面を彩りました。

中でも断然に凄かったのは、豪華絢爛な色です。かつてLDは“色が薄いフォーマット”と批判されていたものですが、HLD-X0はその汚名を完全に返上しました。色乗りが厚く、しかも透明。エネルギーが横溢し、光沢も妖艶。それはまさにドラマチックな色の饗宴であり、弾力感とみずみずしさは同時代において他に類を見ません。まさにLDの革命。NTSCにおける色再現のあるべき姿を体現していたと思います。

SN比に関していうと、華麗なる三次元テクニックであらかたのノイズを追放してしまいました。たとえ青空にカラーノイズが異様に浮いていようとも、X0はそれらを抑制。そればかりか、輝度ノイズも異様に少ない。これにはたいへん驚かされました。微小信号の再現性など、MUSEハイビジョンの絵として観ても最上級だったように思います。特にフォーカスの鋭さは群を抜いていて、まるでNTSCの味わいをMUSEハイビジョン化したかのようでした。

「ピラミッドのような安定感」は音質にも当てはまり、重厚かつオーセンティック。ダイアローグが躍動感に溢れ、密度が高く、生き生きと弾んでいたのが印象的です。

当時はバブル崩壊の影響で家電業界も下降傾向が続いていましたが、これはまさに「こだわりの復活」の好例でした。ディスクにはまだまだ信号が豊富に収容されていたのだと、改めて体験させてくれた事が、とても深く心に残っています。

プログレッシブ表示の衝撃 パナソニックDVDプレーヤー「DVD-H1000」

パナソニックDVDプレーヤー「DVD-H1000」

麻倉:HLD-X0が発売された翌年の平成8(1996)年以降、映像メディアはDVDの時代へと変わってゆきます。そうなると今度は“LDがかかるDVD”なんてものが出てくるわけです。ここから10年ほど、DVDは怒涛の大成功を収めます。

――登場から20年が経過してなお、映像ディスクメディアの代名詞は「ブルーレイ」ではなく「DVD」。そのくらいインパクトが大きいです。

麻倉:平成12(2000)年当時は、スタジオの収益分布でもホームエンターテイメント、つまりパッケージメディアが大きなパイを占めていました。そのためプレーヤーメーカー各社もかなり力を入れていたのですが、目を見張るハイエンド製品となるとなかなかありません。そんな中で当時の松下電器産業における高級AVブランドだったパナソニックから、平成11(1999)年に「DVD-H1000」が発売されます。

本機の注目ポイントは、DVDプレーヤーとして日本で初めてプログレッシブ映像出力に対応したこと。プログレッシブとは何かというと、テレビに画像を映しだす走査方式のひとつで、日本語で言うと「順次走査」です。仕組みとしては1画面で全部の走査線を上から順番に1、2、3本目と書いていくというもの。現代では解像度を表す際に「1080p」と言ったりしますが、末尾の“p”がプログレッシブを意味しています。

対して、従来のDVDプレーヤーはすべて「飛び越し走査」、つまりインターレース出力でした。これは2フィールで1フレームという仕組みで、1フィールド目の走査線を1、3、5本目と奇数線から書き、次のフィールドで2、4、6本目と偶数線を書くというもの。残像効果で2フィールドが合わさり1フレームの画像に見える、というのがインターレースの仕組みです。現代では「1080i」などと表記して、末尾の“i”でインターレースであることを示しています。

この面倒な仕組みは、テレビ放送が始まった当時に電波による少ない通信容量でなんとか映像を届けるための、窮余の工夫でした。でも480iは、1画面の走査線が本来必要な480本の半分にあたる240本しかないため、垂直方向の解像力がどうしても低くなり、しかも横線がチラつくフリッカーも発生します。画質という観点で、インターレースに利点はありません。対してプログレッシブはものの理屈通りなので、垂直方向に緻密な画像とフリッカーがないのがメリットと言えます。

ところで、実はDVDにもインターレース収録とプログレッシブ収録の2つがあることは知っていますか? VTRでの収録は前者、映画ソフトは後者です。ところが従来のテレビはインターレース表示にしか対応していなかったため、映像ソースとしてはプログレッシブで収録していても、DVDプレーヤーでわざわざインターレースに変換して出力していました。そうでないと映らなかったからです。

それが90年代後半からテレビ高画質化の手段として、二度書きして縦方向の緻密さを出す方法でのプログレッシブ化が検討されはじめました。折しもテレビはワイド画面化の時代。業界は16:9のハイビジョン普及を狙い、画面そのものを4:3から16:9にしようと意気込んでいました。放送は4:3でも、映画DVDのレターボックス収録ならば、16:9のフォーマットです。それをワイドテレビで斜め方向に拡大することで、レターボックスの黒帯を画面から消し、ワイドアスペクトの映画映像にすることができる、というわけです。

――今でもテレビの表示方法に「ノーマル」「フル」「ドットバイドット」といった種類があるのは、この時代の名残ですね。少々話が逸れますが、当時のワイド化に対しては画面の高さが低くならないようにという訴求をしていたのを覚えています。確か三菱だったかで、CMで西田敏行が「29ワイドにするなら36」と歌っていましたっけ。

麻倉:画面のワイド化も大画面をユーザーに実感してもらうためのポイントのひとつです。実際のところ、ワイドテレビは映画を観るためのテレビだった訳です。その仕上げは平成12(2000年)年12月から始まったハイビジョンのBSデジタル放送。ここでプログレッシブ放送も規格化され、この時に高級テレビでプログレッシブ表示機能が導入されました。以降はプログレッシブ映像が映るテレビが増えてゆき、薄型テレビの時代へと移り変わってゆきます。

ですがテレビ放送自体はインターレースが続き、ハイビジョンの地上波/BS/CS放送は基本的に今でもインターレースです。テレビ放送のプログレッシブ化は、結局平成末期に実用化された4K/8K放送まで待つこととなるのです。

――今でこそプログレッシブなんて常識で、インターレースはテレビ放送くらいにしか使われなくなりましたが、DVD-H1000が出た当時は相当な衝撃だったんですね。

麻倉:バルコのプロジェクターなどを使う様なハイエンドユーザーは、アメリカ製の“ラインダブラー”なる機器を入れて、インターレース信号を無理やりプログレッシブ化したりしていました。当時のAVマニアにとって、プログレッシブ表示というのはそのくらい憧れの技術だったんです。

そんな状況で出てきた日本初のプログレッシブ出力対応DVDプレーヤーがDVD-H1000でした(※世界初は平成10年夏に東芝がアメリカ市場向けに発売した製品)。実はこの製品は平成9(1997)年秋に完成していたのですが、新技術であるプログレッシブ出力に伴う著作権保護関連で、ハリウッドとの交渉に時間がかかったためなかなか発売されませんでした。存在は知られていながらなかなかユーザーの手元に届かないという状況で、当時はマニアを中心に「いつ出るのか」「早く欲しい」という声がわき起こり、平成10(1998)年末には某AV雑誌のグランプリ企画で、発売もされていないのに最高賞を与えられるなんていう珍事も発生しましたっけ。

実際に対応テレビで再生したDVD-H1000のプログレッシブ効用は絶大で、それこそ当時としては圧倒的な高画質でした。これまでの飛び越し画像では不自然なジャギーが出ていた動く斜め線がまっすぐになるほか、映像は緻密で濃密。たっぷり画像情報が詰まったという感じで、映画をフィルムで見る場合のこってりとした艶っぽい質感がテレビの画面から得られる。この映像を体験すると「これまで我々が見ていたDVDやLDの映画ソフトの画質って、いったい何だったのか」という深い疑問にとらわれてしまうほど。「もう映画は絶対にプログレッシブでみなけりゃつまらない」と確信をしたものです。

この時パナソニックのDVDプレーヤーは、CDプレーヤーの開発陣が主体となって作っていました。ブランドの特性上、新車が買えるほどの価格になる超高級製品にはあまり縁がありませんでしたが、開発陣がオーディオ部隊なのでハイエンドにはやはりこだわりがあります。そのためフラッグシップモデルとなったDVD-H1000はつくりが非常にオーディオライクで、筐体はとても重たく、基本的なオーディオづくりが集約されていました。絵としては素晴らしく映画っぽい画質で、映画作品に限るとこれ以上のクオリティを見せるプレーヤーは当時には無かった様に思います。

平成14(2002)年には後継機となる「DVD-H2000」が発売。これも流石と言うべきか器量が極めて大きく、どっしりとした安定感の高いベースの上に、きらめくような彩色美が乗る、極めてドラスティックな映像展開を見せていました。テクスチャーはパナソニック伝統の映画的なこってりと濃密なカラリングに、解像力重視という当時トレンドが加わり、さらにS/Nが徹底的に向上。やはりこちらも、これほどのステイタス性を持ったDVDプレーヤーは当時珍しい存在でした。

平成14(2002)年に登場した後継機「DVD-H2000」

DVD-H2000以降、日本の映像プレーヤーは「レコーダーの一機能」時代へと移り変わります。パナソニックをはじめとした各社は、ハイエンドプレーヤーの機能をすべてレコーダーへ入れてゆきました。昨今AVファンの注目を集めている「DP-UB9000」は、DVD-H2000から数えて実に16年ぶりのハイエンドピュアプレーヤーです。その礎となったパナソニックにおける映像の伝統を打ち立てたDVD-H1000は、紛う事なき平成の名機と言えるでしょう。

昨今AVファンの注目を集めている「DP-UB9000」

そしてデジタルハイビジョンへ…… ソニー Blu-rayレコーダー「BDZ-S77」

ソニー Blu-rayレコーダー「BDZ-S77」

麻倉:テレビのハイビジョン化による容量増大にDVDを対応させるべく、家電メーカー各社は次世代の光ディスク開発に乗り出します。そうしてシャープ・パナソニック・ソニーら9社が製品化したのが、現在に続くディスクメディアであるBD、つまりブルーレイディスクです。ディスクサイズは同じ12cmながら、波長が短い青紫色レーザーを使うことで片面1層にDVDの5倍となる23GBを確保しました。これはハイビジョン映像が2時間以上記録できる容量です。

――ブルーレイの容量は後に片面1層25GBがスタンダードになりましたね。容量はさらに2層50GB、3層100GBと増えてゆき、昨年には4層128GBのBD-Rが発売されています。

麻倉:この頃の私は、ソニーが平成15(2003)年に発売した世界初の民生用BDレコーダー「BDZ-S77」を導入したことで、ハイビジョンライフがさらにパワフルになっていました。BDZ-S77はBDの第1世代にあたる、殻付きメディアに対応したブルーレイレコーダーで、現在一般的に流通している剥き身のブルーレイディスクは第2世代からです。

光ディスクは信号面に触ってはいけないので、取扱はどうしてもセンシティブになりがち。でも殻付きだとそういう事をまったく気にする必要はありません。その後、放送業務の現場がテープメディアからディスクメディアへ移行する際に、殻付きディスクは放送用メディアとして重宝されます。業務の現場で扱うプロ用機材は、センシティブな扱いを要求されるものは喜ばれないのです。

時間を少し遡りましょう。BSデジタル放送が始まった頃、最初のハイビジョンレコーダーはD-VHSでした。NHKのBSハイビジョンは「録っておきたい」「コレクションしたい」「いつでも見たい」と思わせる良質な番組の宝庫で、私もせっせとD-VHSでの録画に勤しんでいました。カセットテープの覇権を握ったVHSのデジタル版であるD-VHSは、ストリーム方式でデジタルハイビジョンをそのまま記録するため、基本的に画質劣化はありません。

ところがこのフォーマット、画質は良くても頭出しができないという致命的問題を抱えていたのです。欲しい場面を出すための早送りや巻き戻しは基本的にカン頼みで、しかも当時のデッキでは、MPEG-2の展開作業に時間がかかってなかなか出画しませんでした。目当てのシーンでないと同じことの繰り返し。それはもう、再生そのものをやめようかとまで思うほど面倒でした。

このため当時開いていたD-VHSの体験イベントでは、午後からの2回目が本当に大変。スムーズなイベント運営のためにかさばるテープを10巻ほど用意して対応したものの、2回目の準備の時にはその10巻すべてを手作業で巻き戻しするという作業は、まさに悪夢そのものでした。加えてテープとデッキの相性問題もあり、信号精度によっては再生不可でモザイク状の絵しか出てこなかったことも。そうなってしまうとイベント自体が破綻してしまい、目も当てられませんでした。

――デジタル映像の開拓期には、涙ぐましい努力があったんですねぇ。何と言いましょうか、ただただツライ……

麻倉:BDZ-S77を日常的に使っていて、本当に重宝したのは、間違いなく「頭出し」です。録画した番組は縦に並ぶリストでまとめられ、選択時にはサムネイル画像がホイール状にピックアップされました。その中から再生したい目当てのチャプターを選択して、エンターキーを押すだけ。操作は実に快適で、リモコン動作も俊敏です。以前に同じチャプターを再生したことがあれば途中からでも再生できるという、レジューム再生機能もすこぶる便利でした。この任意頭出し能力こそ、ピックアップがディスク表面上のどこへでもランダムアクセスできる光ディスクの最大の強みでした。

平成15(2003)年12月に放送が開始された地上波デジタル放送の受信チューナーを、BDZ-S77は搭載していません。ですが本機は間違いなく地デジを見据えたデジタルレコーダーでした。実は当時のデジタル放送にはコピーワンスやダビング10といったコピーコントロール信号が入っておらず、デジタル録画した番組は何度でもダビングし放題だったのです。

――今から思えばありえないような話ですが、長年続いたアナログ放送がコピーフリーだったことを考えると、当時としては「録画した時点でテレビ番組は自分の持ち物だから、自由自在に扱えて当然」という意識があったと思います。ところが後に急激に「コピーワンス」だと言い出したものだから、あの時は先生も大いに吠えていましたよね。そこから数年かけて、録画したテレビ番組に対する考え方も変わってきたという事でしょう。

麻倉:BDZ-S77は、そういうフォーマットが出てきた当初の機材でした。当時録画した番組の中には、トリノオリンピック・フィギュアスケートにおける荒川静香選手のエキシビション「You raise me up」などがあります。これは今でも殻付きメディアで残っていて、一度HDDに移して殻なしブルーレイに保存したものもあります。

地デジチューナーは入っていないですが、本機はアナログのSDでも結構な高画質で長時間録画が可能です。8Mbpsレートモードは当時のDVDレコーダーを追い抜く素晴らしい画質で、6時間連続の長時間番組が記録できました。DVDやCDも高品質で再生可能。当然、プログレッシブ出力にも対応しています。

――先にLDやDVDを振り返っているだけに、憧れの技術がどんどん常識化してゆく様がよく分かります。

麻倉:EPGを使った番組録画も簡単で、一週間分の8チャンネル24時間総覧表示から、1チャンネル1時間の詳細表示まで、情報量が四段階に拡大ズームできました。地上波はGガイド機能も搭載した2本立てです。外観やフォルムもリファレンスモデル然とした形、しつらえ、素材感で、デザインも素晴らしい。ボディ表面にはどこにもネジがなく、完璧な平面性が確保されていて、デザイン価値を高めています。前面ドアはボタンに軽く触るだけで開き、開きに3秒、閉まりに3.5秒と、時間を掛けゆっくりとクローズ。その動きは高級で滑らか、そんな細かい配慮も嬉しかったです。

今でこそハイビジョンは常識ですが、当時のハイビジョン放送は、SDを遥かに超越した新世代の画質だった訳です。それがDVDのSD映像ではなく、ハイビジョンとしてそのままディスクにコレクションできる。その事実は驚天動地の驚きであり、歓びでした。BDZ-S77を操るたびに「ハイビジョン映像が自在に見られるってことは、本当に素晴らしい」と心から感動しました。当時はプロジェクターの「QUALIA 004」と組み合わせて、私のシアターで業界向けの試写会を何度も開いたものです。そこから開発者の方などがヒントを得て、新しい絵作りに挑戦していったというものも多々ありました。

――後編はプロジェクターなどのディスプレイと、麻倉シアターを支えたオーディオの名機にスポットライトを当てます。お楽しみに!

麻倉怜士

オーディオ・ビジュアル評論家/津田塾大学・早稲田大学エクステンションセンター講師(音楽)/UAレコード副代表

天野透