藤本健のDigital Audio Laboratory
第899回
ライブ音源が超Hi-Fiサウンドに!? 藤田恵美の実験的ハイレゾ制作舞台裏
2021年6月14日 10:36
2021年2月18日、19日の2日間。横浜・二俣川にあるサンハートホールで、「Headphone Concert 2021」と題した不思議なコンサートが開催された。
Le Couple(ル・クプル)のボーカルを担当していた藤田恵美さんと、ピアノ、ギター、ベース、バイオリン、パーカッションなどによるバンドコンサートだが、PAは一切使用せず、来場者は持参したヘッドフォンを使い、目の前で演奏される音を聴くという、かなり変わったものだった。
実はこれ、「ライブの演奏を最高の音質でレコーディングするにはどうすればいいか?」という考えから生まれたアイディアで、それを試すための実験的なコンサートだったのだ。そしてそのレコーディング成果がハイレゾ作品として、6月11日にe-onkyo musicで発売。さっそくアルバムランキング1位となっている。
コンサートの初日、筆者も取材する形で参加したので、実際どんな様子で、どんなことが行なわれていたのか、レポートしてみよう。
ライブを最高のクオリティで収める方法は? から動き出したプロジェクト
コロナ禍で行なわれた「Headphone Concert 2021」は、収容人数300人というホールに、招待された観客40人が参加するというもので、昼の部と夜の部の2回を2日間、計4回開催された。
通常はPAから大音量が鳴り響くコンサートホールではあるが、このコンサートはPAを一切使用せず、演奏した音、歌声がマイクを介して来場者の元にケーブルで届き、来場者は持参したヘッドフォン・イヤフォンで楽しむという、かなり変わったスタイル。
では、ヘッドフォンを外すと何も音が聞こえないのか? というとそうではない。
エレクトリック・ウクレレベース以外は、ボーカル、アコースティックギター、グランドピアノ/ティンホイッスル/アコーディオン、バイオリン/トランペット、パーカッション、ウッドベースという生楽器での演奏。しかし、遠くで鳴っている? というニュアンスでしか聞こえない。ところがヘッドフォンを装着すると、まったくの別世界で、超高品位なサウンドでステージ上で演奏されたものが聞こえてくるのだ。
この「Headphone Concert 2021」を主催したのは、レコーディングエンジニアであり、HD Impressionというレーベルの社長でもある阿部哲也さんだ。
筆者が今回の企画を知ったのは昨年11月のこと。藤田恵美さんがSNSで「2021年2月18日と19日に世にも不思議なコンサートをします! 音を拡声するものはなく演奏はすべて生音。演者もお客様もヘッドフォン(またはイヤフォン)で聞きます。レコーディングのようなコンサート? コンサートのようなレコーディング?」と書き込んでいたのを見かけたのだ。
開催場所がサンハートホールとあり、以前このホールで阿部氏がレコーディングを行なっていたのを取材したことがあったため、「これは絶対バックに阿部さんがいるはず」と思い連絡してみたところ、やはり予想通りで、かなり面白いことを考えているようだった。ただ、発表の時点では、まだ詳細まで詰め切れていなかったので、改めてすべてが整った今年2月のタイミングで彼を取材。セッティングなどについて伺った上で、当日の取材に挑んだ。
調べてみると、ヘッドフォンコンサートというのは、今回が初というわけではなかった。
今から40年も前、大瀧詠一が渋谷公会堂で世界初というヘッドフォンコンサートを行なっていた。大瀧氏の狙いは「コンサート会場のどこで聞いても同じように最高のバランスで音が聞けるように」という実験的コンサートだったとか。
この時は収音したものをFMトランスミッターで会場内に飛ばし、観客は配布されたFMウォークマンで聞くというものだったらしい。調べた限りでは、その後こうした大きな規模でのヘッドフォンコンサートの記録は見つけられなかったので40年ぶりの2度目ということかもしれない。
ちなみに。小さな規模でいえば、以前記事でも紹介した、「Silent Street Music」というものもあった。TR-808やTB-303などを開発した元ローランドの社長が企画したもので、路上ライブを周りに迷惑を掛けずに静かに実現しようというもの。しかし、今回の阿部さんが企画したヘッドフォンコンサートは、いずれともまったく異なる目的のものだ。
「10年くらい前、恵美さんのライブアルバムを最高のクオリティで作るにはどうすればいいのかと考えたとき、ヘッドフォンコンサートのようなことを思いつき、ずっと温めていました。PAを通す形ではなく、レコーディングスタジオと同じ生音で録音をするという手段です。ライブではないですが以前、『ココロの食卓』というアルバム制作を行なった際、ホールを借りて一発録音したことはありました。でも、お客さんを入れて、本当のライブを最高の音で録る、ということをやってみたかったのです」と阿部氏は言う。
ただ、これまでいろいろな人に相談してみたものの、なかなか理解してもらえず、ひとり構想を練っていたとのこと。実現するには自身で主催しなければと、今回、文化庁の支援金なども活用する形で実施することにした。そのためもあって、来場者は招待制にして全員無料。収容人数300人という大きな規模なホールではあったが、コロナ対策と、機材の関係から、1回の公演につき定員40人に絞ってのライブとなった。
しかし、企画した時点で既にスムーズとは言えない事態だったとか。
阿部氏は「恵美さんは、面白そう、と言ってくれたのですが、ミュージシャンからは『演奏者にとってライブとレコーディングは、まったく違うんだ!』と怒られました(笑)。プレーヤーにとって、やはり演奏する際の気持ちがまったく違うからなのですね。レコーディングにおいては、いかに最高のプレイを収録するかに神経を注ぎ、少しでも気に入らないところがあればリテイクもしていく。でもライブだと一発勝負で、多くの観客が見ている中で演奏するため、ものすごい緊張感がある。プレーヤーは今できることのすべてをプレイに集中し、無心で演奏していく。だからこそのお叱りであり、もっとな反応なのですが、僕はその瞬間をレコーディングしたいと思っていたのです」と話す。
その思いをミュージシャンらに丁寧に説明し、納得してもらった上で、コンサートの準備がいよいよ動き出したという。
レコーディング時のモニタリング音が来場者に届く
筆者は開場の3時間前に現地入りしたが、その時、セッティングしていたのが40名の座席に設置されるヘッドフォン端子。3席ずつ設置された真ん中の椅子の上にM-Audio「Bass Traveler」というヘッドフォンアンプが説明書とともに置かれてあり、これが数珠繋ぎのように接続されていた。
Bass Travelerには2口のヘッドフォン出力があるため、これで左右の席それぞれに分配するというわけだ。もっとも音量調整ノブは1つしかないので、二人で適度な音量を決める形になる。
では、それがどこに接続されているのかというと、ステージ向かって右側の床に置かれていた、FOSTEX「PH-50」というヘッドフォン分配器。
これにステージ横で阿部氏がミックスした音が届き、それが各席へと分配されていく仕組み。別の言い方をすると、この音はレコーディング時のモニタリング音がそのまま来場者に届いているわけで、レコーディングエンジニアの阿部さんが聞いている音とまったく同じ音をリアルタイムに聞くことができるようになっている。
PH-50は阿部氏所有の2台で、数珠繋ぎする観客用配線もすべて彼による手作りだという。
いろいろと試し比べた結果、Bass Travelerは1台4,000円程度と安いのに音質的によく、バッテリーの持続時間も8時間程度とあったので導入を決めたのだとか。来場者の中には、明らかにオーディオファンと思わしき人も見かけられた一方、その方面はよく分からないという人も半数近くいた印象。
限られた予算での運営でもあったため、会場スタッフも多くはなく、接続方法などに戸惑っている方も少なくなかったので、筆者もちょっとお手伝いとして、会場を説明して回った。
このような珍しいコンサートだから、来場者としてはどう振舞っていいのかと戸惑う面もありそう。とくにレコーディングをしているとなると、固唾を飲んで静かに見なくてはいけないのでは? なんて思ってしまいそうだが、そうした点を解消するために、趣旨を文章にて説明し、「ぜひ拍手もしてください」なんて記載も。これによって、みんな安心してコンサートを楽しむことができるようになった。
筆者自身もさまざまなヘッドフォン、イヤフォンを持参し、リハーサル中や本番中など、ヘッドフォン、イヤフォンをとっかえひっかえしながら聴き比べた。ヘッドフォンを外すと、遠くから恵美さんの歌声やギターの音などが聴こえてくるが、装着すると、まさにその音が鮮明なハイレゾ音源となって聴こえてくるのは、なんとも不思議な感覚だ。見回すと、やはり同じようにヘッドフォンを付けたり、外したりして、その違いを楽しんでいる人もいた。
ライブ収録とは思えない超Hi-Fiサウンドに
では、このコンサートの音作りはどのように行なわれていたのだろう。
ステージ上、そしてステージの裏側についても簡単に紹介していこう。まず使用されていたマイク、マイクプリアンプ、オーディオインターフェイスなどの機材は下記のとおり。
【主な使用機材】
・Vocal/ TELEFUNKEN U47 Tube → Brabec
・Piano/ NEUMANN U87Ai×3 → FOCUSRITE ISA 828
・Accordion/ Tin Whistle・Chorus U87Ai → AMEK SYSTEM 9098 RCMA
・Acoustic Guitar/ SCHOEPS CMC-55U → FOCUSRITE ISA 828
・Chorus/ 87ai → AMEK SYSTEM 9098 RCMA
・Violin/ 87 → NEVE 1272
・Trumpet/ AEA R84 → RME Fireface 800
・Wood Base/ NEUMANN 47Fet → Brabec
・Electric Ukulele Bass/ Line→ NEVE 1272
・Percussion/ TOP AKG C-414EB×3 → FOCUSRITE ISA 828
・Cajon/ SHURE BETA91 → RME Fireface 800
・Djembe/ AKG C-414EB → RME Fireface 800
・Snare/ SHURE SM57 → RME Fireface 800
・Audience/ B&K 4003×2/NEUMANN 184×6 → MOTU 896HD
・DAW / Digital Performer10 PCM192kHz32Bit Float
上のリストを見ても分かる通り、各パートにマイクが設置されているとともに、オーディエンスマイクなるものが8本用意されている。
実はこれ、ステージ中央に設置された妙な形のものだが、これも阿部氏の手作りの特性マイクシステムなのだとか。
上下左右前後、計8本のマイクが設置されており、これで会場の雰囲気を録るようになっている。トータル26chをRMEのMOTU HD192、Fireface 800、MOTU 896HDに入力するとともに、それらをMac ProとMacBook Proの2台体制で受け取る形になっていた。
1台にDigital Performer 10、もう1台にDigital Performer 7が稼働し、ここでパラでレコーディングするとともに、ミックスを行ない、それを会場のヘッドフォンアンプへと送出していた。ちなみにレコーディングでのフォーマットは192kHz/32bit Floatだった。
もちろん、会場に流れていたミックスと、最終的な作品となったハイレゾアルバムのミックスは別もの。阿部氏がコンサートで録音した26chのデータを持ち帰り、3か月以上試行錯誤をした上で作り上げたものが、e-onkyo musicで配信されている。
実際聴いてみると分かるが、「え? これがライブ収録?」という超Hi-Fiサウンド。1曲の最後に拍手が聞こえるので、「やはりコンサートでのレコーディングなのだ」と思うけれど、2曲目以降は、その拍手も入っていない。
「いろいろ試してみたのですが、拍手を入れると、やっぱり普通のライブレコーディングのようになってしまう。各楽曲の世界観に入り込むためには、やはり普通のアルバムのように作らないとダメだと思い、このようなミックスになった。同じ音源で、今度公開する映像作品も同時に作っていますが、これは逆に拍手が入らないと雰囲気がでない。そのため別のミックスにしています」と語る。
6月11日のe-onkyo musicでの配信スタートと同じタイミングで公開されたYouTube作品が以下の2つだ。
彼の通り、これらは別ミックスであり、YouTubeだから当然圧縮音源ではあるけれど、これを聴くだけでも、いかに高品位なレコーディングが行なわれたのかを実感できるはず。
なお、今回のコンサートは2月18日・19日の昼と夜で計4回行なわれたわけだが、どの回の音を収録したのだろうか。
「4テイクの中からベストテイクを選びました。曲順も当日の演奏順ではなく、練りに練ってこの順番に決めた。当初は拍手を入れて作ってみたり、本番通りの曲順でも作ってみたのですが、どうしても思い通りの作品にならなかった。ミックスも最初はライブ音源的に作ってみたのだけど、作品として納得いかなかったので、曲順も変更したくなり、今回のようなアルバムになった」と、かなりこだわりを持ってミックスを行なったという。
e-onkyo musicのハイレゾ音源は先行配信という位置づけで、後日CDもリリースされる予定。CDは、やはりマキシマイザーなどを使って音圧を上げたものになるのか。
「CDも雰囲気的には、e-onkyo musicのものと聴感上は大きく変わらない。音圧はこれ以上入れない。やはり音が壊れてしまいますから」と、世の中の音圧戦争は組せず、あくまでも音質にこだわったミックスを行なっているのは嬉しいところ。この辺もすべて恵美さんとやり取りをしながら決定しているのだとか。
音的には、非常に高音質で、スタジオで録音したようなサウンドでありながら、ライブならではの緊張感も感じられるアルバムに仕上がっている。ぜひ、その面白さを多くの人に体験してもらえればと思う。