藤本健のDigital Audio Laboratory

第935回

原宿にDolby Atmosスタジオ。ユニバーサルミュージックの戦略を聞く

昨年Appleが空間オーディオの配信をスタートしたことで、音楽制作の世界でもDolby Atmosへの関心が一気に高まり、Dolby Atmos対応のスタジオを作る動きが国内でも大きくなってきている。

ユニバーサルミュージックもそのひとつで、2021年末に2つのDolby Atmos対応スタジオを完成させ、1月から徐々に稼働を開始している。先日、東京・神宮前にあるユニバーサルミュージックで、そのDolby Atmos対応スタジオを見学させてもらうとともに、同社のデジタル統括本部 スタジオ&アーカイブ部 部長の髙木忠氏に話を伺った。

ユニバーサル ミュージック合同会社 デジタル統括本部 スタジオ&アーカイブ部 部長 髙木忠氏

既存の2スタジオを、Dolby Atmos対応に改造

――ユニバーサル ミュージックでDolby Atmos対応のスタジオを作ることになった経緯を教えて下さい。

髙木氏(以下敬称略):昨年の初頭あたりに(ユニバーサルの)グローバルから要請もあり、日本でもDolby Atmosのスタジオを用意し、制作できる環境を作っていこうという話になりました。やはりAppleが空間オーディオをスタートしたことが大きく、今後Dolby Atmosへの対応の流れが加速してくるだろう、との判断からです。当時はDolby Atmosに対応できるスタジオがなく、新たに作る必要がありましたが、新規の箱があるわけではなかった。そこで、既存のスタジオを改良し、Dolby Atmosにも対応したスタジオを作ることにしたのです。

――既存のスタジオを改修し、Dolby Atmosの専用スタジオに移行した、ということですか。

髙木:いいえ、そうではありません。そこが難しいところでもあったのですが、マスタリング用のスタジオ、そしてミックスやプリプロで使うスタジオの2つを、それぞれこれまで通り使える形で残しつつ、Dolby Atmosでも使えるスタジオへ改造を行なったのです。

2つの部屋同時並行で、昨年の夏から設計に入って施工。昨年いっぱいで完成させました。スタジオの改造に当たっては、ソナさんに協力いただき、機材導入においてはタックシステムさんにお願いしました。元のシステムを残したままの導入という意味で、ソナさんといろいろと苦労しながら試行錯誤しましたが、結果として非常にうまく行ったと思っています。設計にかなりの時間をかけた形であり、施工自体は1カ月程度で完成しましたね。

Dolby Atmos対応に改造した「MR WHITE」

――ハードウェア的には7.1.4チャンネルの構成ですか?

髙木:2つのスタジオともに9.2.4という構成です。サテライトスピーカーにはGenelecのThe Onesシリーズである「8331A」を、サブウーファーには同じくGenelecの「7360A」を入れています。Genelecさんにも大変ご協力いただき、なんとか導入できましたが、モノの調達はなかなか難しかったのが実情です。

コロナの時期であり、いろいろ調達が難しい時期だったのに加え、Apple Musicの空間オーディオの影響で、世界的にもDolby Atmosのスタジオを作る動きが加速したようで、それに適しているといわれるGenelecのモニタースピーカーが取り合いになっていたようですね。Genelecのスピーカー、音質がいいのはもちろんなんですが、やはりオートでキャリブレーションできるという意味で圧倒的に便利です。

Genelecスピーカー「8331A」
サブウーファーは「7360A」

髙木:パワードなので、アンプを別途持つ必要がないという面でも扱いやすい。実は当初はフロントのLCRだけは一回り大きいサイズにしたいと思っていたのですが、すぐに品が入手できず、またスタジオを昨年中に完成させたかったため諦めています。

――本来、バランスを考えると、フロントも含めた9chのスピーカーおよびハイトの4chも含め、すべて統一するのがいいのではないですか?

髙木:そうですね。バランスを取るという意味では全て同じスピーカーを使ったほうがいいです。しかし、音楽作品を作るという意味においては、前から音が出るのが基本。そのためどうしてもフロントのLCRからの音が大きくなるので、スピーカーがあまり小さいと限界が来てしまう。そうならないために、フロントには少し余裕を持たせておきたかったのです。ただ結果的には、今の構成で十分でしたね。

フロントのLCR

――モニタースピーカー以外だと、どのような機材を導入したのでしょうか。

髙木:Pro ToolsのコントローラーであるAvidの「A1」やサラウンドミキシング用のパンナーとしてJL Cooperの「AXOS Panner」を入れています。またAvidのMTRXやその切り替え機として使うDADの「Monitor Operationg Module」などの機材を入れることで、Dolby Atmos対応させています。

Avidの「A1」およびJL Cooper「AXOS Panner」
DADの「Monitor Operationg Module」

――既存のスタジオをそのまま活かしたわけですが、設計においてどのような工夫をされたのでしょうか?

髙木:理想的なDolby Atmosスタジオを新規に作るのであれば、本来は真四角な部屋がいいわけですが、実際にはそうもいきません。今回の2つのスタジオにおいても天井に傾斜があったり、縦長だったりと、理想的な形状とは言えません。

そして最大の問題は、従来のスタジオとしての機能をそのまま残すため、スピーカー配置に制限があった、という点。そこで、どこにスピーカーを設置するかで、さまざまな検証を行ないました。特にマスタリングスタジオにはmusikelectronic geithainのラージスピーカーがあるため、どうしても(フロントを含む9chを)高い位置に設置せざるを得なかったのです。

髙木:本来であれば耳の高さのちょっと上がいいというのは理解していますが、それだとどうしてもmusikのスピーカーの影になってしまう。配置を決めるため、ソナさんのスタジオに出向き、様々なシミュレーションをして音の比較も行ないました。

スタンドを高くしてGenelecのスピーカーを配置するとどの様に聴こえるのか、そのスピーカーの角度を変えるとどう音が変わるのか、どうすれば最善の音が出せるか……など、緻密な検証と計算を何度も繰り返した上で、最終的にスピーカーの配置を決めました。

その結果、ほかのスタジオにはない強みもできました。スピーカーを上から角度をつけて音を出すことで、スイートスポットが広がり作業がしやすくなったのです。一般的にDolby Atmosでのリスニングポイントはかなりピンポイントなのですが、我々のスタジオはそれが比較的広くなっています。

ファンの需要の高いものからDolby Atmos対応させていきたい

――Atmosの環境を兼ねたことで、マスタリングやプリプロといった従来の業務に支障は出ていませんか。また従来通りの使い方と、Dolby Atmosスタジオとしての使い方の比率はどうですか?

髙木:Dolby Atmos対応のための機器を取り付けたことによる従来業務への支障、悪影響というのはまったくありません。また、この2つの部屋には、それぞれ担当のマスタリングエンジニア、レコーディングエンジニアが在籍していて、彼らがDolby Atmosも担当するのですが、やはり通常業務が忙しいこともあり、今はまだDolby Atmosで日々バリバリにミックスをする……という状況にはなっていません。

今後本格的にミックス作業を進めていきたいと思っているところです。これまでADM/BWFのデータを聴くことができる環境がなかったので、こうした実例データをこのスタジオでチェックしつつ、ノウハウを蓄積しています。

Dolby Atmos対応に改造した、2つめのスタジオ「Studio PUPA」

――もともとがマスタリングルームとプリプロルームであり、それぞれにエンジニアがいらっしゃるとのことですが、2つのスタジオにおいてDolby Atmos用として使う際の役割の違いはあるのでしょうか。

髙木:基本的には同じ役割です。Dolby Atmosのミックスもマスタリングもできるようになっています。もっともDolby Atmosにおいてミックスとマスタリングという切り分けがあいまいですし、マスタリングする必要があるのか、という議論もあると思います。

ただアルバムによってはバンドル作品になっていて1曲目と2曲目で、音量感が大きく異なる場合など、少しコンプを使って音量感を合わせていく……といった場合も想定されます。一方で、ユーザー環境に合わせた最終チェックもここで行なっていきます。Dolby Atmos RendererからMP4で書き出したうえで、スピーカーからチェックしたり、イヤフォン・ヘッドフォンでチェックしたりするわけですが、AppleとAmazonで再生方式が違うので、すべてに最適化するというのはなかなか難しいのも実情ですね。

――海外での事例を見ると、やはり既存のステレオコンテンツをDolby Atmos化するケースが圧倒的に多いように思いますが、日本ではどのようになるとお考えですか。

髙木:できるだけ多くのお客さまにたくさんの作品を届けたい、という意味では、ファンの需要の高いものを積極的にDolby Atmos対応させていきたいというのが心情です。もちろん、新規のコンテンツも増やしたいところですが、作るには時間もかかるしお金もかかるので、一概にポンポンと出すことができません。バランスは難しいところですね。

Dolby Atmos対応スタジオが完成する前は、我々がSTEMまで作り、そのデータを米国ロサンゼルスにあるキャピトル・スタジオに送り、そこでミックスしてもらう、といったケースもありました。

Dolby Atmos Renderer Remote

髙木:もっとも過去のコンテンツをDolby Atmos化する上で、マルチのデータがないとか、再生するのに必要なプラグインがない、などの問題から、簡単にはDolby Atmos化できないというケースもあります。

最近は音源分離技術が進んできているので、2ミックスデータを元にSTEMを作ることも可能になっています。いろいろな手法は出てきそうではありますが、個人的に思うのは、今後はレコーディングからミックスに至るまで、Dolby Atmosバージョンを先に作り、それを元に2ミックスを作る、というケースが増えていくのではないかと考えています。

Pro Tools

――ちょうど先日取材した音楽ユニット「夏澄Kasumi」のケース(記事参照)では、あえて先に2ミックスを作ってから、あとでDolby Atmosで空間を広げていくという話でした。

髙木:もちろん、ケースバイケースだとは思います。これまで2ミックスにおいて「この楽器をもっと奥にひっこめたい」といった場合、リバーブを使ったりしながら、エンジニアが工夫して一生懸命作っていたというのが実情です。

しかしDolby Atmosであれば、奥にオブジェクトを置くだけでいいし、それをダウンミックスすれば2chに仕上がるので効率的ですよね。エンジニア、ミキサー、アーティストがDolby Atmosに注力していくことで、どんどんDolby Atmos作品を増やしていけるのではないかと期待しています。

最近はクリエイター自身が興味を持つケースも増えてきています。Logic Pro XがDolby Atmos対応したのをきっかけに取り組み始めるケースがあるようですし、実際にクリエイターに我々のスタジオに来ていただき、Dolby Atmosの面白さを体感してもらうことも考えてます。

Dolby Atmos以外のイマーシブオーディオが出てきていることや、それぞれに違いや強みがあることも承知しています。そこは市況、状況を見ながら対応を検討していくことになると思いますが、まずはDolby Atmosの作品をどんどん作っていくことができるよう、体制を整えていきたいと考えています。

藤本健

 リクルートに15年勤務した後、2004年に有限会社フラクタル・デザインを設立。リクルート在籍時代からMIDI、オーディオ、レコーディング関連の記事を中心に執筆している。以前にはシーケンスソフトの開発やMIDIインターフェイス、パソコン用音源の開発に携わったこともあるため、現在でも、システム周りの知識は深い。  著書に「コンプリートDTMガイドブック」(リットーミュージック)、「できる初音ミク&鏡音リン・レン 」(インプレスジャパン)、「MASTER OF SONAR」(BNN新社)などがある。またブログ型ニュースサイトDTMステーションを運営するほか、All AboutではDTM・デジタルレコーディング担当ガイドも務めている。Twitterは@kenfujimoto