藤本健のDigital Audio Laboratory

第949回

ありそでなかった“長距離×マルチ無線伝送”体感。将来は100チャンネルも?

ワイヤレススピーカー

オーディオに関するさまざまな技術が次々と生まれてくるが、筆者が知るときは、すでに製品が完成しているケースがほとんどだ。ただし時々、まだ製品化されていない……開発段階という場合もある。先週出合ったのは、そんな開発途上の技術であり、何にどのように利用するか、そして名前も決まっていない技術だった。

一言でいえば、PCMをマルチチャンネルかつワイヤレス伝送するというもの。Bluetoothオーディオがあり、デジタル接続のワイヤレスマイクがある現在、珍しくもなさそうにも思うけれど、よく考えてみると、「そういえば、そんなシステムなかったぞ」というちょっと面白そうなものだった。プロトタイプとなるシステムを見てきたので、今回はこれがどんなものなのか紹介してみよう。

フルデジタルスピーカー「OVO」の生みの親が、伝送システムを新開発

今回のワイヤレスオーディオシステムを開発したのは、仙台にある株式会社ミューシグナルの代表取締役である宮崎晃一郎氏だ。

ミューシグナル代表取締役 宮崎晃一郎氏

宮崎氏は、以前この連載でも取り上げたフルデジタルスピーカー「OVO(オボ)」を開発した人物であり、デジタルDJ機器である「GODJ」や「GODJ PLUS」などを開発してきた人でもある。残念ながら諸々の事情で、OVOやGODJを作ってきた会社で、宮崎氏が代表取締役を務めていたJDSoundは事実上解散してしまっているが、同じ社長・メンバーで現在、ミューシグナルという会社を運営している。

フルデジタルスピーカー「OVO」
GODJ PLUS

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先日、SNSでの宮崎氏の書き込みで、何やら面白そうなことを始めているようだったので、久しぶりに連絡を取ってみたところ、東京に機材を持ってきて、デモを見せてくれることになった。

見るまでは、まったくどんなものなのか分からずだったが、宮崎氏が持ってきたキャリーケースから取り出したのは、A4サイズほどの薄型スピーカーが10台。

薄型のスピーカー

それぞれに0、1、2、3……と番号が振られているのだが、「適当でいいので、番号順に反時計回りに1周設置してほしい」というので、会場になった知人のスタジオ内に皆でスピーカーを配置した。

スタジオ内の各所に薄型スピーカーを設置した

このスタジオには立派な同軸モニタースピーカーが設置されているのだが、今回の主役はその上やシンセの上などに置いた薄型スピーカー。それらのスピーカーにはUSBケーブルがぶら下がっていて、ここに宮崎氏が持参したモバイルバッテリーを接続。

スピーカー駆動用のモバイルバッテリーを接続

USBは単に電源供給するためのもので、モバイルバッテリーでも、ACアダプタでも、5V供給すれば使えるとのこと。続いて、宮崎氏はAC電源接続された白い箱型ルーターを足元に設置。さらにその上には小さなプラスチックの箱。見た感じ、Raspberry Piのようだが、これから何が起こるのか……。

ボードが入った、小さなプラスチックの箱。下の白い箱はルーター

その後、取り出したノートPC上でターミナル画面に表示される情報を見ながら、「これで10台ともつながりました」と宮崎氏。

Windowsマシンだとばかり思っていたが、撮影した写真を後から見て、Linuxだったことに気が付いた。「では、鳴らしますね」と言ってスタートさせると、10個のスピーカーからはクラシックが流れ出した。それぞれのスピーカーがバイオリン、ビオラ、チェロ、コントラバス、トランペット、ホルン……などとなっており、ちょっと変わった空間が演出される。

もっとも、各スピーカーのパワーがそれほど大きくないので、迫力という点では物足りなさもある。続いてジャズが演奏されると、これもそれぞれのスピーカーがピアノ、ギター、ベース、ドラム……となっており、気持ちよく音が流れ、立体的に音が鳴った。

Dolby AtmosやAuro-3Dといったイマーシブオーディオの世界とは違い、スピーカーを適当に設置しただけなので、何かの空間を再現する、というものではない。あくまでも10個のスピーカーから別々の音が鳴っているだけではあるけれど、普通に2chの音楽を聴くのとはずいぶん違った感じになる。

「実験用途で使える形で公開されているマルチの音源を、ミックスや加工などせず、そのまま鳴らしています」と宮崎氏。確かに、そのままマルチトラックをパラで再生しているだけなので、バランスとして優れているとは言い難い。ただ、5分ほどで適当にスピーカーを設置しただけで、こうした音響空間を作り出せるのは面白い。

Wi-Fiでマルチ信号を高速伝送。100m先でもキレイに同期伝送可能!?

ではいったい、何をしているのか。

「ルーターの上に置いているのがRaspberry Pi 4で、0~9の各スピーカーの中にはRaspberry Pi 3A+が入っています。これらがWi-Fiを通じて通信することで、オーディオ再生しているのです」と宮崎氏。

実は、最初に接続する際、ちょと動作にトラブルがあったために8番のスピーカーの中を開けて、手で再起動をかけていたので、中身を見せてもらったが、確かにRaspberry Pi 3A+があるとともに、ここにステレオのスピーカーユニットが入っていた。

薄型スピーカーの内部。ステレオのスピーカーユニットが見える

「実はこれ、デジタルスピーカーであるOVOの中身です。ステレオのスピーカーなので、それぞれステレオでRaspberry Pi 4と接続されており、全部で20chの信号を別々に送っているのです」と説明してくれた。

なるほど。となると、気になることがいっぱい出てくる。

具体的な技術の話の前に一つ気になったのが、宮崎氏は、OVOのユニットを利用した製品を作ることを前提に、このシステムを組んでいるのかという点だ。

「OVOは前の会社で開発したものであり、いったんは手放した形となりましたが、その後部材などは入手し、現在手元に1,000ユニット分ほどあります。ただ、ここで使っていたチップであるDnoteが生産完了してしまったこともあり、それ以上生産することはできません。今後、OVOやGODJなどの修理用部材としても使う必要があるので、OVOのユニットが前提ではなく、今後違うスピーカーと組み合わせていくことを検討しています」との返事。となると、ある意味スピーカーの性能等についてはいったん保留にして、今回のデモはオーディオのワイヤレス伝送の技術である、と捉えていいだろう。

続いて、伝送できるオーディオのフォーマットや圧縮について。

「今回はリニアPCMのまま非圧縮で伝送しています。デモでは44.1kHz/16bitで送りましたが、実験レベルにおいては今回と同じ20ch構成で96kHz/24bitでも伝送できています」とのこと。Bluetoothではなく、Wi-Fiを使っていることもあり、かなり高速での通信ができるようだ。

「このシステムを最初に披露したのは、6月末に、仙台の定禅寺通りの公園で行なわれた立ち飲みイベントで設置したことです。基本的な仕組みは、今回のものと大きく変わりませんが、このイベントのときは10台別々の音を鳴らすのではなく、すべて同じ音を鳴らすようにしていました。このスピーカーを座れる木箱の中に設置するなどして、音楽を流したのです。約10m間隔で、100mの距離で設置しましたが、真っすぐに歩いて行っても音の圧が変わらない、音の雰囲気が変わらないのは、ちょっと不思議な感じでもありました」(宮崎氏)。

仙台で行なわれたイベントの様子
イベント会場では、スピーカーを木箱の中に設置して音楽を流していたという

つまりWi-Fiで100mほど飛ばし、それぞれを完全に同期することができた、というわけなのだ。

「その後、オフィスに戻って、それぞれのスピーカーで別々の音を出したらどうなるかを試してみたところ、うまくいきました。今回、それを東京に持ってきてみたのです。今回は10台ですが、50台くらいまで、つまり100chくらいまでは行けそうです。2.4GHz帯は、人が集まる場所では不安定になりがちですが、直線距離で100mほどを途中配線なし、音ズレなしでリアルタイム配信することができました。遮蔽物がなければ、100m以上飛ばすことも可能そうです」と宮崎氏は話す。

オフィスでの実験の様子

とはいえ、距離が遠くなると、音が不安定になる可能性もあるだろうし、音の同期も難しくなりそう。その辺、どのように処理しているのか?

「実は、今回TCP/IPで音をパケット伝送するのはやめました。TCPだと、1台が遠くて途切れたりすると、そこにばかりパケットを送ろうとするので、音を鳴らす場合には問題が生じてしまいます。そこでUDPを使って送りっぱなしのプロトコルにしました。こうすると“ハンドシェイクせずに送りっぱなし”が基本になるため、遠いと音が出なかったり、プチプチと音が途切れる可能性はあります。が、届かないときには届かないと、割り切って音を伝送することで、マルチチャンネルを非圧縮な高音質で鳴らすことが可能になったのです」と説明してくれた。

宮崎氏

つまり、シビアに誤り訂正などを行なって伝送するわけではないから、確実に同期できるということのようだ。聴いたデモは、中枢マシンであるRaspberry Pi 4の中に20chを持たせたWAVファイル、つまりインターリーブファイルが入っており、それをパラで各スピーカーに飛ばした、というわけ。

宮崎氏の発言通り、100mまで広げてもキレイに同期して伝送できるとなると、用途は大きく広がりそう。巨大な空間にケーブルを引くのは大変な作業だし、チャンネル数が多くなればケーブルの本数、太さも尋常ではなくなる。それがワイヤレスで飛ばせて、音に劣化がないとなれば、大きな意義がある。

まあ、ホール配線といった常設のPAシステムであれば、ケーブルを回していくのが当然ではあるが、イベントなど仮設の場合は、簡易的に設置できるメリットは非常に大きい。それにイマーシブオーディオのスピーカー環境を揃える場合も、ワイヤレスであれば、接続や見た目の煩わしさが減って導入も楽になりそうだ。

こうなると、スピーカーユニット内蔵システムとしての需要はもちろん、「モニタースピーカーは自分で用意するので、ワイヤレスシステムだけ欲しい」という要望も出てきそう。

また今回はインターリーブのWAVファイル再生だったが、Dolby Atmosのコンテンツ再生であったり、DAWからの信号を割り振って、それぞれのスピーカーから出したいというニーズも登場しそう。そんな場合、たとえばDanteやAVBといったネットワークオーディオ信号を受けて、各スピーカーに飛ばせるようになると、引く手あまたなオーディオ伝送システムになるのではないだろうか。

さまざまなアイディアを元に、どんどん現実化させていく柔軟性のある会社なので、今後ここからどんな製品が出てくるのか、楽しみにしたい。

藤本健

 リクルートに15年勤務した後、2004年に有限会社フラクタル・デザインを設立。リクルート在籍時代からMIDI、オーディオ、レコーディング関連の記事を中心に執筆している。以前にはシーケンスソフトの開発やMIDIインターフェイス、パソコン用音源の開発に携わったこともあるため、現在でも、システム周りの知識は深い。  著書に「コンプリートDTMガイドブック」(リットーミュージック)、「できる初音ミク&鏡音リン・レン 」(インプレスジャパン)、「MASTER OF SONAR」(BNN新社)などがある。またブログ型ニュースサイトDTMステーションを運営するほか、All AboutではDTM・デジタルレコーディング担当ガイドも務めている。Twitterは@kenfujimoto