藤本健のDigital Audio Laboratory
第978回
大量のスピーカーが演奏!? 「無人オーケストラコンサート」に行ってみた
2023年3月27日 08:00
3月25日、横浜みなとみらいホールで「無人オーケストラコンサート」(主催:横浜みなとみらいホール、共催:横浜アーツフェスティバル実行委員会)なるちょっと不思議なコンサートが行なわれた。
その名の通り、人がいないのに、まさにオーケストラが演奏しているかのように大迫力の演奏が聴けるというユニークな企画。ホールのステージ上には、本来60人以上の演奏者がいるべきところ場所に、それぞれ1台ずつスピーカーが設置され、そこから音を出すことで、まるでオーケストラが演奏しているかのような臨場感ある音を再現するというもの。
その不思議なコンサートに参加するとともに、関係者の方々からお話を伺うことができたので、その企画意図や技術背景などを紹介していこう。
無人オーケストラとは?
この無人オーケストラコンサートが行なわれたのは2020年12月9日に続いて、今回が2回目とのことだが、初回のことはまったく知らず、筆者がこの企画を知ったのは昨年10月のこと。
無人オーケストラコンサートのナビゲーター役ということでゲスト出演を予定していた声優の小岩井ことりさんサイドから、このイベントを知らせてもらったのだ。
企画内容が面白そうだったのと共に、「横浜市内に在住・在勤・在学の方」限定で申し込みが可能で、応募多数だった場合は抽選、と記載されていたが、幸いにして横浜市民で横浜勤務なので、さっそく申し込んだ。無事当選し、行く気満々だったのだが、開催の一週間前に、ホールでスプリンクラーの事故よる漏水があり、ホールの利用が中止となり、イベントも残念ながら中止になってしまった。
このホール、約2年間の改修工事が行なわれ、その新装オープンのこけら落としとして、無人オーケストラコンサートが開催されることになっていたのだが、この不慮の事故で見送りとなってしまったのだ。大きな被害が出たのかな……と心配したが、無事復旧。5カ月遅れで開催されることになり、改めて申し込んだ上で、行ってきたのだ。
横浜市民ではあるものの、実はこのホールに行ったのは今回が初めて。定員が2,034人というまさに大ホールで、2階席、3階席もあり、正面に非常に巨大なパイプオルガンがあるのが印象的。
ステージ上を見てみると、なるほど座席の上に数多くのスピーカーが置かれている。ヤマハと、NHKテクノロジーズが協力会社として入っていたこともあり、ここに並んでいるスピーカーはモニタースピーカーの「HS5」やステージモニターのDXR8mkIIやCZR12、ポータブルPAシステムのStagepas 1k mkIIなど、すべてヤマハ製となっているようだ。
コンサートスタート前に、この無人オーケストラコンサートを企画した、「横浜WEBステージ」のクリエイティブ・ディレクターである田村吾郎氏に話を伺うことができた。
「コロナ禍でリアルな演奏会が難しくなっていたタイミングで、いろいろなテクノロジーを使いながら、活動の場が減少しているアーティストの支援をしていこう、という目的で誕生したのが横浜WEBステージです。360度VRやったり、マルチカメラを使ってみたり、立体の3Dデータ化したものを使うなど、さまざまな試みを行う中、スピーカーを使ってオーケストラを再現する無人のコンサートをやってみたい……という話になったんです」。
「実は僕の父が音楽系だったこともあり、子供のころにオーケストラのコンサートによく連れていかれたのですが、2時間のコンサート中、じっとおとなしく座っていなくてはならないのが、結構つらかったんです。つらいというより、あのキラキラしているステージに行ってみたいとか、どんな音が出てるのか確認しに行ってみたい……と思っていました。でも、おとなしくしていなくてはならないのがストレスで」。
「でも“スピーカーのステージ”なら、それやってみていいよね、そんなことができたら面白いのでは、と。みんなが動き回りながら、音の違いを楽しみながら聴ける。前のほうの左側に行けばバイオリンが強く聴こえるし、後ろの席に行けばオーケストレーションがまとまって聴こえる。ステージ後ろの席に行くとティンパニーがすごく速く聴こえたりするじゃないですか。そんな音の違いを楽しんでもらうことこそ、テクノロジーを使う意味があるんじゃないかと企画をそっちの方向へと変えていったのです」と田村氏。
「さらに、普段オーケストラの生のコンサートに来れないような方に来てもらおう、とも考えました。実際に来れない人って誰かと言うと障がいを持った方々なんですよ。今日の前半の部ではたくさんの方に来ていただきましたが、ストレッチャーで来てもらったり、呼吸器をつけた形で来てもらったりもしています。そもそも呼吸器など生命維持装置だと音がすることもあり、普通のコンサートだとなかなか行くことができません。そうした方にステージに上がってもらって、さまざまな音を楽しんでいただきました」。
「一方で、小学校の生徒さんにも来てもらって、動き回りながらオーケストラの成り立ちを見てもらったり、各パートって実はこんなことをやっているんだ、とオーケストラを分解して間近で聴けるみたいなことを体験してもらうと、今回の企画を進めてきたのです」と田村氏は話す。
では、これらスピーカーから出てくる音は何を再現しているのだろうか? その音のレコーディングを行なったのがNHKテクノロジーズだ。
デジタル開発技術本部・企画・推進部の事業開発部長・和田浩二氏は、「横浜シンフォニエッタという管弦楽団に、実際この横浜みなとみらいホールで演奏してもらったものを収録しています。今回まさにスピーカーが置いてある位置に実際の演奏者が座って、そこに1本ずつマイクを設置して収録しています。また、今回は同じホールで再現していますが、場合によってはまったく違う場所でも横浜みなとみらいホールの響きを再現することができるよう、アンビエントマイクも多数設置して収録しています。そして、できる限りリアルな音で再現させることを目的としていたため、すべて24bit/96kHzで収録しているのも大きなポイントとなっています」と話す。
実際にレコーディングを担当したメディア技術本部番組技術センターの制作技術部で音声担当の山口朗史氏は「収録はPro Toolsを使っています。素材としては67chで録っていて、そのほとんどは楽器1つに対しマイク1つという関係ですが、ティンパニーやピアノにおいてはL/Rのステレオで収録しています。マイクはNeumannやSennheiser、SCHOEPSなど各楽器に合わせたものを使っていますが、いわゆるアタッチメントタイプのものではなく、それぞれスタンドを立てて設置しています」。
「さらにアンビエンスマイクや22.2chに対応したマイクなど合わせて、トータル139本のマイクで収録しました。前回2020年に行なったときは、ステージ上のスピーカーだけで再現させたのですが、やはり空間再現率という意味では、物足りなさがありました。そこで、今回はヤマハさんにも収録の時点から協力いただいた結果、パイプオルガンの後ろ、2階席に6つのマイクを置いて収録。再生時もここにスピーカーを置いて再生することによって、かなり臨場感を出すことができました」とのこと。確かに2階席に行くと、パイプオルガンの周りに6つのスピーカーが設置されており、ここからも音が出るようになっている。
さて、その再生側の機材はどうなっているのか? ヤマハの奥村啓氏によると、「このホール内には、パイプオルガンのところの6つを合わせ、全部で69個のスピーカーを設置しています」。
「そのうち、ステージ左右にある2つがサブウーファーなので、チャンネル数的には67chとなります。NHKさん側が持ち込んでいるPro Toolsからヤマハのコンソール、RIVAGEへその67chをMADIで送り、ここからはDanteでステージ側へと伝送しています。ステージ上および、パイプオルガンの横にDanteを受けるI/O Rackが設置されており、ここからはアナログで各スピーカーに接続しています。基本的には、ほぼスルーさせる形でDanteに送っていますが、若干EQで補正している程度です」と奥村氏。
ちなみに各スピーカーは椅子の上に台座として木箱が置かれ、その上設置されるなど、さまざまな工夫がされている。またまるでチェロやコントラバス風に見えるStagepasも視覚的にいい役割をしているように思えた。そして各スピーカーの上には「1st ヴァイオリン」、「ヴィオラ」、「オーボエ」……と楽器名と絵が描かれたPOPが設置されているのも楽しいところ。
さらに、このオーケストラの臨場感を高めるユニークなシステムとして設置されていたのがステージ中央にあるグランドピアノ。これはヤマハの自動演奏ピアノであるDisklavier。これがPro Tools側と同期する形で自動演奏される仕掛けとなっていたのだ。
これもレコーディング当日に演奏されたものが記録されており、鍵盤のタッチやペダルの動きまで正確に再現される。もちろん生音そのものなので、オーケストラの再現には大きく貢献しているのだ。
無人オーケストラを聴いてみた
そんなシステムが構成されるホールに観客が集まり、16時ちょうどに照明が暗くなるとともに演奏がはじまった。
冒頭で演奏されたのはストヴィンスキー作曲、バレエ音楽≪火の鳥≫組曲(1919年版)より「カスチェイ王の魔の踊り」。1階席後方で聴いていたが、確かにオーケストラが演奏しているような音の広がりだ。弦楽器、管楽器の空気感も感じられるサウンドであり、リアルに再現している。
では、100%生のオーケストラと同じかというと、さすがに違いはある。ティンパニーの音などはサブウーファーのパワーもあり、いいところまで行っているとは思うものの、ホール全体を振動させるところまでは来てないため、やや劣る面はあるけれど、これだけの再現性、これだけの音の響きがあれば、エンターテインメントとしては十分成立している。
1曲目が終わったところでステージには司会者とともに声優界随一の「オーディオ好き」としも知られる小岩井さんが登場。無人オーケストラコンサートの成り立ちや企画意図などの紹介があったのち、2曲目の演奏、モーツァルト作曲、ピアノ協奏曲 第20番 ニ短調より第二楽章の演奏がスタート。ここではDisklavierの演奏も加わって1曲目以上の臨場感を出していた。
小岩井さんは「普通は2つのスピーカーだけで聴くわけですが、ここにはたくさんのスピーカーがあることで、普通では絶対に表現できない音を体験することができました。私も実際に、会場をいろいろ回って聴いてみましたが、場所によって音の聴こえ方が大きく変わるところが楽しいですね。二階席の真ん中あたりが一番まとまりがあって、素敵な音になっている、と感じました。ぜひ、後ほどみなさんも、いろいろ回って音の違いを体験してみてもらえればと思います。そして、絶対にこの無人オーケストラでしか味わえないのが、ここの席です」と、Disklavierの前のピアノ椅子を指差す。
「ステージ上のここにきて、ピアニストになった気持ちで座ってみてください。迫力あるピアノの音が間近に感じられるのはもちろんですが、意外といろんな楽器の音がハッキリと大きく聴こえるので、面白いですよ。ピアニストの方はこんな環境の中で弾いていらっしゃるんだ! って。こんな体験は、きっと、今日、ここでしかできないので、ぜひみなさん楽しんでみてください」。
そして小岩井さん解説の元、「火の鳥/終曲」の一部、約30秒をセクションごとに流していく実験が。まずは鍵盤楽器と打楽器のみ、2番目に管楽器のみ、3番目に弦楽器のみ、最後にすべて同時に流すことで、各楽器の音がどこから、どのような役割で鳴っているのかを確認できた。
その後、3曲目としてモーツァルトの「ピアノ協奏曲」の第一楽章の演奏が始まるのだが、この曲の演奏時間は約14分。司会者から「それではここで会場全体を使って、場所による聴き比べを体験していただきましょう。客席だけでなく、ステージにも上がってスピーカーの近くで、音圧・振動なども感じてみてください」という案内が。
来場者の多くがステージに向かうとともに、いろいろな場所へと分散。子供たちも興味津々にスピーカーを覗き込んだり、ピアノの前の椅子に座ってみたり……。オーケストラの演奏というと、子供には退屈なものになりがちだが、ここまでみんな嬉々としてクラシックなサウンドを楽しむケースはなかなかなさそうだし、きっといい経験になったはずだ。
最後にチャイコフスキー作曲、バレエ音楽≪くるみ割り人形≫組曲 op.71-aより第8曲「花のワルツ」。ここでも約7分間の演奏の間、みなさんホール全体で音の探索をしながら楽しんでいるようだった。
かなり大掛かりなシステムであり、簡単にできるイベントではないと思うが、もしまた開催されるようであれば、普段コンサートに行けない障がい者の方や子供はもちろん、多くの人たちが参加できると、楽しい体験ができるはずだ。