藤本健のDigital Audio Laboratory

第789回

高音質制作にアナログテープ!? 藤田恵美「camomile colors」の独自手法とは

ハイレゾ音源をどう作るかは、プロデューサーやエンジニアの考え方、手法によっていろいろ違いがある。ただ見ていると、もともと48kHzでレコーディングしたものをマスタリング時に96kHzにアップサンプリングするといったケースが多いのも事実。そうした中、今この時代にあえてアナログテープでレコーディングし、テープならではサウンドを実現するというユニークな手法の作品が11月21日にリリースされた。それが藤田恵美さんのアルバム「camomile colors」だ。

藤田恵美「camomile colors」

アナログとデジタルを絶妙に融合させた制作手法を用いているのだが、実際どんなことをしているのか、高性能なアナログテープシミュレーターがある現在、本当にアナログテープを使うメリットはあるのかなど、プロデューサーであり、エンジニアでもある阿部哲也氏に話をうかがった。

話をうかがった、プロデューサー・エンジニアの阿部哲也氏
藤田恵美さん(右)と、阿部哲也氏(左)

人気の高音質盤、新作はアナログテープにレコーディング

藤田恵美さんの歌声でスタンダードナンバーをカバーするcamomileシリーズ。2001年に出したファーストアルバムは香港でゴールドディスクを獲得し、台湾ではG-Music東洋アルバムチャート1位を獲得、シンガポールでもプラチナディスク獲得するなど、アジア圏での大ヒットを受けて日本でも高音質なレコーディング作品としてオーディオマニアの間での定番となった。その後も、香港、台湾、シンガポールといった国々で大きなヒットとなっていったのを受け、2007年にはベスト盤を作成し、SACDの5.1ch作品に仕上げていったことは当時、この連載でも数回に渡って取り上げたことがあった。

人気のcamomileシリーズ新作

その藤田恵美さんのcamomileシリーズとして8年ぶり5作目となる新アルバムが、今回のcamomile colors。「Close to You」、「Let It Be」やスコットランド民謡など、アコースティック楽器とともに歌う、カバーアルバムとなっているのが特徴。以前はポニーキャニオンの扱いだったが、今回は阿部氏が運営するHD Impressionからのリリース。CDでの流通のほかに、moraおよびe-onkyo musicでのダウンロード販売がスタートしており、DSDの5.6MHz(3,800円)、PCMの96kHz(3,300円)および192kHz(3,800円)のそれぞれが用意されている。

そのレコーディングは9月に東京・銀座にあるスタジオ、音響ハウスで行なわれていたので見学してきたのだが、昨今のレコーディングとはずいぶん雰囲気の違うものだった。ちょうど見に行ったときは「Just When I Needed You Most」のレコーディングを行なっているところで、アナログテープへの一発録り。

レコーディングが行なわれたスタジオ、音響ハウス
取材時は「Just When I Needed You Most」のアナログテープへの一発録りを行なっていた

この曲では藤田さんのほか、アコースティックギター、アコースティックピアノ、ベース、パーカッション、スチールギターの各メンバーがいて、それぞれ音が被らないようにブースは分かれていたものの、全員が一緒に演奏し、それを一発同時録音。

藤田恵美さん

アコースティックギター、アコースティックピアノ、ベース、パーカッション、スチールギターの各メンバーが別のブースで一緒に演奏

基本パンチインや差し替えもなしの真剣勝負。スケジュール表を見ても1曲2時間という過密スケジュールになっていた。

スケジュール表

レコーディングエンジニアであり、レコード会社のプロデューサーでもある阿部氏はコンソールの前で指揮をとっているのだが、注目すべきはその音が、アナログのテープにレコーディングされているという点。具体的にはStuderのA820MCHという昔の機材であり、太い2インチのテープに24トラックレコーディングする形になっている。

コンソールの前で指揮をとっている阿部哲也氏
2インチのテープに24トラックレコーディング

その各トラックをチェックしてみたところ、以下のような構成で実質21トラックでのレコーディングが行なわれていた。ただ、実はその隣にはPro Toolsがあり、ここでも作業をしていたのだ。ただし、レコーディング時もプレイバック時もPro Toolsにレコーディングされているなど、ちょっと不可解な運用状況。見ているだけでは、何がどのように行なわれているのか、判然としなかったので、後日、阿部氏に詳細をうかがってみたわけだ。

21トラックの構成

Pro Toolsも使用されていた

アナログテープとPro Toolsを使ったレコーディング手法とは?

――camomileシリーズは当初から阿部さんがエンジニアを務めていたと思いますが、今回久しぶりにリリースすることになった背景や特徴などを教えてください。

阿部哲也氏(以下敬称略):camomileシリーズは2001年に最初の作品を出して以来続いているもの、2010年の「camomile smile」以来8年ぶりの新作です。カバーアルバムであるのも従来と同様ですが、camomileシリーズは「眠れる」をコンセプトに作っているアルバムでもあるのです。そのため一切電子楽器を使用せず、全部生楽器、すべてアナログで、打ち込みも一切なしということを貫いてきました。なおかつ、今回はボーカルを含め、全部同時録音。正確にいうと今回は2曲だけボーカルの再チャレンジがありましたが、11曲中9曲は1回のテイクでOKとなりました。アナログテープでのレコーディングなので、パンチインもなかなか難しいので、修正がどうしてもというときは、じゃあもう1回レコーディングし直すか、といった具合でしたからね。

――今回、アナログテープとPro Toolsと2つのレコーディング装置がありましたが、これらの関係がよく分からなかったので教えてもらえますか?

阿部:基本的にベーシックトラックはStuderの820にレコーディングしていたのですが、バックアップ用として同時にPro Toolsにも録音していました。ただし、マイクからの音が直接Pro Toolsに入っていたわけではなく、820を経由した音ではありました。テープヘッドには、消去用のEraseヘッド、録音兼再生用のSyncヘッド、そして再生用のReproヘッドの3つがあります。録音時は820へ送った音をSyncヘッド、すなわちテープを通った音ではないので、録音したテイクを聴くときに、Reproヘッドにして、Pro Toolsに録り込むといった具合です。この際のADコンバータにはPro Tools HDXのHD I/Oを使っています。

消去用のEraseヘッド、録音兼再生用のSyncヘッド、そして再生用のReproヘッドの3つがある
Pro Tools HDXのHD I/O

――以前、阿部さんにお話をうかがった際には、テープのあるスタジオにご自身のMacを持ち込んで特殊な処理をしたMOTUのADを使ってレコーディングしていましたが、標準のHD I/Oを使っているわけですか?

阿部:そうですね(笑)。Pro ToolsがHDXになった時点で、かなり音質が向上し、十分遜色ないレベルになったので、これなら合格ラインだろう、と。フォーマットとしては192kHz/24bitで録っていますね。楽器の編成によって少ないと16トラック、多くても32トラックという構成でしたが、ダビングなど24トラックを超えた場合は、ここからが現代ならではで、ベーシックで録音したの24chを聴きながら、今度はインプットを820とPro Toolsにパラって、両方のトラックを録音。この時820はリプロヘッドのものをPro Toolsへ録音するため、遅れています。ですので、演奏時はPro Toolsを聴き、プレイバックする時に、820の遅れた波形を事前に調べた分だけ前に出して、聴くといった凄いことを、効率よくできるというのがこのシステムの特徴です。Pro Toolsがいるおかげで、追加で24トラック録るのも楽なんですよ。昔だったらスレーブというトラックのダビングが必要で、ダウンミックスしたりして音質劣化してしまいましたが、このシステムなら、全てが820を通した、アナログの音を無限大でPro Toolsに録音できるわけです。

――現在の一般的な録り方とは違うから、ミュージシャン側に戸惑いとかはありませんでしたか?

阿部:「アナログテープで録るから一発録りですよ」という程度の説明しかしていないんですよ。あまり細かなことを話しても混乱するだけですからね。だからレコーディング後に「一回聴いてみましょうか」とみんなに言ってコントロールルームに集まってもらい、再生するわけですが、このタイミングで再生しながら全トラックをパラでPro Toolsへ取り込んでいるんです。ただ、ミュージシャン側から「あ、このテイクは聴かなくてもいいや」なんて話になっちゃうと吸い上げることができないんですよ。こちらとしては、いざというときのバックアップのために保存しておきたいのに、これだと吸い上げられない。実はそんなことも数回ありましたね。

レコーディングのメンバー
再生しながら全トラックをPro Toolsへ取り込む

――そのPro Toolsのデータを持ち帰ってくるわけですよね。

阿部:はい、そのPro Toolsデータから各トラックをWAVで書き出した上で、Digital Performerに取り込んでミックスしています。そこからは普段どおりの作業です。

音楽制作に遊び心。コンディション万全のテープで録音

――ところで、阿部さんはcamomileシリーズでテープを使うことにこだわっていますが、現在だと高性能なテープシミュレーターもあります。こうしたテープシミュレーターではダメなんですか?

阿部:確かにテープシミュレーターはとっても良くできています。A800とか820とか、それぞれの特徴を再現するシミュレーターもあり、本当によくできているんだけど、やっぱり録音レベルによって圧縮率というかコンプレッションも微妙に違うし、そこまで再現できているテープシミュレーターはないですね。

ほかにも色々な意味で違うんですよ。今回はQuantegyのGP9というテープを使っていますが、これが実に素晴らしく、伸びのある音がするんです。シミュレーターだと、こうしたテープによってどう音が違うかという選択肢がないですし、テープは端のほうの音がよくなかったり、真ん中が安定していたり……といった違いまでは出せません。またテープの両端にそれぞれ録音すると、位相差が出て、これがいい味を出すことがあります。要するにアジマス調整がうまくできていない証拠でもあるのですが、いいエフェクトとして機能することがある。まあ偶然の産物ですから、まったくダメということもあるわけですが、そうした遊び心を持ってテープを使っているんです。でも、テープシミュレーターはあくまでもそれっぽい音に変化させるだけのものです。

――なるほど、そうやって考えると、本物のアナログテープとテープシミュレーターはまったくの別物であり、アナログテープならではのことをするには程遠いものなわけですね。

阿部:まあ、こうした遊び心が功を奏することもあるけれど、失敗することだっていろいろある。今の時代だからこそ、念のためのバックアップとしてあらかじめPro Toolsにとっておくという安心感は大きいです。基本的には使わない録音ではあるかもしれないけれど、何かトラブったときに、これが残っている意味は大きいんですよね。

――ところで、なぜ音質的にはデメリットがありそうな端のトラックにボーカルを割り当てているんですか? またほかのトラックもその位置にあることに意味を持っているのですか?

阿部:24Trにボーカルを置いているのはコンソールの真ん中に立ち上がってくるので、使いやすいからなんですよ。テープならではの流儀ともいうんでしょうか…。真ん中にあれば、触りやすいですから。そこから触る必要性のある順に外に向かっていく。パーカッションやベースは固まりにしておくと扱いやすいですし、離すとアジマスがズレて位相がズレるのを避けるわけです。テープ同士を同期させる場合はタイムコードを入れる必要があり、これがクロストークの大きな問題を引き起こすことから嫌われていましたが、このシステムではタイムコードも不要ですから、いいですよ。

――音響ハウスのテープレコーダーがしっかり動くというのもスゴイことですが、テープというのは、今でも流通しているものなんですか?

阿部:そうですね、テープメーカーも倒産したり、吸収合併などを繰り返した結果、現在でも一部のテープメーカーが生産はしているようです。ただ先ほども話した通り、テープによっても音がかなり違うので、どれを使うかも重要な問題です。僕はQuantegyのGP9が好きで、2010年のレコーディング時に3本買って乾燥剤を詰めて保存しておいたんですよ。ところが実際にスタジオに持ち込んでみると、走行が安定しなくて、まったく使い物にならない。一回焼けば使えるかもしれないけれど、レコーディングが始まる時間で間に合わないし……。

――焼く? それはどういうことですか?

阿部:オーブンで焼くんですよ(笑)。これは昔からの技ですが、テープが水分を含んでしまうと安定しなくなるので、その水気を飛ばすためにオーブンで焼くわけです。低温で長く焼いたり、80度程度の高温で短時間焼いたり……。ただ、うまく焼かないと1度ヘッドを通すだけで、磁性体がパリパリになって剥がれ落ちちゃう。この本番レコーディングを目の前に控えて、そんなことはできません。

そうした中、音響ハウスにGP9の在庫があったので、これを1つ売ってもらいました。倉庫でしっかり温度管理もして大事に大事に保管しておいたテープですから、コンディションもバッチリでした。1本で約16分のテープ。もちろん、16分では全曲収録など不可能ですが、先ほどの通り、録音したらすぐにPro Toolsへコピーしているので、これを使いまわすことで、事足りるわけです。

――実際、曲を聴いてみると、すごくダイナミックレンジも広いですよね。最近の楽曲はマスタリングで思い切りコンプをかけて、マキシマイザーをかけて、いわゆる海苔状態に波形になってますが、それとはまったく違う感じです。

阿部:テープによるコンプレッションがあるから、というわけではないのですが、結果としてあえてトータルコンプはつかってないんですよ。マスタリングというのは曲間と音量、音質を揃えることとされていますが、ここで音圧を調整するようなことはしていません。本当にどうしてもボリューム感が足りないときは、一度ミックスまで戻って作業していますね。

アナログの良さを活かすこだわり

――レコーディング時、スタジオに入ってみたら、ビンテージマイクがずらりと並んでいました。アコースティックピアノだとU67が3本にU87が下に2本、ボーカルはU47Tubeで、アコースティックギターにはSCHOEPS CMC-55Uが2本でしょうか……。

阿部:そうですね、これらのマイクを使ってできるだけ気持ちいい音を作っています。またマイクプリはウチからスタジオにいくつか持ち込んでいます。具体的にはNeve 1073とShep 1073、それにFocusrite 828、Brabecなどです。これらを組み合わせて録音していたのです。ただし、この録音時にはコンプやEQは使っていません。

Neve 1073とShep 1073
Focusrite 828、Brabec

――なるほど、エフェクトを使わないのも大きなこだわりなんでしょうね。でも、Pro Toolsを経由してDigital Performerに持って行ってミックスする過程でプラグインなどは使わないんですか?

阿部:ミックスのときには、UAD-2を使ってますよ。実はUADは20年近く前、本当に出た当初から使っています。これはいわゆるプラグインというより、アウトボードのアナログ機材と見なして使っています。実際、ほぼ実機と変わらないですからね。とはいえ使っているのは1176のブラックと、EMT-140の2つくらい。これだけあれば何とかなりますから。このことは、僕のミキシングにおいて、昔からほとんど変わってませんね(笑)。

――こうして作り上げた作品の良さが多くの人に伝わるといいですね。

阿部:はい。コンディションのいいアナログのテープレコーダーがいつまで使えるのか、今回のようなテープがいつまで入手できるのかわからないので、今回と同じスタイルでのレコーディングは、もうできないのかもしれませんが、できるところまで引き継いでいきたいと思っています。アナログならではの音の良さを、多くの方に感じ取っていただきたいですね。

e-onkyo musicで購入
・藤田恵美/amomile colors

藤本健

 リクルートに15年勤務した後、2004年に有限会社フラクタル・デザインを設立。リクルート在籍時代からMIDI、オーディオ、レコーディング関連の記事を中心に執筆している。以前にはシーケンスソフトの開発やMIDIインターフェイス、パソコン用音源の開発に携わったこともあるため、現在でも、システム周りの知識は深い。  著書に「コンプリートDTMガイドブック」(リットーミュージック)、「できる初音ミク&鏡音リン・レン 」(インプレスジャパン)、「MASTER OF SONAR」(BNN新社)などがある。またブログ型ニュースサイトDTMステーションを運営するほか、All AboutではDTM・デジタルレコーディング担当ガイドも務めている。Twitterは@kenfujimoto