藤本健のDigital Audio Laboratory
第724回
広がりのある音で曲作りできる「MS処理」。普通のステレオとはどう違う?
2017年5月29日 12:32
オーディオ編集の手法としてMS(M/S)処理というものがある。MSとはMidとSideつまり真ん中の音と、左右広がりのある音に分けて処理するというもの。これによって、一般的なLRのステレオ録音に比べても、より広がりのある録音ができるのが利点。
最近は、CDなどの制作においても「MSマスタリング」といったものがときどき話題になるが、このDigital Audio LaboratoryでもMSマイクを搭載したZOOMのリニアPCMレコーダについて何度か触れる中でMS処理についても簡単に紹介したことがあった。ここでは改めてMS処理とは何なのか、またオーディオをMS編集することでどんなメリットがあるのかなどについて考えてみたいと思う。
MS処理とは?
MSは最新技術でも先端技術でもなく、アナログ時代からあるオーディオの伝統的な処理のひとつだ。もともとはノイマンのSM69というマイクに代表されるMSマイクと呼ばれるものを活用することから生まれた技術。これは正面を向けるMidマイクと、左右の双方向の指向性を持つSideマイクの2つを組み合わせた2chのマイクとなっている。
そのため、普通のステレオのレコーダで録音することはできるが、そのままMidをLチャンネル、SideをRチャンネルで再生してしまったりすると、かなり気持ち悪い音になる。そこで、このMidとSideを元にして、普通のLとRのステレオに変換してやる必要がある。それをMSデコーダと呼んでいるのだが、MP3のデコーダのように難しい処理をしているわけではなく、行なっているのはものすごくシンプルなものなのだ。具体的に言うと、下の式で表される。
L = Mid + Side
R = Mid - Side
このように単なる足し算と引き算で求められるのだが、これはアナログ回路的にもいたって簡単。LはMidとSideを単純にミックスすればいいわけだし、RはSideを逆相にした上でMidとミックスすればいいのだ。もちろん、これをデジタル処理するのも極めて簡単な話だ。
でも、なぜそんな足し算や引き算をしてまでMSマイクを使う必要があったのか?実はここには非常に大きなメリットがあったからだ。前述のとおり単に足し算、引き算をするとLRのステレオができあがるのだが、この際のMidの音量とSideの音量を調整することで、できあがるLRのステレオの聴こえ方に大きな変化が起こる。
もう少し具体的にいうとMidの音量を少し上げてからデコードをすると、センターの音量が大きくなるのに対し、Sideの音量を上げてからデコードすると、広がりのある音となる。つまり、マイクの指向性を録音した後に変化させることができるわけなのだ。これは一発録りのレコーディングにおいては、まさに画期的な手法であり、だからこそ、今でもMSマイクが利用されている。
一般ユーザー向けのMSマイクの製品化を積極的に行なっているのがズーム。以前にも紹介したH2nやH6といったリニアPCMレコーダがMSマイク対応になっていたり、iPhone用の外付けマイクであるiQ7といったMSマイクを出しているほか、DAWのプラグインとして使えるMSデコーダを無料配布している。そうのため、こうした機材・ソフトを利用することで、身近な音をMSマイクで収録し、それをPCでソフトを使ってデコードすることで、手軽にMSマイクの面白さを実感できる。
LR収録した音をMS処理するとどうなる?
ここまではMSマイクを用いたMS処理の基本を紹介してきたが、今回の本題はこれから。すでにできあがっているLRのステレオ素材、つまり手持ちのCDでもいいし、ダウンロード購入した音楽素材いいので、それらをMS処理したらどんなことができるのか、ということ。でも、MSマイクと異なり、これら一般的なオーディオデータはMidとSideに分かれたデータではなく、LとRに分かれた信号となっている。そこでまずはLRのステレオデータをMSのデータに変換してしまうのだ。それをMSエンコードと呼んでいるのだが、これもいたって簡単。先ほどのMSデコードの逆の計算を行なうだけだから、方程式を立てれば中学生でも簡単に解ける。具体的にいえば下の式で求められる。
Mid = (L + R)÷2
Side = (L - R)÷2
先ほどの回路でいえば、反対方向に信号を流すだけの話だ。前出のZOOMのプラグインの場合、MSデコードのみに対応しているが、Voxengoという海外プラグインメーカーが出しているフリーウェアのMSEDを使えばエンコードもデコードもできる。さらに波形編集・マスタリングソフトであるWaveLab Pro 9であれば、わざわざエンコードするまでもなく、LRステレオとMSステレオを瞬時に切り替えられるようになっているのだ。しかも、画面や編集作業はMSで行なっていたとしても、再生するときには自動的にMSデコードされるので、普通にLRステレオとしてモニター出力できるという手軽さがあるので非常に便利なのだ。
実際にWaveLab Pro 9を使ってみると、たとえばCDから取り込んだ音を表示させるとLRステレオとして波形表示される。ここで左下のタブをクリックすると一瞬でMSステレオの表示に切り替わるのだ。たとえば曲を再生しながらでもLRとMSを行ったり来たり切り替えることが可能となっているのだ。
では、この状態でMidチャンネルの音量を上げていくとどんなことになるのか。聴いてみるとわかるがボーカルなどセンターの音がより前に出てくる。反対にMidを下げて、Sideを上げていくとよりステレオ感のある広がりのあるサウンドが作れる。これはリバーブなど空間系のエフェクトで広げるのとはまったく違い、音がボヤけたり、残響が激しくなるようなことはなく、クッキリと音が広がってくるのだ。
例として、筆者が作ったサンプル音源を聞いてみてほしい。最初がオリジナルのステレオ音源で、次はSideだけの音量を上げたものだ。
【サンプル音声】
・オリジナル音声demo_org.wav(2.48MB)
・Sideの音量だけを上げたものdemo_ms.wav(2.48MB)
最近は音圧を上げるために、思い切りマキシマイザーを使う例が少なくないが、マキシマイザーを使うとどうしても音の広がりが狭くなってくる。そこで、マキシマイザーをかけて狭くなった音をMS処理のSideを上げてMidを少し下げることで、ぐっと広がりのある音へとブラッシュアップすることができるのだ。
このようにMidとSideに分離できることのメリットは単に音量の調整に留まらないのがMS編集の面白いところだ。
たとえば、ボーカルがほかの音に埋没してやや目立ちにくい状態になっていたとしよう。ここでMidの音量を上げるのも手ではあるが、それだと中央に定位しているほかの音も一緒に大きくなってしまう。そこでMidチャンネルにのみEQをかけ、この中域だけを持ち上げる処理をすれば、音量バランスを崩すことなく、ボーカルだけを目立たせることが可能になるのだ。
反対に左右にパンニングされているギター、シンバルであればSideチャンネルのみにDesserをかける処理によって、ボーカルなどに影響を与えることなく耳馴染みのいいサウンドに仕上げるといったことも可能になる。
さらにマニアックな編集方法を考えると、たとえばサビパートで左右(Side)からダブルで入ってくる歪みギターをサイドチェインにして、ボーカルとキック(Mid)にコンプを強めにかける……といった使い方もできるなど、アイディア次第で普通のステレオ編集では絶対できないような処理が可能になってくる。これがMS編集の面白いところなのだ。
MS編集で音作りに様々な可能性。注意点も
こうした音作りは、DAW上での曲作り中に活用するのも手だが、ここまで見てきたような、すでにでき上っているオーディオ素材に対してMS処理を施すことで、自分だけのリマスタリングといったことが可能になる。通常リマスタリングというと、EQとコンプで音質と音圧をいじることを意味するが、MS処理を用いれば、より積極的な音作りが可能になってくる。もちろん著作権のある音素材を勝手に再配布することはできないが、私用の範囲で大きくいじってみるのも現在のオーディオの楽しみ方の一つといえるのではないだろうか?
ただし、MS編集において気を付けなくてはいけない点もある。それはもともと作られていたステレオ感を大きく損ねてしまう可能性があるということ。もちろん、それを分かった上での処理ではあるが、結果として作品の世界観がまったく異なるものになってしまうことがあるのだ。同様に音のミックスバランスも大きく崩してしまうことになりうる。たとえばボーカルとコーラスのバランスやバックの演奏とのバランスなど、意図して作られていたものが大きく変わってしまうということは十分理解した上で使ってみるといいだろう。
なぜ左右の信号を足したり引いたりするだけで、ここまですごいことができるのか、頭で分かっても、不思議に感じてしまうところだが、まだMS処理を体験したことがない方は、ぜひ一度試してみることをお勧めしたい。