藤本健のDigital Audio Laboratory
第889回
小岩井ことり楽曲がステムデータ配信!? DAWを使った音楽の楽しみ方
2021年3月29日 10:38
3月23日、ハイレゾ音源配信サイトのe-onkyo musicから、声優・小岩井ことりさんが歌う2つの楽曲のステムデータ配信が開始された。
これは2年前、作曲家の多田彰文氏と筆者の二人で運営する自主レーベル・DTMステーションCreativeからリリースした「Harmony of Birds」という小岩井ことりさんをフィーチャーしたCDアルバムに収録されている「ハレのち☆ことり♪」と「運命の輪を廻す者 XX」をステムデータ化したものだ。
かなり実験的な試みなのだが、「そもそもステムデータって何だ?」という人も少なくないはず。そこで今回は、制作者の立場から、ステムデータについてこれがどんなもので、どのような使い方があるのかなどを紹介するとともに、そもそも、これをどのように作ったのかなども合わせて紹介してみよう。
ステムデータとは各パートが独立した音源
DTMステーションCreativeは、多田氏と筆者とで面白い実験ができる場を作ってみようと、3年前に立ち上げたレーベルだ。レーベルと言っても、会社ではないから設立の手続きも必要ないし、特にどこからか認可を得るものでもないので、勝手に立ち上げ、勝手に名乗っているだけの同人レーベルである。
誰でも同様のことはできるわけで、レーベル立ち上げや運営の参考にしてもらおうと、第1弾のアルバムについては、作詞、作曲、演奏、レコーディング、CDプレスなどに幾らコストが発生し、実際に売ってどのくらいの収入があったのかなど、筆者の運営するブログ「DTMステーション」で赤裸々に公開したこともある(記事参照)。
その後、いろいろな実験を繰り返しつつ、CDアルバムとしては過去5枚をリリースしてきた。
今回取り上げるe-onkyo musicのステムデータ配信の元となっているのは、2作品目として2018年12月30日にリリースした「Harmony of Birds」というアルバム。'18年の夏前に、小岩井さんと「コミケに出よう!」という話で盛り上がり、それに合わせて作戦を立てながら準備を進め、年末のコミックマーケット95になんとか間に合わせてリリースしたというものだった。
DTMやヘッドフォン・イヤフォンの分野で、驚くほど豊富な知識を持つ小岩井さん。
InterBEEにもお忍びで参加することもあるのだが、2018年のInterBEE会場で彼女と会ったのは、まさにアルバム制作の最終段階のころ。このとき「何枚プレスしようか」と相談したのだが、まったく需要の想像がつかず、勢いで決めたのが1,000枚という数だった。
「もしかしたら大量に余るかも」なんて話もしつつ、小岩井さんから要望が出たのは「再プレスはしない」ということ。「初のコミケ出展だから、記念になるものにしたい」との思いから、限定した数のプレスにしたのだ。
が、ふたを開けてみたら、大変なことに。10時の開場前から、コミケにサークル参加している人が並びだし、スタート後には長蛇の列ができ、ビックサイトのホールの外まで人が並ぶという状況となって、70分で完売してしまったのだ。
発売日の午後には、さっそくヤフオク! などにアルバムが出品され、高値で売買される異常事態に発展。「転売禁止」と訴えていた小岩井さんだったが、この状況を見かねて、当初予定していなかったネット配信を行なうことを当日夕方に宣言。
「せっかくなら、CDとは異なるハイレゾ版を用意しよう」というところまでその場で決められたのは、DTMステーションCreativeが各種実験をするレーベルだからでもある。準備に多少時間はかかったが、2019年2月6日にリリースした結果、2月8日にはe-onkyo music週刊ハイレゾベスト10の1位にランクインしたこともあった。
と、前置きが長くなってしまったが、この「Harmony of Birds」に収録されている2曲をこのたびステムデータ配信することになった。e-onkyo musicとしては、昨年11月のアニソンシンガー・YURiKAさんの楽曲をステムデータ配信したのに続く第2弾という位置づけだ。
ところで、ステムデータとは何なのか……。
語源を調べてみても、どうもハッキリしないが、おそらくは英語で草木の茎や幹を意味するSTEMから来ているようで、ドラムパート、ギターパート、ストリングスセクション、ボーカル、といったように各パートごとにまとめて作ったデータのことを意味している。
現在、音楽制作はCubaseやStudio One、Pro ToolsといったDAWを用いて行なうが、使っているトラック数を見ると数十トラック、多いと100トラックを超えるトラックで構成されている。これらをすべて個別に書き出したオーディオデータを一般にパラデータと呼んでいるが、当然そのデータの数は数十とか100以上に及ぶため、一般ユーザーが扱うのは大変だ。
そこで、キックやスネア、ハイハット、タム、シンバルなどドラムはまとめて“ドラムパート”、リードギターやリズムギター、アコギのアルペジオもギターは全部まとめて“ギターパート”といった感じで、まとめて書き出したものがステムデータなのだ。
今回の楽曲でいうと「ハレのち☆ことり♪」は11個のWAVファイル、「運命の輪を廻す者 XX」は15個のWAVファイルで構成されている。ステムデータを生成する上で、とくに決まりがあるわけではないので、人によってまとめ方は異なると思うが、多田氏が作曲・編曲した「ハレのち☆ことり♪」は多田氏が、小岩井さんが作曲・編曲した「運命の輪を廻す者 XX」のほうは、小岩井さんから筆者がCubaseの元データを受け取り、筆者がステムデータとしてまとめ直したものとなっている。
通常は2mixと呼ばれるステレオにミックスしたデータを書き出し、マスタリングした上でCDに焼いたり、ハイレゾ音源用として配信するのだが、制作現場などでは、ステムデータとして書き出すケースは少なくない。
レコーディング終了後、レコーディングエンジニアに「ステムデータもください!」なんて要望することも多いし、ライブ現場などでも、「ステムデータで渡しておきますね」なんてやりとりもよくある。とくにライブにおいてステムデータは必須のものとなっている。
なぜかというと、たとえばステージではボーカルとギターだけで、ほかの音はすべてミキサーから出す場合、普通のカラオケだとギターがダブってしまいため、ステムデータの方が都合がいい。もしボーカルだけだとしても実は、ただのカラオケよりもステムデータのほうが圧倒的に便利。ライブハウスによって、また観客の入り具合によって、音の響き方に大きな違いが出るし、ベースやキックの音が物足りなければ、これらだけ音量を上げたり、コーラスの歌声が響きすぎるので下げる、なんて調整が簡単にできる。
業務用にステムデータを用意するのはいいとして、今回のようにe-onkyo musicを通じて一般に配信する意味はあるのか。果たしてどうやって使えばいいのだろう?
実は筆者自身、本当にニーズがあるのか手探りな部分でもある。e-onkyo musicの担当者が「ぜひやりましょう!」と言うので、DTMステーションCreativeとしては、まさに新しい実験になるという立場で参加したわけだが、実際に売れるかどうかは別の話。ただ、音楽好きの方であれば、これまでにあまりない、面白い体験が得られると思う。
完成作品では気付かない、ステムデータならではの発見も
2曲のステムデータの各ファイルについては、e-onkyo musicで試聴できるので、ぜひ聴いてみてほしい。
どちらの曲も1トラック目はクリックとなっており、メトロノームが鳴っているのだが、聴いてみると、それぞれまったく違う音であるのもちょっと面白い点。
「ハレのち☆ことり♪」は多田氏が制作する際、このクリックを聴きながら作業していたのに対し、「運命の輪を廻す者 XX」のほうは小岩井さんが別のクリックを聴きながら作業していたと思うと、なんとなく作業シーンも思い浮かんでくる。
続いてドラムを聴いてみると、やはり96kHz/24bitのデータであるだけに、非常に鮮明に聴こえてくる。実はどちらの曲も打ち込みであり、生ドラムを録ったものではないのだけれど、すごくリアルなドラムサウンドで、完成した作品を聴いていると気付かない音がいろいろ隠れていることも感じられるはず。それが分かったうえで、改めて完成作品を聴いてみると発見があるかもしれない。
同様にベースを聴いてみると、やはり低音だけに普通聴いていても、はっきり聴き取れない音が見えてくるのではないだろうか? 「ハレのち☆ことり♪」のベースはシンセベースなのでステレオになっているが、「運命の輪を廻す者 XX」はエレキベースによるスラップベースで、モノラルになっているのが分かるはずだ。
小岩井ことりさんファンであれば、ぜひ聴いてみてほしいのがボーカルだ。
「ハレのち☆ことり♪」のほうはVocal_Dryというのと、Vocal_with_Effectという2種類、それにコーラスパートのChorusがある。聴くと分かるとおり、Vocal_DryとVocal_with_Effectは同じメインボーカルなのだが、Dryのほうは、素の歌声で、with_Effectはリバーブがかかった音になっている。
聴いてみると、息もしっかりと記録されている。何も処理されていない素の歌声が聴けるというのはかなりレアケースと思う。一般的なステムデータだとDryのみだが、一般ユーザーが、これをそのままミックスすると、CD作品などとはずいぶん違ったものになってしまうため、あえてリバーブをかけた音も一緒に収録しているのだ。
もう一つの楽曲、「運命の輪を廻す者 XX」のほうは、エフェクトをかけてないボーカルパートが3つ、エフェクトをかけたものが1つ、さらに台詞パートが4つとエフェクトをかけたものが1つあるのが大きな特徴だ。
同曲には、小岩井さんの作り上げた物語・世界観が凝縮されていて、小岩井さんが演じる数多くの人が登場してくる。普通に完成された曲を聴いても、音がいっぱい重なっているだけに、個別の台詞をハッキリと聴きとることが困難なのだが、このステムデータであれば、それぞれを細かく聴き分けることが可能。これによって、数多くの情報を引き出すことができるようになっているのだ。
この物語がどのようにして生まれたのかなど、DTMステーションで小岩井さんのインタビューもしているので、興味のある方はご覧になってみてほしい。
自分だけのミックス作成や、演奏や歌を重ねて音楽を楽しんでほしい
ステムデータの各トラックを1つ1つ聴く楽しみもあるが、ステムデータの最大の醍醐味は、これをユーザーが自由にDAWを使ってミックスできるという点だ。
ミックスと言うと「とても難しいもの」「DAWなんて一般ユーザーが使えるものではない」と思ってしまう方も少なくないと思うが、試してみると誰でも簡単に楽しめてしまう。
たとえば、「Studio One 5 Prime」というPreSonusのDAWであれば、誰でも無料で入手することができるし、WindowsでもMacでもすぐに使うことができる。入手方法についてはここでは割愛するが、ネットで調べればすぐに手に入るし使えるようになるはずだ。
Studio Oneにステムデータを一式ドラッグ&ドロップすれば、それで通常ミックスは完了する。前述の通りボーカルはDryとwith_Effectがあるので、Dryのほうはミュートしておくといい。この状態で再生すると、CDや配信されている作品とほぼ同じ音になるはず。
この状態でミキサーを動かし、ドラムの音量を下げてみるとか、ベースをミュート、ボーカルとドラムだけに、といったことを行なうと、オリジナルとはまったく違った作品になっていくことがお分かり頂けるはずだ。
自分の好みの音を作り上げることができるし、まさに自分だけの作品にすることもできる。必要に応じて、自分でコーラスパートを歌って重ねてみるとか、ギターを弾いて重ねてみたり、ループ素材を使って音を増やしてみたり、MIDIで打ち込んで別パートを完成させたりなど自在に遊ぶことができる。Studio One 5のミキサー上でトラックをミュートしたり、ソロにしてみた様子をYouTubeにアップしてみたので、ぜひ聴いてみてほしい。
たったこれだけの操作でも、いろいろな表現力を持つことが分かると思う。実は今回のステムデータは、自分でミックスした作品をYouTubeなどにアップしてもいいという自由度の高いデータになっている。是非、いろいろな作品に仕立て上げて欲しいというのが、われわれ制作者側の願いだ。
メジャーレーベルの楽曲だと、原盤権や著作権などの問題から、ステムデータ配信することは難しいし、それをユーザーがミックスしてYouTube公開するなどもってのほか。でも、われわれの実験レーベルであるDTMステーションCreativeなら、そうした制約はなく、小岩井さんのようなメジャーアーティストの作品であったとしても、いろいろと遊んで、その成果を公開してもいいという緩い縛りになっている。これをきっかけに多くの人がDAWに触れ、いろいろな作品が登場してくれることを期待しているところだ。
なお、ステムデータの購入特典として、歌詞カードおよびコード譜面のPDFデータが付属する。また2年前のコミケで完売したCDのサンプル版を抽選でプレゼントするキャンペーンも実施中なので、ぜひe-onkyo musicをチェックしていただけると嬉しい。