西田宗千佳のRandomTracking
第500回
Apple Musicはなぜ「空間オーディオ」「ロスレス」に対応したのか
2021年5月19日 19:06
アップルが、同社のストリーミング・ミュージック・サービスである「Apple Music」で、ロスレス音源や空間オーディオに対応すると発表した。
これはどのような狙いがあるのだろうか? サービスの内容はどうなるのだろうか?
18日の発表後の情報収集から、色々なことがわかってきた。
ここでは、現在わかっている「Apple Musicの進化」について解説してみたい。
大幅に進化する5年目のApple Music
まず基本的な内容をおさえておこう。
Apple Musicは月額980円。Apple Oneに契約すると1,100円で映像サービスの「Apple TV+」やサブスクリプション型ゲームサービスの「Apple Arcade」、50GB分のiCloudストレージがセットで使える。
サービス開始から5年が経過し、楽曲数は7,500万曲以上まで増えてきた。都市別のヒットチャート公開やアーティストによる音声番組の配信など、機能の充実も図られてきた。「歌詞」表示機能などは、特に日本でも多くの人が使っているのではないだろうか。
今回の発表は、Apple Musicというサービスの歴史の中でも最大級の進化と言える。同じ料金の中で「ロスレス音源」「空間オーディオ」が聴けるようになるのだ。
他のサービスでは、これらの要素を「高付加価値なもの」として有料オプション、もしくは別のサービスとして提供する場合が多いのだが、今回アップルは追加料金を取らない。
手軽で体験が大きく変わる「空間オーディオ」
どういう発想でサービスが作られているのか?
それを知るには、アップルの「空間オーディオ」についての考え方を考察するのが近道だ。
アップルはサービス拡充に合わせ、空間オーディオについて以下のような動画を公開した。ナレーションをしているのは、BBCの「BBC Radio 1」を2015年まで担当、その後アップルに移って「Apple Music 1」を担当しているDJのゼイン・ロウだ。
このビデオの中でゼイン・ロウ(すなわちアップル)は、「音楽は決定的に変わる。ステレオに別れを告げ、新しい次元へ突入する」と語っている。
その「新しい次元」こそが空間オーディオだ。
空間オーディオは「3Dオーディオ」などとも呼ばれる技術。空間上に音源を配置し、中心にいる自分にどう聞こえるかを演算で生成し、それを体験するものだ。映画やゲームなどで先に広がったものだが、ライブ楽曲などを含め、音楽にも広がり始めている。ソニーが「360 Reality Audio」としてビジネス化し、Amazon MusicやDeezerなどをパートナーとして、日本でも先日から楽曲提供が始まったことは、本連載でも記事にしている。
4月16日に日本サービス開始、「360 Reality Audio」の本質とはなにか
アップルは、空間オーディオをApple Musicの新しい基本機能に位置付け、6月からサービスを開始する。
空間オーディオは、対応機器で対応コンテンツを聴く場合、その変化が「誰にでもわかりやすい」という性質を持っている。微細な音質よりも変化がはっきりとしているからだ。そのため、空間オーディオは「体験が変わる」と表現されることが多い。
例えば、クラシックを著名なコンサートホールで演奏したものを収録した場合、その残響音を含めた「現地にいる感覚」をある程度再現することができる。また、マスタリング時に音の配置や移動を工夫することで、よりアトラクション的で「今までに聴いたことのない曲」を作ることだってできる。
Apple Musicで空間オーディオを体験する方法は、意外とハードルが低い。iPhoneやiPad、Macの場合には内蔵スピーカーでも体験できるし、アップルおよびBeatsのヘッドフォンのうち、プロセッサーとして「H1」もしくは「W1」を使っているもの(AirPodsやAirPods Pro、AirPods Maxなどが該当する)でもいい。HomePodでも聴ける。
こうした機器の組み合わせの場合、再生するデバイスがなんなのかをソフト側が把握できるため、その特性に合わせて自動的に「空間オーディオ」へと切り替えるようになっているという。ちなみに、アップル指定以外のヘッドフォンなどを使う場合には、設定で「常に空間オーディオを再生する」という設定に切り替えれば良い。
使用されるフォーマットは「Dolby Atmos」。再生時には、以下の画像のようにプレーヤーに「Dolby Atmos」の表示が現れる。
ビットレートは最大768kbps。回線事情が良い場所で使うのが基本ではある。一方、回線事情が悪い場所や移動中では、フォーマットを「AAC・256kbps」に変える。これでは立体感がないステレオになりそうだが、前もって「バイノーラル記録」しておくことで、低ビットレートでもある程度の空間再現ができるようになっているという。
では、アップルはDolby Atmosしか採用しないのだろうか?
どうやらそうではないらしい。
狙いは「すべての空間オーディオ楽曲を集めること」。実はソニーの360 Reality Audio(フォーマットとしてはMPEG-H 3Dオーディオ)にも興味を持っており、話し合いがもたれているようだ。
その上でDolby Atmosを最初にサポートしたのは、「楽曲の制作環境が整っている」ことが理由であるという。映画などでも広く利用されており、Dolby自身が積極的に対応スタジオの開設をしていること、ツールの整備も進んでいることなどがポイントだ。だが、前述の目標を見ると、他のフォーマットにも強い興味を持っているようだ。
スタート段階では、Dolby Atmosは「数千曲」と見られており、日本の楽曲は含まれない可能性も高い。だが、空間オーディオのマスタリング環境は急速に整いつつあるので、日本の楽曲が出てくるのも遠い日ではなかろう。
ロスレス導入の狙いは「アーティストと同じデータを届ける」こと
では「ロスレス」の方はどうだろう?
アップルが利用するフォーマットはALAC(Apple Lossless Audio Codec)。提供形態は、44.1kHz/16bitから最大48KHz/24bitまでと、192kHz/24bitまでの「ハイレゾリューションロスレス」の両方に対応する。
ではどのくらいの曲が用意されるのか?
前者の場合、基本的には「すべての楽曲」、すなわち「7,500万曲以上」となる。ただし、随時メジャーな楽曲からロスレスへの変換が行なわれて行くため、すべての楽曲でロスレス音源が用意されるのは「年内」というあたりになりそうだ。
より高音質であるハイレゾリューションロスレスについては、アーティスト側が提供を望んだ場合に利用できる。
ポイントになるのは「再生環境」だ。
48KHz/24bitまでの「ロスレス」であれば、iPhoneなどのアップルが販売しているデバイスから直接再生できる。だがハイレゾリューションロスレスの場合にはハードウェアに再生能力が備わっていないので、別途USBなどでDACをつないで聴くことになる。
アップルの未来のハードウェア戦略はわからないため、ロスレスやハイレゾリューションロスレスの再生能力が高い「アップル製品」が出るかどうかは、現状不明だ。
ここで重要なのが、ワイヤレスヘッドフォンでの対応だ。
現状アップルは、ロスレス・ハイレゾリューションロスレスともに、同社製を含むBluetoothヘッドフォンでの再生に対応していない。先の予定はわからないが、現状は対応に前向きではない、という印象を受けた。
というのは、結局Bluetoothを使う限り、どのコーデックを使っても「本当のロスレスにはならない」からだ。高音質なハイレゾ再生ができるコーデックはあるが、それは「ロスレスに近い」のであり、ロスレスそのものではない。
なぜここにアップルがこだわるのか?
それは、ロスレスを提供する上での発想がポイントになっている。
アップルは従来より、自社の配信に最適化した「高音質マスタリング」にこだわってきた。現在は「Apple Digital Masters」、以前は「Mastered for iTunes」と呼ばれていたマスタリングプログラムがそれに当たる。
「Apple Digital Masters」開始。24bitマスターでストリーミング高音質
Apple Digital Mastersは24bitでマスター音源がエンコードされ、さらにAAC/256Kbpsで楽曲が提供されていた。エンコーディング技術の進化もあり、結果として「エンコードされているがロスレスなどに近い音質である」と主張していたのだが、今回は少し考え方が変わった。
低ビットレート下のためにApple Digital Mastersと同じマスタリングはもちろん残るものの、「アーティストが納品したデータと完全に同じ(ビットパーフェクト)なデータ」を利用者に伝送することが可能になる。
この「アーティストと同じデータを渡せる」ことが、ロスレス提供の狙いなのである。
再生環境は空間オーディオほど手軽ではないが、その気になれは非常に良い音質を追求することもできる。そうした部分を狙ったのである。
あえていうなら、「できる限りアーティストと同じデータを渡す」ことが主軸なので、結果として高音質になってもそれは単純な付加価値ではない、ということなのだ。
だから、アップルとしては「大きな変化」を空間オーディオで狙いつつ、「今までの楽曲をよりアーティストの理想に近い形で届ける」ためにロスレスを使う、ということになるのである。
こういう立て付けでサービスが作られると、データ容量の大きさを付加価値に位置付けてサービス価格に差をつけてきた他社としては、少々苦しくなる。いろいろな方向性から「付加価値とはなにか」をリスナーに届ける競争が激化しそうだ。