藤本健のDigital Audio Laboratory

第719回

ヘッドフォンで立体サウンド「HPL」。スポーツ中継や22.2chなど広がる用途

 ちょうど2年前、ヘッドフォンで3Dサウンドを実現するシステム「HPL」についてこの連載でとり上げた。これは立体音響システムなどを手掛ける会社のアコースティックフィールドによるエンコード技術で、HPL化された音源を再生してヘッドフォンで聴くと立体的に聴こえるというもの。

HPL

 ユーザーが立体音響化するためのシステムを揃えるのではなく、あらかじめHPLでエンコードされた音源ならば、そのまま再生するだけでOKという手軽なもので、e-onkyo musicなどでもコンテンツが増えてきているほか、HPLを用いたラジオ放送なども始まっている。そこで、HPLの現状がどうなっているのか、アコースティックフィールドの代表取締役、久保二朗氏に話をうかがった。

HPLと通常の音源の違い
アコースティックフィールドの久保二朗代表取締役

様々なレコーディングに使われるHPL

――2年前にインタビューさせていただいたときは、HPLがリリースされて間もないころでした。その後タイトル数も増えてきているようですね。

久保氏(以下敬称略):そうですね、これまでアルバム数でいうと41作品がリリースされ、今も制作中のタイトルがあるので、まだまだ出てくる予定です。2年前にHPLを発表したときは、ヘッドフォンでしっかりした定位を作って再生すべきであり、HPLではそれを可能にする、ということを訴えていました。2chのステレオであっても、そのままヘッドフォンで聴くのと、スピーカーで聴くのでは大きな違いがあります。一般的なマスタリングはスピーカーで聴くことを前提としているので、ヘッドフォンで聴く場合には、それに適した形に変換するのが望ましいのです。

 HPL2はヘッドフォンで聴いても、まるで前面に設置したスピーカーから音を聴いているようなサウンドにするもので、そうしたニーズも多いはずと期待していたのですが、現在のHPL作品はサラウンドのハイレゾ作品が中心となっています。具体的なレーベルとしてはUNAMAS、RME Premium Recordings、HD Impressionの3つが中心で、いずれも高音質で録音して、それをサラウンドで表現するレーベルさん。でも、それを聴くためにサラウンドシステムを用意するというのはなかなか大変なので、それをより手軽に聴いてもらう手段としてHPLを利用いただいています。

――確かに2chの作品よりも5.1chや9.1chなどのサラウンド作品のほうが、HPLを利用する理由が見えやすいですね。HPL、個人的には非常にいいと思っているので、もっと広がってくれるといいのですが。

久保:HPLはあくまでも技術であり、ある種コンバータのようなものです。どうしても味付け的なものに捉えられてしまい、レーベルさんに理解していただくのがなかなか難しい状況です。またメジャーになると、数多くの人の決済が必要となるため、普通と違うことをするのはなかなか難しいというのが実感です。もっとも、無理に営業するようなつもりはないので、一緒にやりたいと言っていただける方々と取り組んでおり、インディーズレーベルを盛り上げていければと思っているところです。

HPLのエンコードシステム

――実際、HPLの音を聴いた方たちからの評価はいかがですか?

久保:なかなか一般のリスナーさんから評価をいただく機会がないので、ハッキリは分かりません。直接面識のある方々からは「いいよ」と言っていただいていますが、実際の評価は見えにくいです。ただ、Twitterなどでチェックしてみると、HPLがダメだという意見は一切ないので、それなりに満足いただけているはず、と思っています。昨年3月、「コントラポントのヴェスプロ」という作品をHPL11で出した際には、多くの方々から高評価をいただきました。

――HPL11ということは11chということですね。

久保:はい、これは東京・文京区の、カトリック関口教会 東京カテドラル聖マリア大聖堂で行なわれたコンサートをサラウンドで実況録音し、11chの作品として出されたものです。コントラポントのファンの方が多く購入していただいたため、これまでハイレゾに触れたことがない方、音楽配信での音源を購入したことがないような方にもHPLを体験していただきました。「初めてスマホで聴いてみたけれど、すごくいい」「あのときのコンサートが蘇ったようで感動しました」といった声をいただいたので、嬉しかったです。また「満員電車の中でHPLを聴くと、まったく別空間に来たような感覚になれる」なんて声もありました。実際、私自身もバスの中でHPLサウンドを聴いたりするのですが、まるで隣に座っている人も一緒にオーディオルームにいるのではないか……なんて思いになります。まさにリラクゼーションの世界ですね。

リアルタイム変換でラジオ番組に。プロ野球日本シリーズや歌番組にも

――こうしたサラウンドの音楽作品制作にHPLが使われている一方で、ラジオでも採用されたとか。

久保:きっかけはヘッドフォン祭にニッポン放送の技術の方がいらっしゃり、デモを聴いて、「これは面白い」と社内に持ち帰ってもらったことでした。ちょうどワイドFMがスタートしたこともあり、新しいことをラジオでもやっていこう、と盛り上がっていた時期だったんです。そこで、HPLを使ってみよう……という話になったんです。ワイドFMといっても、ステレオで高音質なのはスマホでは当たり前だし、テレビだってAMのモノラルに比較して圧倒的にいい音ですから、単にワイドFMになったからといっても人は振り向きません。だったら一段飛び越えてラジオでサラウンドと言ったほうがインパクトはありますからね。

――実際どんな放送をしたのですか?

久保:ニッポン放送は、すごく行動が速くて、デモを行なってすぐに野球放送をやろう、ということになったんです。最初は横浜スタジアムでのベイスターズ戦でした。野球場には既設のマイクロフォンが数多くあり、普通はこれをミキサー卓で2chにミックスして放送しているのです。その各マイクの信号をすべてパラでもらい、まずは3Dミックスを行なったんです。たとえば内野の音はこの辺に、外野の音はもう少し外側、ウグイス嬢の声は真上から……というように作った上で、それをHPLのエンコーダに通すわけです。

各マイクの信号から、3Dミックスを行なった

――サラウンドの音楽作品を作る場合は、それなりに時間をかけてエンコードしていたと思いますが、放送で使うということはリアルタイムエンコーディングができるということですか?

久保:そうですね、チャンネル数にもよりますが、リアルタイム変換は可能です。放送に使っているのは16chであり、これを放送に耐えうる遅延時間でリアルタイムにHPL変換しているのです。ラジオはテレビと違い、映像と同期させる必要がないので、やりやすく、多少の遅延があって大きな問題にならないんです。映像と合わせる場合は1フレーム以内、つまり30msec以内が必須条件となりますが、そこまで厳しくはないんです。そもそもテレビとラジオで時間にズレがあったりますし、radiko.jpにいたってはもっと大きな遅延がありますから。そういう意味でもラジオは新しいことへのチャレンジができるので面白く可能性が広がりますね。

――でも実際のところ、遅延時間はどのくらいなんですか?

久保:ノートパソコンを持ち込んでエンコードしているのですが、100msec以内には収めています。ただ、いろいろと条件を変えていけば1フレームも不可能ではないんですよ。安全を見てバッファを多めにとって100msecとしています。

――このHPLでの放送をする場合、通常の2chのミックスは放送されないのですか?

久保:ラジオの本放送はHPLのみとなります。このHPLの放送を普通にスピーカーから聴いても問題はないし、モノラルのラジオで聴いてもちゃんと聴けるようにミックスしており、そうしたテストにもクリアしています。ただし、もしものときのためのバックアップとして、野球場から放送局へは従来の2chのミックス信号も送っているんです。いざというときには、そちらに切り替えられる体制を整えているわけです。しかし1回しかテストしないで、いきなり本放送となったのでビックリでした。手作り感いっぱいで本当に面白かったですが、なんとか事故なく放送を終えることができました。

――実際のリスナーの方の評価はいかがでしたか?

久保:放送中は「この放送は3Dサラウンドで放送しています。ヘッドフォンで聴くと、臨場感のある放送が聴けます」といったアナウンスをしていましたが、ツイッターなどでの評価を見ても、非常に好反応でした。ラジオを聴く人って、ラジオ好きで毎日聴いている方が多いので、ちょっとの違いでもすごくよく分かっていただけるのです。このサウンドの違いを分かってくれるだろうか…と心配していたのですが、「スゴイ!」という反応を数多くいただき、ホッとしました。もっと厳しい意見があるのでは…とも思っていましたが、すごく受け入れていただいたようです。

――この放送においては久保さんも現場に行かれたわけですよね?

久保:はい、この初回の放送のときは横浜スタジアムに行きました。また、その後、日本シリーズの第1戦と第2戦をHPLで放送しましたが、その際は広島まで行きました。この日本シリーズでの数字はすごくよかったとうかがっています。ラジオって、隣の放送局と同じ試合を放送したりするので、音を聴き比べることができるんですよね。その結果、HPLがすごくいいと評価していただいたようなのです。

日本シリーズの第1戦と第2戦をHPLで放送

――野球場の現場でも、いろいろと調整をするのですか?

久保:そうですね、最終的な音をradikoでモニターしながら、調整していきました。radikoの場合、結構な遅延があるので、それが聴き比べる上でかえって便利なんですよね。野球場から放送局へ伝送する際にコーデックを通り、またradikoに流す際にも別のコーデックを通るので、ここでHPLエンコーダから出てきた音とはだいぶ変わってしまうのです。空気感とかって中域にあるけれど、圧縮するとどうしても消えてしまうので、その辺を少し強めに出すなど、radikoを聴きながら調整したわけです。

22.2chのエンコード&放送に採用。今後の計画は?

――ほかにもHPLを使った放送というのはあったのですか?

久保:ニッポン放送では「今夜もオトパラ! 」という番組で、これまで5回ほどHPLの放送をしています。番組の中で懐メロのコーナーがあり、昔のライブ音源を聴こうという企画をHPで行ないました。これは市販のライブ音源を事前にHPL化しておき、それを放送したのです。具体的には山口百恵、プレスリー、中森明菜、吉田拓郎の昔のライブをHPL2でエンコードして放送しました。30分番組で4、5曲流したのですが、いつも聴いている方からの評判が非常によかったようで2週間後、今度はミスチルの放送も行ないました。この経験から、やはりHPL2にする意味があるな、と実感したところです。ニッポン放送の方からも、「もっとHPLを一緒に広めていきましょう」と言っていただいているので、嬉しいですね。

――ニッポン放送以外はいかがですか?

久保:生放送ではないのですが、テレビの毎日放送でも副音声での放送という形でHPLが使われました。「萬福寺音舞台」という京都のお寺にアーティストを呼んでコンサートを行なうという番組です。ここではテスト的に8Kの映像で、22.2chの音で収録していたのですが、その22.2chをHPLでエンコードしたのです。かなり思い切った放送ですよね。さらに毎日放送で、年明けに高校ラグビーの決勝戦でもHPLが使われました。これはインターネット放送だけなのですが、解説なしの現場の音だけでというものです。実はこのとき、かなり実験的なことをおこなっていました。花園ラグビー場では24chで音を拾っているのですが、それをレゾネッツ・エアフォルクの技術を用いてMADIを使ってそのまま大阪へ伝送し、そこでHPL化したのです。

――MADIで伝送するならわざわざ大阪まで行かなくても、東京でミックス&HPLエンコードできそうですね。

久保:将来的にはそうしたことが実現できると思います。ゆくゆくは、私が出向かなくても、現場の人たちだけでHPL放送ができるようになればとプリセットなどを作っているところです。また、ほかにどんな放送で効果があるかなどを検討しているところです。この前もサッカー中継の実験をしたし、今後競馬についても実験してみようと話をしているところです。スポーツ中継にはHPLの親和性は高そうですね。またラジオドラマをサラウンドで収録してHPL化するといったのも面白いのでは……と思っています。

――今後もHPLで新たな取り組みなどはありますか?

久保:先日、ひとつ実験的に行なったのがアマチュアのテクノユニットであるトキノマキナに協力いただき、マルチ音源を3DミックスしてHPL化した上でSoundCloudにおいて公開しています。これは5.1chとか7.1chのように既存のチャンネル数で音を作ってHPL化するのではなく、マルチトラックの音源を直接HPLでモニターして3Dミックスしていくという手法です。これは無料公開しているものですから、ぜひ聴いてみてください。

 なお、4月29日、30日の「春のヘッドフォン祭 2017」でも例年通りブースを出す予定(6階のMHaudioブース内)でして、ここに来ていただければ野球放送なども含めHPLサウンドを体験いただけるようにしています。ここでは普段聴いている音源をその場でHPL化して聴けるというサービスも行なっているので、手持ちの楽曲のWAVファイルをUSBメモリに入れて持ってきていただければ、すぐに確認できますよ。今年も野球放送は行なっていく予定なので、こちらもぜひ聴いていただければと思っています。

藤本健

 リクルートに15年勤務した後、2004年に有限会社フラクタル・デザインを設立。リクルート在籍時代からMIDI、オーディオ、レコーディング関連の記事を中心に執筆している。以前にはシーケンスソフトの開発やMIDIインターフェイス、パソコン用音源の開発に携わったこともあるため、現在でも、システム周りの知識は深い。  著書に「コンプリートDTMガイドブック」(リットーミュージック)、「できる初音ミク&鏡音リン・レン 」(インプレスジャパン)、「MASTER OF SONAR」(BNN新社)などがある。またブログ型ニュースサイトDTMステーションを運営するほか、All AboutではDTM・デジタルレコーディング担当ガイドも務めている。Twitterは@kenfujimoto