藤本健のDigital Audio Laboratory

第820回

ソニーが新モニターヘッドフォン「M1ST」で求めた音。定番機CD900STとの違いは?

レコーディング現場において長年デファクトスタンダードとなっているスタジオモニターヘッドフォンである、ソニーの「MDR-CD900ST」。どこのスタジオに行ってもこれが置いてあるし、レコーディング風景を撮影したミュージックビデオの中などでも見かけることが多い。

定番のスタジオモニターヘッドフォン「MDR-CD900ST」(右)と、新たに登場した「MDR-M1ST」(左)

その前身であるMDR-CD900が民生機として発売されたのが1985年だから34年も前。それを当時のCBSソニーの信濃町スタジオ用にチューニングしたMDR-CD900CBSが開発されたのが1988年、さらにそれを他のスタジオでも使えるMDR-CD900STとして市販したのが1995年なので、まさにロングセラー製品だ。

筆者にとっても、なくてはならないヘッドフォンとして愛用しているものであり、とりわけ、このDigital Audio Laboratoryにとっては重要なアイテム。というのも、連載当初に行なっていたMP3圧縮での音の変化をハッキリと聴き分けられた数少ないヘッドフォンだったからだ。

そんな中、新たなスタジオモニターヘッドフォンとして「MDR-M1ST」というモデルが8月23日に31,500円で発売された。MDR-CD900STも継続販売されるとのことだが、どのような経緯でMDR-M1STが開発され、発売されることになったのだろうか?

開発を担当したソニーホームエンタテインメント&サウンドプロダクツのV&S事業本部 商品設計部門 商品技術1部2課の潮見俊輔氏、そしてソニー・ミュージックソリューションズのソニー・ミュージックスタジオ レコーディングエンジニア 松尾順二氏に話をうかがった。

ソニーホームエンタテインメント&サウンドプロダクツの潮見俊輔氏(左)、ソニー・ミュージックソリューションズの松尾順二氏(右)

時代の変化に合わせてスタジオモニターヘッドフォンも変わる?

――今回発売されるMDR-M1STが開発されることになった経緯などを教えてください。

松尾氏(以下敬称略):数多くあるソニーのヘッドフォンの中で、最後にSTとついているものが、ソニー・ミュージックスタジオの監修した製品です。これまでMDR-CD900ST、MDR-EX800STがあり、今回出すMDR-M1STが3つ目となります。

松尾順二氏

潮見:モニターヘッドフォンとして出している製品は、他にもいろいろありますが、それらはソニーのヘッドフォン設計の中でモニター用として定義しているものであり、STとつく製品とは少し位置づけが異なり、販売の仕方なども少し違いがあるのです。

――MDR-CD900STは化粧箱なしのただの白い箱に入って売っていますよね。

潮見:今は茶箱に変わりましたが、一般の製品とは違う扱いです。もともとソニーミュージックグループから楽器店などへの流通を念頭に出していたのですが、今回のMDR-M1STの発売のタイミングで、MDR-CD900ST、MDR-EX800STも含め、ソニーストアでの取り扱いもスタートしました。ちょうどCBSソニー用に作ってから30周年のタイミングでリリースできた形です。

――“MDR-CD900STの30周年記念モデル”として開発したということですか?

松尾:いいえ、それはたまたまタイミングがそうなっただけのことで、実際にはまったく違う経緯です。きっかけは2014年ごろなので、4年半くらいまででしょうか。ちょうどコンシューマー製品でもハイレゾという言葉がよく使われるようになってきていて、(フジヤエービック主催イベントの)「ヘッドフォン祭」なんかを見に行くと、結構優れたヘッドフォンがいっぱいあって、驚きました。もちろん、リスニング用とモニター用では、用途が全く違うし、特性も大きく異なるけれど、制作する側のヘッドフォンがこのままで本当にいいのだろうか? と疑問に感じたのです。

制作現場もCDが登場した当初は44.1kHz/16bitで録っていたけれど、その後、機材が変わり48kHz/24bitで録るのが主流となり、Pro Toolsが投入されてからは96kHzさらには192kHzで録るのが普通になり、DSDで録るなんてことも増えてきました。そうした中、ヘッドフォンはCDが登場してきた当初のままでいいのだろうか、と。もちろんCD900STがダメというのではまったくなく、いまもちゃんと使うことができるんですよ。でも、いまの素材、技術を使えばもっといいものができるのではないか、と。

潮見:まさにそんな話を松尾さんとしている中、この時代にマッチした素材、技術を使ってモニターヘッドフォンを作ったらどうなるんだろう……という興味がわいてきたのです。もっとも商品化ありきでスタートしたわけではなく、ある意味、自由研究みたいな形で、MDR-CD900STを改造して、ハイレゾ化させてみるところから始めました。

潮見俊輔氏

数々の“CD900ST改造版”を試して見えてきたこと

――具体的に、どんな改造を行なったんですか?

潮見:そもそも、どんな方向のヘッドフォンにするかなどの方向性もしっかり決まっておらず、位置決めからスタートし、素材を変えてみたり……。

松尾:MDR-CD900STをハイレゾ対応に改造したものを潮見さんから受け取って初めて聴いたとき、「あ、これはないな!」と思いました(笑)。CD900STで十分いいのに、無理やり味付けしたみたいで、意味がないだろうと感じられたのです。

潮見:その後、ドライバーユニットを変えてみたり、構造を変えてみたりして「こんなの、どうでしょうか? 」と、いろいろ作っては持っていきました。ここでお見せはできませんが、そんな試作機を2年間で10個以上は作りましたよ。ある意味、CD900STがしっかりできていて、改造の余地はないということも改めて確認できた作業でもありました。やるのであれば、新しい素材、新しい技術を使って、ゼロから作るべきだろうという確認です。その結果、できるかどうかわからないけれど、すべてリセットして、いま現場で求められるニーズに合ったモニターヘッドフォンを作っていこうということになったのです。

――2年間も試作を行ない、CD900STの改造ではない新しいモニターヘッドフォンの方向性を決めたというのは、すごいことのようにも思います。

潮見:新しい素材、新しい技術によって、いまのコンシューマー用のヘッドフォンも非常によくできているんです。2012年に発売したMDR-1シリーズ以降、低音域にフォーカスを当てて今の音楽にマッチした音作りをするようになり、時代による音楽の変化によっても求められるものが変わってくることを実感していました。

松尾:ハイレゾって、よく帯域にフォーカスが当たるけれど、ビット深度も非常に重要なんです。つまり大きい音も小さい音もしっかり出せる、ということ。リスニング用のモデルって、コンサートのホール席を再現する、なんて言って、音源との距離、スペース感を楽しむ設計になっていますよね。でもモニターヘッドフォンは求める音がまったく違うんです。とにかく“近くで鳴る”必要があります。

――レコーディング時に、自分の演奏している音、歌っている声がいかにハッキリ聴こえるか、同時にバックの音がしっかり聴こえるかが大切ということですよね。

松尾:だから、ついついキューボックスのモニター音を最大にしてしまうミュージシャンも少なくないですし、ヘッドフォンのイヤーパッドを耳に思い切り押し付けて聴いている人も多いです。いかに耳の近くでハッキリ鳴ってくれるかが、モニターヘッドフォンには求められています。いまのソニーの技術を使えば、その思いが叶うヘッドフォンができるのではないかと思ったのです。

両モデルのハウジング内側(イヤーパッドを外した状態)。左がMDR-CD900ST、右がMDR-M1ST

――ところで松尾さん、潮見さんは、普段はどういうお仕事されているのですか?

松尾:私は(東京・乃木坂の)ソニー・ミュージックスタジオでレコーディングエンジニアとして働いています。

潮見:私はヘッドフォンの開発に携わっています。ヘッドフォンではあらゆる部品や、その形状が音に影響を及ぼすのでそれを見ながら音の調整を行なう仕事です。当初はメカ設計から入り、音響設計にも携わり、2014年くらいには6代目の耳型職人となり、その後音響専任となり、ハイエンドモデルも手掛けてきました。最近だとMDR-Z1R、MDR-Z7Mk2、MDR-1A、またh.ear onのMDR-100A、MDR-H600Aなどの開発をしてきました。

――そんなお2人に加えて、他にもいろいろな方が関わっていると思いますが、このMDR-M1STの開発において、どんな方が取り組んでいたのですか?

松尾:最初は私と潮見さんの他にテクニカルエンジニアが入り3人で進めていました。故障した場合、どんなケースが多いのか、スタジオでどんなトラブルが起きたことがあるのかなどを見直しつつ、CD900STの改良版に取り組んでいました。その後、本格的にレコーディングエンジニア、マスタリングエンジニアが入り、スタジオ側は6人体制で、潮見さんとミーティングしながら進めていました。

潮見:こちらは音質面だけでなく、機構設計も必要となるので、マネージャー、リーダー、機構設計、サポート……といった体制でした。スタジオ側から上がってくる「長時間作業することも多いので、いかに疲れず、掛け心地がいいものにするかが重要」といった要望に応えるべく取り組んでいきました。

“音が近くで聴こえる”ために重要なこと

――先ほど、いかに近くで聴こえるかが重要、という話がありましたが、音として、他にはどんなニーズがあったのでしょうか?

松尾:「音の立ち上がりが速く、ひずみが少ないこと」これが重要なポイントです。レコーディングの世界では、入口から出口までを考える必要があります。入口であるマイクロフォンはビンテージなどを使うケースが多く、そこではあえてひずませたり、ナローな帯域で音を録ることで、音楽的な良さを出すことがあります。それをレコーダーに入れるわけですが、そこからは、ものすごく帯域も広くビット深度も深く、劣化がない音作りをしていきます。だからこそ「10ある音を10で出せる」ヘッドフォンが欲しい。音が遠くに行かずできる限り近くで鳴ってくれるヘッドフォンが欲しいのです。モニターヘッドフォンに求められる音って、よく「原音に忠実」という表現が使われますが、そもそも原音って何なのか、と。ビンテージマイクを通して入ってきた音には、そこにクリエイションが入ってくるわけですからね。

――確かに「原音とは何か」という根本的すぎる定義にまで戻ると、哲学みたいになってしまいますね。

潮見:私の中にもこれまで培ってきた音の基準がありましたが、それもすべていったん捨ててゼロリセットするのが重要なところでした。音の方向性を決める試作に2年を費やし、その後、設計チームとして取り組んだのは、音はもちろんですが、掛け心地をブラッシュアップし、デザインにもこだわり、機構もゼロから作っていきました。クッションの厚みもCD900STと比較すると変わっていますし、CD900STでは外に飛び出ていたケーブルも裏に隠すようにするなど、外観と機能性の両面にこだわりながら詰めていきました。

松尾:音の方向性はすぐに決まっていったのですが、ミュージシャンに聴かせると、まだ音が遠いと耳に押さえつけるのです。より音が近くに聴こえるように音質の面でも調整を重ねていってもらいました。

――モニターヘッドフォンならではの工夫がある一方、コンシューマー製品で培われてきた技術なども使っているわけですよね?

潮見:最初、マスタリングエンジニアが加わってきたときに、ケーブルがカサカサいうノイズが気になるとか、本体がカタカタいうという指摘がありました。これに対し、複数のシリコンリングを用いて可動部のガタつきを低減するサイレントジョントという機構を載せました。でも逆にコンシューマー製品ではない、業務用独特の工夫もいろいろあります。たとえば、頭につけて使用していると、人は汗をかいたりします。そのことでねじがサビることもあり、よく交換しているという話も聞きました。そんなご苦労があったのかと驚く一方で、サビにくいねじに切り替えました。またCD900STの場合、ロゴ部分はダイヤカットで出っ張った形状になっていただけに、落とすと傷つくという指摘もいただいていました。そこでこれを凹んだ形状にしています。

松尾:デザインも、今回はじめてソニー・ミュージックソリューションズのデザイン担当者が参加しています。ここでは赤いラインをどうするか、「今の時代だと“FOR DIGITAL”はないよね」などと話し合いながら、取り組んでいったのです。

進化した技術と、残すべきだった部分。なんとバランス接続も

――ハウジングを回転して平らにできるようになったのも、CD900STとは大きな違いですね。

松尾:潮見さんとミーティングを繰り返す中、イヤーパッドの重要さというのはすごく教えられました。スタジオだと、CD900STのケーブルをぐるぐる巻きにしてイヤーパッドを押しつぶして片付けるという場合が多いですが、これを長く続けると、どうしても少しずつイヤーパッドがつぶれて音も変わってしまう。そこでハンガーにも掛けやすい形にしていったのです。そして、卓の上に置いたときに取ってそのまま付けられるようにスイーベルの方向がコンシューマー製品とは逆向きになっています。

ハウジング部を回して平らにして置ける

潮見:コンシューマーユーザーのみなさんは、エイジングが……ということをよくおっしゃいますが、音を鳴らしてドライバーなどをエイジングするよりも、イヤーパッドのエイジングのほうが断然大きく効きますという点は訴えたいですね。このイヤーパッドも見直し、装着した際の付け心地がよくなると同時に、劣化しにくい素材にしています。

スタジオにあるハンガーにも掛けやすい形に

――ゼロから設計したとはいえ、CD900STからも、やはり踏襲している部分はありますよね。

松尾:もちろんです。たとえば長さを調整するスライダーのクリック数とかはそのまま踏襲しているし、Lは青、Rは赤といった色も絶対ですね。これによって、外から見ても、逆に装着しているのを発見することができますからね。

ヘッドバンド部(左がMDR-M1ST、右がMDR-CD900ST)

――MDR-M1STを見て、もう一つCD900STと大きく違うと思う点が、ケーブルです。これが脱着式になっていますよね。しかも端子が4極。

ケーブル着脱が可能

松尾:やはりCD900STの故障箇所としては断線が多く、接続部分をばらして、ケーブルにはんだ付けをすることが多いのですが、やはりこれは面倒くさい。もっと簡単に変えられるように、簡単に直せるようになったらいいよね、ということで脱着式にしてもらいました。ただ、ミュージシャンはヘッドフォンをしながら動くことが多いですから、簡単に抜けてしまうのもマズイ。そこで、ネジ式にしてもらっているのです。

潮見:コンシューマーモデルと比較すると数倍強くなるよう、強度はあげていますね。また、CD900STは左右ともグランドは共通なので3芯のケーブルをつかっていましたが、これは4芯になっています。MDR-1Aシリーズと同じピンアサインですね。

――ということは、バランス接続が可能である、ということですね?

潮見:メーカーとしてバランスであるとは明示していませんが、グランド分離接続に対応しており、弊社の別売ケーブルを使えばバランス接続も可能です。

松尾:コンシューマーではヘッドフォンのバランス接続がかなり進んでいますが、プロの世界でバランスを入れるとなると、モニター系統を大幅に変更しなくてはならず、現状はアンバランスが主流です。ただ、絶対にバランスのほうが音的に余裕もできるし、分離もよくなる。将来的にはスタジオもバランスになっていく可能性が高いのではないでしょうか。そうした将来を見込んで、こうした設計になっているわけです。

出発地点は“定番を目指す”ではない?

――一般への発売前から、すでにソニー・ミュージックスタジオでは導入を開始したと聞きましたが、現場の声はいかがですか?

松尾:6月28日からスタジオで使っており、すでにCD900STからすべてをMDR-M1STに入れ替えました。まずは60個の導入です。もちろん、MDR-CD900STも残してはいるのですが、ミュージシャンからも好評で、CD900STで聴きたい、といった声はほとんど出ていません。最大のポイントは音量を上げなくて済む、という点。実際「こんなレベルで大丈夫なの? 」という音量でもみなさんモニターしていますね。これだとバランスも見えやすく、一つ一つの楽器もハッキリと見える。ひずみが少ない分、低音域もしっかりわかるので、とってもいいですね。CD900STと比較して、上も下もレンジが伸びています。

潮見:一般のユーザーによっては「おとなしい音だ」と感じる人もいるかもしれません。高域を強調しているわけでもないし、キラキラ感を演出しているわけでもありませんから。立ち上がりが速いこと、音が遠くにいかないこと、ひずまないこと、これを実現させたのがMDR-M1STなのです。

――最後にリファレンスモニターとしての可能性について教えてください。CD900STは、誰もが「あの音」として認識しているからこそ、標準となり、幅広く使われてきた経緯があると思います。このMDR-M1STもそれを目指していくのですか?

松尾:MDR-CD900STも、最初からそれを目指して作ったというより、結果として広がっていったものでした。このMDR-M1STも「とにかく多くの人に使って標準にする」という思いだけが強いわけではないのです。まずは自分たちが納得し、便利に気持ちよく使えるモニターヘッドフォンができたので、これを使っているわけです。その音を聴いたミュージシャンたちが気に入れば広まっていくのかなと思っています。

藤本健

 リクルートに15年勤務した後、2004年に有限会社フラクタル・デザインを設立。リクルート在籍時代からMIDI、オーディオ、レコーディング関連の記事を中心に執筆している。以前にはシーケンスソフトの開発やMIDIインターフェイス、パソコン用音源の開発に携わったこともあるため、現在でも、システム周りの知識は深い。  著書に「コンプリートDTMガイドブック」(リットーミュージック)、「できる初音ミク&鏡音リン・レン 」(インプレスジャパン)、「MASTER OF SONAR」(BNN新社)などがある。またブログ型ニュースサイトDTMステーションを運営するほか、All AboutではDTM・デジタルレコーディング担当ガイドも務めている。Twitterは@kenfujimoto