西田宗千佳のRandomTracking
第620回
『新幹線大爆破』はこうして生まれた。発想の風船を「割られなかった」理由とは
2025年4月24日 07:00
Netflix版『新幹線大爆破』が、4月23日16時から配信開始となった。
というわけで、樋口真嗣監督への単独インタビューをお届けする。
といっても、その内容はネタバレ満載。なので、できれば視聴後にお読みいただきたい。
その前に「視聴を盛り上げる微バレエピソード」として、『新幹線大爆破』のVFXに関するお話を読んでいただき、後半で満を持して樋口監督の「複数回視聴を前提とした」インタビュー、という構成になる。
その関係上、前半は「微バレ」、後半は「ネタバレ」にご注意いただきたい。
理不尽はCGに、「こうあってほしい」ことは特撮に
まず前半では、監督とともにNetflix版『新幹線大爆破』のVFXを担当された、VFXスーパーバイザーの佐藤敦紀氏、Compositing Supervisorの白石哲也氏の話から行こう。
本作は「止まると爆発する新幹線をどう止めるか」がテーマの映画だ。
JR東日本の特別協力で作られた本作品は、JR東日本の駅をはじめとしたファシリティや、実際に走っている車両を使って撮影されている。特に東北新幹線については、撮影のためだけの特別編成車両を、東京-新青森間で7往復も走らせている。日本国内において、この規模で撮影協力が得られることは、非常にまれなケースといっていい。
だが、それでも必要なカットをすべて撮影できたわけではない。当然のことながら『新幹線大爆破』は、実景撮影とVFX、いわゆる特撮を組み合わせて作られている。
というのは、撮影に適した本編中で必要な時間帯や場所であっても、映画本編に合うように新幹線が走っているとは限らないからだ。東北新幹線は多くの人々の「日常の足」なので、そりゃあ当然の話なのだが。
その中で「鉄オタに突っ込まれないリアリティ」(樋口監督)を追求するためには、細かい努力も行なわれている。
現実の「はやぶさ」は「U1」から「U52」までの52編成あるのだという。だが、『新幹線大爆破』内の「はやぶさ」は架空の編成番号である「U75」。全編に写っている車両に表示される編成番号は、すべてU75へと細かく書き換えが行なわれている。
また、タイミングの関係で、進行方向が逆の編成を撮影して「逆転」して使う場合もあるという。そうなると先頭車に連結されている「グランクラス」の位置が不自然になるので、これもVFXで修正。
本来は通らない線路を通っているシーンの車両は、当然CGを合成したものになっている。
爆発シーンは当然、6分の1スケールという巨大な模型を使った特撮なのだが、それ以外にも多々ある。
例えば、車内のシーンには、実際の新幹線の中で撮影されたものの他に、「新幹線と同じサイズかつ、同じ素材を使って作られたセット」も2輌あったという。その左右にはLEDウォールが用意され、車窓の実景を表示しつつ撮影が行なわれた。どのシーンが実際の車両で、どのシーンがセット+LEDウォールなのかは、言われないとわからないはずだ。
佐藤氏は、「これまでの作品でやってきたことと大きな違いはない」と前置きしつつも、次のような方針を説明する。
佐藤氏(以下敬称略):ただ、作品の内容がこういう(現実感のある)話なのが重要。例えば、怪獣が出てくるものとはちょっと違う。本物を撮影したものと特撮、CGがあるが、差が出てはマズいわけです。いかにもミニチュア、いかにもCGと言われないように……というプレッシャーはありました。
同様に、白石氏もこう説明する。
白石:前提がリアルに見せることですから、新幹線をCGで作る上で、「全体を綺麗に見せていかない」ようにしました。
例えば、最後に新幹線が(水の入った)クッションドラムに突っ込んでクラッシュするシーンがあります。そこはCGで頑張ることもできたのですが、特撮です。ここまでの(大きな)ミニチュアでやるなら、それがどういう状態になるのか、フルCGのシーンにとっても拠り所になる素材になりました。VFXを足してはいますが、水などのリアルな挙動があってのもの。全体進行を考えても、複雑な絵を特撮でやっていただいたのはありがたかったです。
特撮・ミニチュアとCGの判断について、樋口監督は次のように話す。
樋口:こういう作品ですから、見ている方には「助かるだろうか」「生き延びることができるのだろうか」という感情移入が生まれます。
ですから、観客が望むこと・こうあって欲しいことはミニチュアで撮影し、「理不尽なこと」はCGで……という形にしています。
それがどういう意味を持つかを考えながら本編を見るのも面白いのではないだろうか。
「風船を割りに来ないネトフリ」
VFXへのこだわりが実を結んでいることは、トレイラーを見ていただければお分かりかと思う。
樋口監督は「やりたいことはほぼできた」と話す。
樋口:基本的に、俺個人は監督として、「あれをやりたい」「これをやりたい」という話を、風船のように膨らませます。
でも制作過程で、その風船の9割は割られていくわけですよ(苦笑)。これまでは、その残りでどう満足してもらうかを考えてきたわけです。
ただ、(構想の風船を)割る、という選択肢をネトフリが持ってなかった。
普通であればバジェット的に「こんなことが日本ではできない」という話について、こちらも無理・無茶は言わないですけど、「ここまでやりたい」というチャレンジには寛容、理解を示してくれました。少なくとも話を聞いてくれた。
ネトフリとプロダクションサイドで実現に向けてくれたんだろうと。
「風船を割りに来ない」という発言には、後ろにいた、エグゼクティブ・プロデューサーの佐藤善宏氏が「そんなことないです」と苦笑していた。
しかし実際のこととして、樋口監督や制作スタッフが考えたことを「いきなり割りに行かない」「どうすれば、どこまで実現できるか」が強く重視されていたと感じる。それが、ここまで大きな規模の作品を実現した背景にあるのだろう。
もう1つ、今回のビジュアル面の挑戦があった。
それはアナモルフィックレンズの活用だ。全編に、アナモルフィックレンズによる印象的なレンズフレアが入っている。水平に走るレンズフレアは、いかにも鉄道をテーマとした作品に似つかわしい。
だが実は、「一般的に、アナモルフィックレンズのフレアは、CG合成と相性が悪い」(樋口監督)のだとか。その関係もあり、過去の作品では「割られていた風船の1つ」だったわけだ。
今回は新興メーカーであるAtlas社のアナモルフィックレンズを活用し、印象的なレンズフレアが使われている。
ただ、どうも効きすぎる傾向もあったようだ。
樋口:Netflixのクオリティコントロールはとても厳しいんですね。その中で「ブラインドから伸びるフレアが強すぎる」と指摘されたところもありまして……。
ただ、そこにある「光源の実在感」があって、現実感・臨場感を高めてくれます。画面にファクターが1つ増えるというか、予想を超えた動きを加えてくれるんですよね。
これもまた、「結果的に割られずに残った風船」ということになるだろう。
この先は作品を見た後に
というわけで、ここまでVFXに関するこだわりをお伝えしてきたが、ここからは監督の単独インタビューになる。
- 1975年版『新幹線大爆破』の中核
- 今作 樋口監督版『新幹線大爆破』の核心
に関わる話が出てくる。
だから、両作を視聴したのちに読むことを強くお勧めする。ネタバレを避けたい方は、以下画像の後にインタビューとなるので、まずは「見てから」お戻りいただきたい。
さて、そろそろ覚悟はできましたか?
このあとは単独インタビューになる。
「こうしないと今の作品にならない」
1975年版『新幹線大爆破』と今作は、「新幹線に爆弾が仕掛けられ、速度が落ちると爆発する……と脅迫される」という流れが共通している。
しかし時代の変化から、「構造は同じだが犯人の目的が異なる」(樋口監督)。
樋口:(『新幹線大爆破』は)自分一人なら「作れると思わない」くらい、はみ出ている作品です。作るには圧倒的なバジェット(予算・経費)がかかる。
実際’75年版自体が、バジェットに対しては失敗している。成果主義的に見れば、そう思います。
また、本質的にはアウトローの話であり、ざっくりいえば犯罪サスペンスです。すなわち、マスに受けやすい「開放的なエンターテイメント」になりにくい。
それをどう映画として着地させるのか。
巨額の予算をかけて作るとすると、’75年当時、オリジナルにGoを出した東映ですら、今は無理でしょう。
そこに、「ネトフリでやる」という話が出てきた。
それなら、他でやるよりはリアリティがある。要は、そこに乗っかった形です。
’75年版は国鉄(当時)からの協力を得られず、リアリティの面では成功していたと言い難い。国鉄から全ての協力を断られ、当時使える予算の範囲で作ったと思えば素晴らしいのだが、やはり限界は感じる。当時として大きな予算をかけて作られたにもかかわらず、興行的には赤字だったと言われている。
樋口:こうした作品はもちろん嫌いなものではないですし、リメイク的なものも、これまで何本か撮ってきました。
その苦しさも十分わかった上で、じゃあどうするべきか?
実は(話がきた段階で)プロットがもう上がっていたのですが、自分のモチベーションとして「こうしなきゃダメじゃん」というところはありました。
それはすなわち「犯人を誰にするか?」、そして「どう裁くのか?」。
この物語世界における神として、どういうふうに裁くのが一番いいんだろうか、と。
つまりそれが、この映画の社会に対するスタンスになるんじゃないかな……と思ったんですよね。
’75年版では、犯人と国鉄側の2層でストーリーが進んでいく。今作は冒頭こそ一本の軸で走っているように見えるのだが、犯人の姿が見えてくると、’75年版と同じ、救う側と犯人の「2層の物語」であることが見えてくる。
ただ、犯人の姿は大きく異なる。
樋口:あの時代に爆弾を仕掛ける人たちの理由があったとします。
それを50年後の、今の世界に置き換えた時に、「同じ人たち」じゃない。なぜなら、もう彼らは、今の社会カーストの中にいないわけですから。
そもそもなぜ爆弾を仕掛け、身代金を要求するのか。モチベーションをどこに据えるべきなのか、ということを、脚本チームと話し合いたい……というのが、自分の中の一番のモチベーションだったんですよね。
要は、「身代金を要求するが犯人の目的はそこじゃない」というところ。
犯人はどういうモチベーションを持っているか、犯人構造を最初に決めたかったんです。そこが決まらないと映画にならないと思っていたので。
つまり「犯人像をもう一回リセットできないか」という話から始まっています。
’75年版は、高度成長の中で弾き飛ばされた犯人たちが「犯罪によって経済的に復讐する」物語であった。
だが今作は違う。身代金要求はあるが、犯人はそれを目的としていない。犯人である、豊嶋花演ずる少女・小野寺柚月が抱えるのは、家庭や学校など、周囲とのズレから生まれる「闇」であり、親への復讐だ。
樋口:この作業をしている時、NHKで『17才の帝国』っていうドラマがあったんですよね。
あれが当時、心に引っかかっていて。
だから最初は「大人 対 子供の話にできないか」と考えたんです。
この世を儚んだというか、大人たちのやっていることに対して見切りをつけた高校生たちが、大人に対して宣戦布告をする……みたいな話ができないだろうか。そのために爆弾を仕掛けて、しかも狂言として自分たちの乗っている新幹線でやろう、と思っていたんです。
絶対面白いなと思ったんだけど、全く収集がつかなくて。
最後、終わらないんですよ、やっぱり。
終わらないし、「じゃあ全員捕まったところが解決になるか」って考えてみると、ならなかったんですよね。
「個人 対 国家」にしていくのが一番わかりやすいんじゃないか、そこで犯人は先生にしちゃおうとか……まあ『太陽を盗んだ男』(1979年、長谷川和彦監督作品)ですよね。でもそれにしたって、先生のモチベーションが必要で、うまく着地できない。
結局誰が犯人になるにしても、犯人を物語の中で裁かなきゃいけないわけですよ。
そこから逆算して犯人像を作っていく中で、「小野寺柚月」というキャラクターが生まれたんです。
それでもやっぱり強い動機が必要。動機を性犯罪などの「心の傷」みたいなものだけにしちゃうと、それはそれで裁きづらくなっちゃうんですよね。
その時に誰かが本当に、ポロッと。
「くっつけちゃえばいいじゃん」って。1975年版と。
本作は、1975年版の事件が、過去に実際に起きた世界を描いている。小野寺柚月の父も、そして柚月に爆弾という力を与える人物も、「過去の新幹線事件」に強く関わっている。
樋口:ちょっとマルチバース的な話でもありますが、世界線として「1975年版の後の世界」にしてしまえばいいんじゃないか。
頼りたくはなかったっていう思いもあるんですけど、そうすると、綺麗に犯人像が、像を結んだんですよね。
続編でもないけど、そういう味付けだったらいいんじゃないかな……と脚本チームと話しました。これなら、そんなに自分としては嫌にならない。
さらにその上で、樋口監督は「ストレートに悪意ある犯人を裁く」ことも選ばなかった。
樋口:今回、犯人の細部の話は、全くもってもやもやしたまま終わります。
実は、なに一つ解決してないわけですよ、彼女の気持ちとかは。今の自分たちも、彼女が置かれた苦しい立場などに対して、明確な答えは出せないわけです。説教じみた言い回しで答えを出しちゃうことが、むしろ罪なんじゃないかと。
犯人に軸足を置いた時に、「どう終わってほしいか」を、自分の心の中の厨二病に訊くわけですよ。
そうすると、昨日まで知らなかった人、例えば(草彅剛演じる)車掌の高市がなにか言ったから納得できるかというと、多分納得できないよね……っていう部分はあって。
そこは本当に、正直に作りたかった。映画の嘘というか、都合のいい着地点みたいなものを作りたくなかったんですよね。
映画の嘘を離れて
’75年版『新幹線大爆破』も、決して後味のいい作品ではない。
犯人である沖田哲男・古賀勝・大城浩は救われることなく死んでいき、乗客を救ったはずの国鉄・倉持運転指令長は無力感を滲ませて国鉄を去る。
誰も救われず、状況の根本は解決されないまま、事件だけが過ぎ去っていく。
「新幹線大爆破、という作品の構造は意図的に踏襲する」と決めた樋口監督は、今作を、どこかに苦さを残した作品にしている。
その点を質問したとき、樋口監督は次のように話し始めた。
樋口:こういう物語の作劇としては、主人公である高市という車掌を、本来であればもう少し「どんな人間か」ということを描かなきゃいけないわけですよ。
どんな人間かを描く場合、一番簡単なのは「この極限状況で家族のことを案じる姿」を見せること。家族を案じて電話しなきゃいけない、連絡をしなきゃいけない。でも車掌だからできないという葛藤がある……。
実は、そんな話を最初に盛り込んでいたんです。
ところが、JR東日本サイドからすごいことを言われまして。
「これ無理ですね」って。
本作はJR東日本の特別協力のもと作られている。実際の撮影への協力はもちろんだが、出演者の所作に関する指導や衣装のチェックの他、シナリオや演出に関するチェックにも協力している。狙いは「できるだけリアリティを出すため」だ。
いくつかのシーンでは、事前にCGで作ったプリビジュアライゼーション映像を見せ、コラボレーションしながら撮影プランが作られていたりするという。
その過程で出てきたのが、前出の「家族に連絡をとることに対する葛藤」への指摘だ。
樋口:乗務員って、スマホであるとか携帯であるとかを、車内に持ち込んじゃいけないんですよ。業務時にはロッカー内に預けるんです。
つまりそのぐらい、自分を捨てなきゃいけない職業なんだと。
めっちゃくちゃ残酷な話で。彼らは仕事に臨むとき、自分が何者かであることを剥奪されるわけですよ。
高市には「仕事だからできることがある」というセリフがあるんですが、彼(高市)は、仕事にしがみついて自分を殺している。殺さないと、責任あるその場に立つこともできない……っていうような人間にしてあるんです。
だからこそ、最後に事件が解決してみんないなくなってしまったあと、彼が戻る場所は家族ではなくて「仕事の仲間」なんです。
運転手・松本(のん)もそうです。
結局最後は2人になるし、その先に待っているのは仕事の仲間たちであるという。
それはそれでものすごくちょっと……いやな話ではないけど、苦い話にしたかった。
家族の物語ではなく同僚の物語を選んだ、というのは意図的なものであり……意図的というか、そうせざるを得なかった。
それがJRの人たちの見解なんですよね。
お話を聞いていると、「そういう覚悟を持って仕事をしている」っていう人々だと見えてくる。俺たちが想像する以上の厳しい仕事なんだってことがわかる。厳しいし誇り高いし、立派なわけですよ。
この話を聞いた後、脚本家チームと「シナリオは大きく変えなきゃいけないけど、組み直そう」と決めました。
これをやっぱり映画の軸にしないと甘い話になっちゃう。そこはイーストウッドの映画じゃないけど、「苦く」したかったんですよ。
「映画なんで、できることにしましょう」と言ってしまいがちだし、そうやって譲ることもできたでしょう。
でも、実際に「そうであること」を物語に落とし込んでいかないと、もったいないなと思ったんですよね。
映画の嘘でまとめたら、「今の世の中の新幹線大爆破」にならないんじゃないかと思いましたし。JR東日本の方たちが指摘してくれたことに感謝です。
「ならば重みを取ろうじゃないか」
映画には嘘がある。本作も例外ではない。
だが作品を組み立てていく過程で「樋口組」は、軸となる部分で「映画にありがちな嘘」を選ばなかった。
樋口:お話の都合だけで突っ走ることもできるんです。
だけどもやっぱり『シン・ゴジラ』(2016年)以降、自分たちの中に、現実に従うというか、「本当はどうなんだ」ということに対しての向き合い方が変わったんですよね。
「本当がこうだったら、お話の都合なんてどうでもいいんじゃないか」っていう感覚が、我々のどこかに植え付けられたというか。
映画らしくはなくなるかもしれない。ちょっと「エモ味」が下がるかもしれない。
けど、明らかに事実がそうならば、重みが変わる。「ならば重みを取ろうじゃないか」というのが、自分たちの中にあるんです。
ゴジラにしてもウルトラマンにしてもそうです。
現実に爆弾は仕掛けられないし、爆発もしないかもしれない。けれども、その周りにあるものってなるべく本物にしたかったんですよ。本物じゃないと、爆弾は爆発しないんです。
現実の重みを重視する、という姿勢は「自分の中では、やっぱり『ガメラ 大怪獣空中決戦』(1995年)からじゃないか」と樋口監督は言う。脚本の伊藤和典氏がソリッドな脚本を旨とする方である、ということは大きく影響していただろう。
ただ、映画は制作にリスクがつきもの。そのリスクを避ける際、「シンプルにウケやすい」話へと変更する圧力が生まれがちだ。インタビュー冒頭で出てきた「開放的なエンターテイメントになりにくい」という発言はここにもつながる。
樋口:『シン・ゴジラ』の時にはそういう話もあったんですよ。でもあの時は(変更の要請は)もう全くばっさり落としたわけです。
それはね、もう庵野秀明がひたすら脅迫していただけですよ。「嫌なら降りる、好きなようにやってください」って(苦笑)。
少なくとも今回、Netflixでの制作中に(路線変更を)言われたことはないですね。
もしかすると佐藤善宏(エグゼクティブ・プロデューサー)がその辺を、身を挺して止めていたのかもしれないし、他の誰かが止めてくれていたのかもしれない。この会社の真意はどこにあるのか、いまだに俺は分かってないです(笑)。
ただ今回は、思ったことをかなりできた、という手応えはありますよ。
本当に、今まで必ずいたような「邪魔する人」が一切いなかった。こっちに寄り添ってくれたな……っていう感じはありますね。
「説明ゼリフ」も減っています。
キャラクターの背景などは、それこそ「最初の2分で全部わかるようにしなきゃいけない」と言われるわけだけど、別にそこでわかんなくても、物語として外れていかなかったらそれでいい。
そういう自信は、ここ数年の作り方の中でみんな身につけてきました。昔だったら心配になっちゃうから「ちょっと入れとこうよ」って、誰かが言ったりするわけですよ。
でも、それもなかったんですよね。もはや。
それは結局これまでここ数年間積み重ねてきたものっていうのもあるし、キャストとの間で「これでもちゃんと伝わるんだ」という関係性にもなっていましたから。
「やりたいのはこういうことですよね」っていうところで、みんなチューニングがあった、というところですかね。