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究極の静電型ヘッドフォンはどのように生まれたのか、STAX「SR-009S」の秘密
2018年4月26日 08:00
高音質なヘッドフォンによる音楽リスニングのトレンドは、スピーカーシステムで音楽を楽しむピュアオーディオを超えるほどの勢いを感じさせる。そんななか、静電型ヘッドフォンで世界のトップを独走する日本のスタックスから、新開発のフラグシップ機「SR-009S」が6月中旬に発売される。静電型とはコンデンサー型やエレクトロスタティック型とも言われるもの。静電気を帯電させた超軽量の振動板を全面駆動するという、きわめてユニークな発音方式である。ここでは、創業80周年を迎えたスタックスの歴史から、静電型ヘッドフォンの発音原理の解説、SR-009Sに投入された高音質技術、開発と製造の現場などについて語っていきたい。
まず最初にネーミングの統一から始めさせてもらおう。実はスタックスではヘッドフォンという名称を使っていない。耳にあてるスピーカーという意味から、「イヤースピーカー」という表記にしているのだ。とはいえ、一般的にはヘッドフォンと言われているわけだし、“ヘッド(頭)のフォーン”と“イヤー(耳)のスピーカー”とは同意義であるわけだから、ここではヘッドフォンと書かせていただく。また、冒頭で私は発音方式について「静電型」と述べている。しかしながら、スタックスでは伝統的に「コンデンサー型」と呼んでいる。だが、英語ではエレクトロスタティック(Electrostatic)、すなわち静電型となっているのだ。動作原理として静電気を応用しているのだから、ここでは日本語で静電型と呼ばせてもらう。スタックスの皆さんも含めて、どうか御了解いただきたい!
ヘッドフォンファン憧れのスタックス。昔はスピーカーやアンプも作っていた
私がまだ学生時分の若かりし頃から、オーディオファイルが憧れる最高峰のヘッドフォンといえば、断然スタックスだった(現在私は58歳)。同社の静電型ヘッドフォンはダイアフラム(振動板)の質量がゼロに等しいくらい軽いのが大きな特徴で、そのダイアフラムを静電気の応用でプッシュ・プル駆動するという発音構造なのである。セーターなどでプラスチック下敷きを擦って髪の毛が引き寄せられる現象(今の世代はやらないかな?)は、下敷きが静電気で帯電しているからだ。振動系が軽く応答性に優れているということで、スタックスの静電型ヘッドフォンは特にデリケートな音の再現性が求められるアコースティック楽器やボーカルの発声に対して昔から確固たる定評を得ていた。
そのころ、耳の肥えたベテランのオーディオファイルの多くはクラシック音楽を好んで聴いていた。バイオリンの陰影表現が豊かで音色の鮮やかな再現性や、ピアノの打弦による複雑に織りなす音色など、スタックスの静電型ヘッドフォンはスピーカーシステムが奏でるよりも繊細で解像感に優れた音を聴かせてくれる。いまもクラシック系のレコーディングでは、スタックスの静電型ヘッドフォンをモニター用途に使っているというケースが少なくない。実は私も同社製ヘッドフォンを愛用している1人である。今回の取材で私はスタックスの製造現場を見学することができ、同社製品への理解と愛着がいっそう深まることになった。
スタックスの歴史は古く、会社が始動したのはいまから80年前の1938年(!)、今年の初めには、創業80周年を記念した新Λ(ラムダ)シリーズの静電型ヘッドフォン「SR-L300 Limited」と、同社製品用の専用アンプである漆黒のソリッドステート方式ドライバーユニット「SRM-353XBK」が数量限定で発売された。だが、もうすでに完売したという……。
スタックスを創業した人物は、林 尚武氏(1906年~2000年)である。創業の1938年から14年ほど前に遡る1924年頃、彼は早稲田大学在学中で短波の無線通信技術を研究していたそうだ。音声信号を得るためにはマイクロフォンが必要であり、低品質のカーボンマイクから音質に優れたコンデンサー型マイクロフォンがちょうど登場した時期だった。彼は静電型(コンデンサー型)という新しいテクノロジーの可能性に惹かれていったらしい。
創業から7年前の1931年頃は、録音技術者として中国(当時は中華民国)の上海にあるレコード会社の主任技師として働いている。そこで画期的な発明をした。当時の円盤記録(SPレコードを造るためのワックス原盤への音溝カッティング)では検聴用のフォノカートリッジの針圧が10g程度もあったのだが、彼は針先(振動系)を磁化した磁束検出タイプの軽針圧フォノカートリッジを考案したのである。これは現在のMM型(ムービングマグネット)に通じるものだ。当時は製盤用と検聴用に2台の録音機を同時に動かしていたそうで、それが音溝を痛めない軽針圧のフォノカートリッジが実現できたことでレコーディングが1台の録音機で済むようになり、彼は大いに感謝されたという。
スタックスの創業当時の社名は、昭和光音工業(株)である。社屋は東京都の千代田区九段に構えていた。その頃はワックス原盤への録音や、そのメタルスタンパーの製作などが主な業務だったらしい。そして、1944年には豊島区の雑司が谷に社屋を移転している。使われた社屋は木造2階建ての洋館(元々は雑司ヶ谷宣教師館)であり、現在は東京都の指定有形文化財に指定されている重要な建造物。第二次世界大戦の終結は1945年なので、スタックスは戦時中も活動していたことになる。
昭和光音工業からスタックス工業へと社名を変更したのは1963年。1950年から製造を始めたコンデンサーマイクロフォンに使われた「Stax」のブランド名を社名に採用したのである。初期の製品はコンデンサー型のフォノカートリッジ(モノーラル)や専用トーンアームなど、アナログディスク再生に関するものが多かった。スピーカー関連では1954年に発売されたCSG-1というコンデンサー型ツイータが初めての製品になる。アナログディスクの音溝から信号をピックアップするという音の入り口から、音を再生する音の出口側の製品が開発されたスターティングポイントである。
スタックスの偉大なる功績は、静電型(コンデンサー型)ヘッドフォンを世界で初めて世に送りだしたこと。彼らは静電型ヘッドフォンの先駆者であり、いつの時代もトップランナーでいたのだ。現在まで脈々と続いている静電型ヘッドフォンのルーツは、1960年に登場したSR-1。ペアとなる専用ドライバーはSRD-1という型番だった。
それ以降、スタックスは製品開発を静電型フォノカートリッジ+高感度トーンアームと静電型ヘッドフォンに特化していく。1974年には、世界初となるソリッドステート増幅のA級DCステレオパワーアンプ「DA-300」を発売。当時のアンプが信号経路にコンデンサー素子(キャパシター)を挿入して不要な直流成分をカットしていたのに対して、それを排除してしまったのがDCアンプと呼ばれるもの。もちろんDC=直流成分を増幅してはまずいので保護回路が働くわけだが、素子としてのコンデンサーを経由することによる音質劣化から解放されるという画期的な手法だったのである。現代のアンプリファイアの大半はDCアンプ構成なのだから、スタックスの先見性の高さがうかがえよう。
1980年代には静電型スピーカーシステムに加えてアンプやCDプレーヤー、単体DACなども開発している。スタックスの製品は海外でも高い人気を誇り、最盛期には売上げの約70%を輸出が占めるほどになっていたという。スタックス工業が埼玉県の三芳町に本社を構えていた1990年代の前半、私は同社を訪問して創業者の林 尚武氏と言葉を交わす機会があった。ちょうど大型の静電型スピーカーシステム「CLASS Model 2」のバージョン2が完成した頃だったと記憶している。スタックスの製品はどれも独創的で、海外の著名なオーディオメーカーの製品と比べても互角以上の音を聴かせてくれた。
順風満帆と思われていたスタックス工業であるが、為替変動による急激な円高傾向により採算性が急激に悪化。海外比率の高さが災いした結果でもあり、1995年12月に操業停止となる。しかし、その翌年(1996年1月)には債権者会議で新会社(有限会社スタックス)の設立とスタックスのブランドを継承することが承認された。元従業員の有志10名が集まり、同じ社屋で生産を再開することになったのである。製品については手を広げずに、静電型ヘッドフォンに絞り込むことにした。現在の有限会社スタックスは、このようにスタートしたのだ。
そして、2011年には中国のEDIFIER TECHNOLOGYと資本・業務提携を行なっている。従業員数3,000名を超えるという中国企業のトップは、スタックスの静電型ヘッドフォンを熱烈に愛している人物なのだという。2015年には埼玉県富士見市に社屋を移転(現在の本社)して、本格的なクリーンルーム設備と生産ロボットの導入により近代的な製品製造を行なっている。以上が、駆け足であらわしたスタックスの歩みである。より詳しい情報は、同社の「創業80周年の歩み」ページに書かれている。
静電型ヘッドフォンはどのように音を出すのか
さて、静電型ヘッドフォンの発音構造を説明しよう。一般的なヘッドフォンがダイナミック型スピーカーを搭載しているのは御存知だろう。永久磁石を使った磁気回路があり、磁気ギャップ(磁束)の中で振動板に接着されたボイスコイルが振幅動作を行なって音を出すと。軽量化のためボイスコイルが巻かれるボビン(筒)を持たない場合もあるが、概ねスピーカーのユニットを小型化したような構造になっている。ダイナミック型スピーカーでは、振動板+ボイスコイルによる振動系にある程度の重さ(質量)があると容易に想像できるだろう。
一方、スタックスの静電型ヘッドフォンでは、食品を包む透明なラップ素材のような薄い高分子フィルム素材(エンジニアリング・プラスチック=エンプラ)が振動板になっている。紙や金属とは異なり、素材自体が柔らかいために振動膜と呼ばれることも多い。その表面には電気を帯電させる目的で導電コーティングが施されているのだが、極薄で透明度が高いために目で見てもわからないほど。この軽量な振動膜に+580Vという電圧が印加され、振動膜は均一に静電気が帯電した状態を維持しているのだ。580Vと聞いて驚かれるかも知れないが、電流値はごく微量なので危険性はまったくない。
この振動膜を動かすために存在するのは、表面と裏面に配置されている合計2基の固定電極。板状の固定電極には音を透過させるための穴が無数に開けられている。前述したように、固定電極に挟まれている振動膜には+580Vの電圧が加わっている。たとえば表面の固定電極に+の信号電圧が加わると、プラスに帯電している振動膜は固定電極から遠ざかる。同様に表面の固定電極に-の信号電圧が加われば、プラスに帯電している振動膜は固定電極に引き寄せられる。これが静電型での振幅原理だ。
スタックスの静電型ヘッドフォンでは、表面の固定電極がプラスの電圧になるときに裏面の固定電極がマイナスの電圧になるように、押す力と引く力が同時に発生する巧妙なプッシュ・プルの動作構造になっている。重さ(質量)がほとんどない振動膜を全面駆動するわけで、音の歪みが非常に少ないというのも得がたい特徴になっている。ちなみに、現行製品の専用ドライバー(駆動アンプ)ではラインレベルのバランス入力の場合なら2基の固定電極までストレートに信号伝送が行なわれており、理想的なバランス駆動が実現できている。
このような発音原理であれば、一般的なアンプやヘッドフォンアンプでも静電型ヘッドフォンを鳴らすことができると考えてしまうかも知れないが、それはできない。一般的なアンプやヘッドフォンアンプはスピーカーを駆動するために音楽信号に応じた電力を送りこむわけだが、静電型ヘッドフォンでは電力ではなく高電圧の音楽信号が求められるのだ。スタックスが自社の静電型ヘッドフォン専用のドライバー(駆動アンプ)を作っているのはそのためで、彼らの専用ドライバーは振動膜に静電気を帯電させる高電圧回路と固定電極への高電圧な音楽信号が最適化されている設計なのである。
例えば、静電型で有名なQUADのスピーカーは一般的なアンプで鳴らすことができる。それは送り込まれた電力を高電圧の音楽信号に変換する回路(トランスフォーマーを使った昇圧回路)を内蔵しているから可能なのである。
スタックスの静電型ヘッドフォンは長年に渡る研究開発と経験から、振動膜に加える電圧値と固定電極との距離関係を見極めている。5月下旬発売の新フラグシップ機「SR-009S」(税込496,800円)では、現行製品のSR-009と同じく高性能の極薄化した高分子極薄フィルム素材(スーパー・エンジニアリング・プラスチック=スーパー・エンプラ)が振動膜素材として採用されている。その厚みは1,000分の1~2mmという。そして、振動膜と固定電極との距離は僅か0.5mm。流体である空気を振動膜の制動にも役立てており、高度に精確な音楽再生を実現している。しかも、同社製品に使われている独自形状のフラットケーブルは、ケーブルの静電容量も考慮したオリジナル設計なのである。
その名前が示すとおり、新製品のSR-009Sは、既存の「SR-009」のバリエーション・モデル。末尾のSは“スーパーのS“や“スペシャルのS”をイメージしているもので、マーク2やシリーズ2という次世代機を意味しているわけではなさそうだ。とはいえ、技術的にも構造的にも理に適った大幅な進化を遂げているのは明らかであり、SR-009の上位モデルに位置づけられるのは確実。オーディオ製品に限ったことではないが、オリジナルを丁寧に磨きあげるように改良していくことをブラッシュアップと表現することがある。ここで紹介するSR-009Sは、まさにオリジナルのSR-009を徹底的にブラッシュアップすることで未踏の音質領域に到達した孤高の静電型ヘッドフォンなのだ。
SR-009SとSR-009、音はどう違うのか!?
スタックスの静電型ヘッドフォン、その音質を画期的なレベルにまで高めたのは、SR-009の開発で誕生した斬新なMLER固定電極である。先ほど述べた発音構造を御理解していただくと、振動膜とその前後にある固定電極は、いずれも高い精度で平面性が得られているべきと判るはず。静電気が与えられている振動膜を信号電圧の変動で動かす固定電極は平面性が限りなく高く、しかも薄いことが求められる。
平面性の高さは振動膜に均一なプレッシャーを加えるためであり、薄さは音をスムーズに透過させるためだからだ。だが、固定電極が薄ければ物理的な剛性が十分に得られず、振動してはいけないはずの固定電極が反作用的に振動して音が濁ってしまう可能性も……。実は静電型ヘッドフォンの設計経験が少ないメーカーの製品が陥りやすい音の色づけ=カラレーションの発生は、このあたりが原因ではないかと私は思っている。再生音量が低い場合は気づきにくいけれども、リズムのキレが鋭く強弱のコントラストが高いダイナミックな曲を聴いていると、固定電極の振動や共振による付帯音が加わっていると感じられることがある。静電型の発音原理は割合とシンプルなのだが、いざ製品化しようと挑むと相反するような困難が待ち構えているのだ。
オリジナルのSR-009で開発された画期的な固定電極は、MLER(Multi Layer ElectRodes=多層電極)と呼ばれる。素材は導電性があり平面度の高いステンレススチール製の薄板。音を透過させる無数の開口部(丸穴)は超精密フォトエッチングという手法であけられている。すなわち、表面からピンポイント的に金属を溶かして穴をあけているのだ。そして、同じくフォトエッチング手法で剛性を高めるリブ形状の部材を2枚造りあげる。その3枚のステンレススチール板を拡散接合技術という高度な先端技術を用いて原子レベルで一体化させてしまったのが、MLER固定電極なのである。
一般的に金属は空気の酸素成分と接することで表面に酸化膜が形成されてしまう。MLERの拡散接合プロセスでは金属を表面が酸化しない真空状態の環境に置き、3枚のステンレススチール材料に圧力と熱を数日間ほど加えるという。その結果、互いの原子が拡散して境界面が再結晶化された状態になる。つまり、積み重ねた金属を接着剤などを使わずに一体化できているのだ。
こうして完成したSR-009のMLER固定電極は要所が薄くきわめて平面性に優れており、しかも2枚重ねのリブ形状が加わったことで剛性が飛躍的に高められている。このMLERによる固定電極はSR-009に使われている大型の円形タイプと、新Λ(ラムダ)シリーズのSR-L700に使われている長円形タイプの2種類がある。スタックスの80周年を記念した限定仕様のSR-L300 Limitedには、SR-L700と同じMLER固定電極によるモジュールが搭載されていた。
新しいSR-009Sでは従来のMLER固定電極にさらなる改良プロセスが加えられ、第2世代のMLER2と呼ばれる固定電極が採用されている。SR-009Sのウルトラ・スムーズでトランジェントに優れた美音は、このMLER2による貢献度が大きい。スタックスの技術陣は、MLERで完成した固定電極に対して、境界面を更に滑らかな形状にするためにフィニッシュ・エッチング加工を施したのである。無数に空けられている穴の開口部分やリブ形状の端面などが再度の溶解(エッチング)でスムーズに仕上げられているのがMLER2の最大の特徴で、仕上げとして固定電極全体に金メッキを施している。金メッキ処理は美しさのためではなく、電気抵抗が低く導電性に優れていることから選ばれた。スタックスによるとフォトエッチング加工や拡散接合技術の施行、そして金メッキ仕上げなどは外部の協力会社で行っており、その製造コストは非常に高価だという。振動膜素材はSR-009のそれを継承している。
SR-009SとSR-009を持ち比べると、僅かながらもSR-009Sのほうが軽くなっていると実感できよう。実測値では13gの違いに過ぎないのだが、それはヘッドフォンのメイン筐体である切削アルミニウム製のハウジング形状が見直されているためだ。振動系全体は電気的な絶縁性に優れた白い樹脂素材でモジュール化されているが、SR-009Sではそれを保持するアルミニウム製ハウジングの設計を刷新した。具体的には、振動膜の位置から外側の距離を10mmから7.98mmへと薄く仕上げて、しかも表側の開口直径をφ81mmからφ83mmへと拡大したのである。
スタックスの技術陣は、以前から開口部分の大きさや後面開放型の形状によって漏れ伝わる外部の音の雰囲気が変化することに着目していた。そこでSR-009Sの開発段階ではいくつかの形状を試作。そこで漏れ伝わってくる音を聴き比べて最終的な形状を決定したという。
専用のフラットケーブルは内部が6本構成。それぞれが中芯線に音質評価の高い6N純度の軟銅線(φ0.14mm×3)と銀メッキ軟銅線(φ0.08mm×9)を組み合わせたもので、もちろんスタックスの最高グレード品である。装着感に関わるイヤーパッドには上質の本革製が使われている。また、同社ではアークアッセイ(アッセンブリー)と呼んでいるヘッドバンド部分には10ステップのアジャストクリックが与えられている。一度調整しておくと最適なポジションが保たれるという便利な構造である。
取材のためにスタックス本社を訪問した際、試聴室で最終プロトタイプ状態のSR-009Sを聴くことができた。大型スピーカーシステムを聴くわけではないので、スタックスの試聴室は応接間のような親しみやすい雰囲気である。なお、事前に予約しておくと、スタックスの全製品をこの部屋で試聴できるという。
用意していただいたのはSR-009SとオリジナルのSR-009の2台。それを駆動するドライバーユニットは2017年に発売された最高級機のSRM-T8000である。入力段には信頼性の高い双三極管6922が採用(2本)されて、出力段はA級動作のソリッドステート増幅というハイブリッド構成である。スタックスの高級ドライバーユニットには、左右チャンネルが独立している珍しい2軸アッテネーター(ボリューム)が使われている。これは左右バランスの調整に使うアッテネーターが省略できる高音質追求のためだ。再生プレーヤーには試聴室に常設しているラックスマンの高級SACD/CDプレーヤー「D-05u」を使用。音源にはCDを使っている。
最初にオリジナルのSR-009で聴いてみた。一聴してハイグレードな音だと判る高品位サウンドが奏でられている。以前に「SR-L700」を聴いた時も同じように感じたのだが、剛性の高いMLER固定電極の恩恵は本当に素晴らしく、音のアタックが鋭くリズムが深く沈み込むようなポップスやジャズ系の音楽に対する相性が格段に高くなっている。クラシック音楽でも大編成オーケストラの臨場感や叩きつけるような音の迫力もストレスなく再現してくれるので、SR-009は音楽ジャンルを問わないオールマイティなハイエンド機なのだと納得できる。大口径の円形振動膜を持つSR-009の音をじっくりと聴きながら、私はその音質に関してまったく不満を覚えることはなかった。音楽が自然に自分の心に響いて感情移入ができてしまう、浸透力に優れた音という好感を抱いたのである。
SR-009で音の感触を十分把握してから、少しドキドキしながらSR-009Sの音を聴き始めることに……。そして、ほんの一瞬で音質の違いが判った!! 直前まで聴いていたSR-009よりも、音の滑らかさが格段にアップした印象で、先ほどよりも音楽がスッと心に届いてくるではないか。例えば、プロプリウス/プロフォン「ジャズ・アット・ザ・ポーンショップ」では、ガヤガヤとした観客の話し声や場の気配が恐ろしいほど鮮明に感じられ、ビブラフォン(鉄琴)やドラムスのブラシワークといった音が超高精細という雰囲気で聴き取れる。そして、私がリファレンス音源のひとつにしているジェニファー・ウォーンズの女声ボーカルは、喉の動きまで視覚的に感じられる生々しさ。ベーシストのレイ・ブラウンとギタリストのローリンド・アルメイダによる「G線上のアリア」(独JETON)は、ウッドベースの音色がローエンドまで深々と響く。いずれもストレスフリーな音という印象を与える、トランジェントに優れた高品位サウンドだ。
再びオリジナルのSR-009を聴いてみると、こちらも決して悪くはないのだけれども、例えばボーカルの子音やシンバルのクラッシュ・サウンドなどで音像描写の輪郭(エッジ)がほんの僅かに強調されるような、音にメリハリやアクセントを効かせたように感じられる。これは固定電極のMLERとMLER2の音質的な違いといえるのだろう。振動膜の音が透過する無数の丸穴の断面形状が滑らかになっているぶん、MLER2の固定電極が与えられたSR-009Sは音粒が磨かれたようなスムーズさを感じさせる。
だが、私はSR-009の音を好むヘッドフォン・リスナーもいるのではと思う。普段はスピーカーシステムで音楽を聴いていて、コンサート会場でライブな音楽も聴くというリスナーなら、おそらく新しいSR-009Sの音を気に入るのではないだろうか。スタックスでも両機種の音質傾向の違いを理解しており、SR-009とSR-009Sは併売していく方針だという。私個人の音の好みでいえば、間違いなくSR-009Sを選ぶ。圧倒的なワイドレンジ感ということでは、共に互角といえるだろう。
静電型ヘッドフォンが生まれる現場に潜入!
スタックスの社屋の1階には、本格的なクリーンルームが設置されている。昨年に取材したDAC素子の旭化成エレクトロニクスと比べると当然ながら規模はかなり小さいのだが、静電型ヘッドフォンの心臓部である発音体を製造するには十分な広さがある。
振動膜に使われている素材は本当に食品ラップのように柔らかく透明で、それが専用の金属型枠(真鍮製のようだ)に貼られるのであるが、ここで適切なテンションが加えられているという。型枠はインナータイプのSRS-002から新Λ、そしてSR-007AやSR-009など各種が用意されている。
型枠に貼られた振動膜は次に隣の部屋に移されて、そこでは発音モジュールの組み立てとして固定電極の組み付けが行われる。いずれの作業も熟練した数名の技術者により丁寧に行われているのが印象的だった。発音モジュールの最終工程は、防湿膜を両面に貼る作業となる。
防湿膜とは、これまで出てこなかった言葉だ。想像していただくと判ると思うのだが、静電型のヘッドフォンやスピーカーシステムは、動作環境での湿気(湿度)に対してクリティカルなのである。具体的には、湿度が高ければ静電気を応用している振幅効率が低下してしまうのだ。そのため、温度と湿度が最適にコントロールされているクリーンルームの空気を発音モジュールの内部に閉じ込めるべく、防湿膜といわれる保護膜を貼って覆うのである。その素材は違う素材のフィルムで、テンションはかなり低めに設定されているようだ。また、マイクロダストや髪の毛の侵入を防ぐという重要な役割も担っている。さきほど名前を挙げたQUADの静電型スピーカーにも防湿膜が使われているのだ。
完成した発音モジュールは白い樹脂製のハウジングに納められている。そしてクリーンルーム内部にある検査室に集められ、実際に通電をしてテスト信号による最初のサウンドチェックが行なわれる。ハイレベルなクリーン環境で製造されているので、この検査で不合格になるケースは稀だという。
クリーンルームでの作業はここまでで、製品としてのアッセンブル工程は通常の環境で行われる。完成した製品はすべて昼間は音楽ソース、夜間はピンクノイズを使い、最低一週間以上継続した鳴らしこみが行なわれて、1台ずつ音を確認していく。スタックスの静電型ヘッドフォンは幾度もの入念なチェックを経て出荷されていくのだ。
以前から少し気になっていたのだが、最近ではスタックス互換という触れ込みの非純正アンプが市場やオークションなどで散見されるようになってきた。だが、スタックスではサードパーティによるドライバーの使用を認めておらず、それによりヘッドフォンが故障した場合は保証の対象外としている。
前述の通り、振動膜に580Vの電圧を印加しているわけだが、サードパーティのそれらはオーバードライブするように既定値以上を加えている場合が多いようなのだ。何度か私はラスベガスのCES会場などで尋ねたことがあるが、非純正ドライバーを展示している業者は概ねオーバードライブであることを示唆している。スタックスの静電型ヘッドフォンには細部に至るまで高音質が得られるノウハウが詰め込まれているわけだから、必ずスタックス製の純正ドライバーで鳴らしてほしいものだ。
純正ドライバーには真空管を採用した製品とソリッドステート(半導体)回路、そして真空管と半導体の両方を使っているハイブリッド構成がある。固定電極には高電圧の音楽信号が必要だと述べたが、共通するのは高電圧の出力に適した素子が使われていること。真空管はもとより高電圧出力に親和性の高い素子であり、採用されている半導体の出力素子も高電圧を得やすい特性なのである。
ヘッドフォン・リスニングの最高峰のひとつ
ヘッドフォンは耳の鼓膜の至近距離で音を鳴らす。そこではスピーカーシステムのウーファーのような大振幅は必要なく、応答性能の高さこそが最優先で求められる。帯電した超軽量の振動膜をプッシュ・プルで駆動するスタックスの静電型ヘッドフォンは、まさにヘッドフォンによる音楽再生という目的に適った発音方式だと思う。
取材で聴いた新製品SR-009Sは、高品位なヘッドフォン・リスニングの最高峰のひとつだと断言できる。画期的なMLER固定電極を進化・発展させて完成したSR-009SのMLER2固定電極は、聴き慣れているはずの愛聴曲からこれまで気づくことのなかった音がいくつも潜んでいることを教えてくれた。新Λシリーズの静電型ヘッドフォンを愛用している私にとって、SR-009Sは究極の逸品として鮮やかに映ったのである。
(協力:スタックス)