トピック

“Dolby Atmosでライブ配信”。本当にホールの客席にいるような体験をしてきた

Dolby Atmosのライブ配信が体験できる――筆者は、KORGからの誘いに秒で「行きます!」と返信していた。

KORGのインターネット動画配信システム「Live Extreme」は、2025年4月にリリース予定の「Live Extreme Encoder v1.16」において、Dolby Atmosのライブ配信機能を搭載する。これまで疑似ライブ配信やオンデマンド配信に留まっていたところを、ついにリアルタイム配信を実現したというのだ。

Live Extremeは、「オーディオ・ファースト思想」を掲げ、オーディオ・クロックを配信システムの軸とするなど音質をなによりも重視。専用アプリが不要で、ブラウザベースで視聴できるという、クオリティと使い勝手の良さを両立している点が魅力だ。

最大PCM 384kHz/24bitおよびDSD 5.6MHzのハイレゾまでが配信可能と、オーディオファイルにも納得の仕様となっている。立体音響は、AURO-3D、MPEG-H 3D Audioなどが既にライブ配信に対応済みだ。筆者は、パソコンでの視聴や、ソニーの有機ELテレビに搭載されたGoogle TV経由でもオンデマンド配信を視聴したことがあったので、その音質や画質の良さには信頼を寄せていた。

東京文化会館のホールで演奏、別の場所へとライブ配信

Live Extreme初のDolby Atmosライブ配信が行なわれたのは、「東京・春・音楽祭」。20年以上の歴史を誇る国内最大級のクラシック音楽の祭典だ。ライブ配信される「ベルリン・フィルのメンバーによる室内楽」は東京文化会館 小ホールで催された。

東京文化会館

筆者は、機材セッティングをほぼ終えたリハーサル前の東京文化会館を訪れた。楽屋口には事前に聞いていたNHKテクノロジーズの音声中継車T-2がある。この「はたらくくるま」の役どころは追って解説しよう。まだ何も見てないのに、筆者の心の中の “男の子”は目を輝かせて興奮を抑えられない。

今回のDolby Atmos配信は、Dolby Atmosミックスを行なう中継車T-2が5.1.4chの物理スピーカーを備える環境のため、配信も5.1.4chで行なっている。配信を受ける側は、AVアンプなどでDolby Atmos信号であることを認識させた上で、適正デコード・再生されることになる。

小ホール

KORGのスタッフに連れられて、小ホールに移動。既にバイオリン・チェロ・ピアノの奏者の椅子とオンマイクがセッティングされていた。天井には、L/C/Rを捉えるマイクと、SL/SRを捉えるマイクが設置されている。L/C/Rのマイクはステージ側に、SL/SRのマイクは客席側を向いていた。

ステージのオンマイク
ステージのオンマイクと、天井のLCRマイク
天井のLCR SL SRマイク

さらにトップスピーカーから鳴らす成分を収音するマイクが、スクエア状に4本(TFL/TFR/TBL/TBR)真下に向けて設置されていた。ステージにあるオンマイク以外は無指向性のマイクだそうだ。

トップスピーカーから鳴らす成分を収音するマイクが、スクエア状に4本

オンマイクは、バイオリンとチェロに1本ずつ。ピアノには、2本ステレオで立ててあった。スタッフの解説を聞いている時点で、かなり響きの良いホールであることが分かる。座席が扇形のような配置になっていて、ステージまでの距離も近い。

トップのマイクは、天井にあるシーリングライトの設備から、マイクケーブルを下ろして、吊り下げるという驚きのセッティング。施設側の協力が得られたのが、今回のライブ配信のクオリティ向上に繋がったのは間違いない。KORGのスタッフは、小ホールでもマルチチャンネルの収録が可能であることの好例になるだろうと語っていた。

小ホールでマイクのセッティングを見学した後は、上階の応接室へ移動。応接室には、Live Extremeの配信設備が設置されていた。映像周りのスイッチャーなどの機材も同じ部屋にあった。

配信設備が設置された応接室

Live ExtremeにおけるDolby Atmosライブ配信仕様は、以下の様になっている。

本配信の採用フォーマットとは異なる点もあるが、現時点での仕様の全体像と捉えてほしい。

今回の配信フォーマットは、音声が5.1.4chのDolby Atmos(Dolby Digital Plus)、ビットレートは最大の768kbps。映像は、4K(H.265 Main Profile)/SDR/25fpsとのことだった。

映像は、受信する人の回線状況に合わせてビットレートが切り替わるAdaptive Bitrate配信に対応。音のクオリティは必ず維持し、映像の質を落として配信を継続する。音質最優先のLive Extremeならではの仕組みと言えよう。

細かいところだが、DRC(ダイナミックレンジコントロール)は当然のようにオフ。配信アプリは、ラウドネスメーターを実装しており、リアルタイムで監視。本日の規定値は-20LKFSとのこと。

ネット回線は、施設の一般回線を使用したため、専用回線では30秒程度の遅延で配信するところを、安全のため3分のディレイ付きとなった。夜間は通信が集中して不安定になりがちだし、一般回線では大事を取るのがベストであろう。最大で5分のバッファを取って配信することが可能だという。

メインの配信システムは、Live Extreme専用エンコーダーで行ない、サブ(予備)として、YAMAHAのオーディオインターフェースとパソコンを使ったシステムも立ち上がっていた。音声中継車T-2からの通信回線は、メインがDante。予備としてMADIも用意されていた

Live Extreme専用エンコーダー
予備の配信システム

Dolby Atmosのミックスを行なう中継車の内部は!?

Dolby Atmosのミックスを行なうNHKテクノロジーズの音声中継車T-2も見学。

NHKテクノロジーズの音声中継車T-2

見た目は白いトレーラーだが、中身は最先端のミックス環境が整った移動スタジオ。SSLのデジタルコンソールSystem T S500と、GENELECの5.1.4chスピーカー(8340A×5、8330A×4※トップ用、7360A×1※LFE)が設置されていた。リアルタイムに小ホールの音が送られてきており、卓の前にいると、ホールの空気感を味わえた。まだ演奏してないのに、暗騒音だけでホールにいる感がすごい。外から見るよりもトレーラーの中は広く感じる。

中継車T-2の内部

音声の伝送順は、小ホールで各チャンネルの音がデジタル変換され、光ケーブルで中継車T-2のSSL製ステージボックスへ。T-2でDolby Atmosへとミックス。ミックスされた音声は、DanteとMADIで配信システムのある応接室に送られる。そういえば、中継車から真上に延びるコードがあった。あれが信号を送る光ケーブルやイーサネットケーブルだろう。

ミックスされた音声は、DanteとMADIで配信システムのある応接室に送られる

デジタルコンソールには、マイクのチャンネルが立ち上がっており、平面とトップ、オンマイクのフェーダーが名前を見れば分かるようになっていた。今回は、LFEのチャンネルは、無音信号とのこと。室内楽ということで、特に必要性もないのだろう。ただし、受け取る側は、設置しているスピーカーのクロスオーバー周波数によって、LFEに低音成分が振り分けられてサブウーファーが鳴っていることもあり得ると思われる。

コンソール
平面とトップのフェーダー
オンマイクのフェーダー

ミックスに当たっては、イコライザーやコンプレッサーなどは極力使わず、リミッターもマスタートラックのみとし、リバーブもオンマイク成分を馴染ませるために使うに留め、生の演奏の臨場感を重視して行なっているそうだ。スタッフの方が、嬉しそうに説明してくれたのが印象的だった。

トラックを出てグルッと回ると、目線の奥に小型トラックが停まっていた。このトラックは、電源車だ。T-2はエンジンを掛けるわけにはいかないので電源が必要になるが、建物からは取らず、安定した電源車から取っているそうだ。大事を取って、手間とコストを掛ける。ライブ配信の現場は、こうした手厚い対策に支えられているのだろう。

電源車とT-2

本当に“ホールの客席にいる”ような体験

ちょうどT-2の見学を終えた頃、奏者の3人が楽屋口に到着されていた。配信業務を担当するKORGのスタッフと別れ、いよいよ、配信されるコンサートを体験するため、飯田橋のIIJ Studio TOKYOへと向かった。

IIJ Studio TOKYO

IIJ Studio TOKYO の「IIJ」はインターネットイニシアティブの頭文字からきている。IIJといえば、超高音質ライブ配信サービスで時代の最先端を走っていたPrimeSeatが印象深い。筆者の音楽ユニットBeagle Kickも無料音源をオンデマンド配信し、微力ながら同サービスの活性化に関わっていた。今回も、応接室から打ち上げられる配信のデータは、IIJのサーバを経由して、各ユーザーに配信されるということだった。

本格的な配信スタジオや、ナレーション収録ブースなどを構えるIIJ Studio TOKYO。筆者は、Dolby Atmos対応の試写室で公演のライブ配信を聴くことになった。

平面は7chに対応しているが、配信が5.1.4chのため、サラウンドスピーカーの電源をオフにして、サラウンドバックをサラウンドスピーカーとして使用していた。音を透過するスクリーンの裏にL/C/Rのスピーカーが置かれている。トップスピーカーは、トップフロントとトップミドル、計4つが設置されていた。すべて8320Aだ。SAM(Smart Active Monitoring)対応のスピーカーなので、スピーカー自体の音響補正も活用されていそう。

音を透過するスクリーンの裏にL/C/Rのスピーカー
左側のサラウンド
トップスピーカー

AVプリアンプは、マランツ「AV8805」を使用。各チャンネルのプリアウトからXLRで各スピーカーに配線されていた。ライブ配信を受信するSTBは、NVIDIAの「Shield TV Pro」。このSTBからHDMIケーブルでAVプリアンプに接続されている。日本未発売だが、KORGのスタッフ激推しのSTBなのだ。

AVプリアンプは、マランツ「AV8805」
STBは、NVIDIAの「Shield TV Pro」

筆者もKORGの大石氏から、このSTBがなぜ推せるのか教えてもらったが、早く日本で正式発売してほしいと思っている。詳しくはKORG公式のnote記事に書かれているので、興味のある方は読んでみて欲しい。

STB特集(3): Nvidia Shield TV最強説

配信は3分の遅延が設けられているので、演奏は手元の時計で19:03過ぎごろから始まった。4組のトップスピーカーのおかげで、ホールいる感覚が底上げされている。暗騒音だけでもグッとくるし、本当にホールの客席にいるみたいだ。プラネタリウム状に音に包まれ、響きの(音場の)隙間がない。天井から真下に吊り下げられた4本のマイクのおかげか、高さ方向の音場が極めて自然に再現されている。

演奏はバイオリン、チェロ、ピアノによる室内楽。最初、バイオリンとチェロのオンマイク成分が大きめに感じられたが、演奏の最中に少し抑えられた感覚があった。おそらくピアノとのバランスを取ったものと思われる。

バイオリンとチェロの音は、ライブ配信とは思えないほど客席にいるリアリティがある。あとでミックスの調整ができる疑似ライブやオンデマンドとは違い、ライブ配信のミックスは一発勝負。直接音と反響音のバランスが絶妙なのは、ホールコンサートの響きや人間の耳の感じ方を熟知しているスタッフの神業あってのもの。とてつもなく高い集中力と瞬時の判断力が要求される、忙しい現場であると想像した。

そして、もう一つ、T-2で尽力するエンジニアの方がすごいなと思ったのは、演奏が進むごとに音が良くなっていった点だ。筆者は音声を扱う音響エンジニアであり、公開録音イベントやネットテレビの音声スタッフを手掛けたことがあるので、ライブ配信でこそ、常に音をチェックし、少しでも適切な音、違和感のない音を届けるために常に改善を進めることは理解している。ただ、Dolby Atmosのライブ配信という困難なオペレーションにおいて、ここまでリスナーの体験をライブ中に改善してくれたことに感激した。

特に大きく変わったのは、二部以降のピアノの実在感だ。ピアノのオンマイクは前述のとおり、2本のステレオマイクを使っていたが、ステージ頭上のL/C/Rのマイクは、3点でステージ側を捉えている。左/真ん中/右というチャンネルが前方にある中で、視界的にはやや右側にステレオマイクがピアノに向けて立っていて、そのステレオの音を前側のL/C/Rに混ぜたことで、若干ピアノの音が本物の会場で聴ける音のイメージと異なっていた。

これも想像になってしまうが、おそらくステレオのオンマイクの音を上げすぎると、ピアノの音像や位置関係が混濁して、違和感が強くなってしまうと思われる。それが弦の音は本物のホールで聴いている演奏っぽいのに、ピアノだけやや違和感があった理由ではないかと筆者は解釈した。弦については、オンマイクはモノラルだし、位置関係も右側・左側と明確なので、PAN(定位)もハマりやすいと思われる。

話を戻して、二部になるとピアノの音が一気に自然になった。音の芯が見えやすくなり、前方音場の混濁感が減少した。おそらくだが、ピアノのオンマイクをギリギリまで下げたのではないかと予想する。結果として、弦楽器との音量バランスで言えば、ピアノが控えめになったが、音場の自然さは圧倒的に二部の方がベターだと感じた。最後までリスナーの音楽体験を向上させることに力を尽くす。プロの仕事ぶりに胸が熱くなった。

ちなみにオンマイクに掛けているリバーブだが、事前に聞いていた説明の通り、最小限に留められており、まったく違和感なく自然に馴染んでいた。小ホールの質のいい響きを何の不安も無く、ドップリ浸かって堪能できた。

Dolby Atmosならではの面白かったシーンとしては、「咳払い」だ。ちゃんと咳をする方の方向まで分かるから面白い。リアルすぎて笑っちゃうくらいだ。これはいろんなライブコンサートでDolby Atmosのライブを観たくなる。

Live Extreme初のDolby Atmosライブ配信は、Dolby Digital Plusを採用していた。技術的な面から、現時点ではロッシー配信を選択したそうだ。オンデマンドでは、Dolby TrueHDが既に実用化されているだけに、ライブ配信もロスレスで聴いてみたくなった。楽器の響きや空間表現力はもちろん、可聴帯域の情報量が大きく増えることで、生演奏の本物らしさや質感も向上すると予想されるだけに、今後の進化に期待が高まる。

高音質ライブ配信の現場は、ライブが終幕となるその瞬間まで少しでもリスナーの体験を底上げするために、様々な人が工夫を凝らし、腕をふるっていた。Live Extremeの技術面を見学にきた筆者は、いつの間にか、お仕事見学で感動する子供のように、心地よい刺激を得て帰路についたのだった。

橋爪 徹

オーディオライター。音響エンジニア。2014年頃から雑誌やWEBで執筆活動を開始。実際の使用シーンをイメージできる臨場感のある記事を得意とする。エンジニアとしては、WEBラジオやネットテレビのほか、公開録音、ボイスサンプル制作なども担当。音楽制作ユニットBeagle Kickでは、総合Pとしてユニークで珍しいハイレゾ音源を発表してきた。 自宅に6.1.2chの防音シアター兼音声録音スタジオ「Studio 0.x」を構え、聴き手と作り手、その両方の立場からオーディオを見つめ世に発信している。ホームスタジオStudio 0.x WEB Site