藤本健のDigital Audio Laboratory

第780回

“スタジオのど真ん中で聴く音”を再現したアルバムはどのように生まれたのか?

 南佳孝氏のデビュー45周年記念となるアルバム「Dear My Generation」(レーベル:キャピタルヴィレッジ)が9月26日に発売される。7年ぶりとなるオリジナルアルバム全12曲入りだが、それに先駆けてe-onkyo musicにおいてアルバム収録曲のうち3曲が96kHz/24bitの5.1chサラウンドなどで8月26日にリリースされた。

南佳孝氏のアルバム「Dear My Generation」

 実はこのサラウンド作品、「スタジオに遊びに行ってど真ん中で聴いているような雰囲気を実現させよう」という一風変わったコンセプトで制作されたものなのだ。今から遡ること4カ月前、その制作過程を発表するプレス向け試聴会が行なわれ、そこに参加してきたので、どんな考え方、どのような手法で制作されたのかをレポートしてみたい。

e-onkyo musicでリリースされた
左から三浦文夫氏、入交英雄氏、南佳孝氏、Goh Hotoda氏、上野淳氏
制作過程を発表するプレス向け試聴会が行なわれた

スタジオのど真ん中で聴いているような雰囲気を再現するために

 1973年に松本隆氏プロデュースのアルバム「摩天楼ヒロイン」でデビューしてから45年。「モンロー・ウォーク」、「スローなブギにしてくれ」など多くの多くのヒット曲を生んできた南佳孝氏。

南佳孝氏

 今回のアルバムでは、ラジコを考案・実用化した関西大学社会学部教授の三浦文夫氏、電通の広告アートディレクターである上野淳氏という、やや異色メンバーと共同プロデュースの形でアルバム制作が行なわれた。すでにシングルカットされている「ニュアンス」は作詞を来生えつこ氏、編曲は井上鑑氏が担当。また7曲目の「はないちもんめ」は作詞とギターを斉藤和義氏、ギターにChar氏、そしてベースは小原礼氏、ドラムに屋敷豪太氏が参加するなど、話題満載のアルバムとなっている。

 「45年もやっていると、どうしても同じようなことをグルグルと繰り返してしまいがちになります。そこで今回は長年の飲み友達でもある電通出身の三浦君、上野君に協力してもらい、何か新しいことができないかと昨年5月くらいにチームを組んでみたんです。選曲からスタートし、いろいろやっていく中、Hotodaさん、入交さん、シンタックスジャパンのみなさんなど、普段ではお会いできない方々が入ってきてくれて、面白いチャレンジをすることができました」と南氏は挨拶。

 そう、ステレオミックス~マスタリングはマドンナやジャネット・ジャクソン、宇多田ヒカルなどのアーティストを手がけてきたグラミー・エンジニア、Goh Hotoda氏が手掛けることになるとともに、サラウンド=イマーシブオーディオの制作には、元毎日放送で現WOWOWの入交英雄氏が参加。レコーディング機材やミックス機材としてRMEのADI-2 Proなどが活用されていたこともあり、この発表会もRME製品を扱うシンタックスジャパンの会場が使われたのだ。

グラミー・エンジニア、Goh Hotoda氏
元毎日放送で現WOWOWの入交英雄氏

 「南さんとは、今回初めて一緒に仕事をさせていただきました。南さんのようにキャリアがある方は、これまで培ってきたストーリーがあります。“南さんが演じる男”があるんですね。これをテーマにし、これを見失わないようにしながらミックスしていくのです。実際のミックスにおいては1,000回以上繰り返し聴いていくと、だんだん顔が見えてくるんですよ。それは南さんの顔ではなく、南さんが演じる男の顔。それをどのように表現していこうかと模索しながら作業をしています」と話すのはHotoda氏。

 プロデューサーである三浦氏によれば「Hotodaさんが作る2chのCDの音がすべてベースとなります。これを元にしつつ96kHz/24bitのハイレゾ版を作ると同時に、できればMQA-CDも手掛けられたらと思っています。一方、サラウンドのほうは3曲だけではありますが、入交さんにお願いしました」とのこと。ここから先は、入交氏の話を元に、イマーシブサラウンドの制作について詳細に見ていこう。

 南氏の作品制作の話の前に、まずは「録音対象としての音場の2要素」としてオブジェクト臨場感とフィールド臨場感という、やや聞きなれない言葉の説明からスタートした。オブジェクト臨場感とはボーカルや各楽器など音源のリアリティを実現させるもの、一方フィールド臨場感とは空間や音場など包まれ感、広がり感を表現するもの。いずれもマイクの特性や設置する位置などによって、大きく変わってくるがオブジェクト臨場感用とフィールド臨場感用に別々にマイクを立てることで、効率よく制作していくことができるという。

オブジェクト臨場感とフィールド臨場感

 「今回のコンセプトは、実際にスタジオに遊びに行って、そのど真ん中で聴いているような雰囲気を実現させよう、というものです。とはいえ、スタジオですから一発ですべてを録ることはできません。ボーカル、ドラム、ピアノ、ベース、ギター、弦楽器……とそれぞれを1つずつマルチでレコーディングしていき、あとで重ねていくのです。ピアノやドラムなど響きのある楽器はスタジオの空間の音=フィールド臨場感も同時に録音していきました。ホールでのコンサートなどの場合、全部の楽器が基本的に前にありますが、今回はスタジオなので自分の周りにそれぞれの楽器がある形で考えてみました」(入交氏)

コンセプトは“実際にスタジオに遊びに行って、そのど真ん中で聴いているような雰囲気の実現”

 もっともホールと違ってスタジオなので、現実にはフィールド臨場感は少なく、響きがあまりないデッドなサウンドになる。しかし、それだと音楽として完成させられないので、5chリバーブの2段重ねをして人工的に音を作ってはいる。

 東京・世田谷のHeartbeat Studioで行った実際のレコーディング風景が写真で紹介されたが、普通にレコーディングするために音源近くに設置するいわゆるオンマイクがあるほかに、空間をとるためのオフマイクがあり、そこに入交氏のノウハウや工夫がある。高い位置からの音を録るためのオムニクロスマイク、リアサラウンド用のマイクなどを立てて録音しているのだ。

世田谷のHeartbeat Studioで行なわれたレコーディング風景

 ちなみに、Hotoda氏側に渡されるメインの音のレコディングはレコーディングエンジニアの片倉麻美子氏が担当している。少しユニークなのがボーカル用のマイクのセッティングだ。

ユニークなボーカル用のマイクのセッティング

 「ボーカルは狭いボーカルブースで録音しているので、そもそもアンビエンスを録って意味があるのか……という面はあります。これは、オムニクロスマイクではなく、オフマイクを上と下に設置してみました。体からの響きを録っているんですね。ちなみにボーカルって口から声が出てくると思いがちですが、全体の音のエネルギーで見ると、体からの響きが半分以上なんですよ」と入交氏。

アンビエンスの効果

 そうした説明の後、アンビエンス=フィールド臨場感の「あり」と「なし」での試聴実験が行なわれた。この再生が行われたのはハイトスピーカー4chを含む、11.1chの環境。アンビエンスOFFの場合でも前からボーカルやドラム、ベースが鳴り、左にエレキギター、右にアコースティックギター、右斜め前にエレピ、左にアコースティックピアノ、後ろを囲むように弦楽器がある、という空間は実現している。しかし、確かにアンビエンスが入ることで音の臨場感が大きく変わってくるのだ。

アンビエンス=フィールド臨場感の「あり」と「なし」を比較試聴

 「アンビエンスを足すと、上の音が出ているけれど重心が下がったように感じられます。空間的な響きがあると、全体的に作られた音の間を埋めるような感じになり、全体の接着剤的な効き方をして、まとまるんですね」と入交氏は解説する。ちなみに入交氏によれば、こうしたアンビエンスの音はほとんど加工せず、録った音をただ加えただけ。弦楽器が背面にあるので、それを反転した以外はほとんどそのままだとのことだ。

 ここで考察があったのがステレオとイマーシブの違いについて。ここで言う“イマーシブ”とは、ハイトスピーカーを含むサラウンド再生環境のこと。

 「イマーシブではスピーカーの数が多いため、1つあたりの音量が小さくなる効果があります。ステレオだとうるさく、大きな音に感じるものでも、イマーシブだとうるささがなくなるメリットがあります。さらに大きな効果は、たくさんのスピーカーだと音源がバラバラに配置されるため、音の被り、ぶつかりがなくなり、それぞれの音をハッキリと出すことができるのです。ステレオのミックスの場合、どうしても音がぶつかりあうため、EQやコンプレッサで調整していく必要があるのですが、イマーシブならそこまで細かな調整をしなくても、最小限の作業で聴こえるようにできます」(入交氏)

 確かに一般的なステレオのミックスの作業では、どうしても取捨選択がレコーディングエンジニアの手に委ねられることになる。つまり、いらない音を削いで、聴きやすくする必要がある。これをしないと、どうしても音が濁ってしまい、全体的に聴きづらくなってしまう。

 ただし、削られた音は聴くことができないというのも欠点である。ところがイマーシブの場合、スピーカーごとに別の音が出てくるから、音が濁らず、そのままの音で再現できる。しかも、例えば右後ろから出てくる音に注目すると、その音がハッキリと聴こえてくるという面白さがある。イマーシブならすべての音が無理なく同居できるのだ。

 「たとえばコンサート作品などの場合、ライブの拍手など盛り上げる要素は重要ですが、曲が始まるとそうしたアンビエンスは下げて整理してしまいます。でもイマーシブだと、基本的にずっと出しっぱなし。下げる必要がないんです。聴き手である人間は、メインの楽曲の音に自然にフォーカスしていくので、拍手や手拍子の音は気にならなくなり、でも臨場感はしっかりと得られるのです」と入交氏は話す。

 そこで、披露されたのが「柔らかな雨」という曲だ。この楽曲は曲が始まる前から雨が降り注ぐ「ザーー」という音が入っているのだが、イマーシブ作品では、その前の音が曲中もずっとはいったまま。ところが会場で聴いてみると、曲中は頭が曲に集中してしまうため、その雨の音がまったく気にならないのだ。しかし、エンディングにおいてまた雨の音が聴こえてくるという具合。改めて再度曲を再生してもらい曲の途中で、確認してみると、確かに曲中であっても雨の音がしっかり出ていることに気づく。人間の感覚をうまく利用した作品になっているのだ。

 「従来、サラウンド、イマーシブオーディオは自然の音やライブサウンドには有効だと言われてきましたが、今回試してみて、ミックスする音でも十分大きな役割を果たすことが実証できたのではないかと思います。まだまだ完成の域には達していませんが、今後もこうした作品作りを手掛けていきたいですね」と入交氏は締めくくった。

 一緒にこのイマーシブ作品を聴いたHotoda氏も「昔、5.1chでミックスするというムーブメントがありましたが、当時はデッドエンドな印象をもっていました。正面からボーカルが出て、キックがサブから鳴り、ギターが横から聴こえて……とディスクリートな感じであり、2chをやってきたボクとしえてゃポピュラリティーを感じなかったんです。でも、今回の入交さんのを聴いてみると、そうではないんだと大きく証明してくれたように思います。空間的なものを、このように表現してくれるのはディスクリートではなく、トータル的なものであることを感じるとともに、将来性を感じました」と絶賛していた。

 とはいえ、今回e-onkyo musicで発売されたものは5.1chであり、11.1chのイマーシブサラウンドではない。

 「現状の配信環境においては11.1chで、という方法がないため、5.1chでのリリースになりますが、今後Auro-3Dなどで配信ができないか、いろいろ調べつつ模索中です」とプロデューサーの三浦氏。まあ、実際に家庭で11.1chの再生環境を作るとなると、簡単なことではなさそうだが、このイマーシブオーディオ環境が整った会場で聴いてしまうと、ぜひ自分でも再現してみたい……という気持ちにはなる。

 今回はe-onkyo musicから5.1chの96kHz/24bit WAVというフォーマットの3曲アルバムをダウンロード購入してみたが、これでもかなりの臨場感は感じられたし、雨の音の効果なども11.1chのイマーシブサラウンドと同様に実感することはできた。各楽器それぞれの音に耳を傾けると、それぞれがハッキリと聴きとれるというのもすごく楽しめるポイントだったが、11.1chで聴いたときほどの臨場感はなかったようにも思う。もちろん、チャンネル数だけでなく再生機材の違いというのも大きくありそうではあるが……。

5.1chの96kHz/24bit WAVの3曲アルバムを買ってみた

 試しにStudio One 4 ProfessionalでこのWAVファイルを開いてみると、明らかに5.1chというか6chがまったく違う音で入っていることを波形的にも見てとることができる。面白いのは、これを無理やり2ch再生すると、曲中の雨の音がノイズっぽく感じられてしまう、ということ。改めてサラウンド作品の面白さを体感することができる面白い作品だと思う。

Studio One 4 Professionalで波形を見たところ

藤本健

 リクルートに15年勤務した後、2004年に有限会社フラクタル・デザインを設立。リクルート在籍時代からMIDI、オーディオ、レコーディング関連の記事を中心に執筆している。以前にはシーケンスソフトの開発やMIDIインターフェイス、パソコン用音源の開発に携わったこともあるため、現在でも、システム周りの知識は深い。  著書に「コンプリートDTMガイドブック」(リットーミュージック)、「できる初音ミク&鏡音リン・レン 」(インプレスジャパン)、「MASTER OF SONAR」(BNN新社)などがある。またブログ型ニュースサイトDTMステーションを運営するほか、All AboutではDTM・デジタルレコーディング担当ガイドも務めている。Twitterは@kenfujimoto