藤本健のDigital Audio Laboratory

第624回:ハイレゾ5.1chサラウンド楽曲を配信する「HD Impression」収録の舞台裏

第624回:ハイレゾ5.1chサラウンド楽曲を配信する「HD Impression」収録の舞台裏

 2007年、この連載において「かないまるルームで生まれる究極のSACDとは?」というタイトルで4回に渡って記事を書いたことがあった。これは藤田恵美さんのSACDのアルバム「camomile Best Audio」の制作現場の密着取材だったが、それ以来、何度もサラウンドサウンド作品制作について取材し、記事にさせてもらってきたレコーディングエンジニアの阿部哲也氏。その阿部氏自らが新レーベル「HD Impression」を立ち上げ、先日e-onkyo musicから3つのアルバムをリリースした。

レコーディングエンジニアの阿部哲也氏

 この3つのアルバムに共通するのは、ハイレゾのサラウンド作品であるという点。HD Impressionでは、今後もハイレゾ、サラウンドをキーワードに制作をしていくとのことだが、その3作品の配信を記念する試聴イベントが、2月21日に東京・八重洲の「Gibson Showroom Tokyo マリンシアター」で行なわれた。この3作品のミックスもこの部屋で行なわれたとのことだが、その試聴イベントに参加するとともに、阿部氏に今回の制作についていろいろうかがったので紹介していこう。

「HD Impression」作品の試聴イベントがGibson Showroom Tokyo マリンシアターで行なわれた

レコーディングエンジニア一人で立ち上げた新レーベル

 サラウンドというと、映画やゲームなどで、派手に目まぐるしく音が回るものをイメージする人も多いと思うが、いま音楽作品としてのサラウンドも少しずつ増えてきている。ただ、現状として、まだ音楽のサラウンド作品の形が固まったとはいえない状況なのも事実。やはり派手に多方向から音が出てくる作品もあれば、指揮者になった気分のように音楽が聴けるもの、観客席にいるような感じで聴けるライブ作品……などいろいろで、まだみんなが試行錯誤をしているという状況なのだと思う。

 そうした中、阿部氏が追求しようとしているのが「音の感動」。生で聴いたときの感動を、そっくりそのままに再現して届けたい、という思いなのだ。2007年に密着取材した「camomile Best Audio」は、マスタリングにも立ち会った「What a Wonderful World」が日本オーディオ協会による2008・第15回日本プロ音楽録音賞の優秀賞を受賞するなど、SACDとしては大ヒット作となったが、その後に制作過程を密着取材したHYPSの「Chaotic Planet」もオーディオファンの間では伝説的な作品となっている。

 そのレコーディングエンジニアである阿部氏が、なぜ自らレーベルを立ち上げることになったのだろうか?

「camomile Best Audioで初めて本格的なサラウンド作品を手がけましたが、金井隆さんのアドバイスもあり、サラウンドを作る楽しさ、そして聴く楽しさを知ることができました。どのように制作するといいのかというアイディアはどんどん浮かんでくるのですが、サラウンド制作は普通のレコーディングと比較して、時間もパワーもかかり、結果的に多くの予算が必要となってしまいます。そのため、いざ実現しようとすると、なかなか難しいのが実情でした。それならば自分でレーベルを作り、すでにいろいろお付き合いもあるe-onkyoさんで配信しようという思いに至り、HD Impressionを立ち上げたのです」と阿部氏。

「HD Impression」のロゴ

 レコーディングエンジニアが、しかも一人でレーベルを立ち上げるという例はそれほど多くないように思うが、そもそも予算が多くかかるサラウンド作品を実質一人の小さな会社で作っていくことなど、無謀ではないのだろうか?

「無謀だとは思います(笑)。ただ、サラウンド作品を作るための機材は手元にあるし、ノウハウもいろいろと身に付けてきました。大きいスタジオを長期間借りたりすればお金はかかりますが、ライブの収録ならそこに大きな費用がかかるわけではありません。問題はどうやってアーティストを集めるかでしたが、周りの方々の協力もあり、なんとかリリースまでこぎつけることができました」(阿部氏)。

教会での聖歌をサラウンドで収録

「La Preghiera」/みくりやクワイア

 今回の試聴イベントでは、アーティストも登壇する形で制作した順に披露されていったのだが、最初にプレイされたのは「みくりやクワイア」という3人のユニットのアルバム。東京・麻布にあるセントメアリー教会で10年以上の専属ソリストとして活躍する完全なクラシカル・サウンドで、3人の聖歌隊とパイプオルガンによるサウンドだ。ここで、阿部氏が来場者に向けて行なったのが、ちょっと面白い実験。サラウンドなので、もともと6chのマイクでレコーディングしているのだが、このアルバムとしては2chのステレオミックスしたものと、サラウンドのものがある。最初にステレオを再生し、続いてサラウンドに切り替えたのだ。最初のステレオでも、ハイレゾのかなりキレイで透明感のある讃美歌が会場に鳴り響いたのだが、サラウンドに切り替えると、会場からは「おおぅ! 」という声が漏れるほど、リアルな音に変わったのだ。サラウンドといっても映画のアクションシーンや、ゲームの効果音のような派手な演出がされているのではない。まさに教会の中にいるのではないか、と錯覚するようなリアルな立体感が得られるのだ。

 イベント会場には3人のメンバーのうち、みくりやさん、菜絵さんの2人が来ていたが、口々に「教会と同じ音がする! 」と言っており、ハイレゾ&サラウンドによる音の再現性はアーティスト自身にも十分感じられるようだ。

「『みくりやクワイアというすごくいいアーティストがいるよ』という紹介を受けた際、実はメンバーに会う前に教会に行ってみたんです。入ってみると、まあ素晴らしい響きなんですよね。その瞬間に、絶対ここでやりたいと思いました。音がキレイに上に上がって行って、響きがすぅっと後ろに下がっていく。響いている音がまるで見えるようで、サラウンドには最適なんです。その後、実際に、みくりやクワイアのみなさんの歌をここで聴いてみて、思った通りの最高のサウンドでした。ここにマイクとレコーディング機材を持ち込み、5月~10月くらいまで半年ほどかけて、4~5回のレコーディングしていきました」と阿部氏は振り返る。

 実際、今回の3作品の中では、じっくり作り込んだというのが感じられる音になっていた。

みくりやさん(右)、菜絵さん(左)
東京・麻布のセントメアリー教会で収録

“響かないホール”でも、演奏会場の音をリアルに再現

 2番目に登場したのはチェロ奏者の植草ひろみさん。今回のイベントには来れなかったが、ハープ奏者の早川りさこさんとデュオでのコンサートを全国で行なっており、HD Impressionで出したアルバムは、千葉県野田市にある欅のホールで10月に行なわれたコンサートを一発録りしたもの。イベント会場で、サラウンドサウンドが再生して驚いたのは、少しガヤガヤした雑踏からスタートしたこと。いわゆるHi-Fiなキレイなレコーディング・サウンドではない。目をつぶったら、「ここはコンサートホール? 」と思うような雰囲気を感じさせるリアルさなのだ。

チェロ奏者の植草ひろみさん
「Song of the Heart」/植草ひろみ, 早川りさこ

「最初に阿部さんに声を掛けてもらったときは、本当にハイレゾって何? サラウンドって? というところでした。でも、コンサートを終え、レコーディングされた音を、ここで聴いたときには驚きました。その時の状況、その瞬間での気持ちがリアルに蘇ってくるんですよ」と植草さん。

「私たちもいろいろなホールで演奏をしているけれど、響いて気持ちのいいホールと、そうでもないホールというのがあるんです。今回のアルバムを収録したのは、その後者。一度下見にも行ったのですが、とにかく響かない。どこが一番響くだろうかと、いろいろな場所を探してみたり、弓を大きく動かしてみたりと、いろいろと苦労したんですが、この音を聴くと、そのときの困惑した状況がありありと浮かんでくるんですよ」と続ける。

「こちらも録音する際に、どうしようかとレコーディングポイントをいろいろと探しました。結局は二人の前、約2~3メートルのところ、ステージギリギリのところにマイクを立ててレコーディングしています。『なるべく目立たないように! 』と注意されながら、必死にやりましたよ。でも、実際に音を聴いてみると、質感は悪くないんですよね。確かに響いてはいないんだけど、楽器そのものが持っている音色、弾いている人の気持ちがダイレクトに伝わってくるんです。響けばいいってもんじゃないし、これはこれでアリなのではないでしょうか? 」と阿部氏。

収録の様子

 なるほど、そんな話を聞いた上で、改めて演奏を聴いてみると、ホールの情景が目に浮かんでくるようだ。演奏中も会場からの音が聴こえてくるが、ノイズというよりも会場にいるリアル感を演出する感じでなかなか面白い。

「さすがに咳払いなど、ひどく目立つノイズだけは丁寧に除去したところがありましたが、基本的にそのままにしています。実は会場からのノイズだけでなく、空調のノイズが大きくて途中で止めてもらったりもしたんですよ。これをステレオミックスしてしまうと、やはりノイズが結構気になるのですが、サラウンドだとまったく気にならないのは、リアルな音だからなんだと思いますよ」と阿部氏は答える。

 一方、植草さんによれば「確かに、あのときの気持ちが蘇ってくるのですが、この音は観客席で聴く音であって、私がチェロを弾きながら聴く音とは違うんですよね。普通に録音した音はもちろん聴いたことはありますが、これはまさに生で聴く私の演奏。自分の演奏を生で聴くことは不可能ですから、これは本当に初めての経験です。ハイレゾ、サラウンドのすごさというのがよく分かりました」とのことだ。

木のホール特有の響きでピアノを収録

 そして3番目に登場したのは新進ジャズピアニストの高木里代子さん。「ハイレゾって、最近よく聞くけど、どんなの? じゃあ、やってもらおうじゃないの! って、成城学園にある小さなホールでライブをしたときに阿部さんに録ってもらったんですよ」と話す高木さん。サローネ・フォンタナという木造の小さなホールに、ベーゼンドルファーの古いやや小型のグランドピアノが置かれているのだが、これを使ってのソロピアノ・コンサートを収録した。

ジャズピアニストの高木里代子さん
サローネ・フォンタナというホールにあるベーゼンドルファーのグランドピアノで演奏/収録

 このホールも事前に見に行ったという阿部氏は「すごくピアノ音が良い。木の建物だからこその、とても柔らかい響きなんです。これはいける! って思いましたよ。ただ、高木さんに初めて会ったのはレコーディングした当日。もちろん、YouTubeとかで弾いている姿は見ていたんですが、ジャズ界の異端児と言われる女性が弾くピアノって、どんな音なんだろう…と思っていました。そうしたら、ものすごいパワーがある音で、ビックリしましたね。それが、このホールでの響きと相まって、すごくいい音になるんですよ」という。

「Salone」/高木里代子

「これ聴くとマジでヤバイですね(笑)。あのときの緊張が蘇ってきて、ちょっと聴いていられなくなってきた。しかもお客さんからの『イェーイ! 』って声やそれに反応して私も『イェーイ! 』って返しているのも入っているし……(笑)」(高木さん)。

「それだけじゃなく、2部の最初の曲には、よく聴くと傍を走る救急車の音も入ってるんですよ。やはり木のホールだけに、防音性はあまり高くなく、外の音まで入ってしまうのが難点であり、レコーディングしているときは、失敗だ……とも思ったのですが、改めて聴いてみると、サラウンドだと意外と調和してしまうんですよね」と阿部氏も話す。

 この試聴イベントで流したのは計6曲と、藤田恵美さんの「What a Wonderful World」を入れた7曲。B&Wのスピーカー「Matrix 801」を使ったサウンドを聴く機会というのは、そうそうあるものではないが、来場者は一応に満足した様子だった。ちなみに、これを鳴らすアンプにはオンキヨーのAVアンプ「TX-NR3030」が用いられ、ハイレゾ・サラウンドのデータの収納にはバッファローのNASが使われていた。

B&W Matrix 801など、試聴に使われたマリンシアターのスピーカー
試聴時の様子
オンキヨーのTX-NR3030
バッファローのNASにデータを収納

立体感ある録音をコンパクトなシステムで実現

 ところで、阿部氏による一連のレコーディングにはどんな機材が使われていたのだろうか? これについては、阿部氏に事前に話も聞いていたので、その辺についても紹介してみよう。

 3つのアルバムにおいて、マイクのセッティング位置に違いはあるものの、基本的にはどれもすべて同じ阿部氏特性のワンポイントマイクが使われている。

阿部哲也氏

「その場にいたように、その時の音を忠実に録音するのであれば、やはり1点から多方向に向けてマイクをセッティングするのがベストです。どんなマイクを使い、どんな角度に設置するのがいいか、これまでずっと試行錯誤をしてきました。これが私のノウハウなのですが、まあ明かしてしまいましょう。まずもっとも重要な前方向にはDKのマイクを用い、角度を110度にするとともに、耳と同じ程度の距離に離しています。後ろ方向にはNEUMANNのKM184を115度で設置しています。さらに真ん中にはAKGのC414を左右2つ置いています。C414は双指向性というモードがあるので、これを使って上と下の両方を録っているのです」と種明かしをしてくれた。天井から、床からの反射音を録ることによって上下関係が認識できるようになるのだとか。

「LとRの縦に合わせた軸上にC414を2本置くことで位相が合うんでしょうね。スピーカーで鳴らしたときに、明らかに上下方向が見えるようになりました」と阿部氏は話す。

 これら6つのマイクはすべてMOTUのオーディオインターフェイス、MOTU896へと入力される。これをMac Book Air上で動くDigital Performer 7.1でレコーディングしているのだ。マイクセットが多少かさばるものの、これならかなりコンパクトなシステムであり、一人で持ち運ぶのにもあまり苦労はなさそうだ。

 阿部氏によれば「ダミーヘッド型のマイクを使って録ることで、より簡単にそして忠実に上下関係を含めて表現することができますが、これはあくまでもヘッドホン用のレコーディングであって、ダミーヘッドで録ったものをスピーカーで再生してもサラウンドにはなりません。擬似的なサラウンドならアンビエンスマイクを立てて……という手段もありますが、やはりその場の雰囲気を再現することはマルチポイントのマイクでは不可能なんです」とのこと。確かに、音の反射は本当に複雑でばらばらなので、マルチポイントにマイクを立てて、その場の音を再現できるわけがない、ということなのだ。

 このようにしてレコーディングした音源のミックスは、試聴イベントが行なわれたGibson Showroom Tokyo マリンシアターで行なわれている。以前の「camomile Best Audio」や「Chaotic Planet」のミックス、マスタリングはソニーの金井隆氏のスタジオで行なっていたが、今回はなぜマリンシアターで行なったのだろうか?

B&W Matrix Matrix 801

「もちろん、最初に金井さんにはお声掛けさせていただきました。しかし、その後、金井さんも立場が変わられたこともあり、以前のように自由にスタジオを使わせてもらうのは難しいとのこと。こちらも予算的にもほとんどなかったため、金井さんのところでのミキシングは諦めました。一方で、ポニーキャニオンでのサラウンド音源をe-onkyo musicで配信させていただき、今回の作品もすべてe-onkyo musicで出すということもあり、マリンシアターを使わせていただくことができたのです。たまたまではありますが、金井さんのところにあったのと同じB&Wの801。サラウンド作品のミックス用には最高の環境でした」と阿部氏は話す。

 やはりミックスしたのと同じ場所、同じ環境で再生したからこそ、最高のクオリティーで聴くことができたわけだ。とはいえ、これと同じと言わなくても、サラウンド環境があれば、HD Impressionの3つのアルバムの臨場感は味わえるはず。なお、ドルビーTrueHD/FLAC/WAVのサラウンド音源の再生方法についてはe-onkyo musicのサイトで説明している。映画やゲームのような奇抜なサウンドとは異なるが、まさにコンサート会場にいて目の前で演奏しているような雰囲気を楽しめるので、ぜひ試していただきたい。

【e-onkyoで購入】
みくりやクワイア/La Preghiera
植草ひろみ、早川りさこ/Song of the Heart
高木里代子/Salone

藤本健

 リクルートに15年勤務した後、2004年に有限会社フラクタル・デザインを設立。リクルート在籍時代からMIDI、オーディオ、レコーディング関連の記事を中心に執筆している。以前にはシーケンスソフトの開発やMIDIインターフェイス、パソコン用音源の開発に携わったこともあるため、現在でも、システム周りの知識は深い。  著書に「コンプリートDTMガイドブック」(リットーミュージック)、「できる初音ミク&鏡音リン・レン 」(インプレスジャパン)、「MASTER OF SONAR」(BNN新社)などがある。またブログ型ニュースサイトDTMステーションを運営するほか、All AboutではDTM・デジタルレコーディング担当ガイドも務めている。EPUBマガジン「MAGon」で、「藤本健のDigital Audio Laboratory's Journal」を配信中。Twitterは@kenfujimoto