藤本健のDigital Audio Laboratory
第903回
Apple Musicの空間オーディオはどう作る? Pro Toolsプロに話を聞いた
2021年7月12日 10:23
ソニーの360 Reality Audioのスタートから少し遅れ、6月8日から国内外で始まったApple Musicでの“空間オーディオ”。360 Reality Audioがソニーオリジナルの方式を使った立体音響であるのに対し、Apple Musicは現状、Dolby Atmosを使ったものとなっており、Dolby Atmos for Headphonesという技術を用いてヘッドフォン用のバイノーラルサウンドにしているようだ。
Apple Music全体でみれば、空間オーディオの割合はまだわずかだが、それでも海外作品を中心にしてある程度の楽曲が揃い始めている。アップル自身は、このDolby Atmosに対応したコンテンツを制作するためのツールを同社DAW「Logic Pro」用にリリースすると発表しているが、現時点ではまだそのツールは存在していない。
では、既存の空間オーディオのコンテンツはどのように作ったのか? というと、現在ある楽曲の多くがアビッド テクノロジーの「Pro Tools」でレコーディング、ミックスされており、そのアビッドが提供しているDolby Atmos用制作ツール「Dolby Atomos Renderer」を用いていると予想される。
今回はアビッド テクノロジーのAvidオーディオ・ソリューション・エキスパートであるダニエル・ラヴェル氏にオンライン取材し、同ツールの概要や個人用途での配信などを尋ねた。
Pro Tools+Atmosツール+ヘッドフォンで制作可能
――Apple Musicで空間オーディオの配信がスタートしました。これはDolby Atmosを使っているようですが、調べてみるとアビッドのツールが使われているようですね。実際どのようなツールなのか教えてください。
ダニエル氏(以下敬称略):そうですね、すでにいろいろな楽曲が配信されていますが、おそらくその多くがアビッドが販売しているDolby Atmos Rendererを使っていると思います。どの曲がそうであるか、確実に把握できているわけではありませんが、少なくとも「Here Comes The Sun(2019 Mix)」など、The Beatlesの作品はPro ToolsとDolby Atmos Rendererを使っています。
ダニエル:もちろん、ほかのDAWでDolby Atmos作品を作れるものも出てきていると思いますが、3年ほど前に「Pro Tools 12.8」がリリースされたタイミングで、Dolby Atmos Rendererに接続できるようになり、ワークフローが格段に改善され、扱いが簡単になりました。同ツールを使うことで、Pro Toolsから7.1.2ch分のベッド信号と118chのオブジェクト信号を再生環境に合わせて割り振ることが可能になっています。
――Dolby Atmos Rendererというのは業務用のツールで、一般のDTMユーザーなどが購入するのは難しいのでしょうか。
ダニエル:いいえ。このツールはアビッドのサイトからダウンロード購入できる「Dolby Atmos Production Suite」の中に含まれています。Dolby Atmos Production Suiteは33,000円ですが、一般の方でも購入できる製品です。
ダニエル:Dolby Atmos Production Suiteを使うには「Pro Tools | Ultimate」が必要です。
また、Dolby Atmos Rendererには実は2種類あります。一つはDolby Atmos Production Suiteに入っているもので、Pro Toolsと同じPCにインストールして使います。もう一つは別のPCにインストールするタイプで、大規模な映画のプロジェクトや、テレビ番組のミックスなどでも、スマートに使うことができます。DTMユーザーが自分の音楽で立体的なミックスをしたい、というニーズであれば、前者で十分だと思います。
――ソフトとしては、「Pro Tools |Ultimate」と「Dolby Atmos Production Suite」を入手すればOKということは分かりました。ハードウェアでは何か用意しなくてはならないものはありますか?
ダニエル:空間オーディオを作るのであれば、サラウンドの7.1chと天井に4chの7.1.4chのスピーカーがあればベストですが、自宅でその環境を構築するのは現実的ではないでしょう。私自身もDolby Atmosのミックスを自分自身の作品で行なったことがありますが、自宅ではヘッドフォン一つで行ないました。
Binauralをオンにして、バイノーラルモニタリングモードにすれば、スピーカーを用意しなくても、ヘッドフォンでミックスできます。ただ、本格的なDolby Atmos作品としてリリースするのであれば、7.1.4chなどの環境のあるスタジオに行ってスピーカーを使ってチェックを行なうこともお勧めします。とはいえ、インディーズレーベルで、バイノーラルで聴くことを前提とした作品ということであれば、ヘッドフォンだけでのミックスでもいいかもしれません。
――映像は関係なく、音楽作品であればリスナーもバイノーラルで聴くことになるわけですよね?
ダニエル:詳細はアップル側に確認いただいたほうがいいと思いますが、Apple TVのユーザーがHDMIを介してAVアンプで再生すればステレオのバイノーラルではなく、7.1.4chなどのDolby Atoms作品として再生させることができるはずです。
――Apple Musicで配信されている空間オーディオは、もともとバイノーラルになったステレオデータを配信しているのだと思っていました。
ダニエル:正確に仕様を把握しているわけではありませんが、Dolby Atmos Rendererで書き出したADM(Audio Definition Model)ファイルを配信していて、各デバイスそれぞれが最適な形でレンダリングを行なっているはずです。
ダニエル:ADMファイルにはオブジェクトの情報、メタデータが全部揃っていて、これを元にしてバイノーラルデータも生成しているはずです。TIDALやAmazon Music HDのセッティングにおいてはバイノーラルのほかに、オフ、ニア、ミッドなどが設定できるようになっています。Apple Musicの場合はそれが見えないため、ハッキリしない面はありますが、レコード会社側などは同じものを納品しているはずなので、同じ仕組みだろうと思います。
AvidPlayを使えば、個人制作の3Dオーディオも配信可能に!?
――先ほどのDolby Atmos Rendererにデータを渡す上で、各音のパンニングはどのように行なっているのでしょう。
ダニエル:Pro Toolsはサラウンドサウンドを作るツールとしては、非常に長い歴史と実績があります。そして標準でサラウンドパンナーを持っているわけですが、これを使ってパンニングして渡せばいいだけです。一方で、Dolby Atmos Production SuiteにはDolby Atmos MusicパンナーというAAXプラグインも付属しているので、これを利用することでより効率よく作っていくことも可能になります。たとえばテンポに合わせて動きを設定するといったことも可能です。
――ちなみに、そのパンナーではなく、Dolby Atmos Renderer自体はプラグインというわけではないのですか?
ダニエル:Dolby Atmos Rendererはスタンドアロンで動作するソフトです。Pro Toolsがなくても動かすことはできますし、直接Atmosファイルでレコーディングすることもできます。またADMファイルを読み込ませたり、IMFファイルをインポートすれば、Pro Toolsなしに再生することもできます。
――個人でDolby Atmos Rendererを用いて空間オーディオ作品を作った場合、これを配信することはできますか?
ダニエル:はい。アビッドではApple Music、Spotify、Amazon Music HD、TIDAL、deezerなどなど、各種音楽配信サイトに配信することを可能にする「AvidPlay」というサービスがあります。
ダニエル:AvidPlayには、「AvidPlay Unliimited Dolby Atmos Music Distribution」というオプション(6,600円)があり、これを利用することで、個人の方でも配信ができます。Dolby Atmosの空間オーディオに対応しているのは、これまでTIDALとAmazon Musicでしたので、そのチェック項目があったのですが、まもなくApple Musicのチェック項目も加わり、Apple Musicでも配信できるようになる予定です。これによりステレオミックスの楽曲もDolby Atmosミックスの楽曲も一緒に配信できるようになります。
――気になっているのが、deezerでの360 Reality Audioと、Apple MusicでのDolby Atmosの違いについてです。360RAは、耳の写真を撮影してリスナーごとのHRTFプロファイルを取ることもあり、より立体的に聴こえるように感じました。Dolby AtmosもHRTFのプロファイルに対応したりしないのですか。
ダニエル:そうですね。360RAの制作ツールである360RACSではHRTFのプロファイルを入れられますが、Dolby Atmos Rendererでは、残念ながら現時点においてHRTFのプロファイルを入れることができません。プレイヤー側についてはアップルがどのように対応するか、ということだと思います。
――360RAもコンテンツ制作に力を入れてきていますが、制作する側からすると、360RAとDolby Atmosでは似たものではあるけれど、まったく互換性がないため、それぞれ別々に制作しなくてはならないという面倒さがあるように思います。制作環境を統合するとか、変換ツールを作るといったことはできませんか?
ダニエル:残念ながら今のところコンバートすることはできません。しかし、そういった声は多方面から来ています。幸いなことにADMファイルはDolbyのフォーマットではなく、EBUによるオープンなフォーマットになっていますし、ADMファイルをPro Toolsにインポートすることも可能です。この辺を利用してうまく変換ができるようになると、空間オーディオの制作環境は大きく改善するように思います。そうした動きがあれば、またお伝えします。